silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.338 2017/09/09 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ ルネサンスと錬金術(その2) 今度のこのシリーズでは、論集『ルネサンス期の錬金術と哲学』(マルゴ ラン&マットン編、ヴラン社、1993)を読んでいます。まずは冒頭の論 文、マンダジオ「ルネサンス期の学術・学芸の分類における錬金術」を見 ているところです。ドミニコ会系の人々が錬金術を単なる手工芸の一部と 見なしていたのに対して、フランシスコ会派の人々はそれを、実践と理論 をともに備えたものとして高く評価していた、というのが前回のポイント でした。で、ここから話はいきなり16世紀に飛びます。これまた、あま り細かくは取り上げられませんが、要点を掬い上げてみたいと思います。 13世紀以降の300年あまり、学知の中に占める錬金術の地位にはそれほ ど変化はなかった、と論文著者は言います。錬金術は相変わらず手工芸の 一部と見なされたりしていたようです。たとえば16世紀の著名な医者・ 博物学者のコンラート・ゲスナーとか、百科全書の編纂者テオドール・ツ ヴィンガー、トゥルーズの医者だったギヨーム・アラゴなどは、いずれも そういう受け止め方をしていました。一見自然学に属するような錬金術で すが、用いられる手段や実践者の文化的なレベル(多くは無教養の者だっ たといいます)のせいで、書物をベースとする他の学知に比べ、一段と低 い地位に追いやられていたというわけです。 論文著者はとくにこのアラゴに注目しています。この人物は、二分割で細 かく分類していくという手法を用い、化学についていくつかの種類を定義 していきます。まずは自然な化学と超自然な化学とに分け(作用因が自然 か超自然化によるのですね)、さらに前者において、本質的な作用因と偶 有的な作用因を分けたりします。このあたりは少しオーバーラップしてい るようで、化学というものは本質において自然であり、偶有において超自 然となる、というのがその立場だったといいます。また化学の実践には必 ずしも原理は必須とはされず、したがってそれは偶有的にのみ、自然学に なる場合がある(自然学自体は必ず原理を有していなくてはなりません) とされたりもします。 超自然な作用因(天の力など)を扱う化学の場合、それは天からのインス ピレーションを受けた形而上学でなくてはならないとされます。ですが扱 う素材は自然なものなので、同時に自然学でなくてはなりません。また、 実際に実験などを行う際には、手工芸でなくてはなりません。こうして最 終的には、形而上学的、自然学的、手工芸的な化学が分割されます。アラ ゴはさらに、第四の化学として「世俗的」化学を区別します。理論ももた ず、実践経験も乏しいとされるその第四のカテゴリーに、錬金術師は一種 の「ソフィスト(詭弁家)」として分類されることになります。 16世紀の人文主義者で、魔術師としても知られるハインリヒ=コルネリウ ス・アグリッパも、錬金術を社会的にかなり低く位置づけており、同じく 低く評価されていた料理人と同じ階級に、錬金術師は分類されていたとい います。ほかにも様々な知識人たちが、似たような位置づけで錬金術を捉 えていたようですが、ときにはそれに、「卑しい手工芸」とは別の地位を 与える人もいたりしました(ラ・クロワ・デュ・メーヌのフランソワ・グ リュデという書誌学者など)。その意味で、「ルネサンス期の錬金術はも っぱら手工芸に分類されていた」とは一概には言えない、と論文著者は述 べています。そういう捉え方は、13世紀に遡る長い伝統の延長線上にあ る認識だったにすぎないのではないか、というのですね。 たとえば、錬金術を医学と同一視する見方もありました。これはパラケル ススの影響が大きいようですが、錬金術に身体を治す術を見てとる立場で す。そうした見方の根底を支えたのは、人体にはいわば自然な「錬金術 師」が備わっているのだという考え方でした。それは消化器官のことで、 そこでは食物を消化し、いわば変成して、食物に含まれる毒素を除去する 働きがあるとされていた、というわけです。消化作用が錬金術と同一視さ れていたのですね。パラケルススはまさにその「消化モデル」を体系化し ていった人物でした。このパラケルススにおいて錬金術の意味合いは大き く変貌したといいます。もはや黄金の練成などは問題とはならず、医学を 支える四つの柱の一つ(ほかは哲学、天文学、徳)として、それまでとは 違った様相を見せていくことになる、と論文著者は論じています。 その後、17世紀初頭になると博物学が台頭しますが、錬金術の扱いはや はり微妙なものだったようです。例として挙げられているのは、ヨハン= ハインリヒ・アルステッドという人物です。百科全書の編纂者で、その著 作においては、錬金術は実に複雑化・多様化したものとして扱われてい て、「学問の混淆」もしくは「複合的な学問」として紹介されているとい います。とはいえ、全体としては副次的な学知と見なされ、カバラに従属 する一部門と見なされているようです。また、錬金術をカバラや魔術と一 緒くたにして、複合的学問、あるいはオカルト哲学として言及していたり もするようです。記述にそうした齟齬・矛盾があるのは、アルステッドが 大きく二種類の錬金術を考えているからではないか、と論文著者は考えて います。すなわち、真の錬金術と「黒い」錬金術です。前者は病人を直し たり、有益な成果をもたらしたり、自然の隠された事象を明らかにしたり するものです。後者は高貴な成果を伴わず、理性的でもない怪しげな術と されます。 アルステッドは博物学者として様々な学知を細かく分割していくのです が、錬金術はこのように、医学や冶金、薬学などにまたがる混淆的な学知 として扱われることになります。17世紀前半には、錬金術はそのように 多様な傾向に分裂していく途上にあったらしく、そのため錬金術の周囲 に、様々な関連技芸を生んでいくことにもなったようです(たとえば着色 剤や香料の調合、武器の製作、ガラス工芸などなど)。同論文はそのあた りも比較的細かく取り上げているのですが、ここでは大筋のみを追うのが 目的ですので、あえて立ち入ることはしません。ただ、いずれにしても、 17世紀中盤以降に近代的な化学の概念が浮上する前、錬金術は学問の仕 分けの中でパラドクサルな位置づけにありました。固有のカテゴリーを与 えられながらも、それは様々な学知の混成体として、分類不可能なものに とどまっていたというわけです。そのあたりの両義性を、この論文は改め て示してみせています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ クザーヌス『推論について』(その2) クザーヌスの三番目の主著とされる『推論について』を見ています。第二 章に入りましょう。ここからしばらく、第一部の一三章まで数の問題が扱 われていきます。第二章の表題は「数が事物の象徴的模範であること (symbolicum exemplar)rerum numerum esse」となっています。 本文ではまず、数が原理であり、理性による構築によって自然に拡大して いく(explicare)ものだとされています。数は拡がった理性そのものに ほかならず(Nec est aliud numerus quam ratio explicata)、もし数 を取り去ってしまえば、事物を理性の中にとどめおくことはできない (eo sublato nihil omnium remanisse ratione convincitur)とまで言 われています。理性が数を拡げていき、それを用いて推論を行うようにな るということは、理性がみずからを駆使し、神のごとくおのれの内に、神 が創る自然の類似物を彫琢する(suprema similitudine cuncta fingere)ことにほかならない、というのです。 クザーヌスによれば、そもそも数というのは、ほかのあらゆる事物に先立 って在り、事物が一者から発して構成されることは、数がなければ理解で きないといいます。構成要素の複数性や多様性、その比例関係などは、す べて数に由来するのだというのですね。数から生じる他性(alietas)が あってこそ、実体、その数量、白さ・黒さなどの程度が区別されるのだ、 と。 一方で数そのものも数によって構成されるもの(ex se ipso compositus)だ、とクザーヌスは言います。数は、内実は複合的でも表 現としては単一のものとしてあり、そのような複合的なものとして理解さ れなくてはならないというのですね。数のうちには、縮約された「第一の 対立」がおのずと縮約されていなくてはならず(oportet etiam primam oppositionem contractam ex se ipsa contractam esse)、数がなけ ればそうした縮約は不可能である、とも言われています。 つまりこういうことだと思われます。すべての数は他の数に対するなんら かの潜在的な比をなすものとしてあり、他性を基本としているわけで、そ の意味では複合的なものです。ですが表現形としては、数はそれぞれに独 立しています。たとえば3は三つの単位から成ると考えられますが、3と いう数を聞いて、いちいち三つのものを思い浮かべる人はいません。3の 数そのものは独立した一つのものなのです。その意味で、複合性はまさに 縮約されている、ということになります。また別の観点からすれば、3は 2と1の結合とも考えられます。このように、あらゆる数には複数の対立 関係が内包されていると見ることができ(対立関係こそが数にほかならな い、とクザーヌスが言う所以です)、しかもそれは分析的に考えなければ 浮かび上がってはきません。 そんなわけですから、数以上に思考に類似する事物はない、とクザーヌス は考えます。3の数は、その一体性・同等性・関係性のうちに三つの要素 があることを示唆しています。数という象徴は、任意の三つの要素をまと めあげ、どんな三つの要素でも同等に扱い、関係を取り結ぶということで す。これはまさに、統合と分析という思考のプロセスの最たるものです。 ゆえに、数の本質は思考の第一のモデル(模範)をなしている(Numeri igitur essentia primum mentis exemplar est)とクザーヌスは主張す るわけです。神の思考に浮かぶであろう言い表しえない現実を、人間は自 分たちの思考における合理的な数から象徴的に推測して、「創造主の精神 においては数こそが事物の第一のモデルである」と考えている、というの ですね。数を世界のモデルとするというのはもちろんピュタゴラス主義的 な考え方ですが、それを人為的・知的構築物であるとするあたり、とても 近代的でもあります。私たちの工学的世界観などにも通じるものがあり興 味深いですね。 続く第三章では、「自然数列について(De naturali progressione)」 と題して、いわゆる記数法について扱っています。具体的には桁の考え方 ですね。まずクザーヌスが考える記数法の構造は次のようなものです。最 初に単位としての1から出発して、それが1ずつ増やしていくと、最初の 四つの数字(自然数)で完全数に至ります。つまり、1、2、3、4を合計 すると10の完全数が得られるということです。次に今度はこの10を第二 の単位とし、10を10ずつ増やし、10、20、30、40を合計すると、10の 平方である100が得られます。さらに再び、今度はその100を単位とし て、同様に1,000(10の立方)が得られます。また、10、100、1000と いうそれぞれの単位に到達したら、そこでいったん前の単位にもどり、た とえば10ならふたたび1を単位として増やして(11、12……というふう に)いけば、それら以外の数も問題なく表記されることになります。 最初の1の単位で完全数となる10までの数に、クザーヌスは自然数の体系 はすべて内包されていると考えます(Non sunt igitur naturali in fluxu plures quam decem numeri, qui quaterna progressione arcentur)。あとは単位の桁を上げていきながら(つまり表記としては ゼロを付加していきながら)、また桁が上がる度にそれまでの単位を繰り 返していくことで、あらゆる自然数が表せることになり、桁送りのシステ ム、数列のシステムは無限に反復可能になります。クザーヌスの言う完全 数には、やはり伝統的な秘数法のコノテーション(副次的意味)がまとわ りついているような感じがしますが、全体を無限の系として考えているあ たりは先進的とも言えそうです。このように、古代と近代との一風変わっ た接合が、クザーヌスのある種の独自性・持ち味をなしていそうです。 (続く) *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------