silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.340 2017/10/07 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ ルネサンスと錬金術(その4) メルマガの読者の方からご質問をいただきました。この場を借りて御礼申 し上げます。ルネサンスの文芸復興と錬金術はどういう関係にあるのか、 というご質問で、おそらくは今回のこのシリーズの表題と、さしあたり扱 っている論文のまとめ内容とが食い違っているために、疑問に思われたの だと思います。今回のこのシリーズでは、ルネサンス期の文芸・学芸復興 において錬金術が辿った、いわば没落の歴史を見ていくことになるかと思 うのですが、その際に、では学芸にとって何が残ったのか(あるいは残ら なかったのか)、錬金術などの疑似科学が近代的な学芸を準備したという のはどの程度正確な認識なのか、といったあたりが注目点になると思いま す。そのあたりを考えるには、まずは比較対象という意味で、前段階の中 世において錬金術がどう受け止められていたか、どのような影響力をもっ ていたかというあたりから押さえておきたいと考え、論集のうちでもとく に中世を扱った冒頭の二編を見ている次第です。ルネサンスの話に差し掛 かるまで、もう少しお待ちいただきたいと思います。 というわけで、今回も引き続き、バルバラ・オプリストの論考「中世の哲 学と錬金術におけるアナロジーの関係」から、13世紀後半以降へと続く 錬金術の変遷を概略的に追っていきましょう。硫黄と水銀を金属の元素と 見なすアラブ発祥の理論をアリストテレスの理論に組み入れようと、アル ベルトゥス・マグヌスが行ったのは、アリストテレスがもともと自然学に おいて実践していたアナロジー的な方法に従うことでした。つまり、自然 のプロセスと人為的なプロセスとを、アナロジー的(類推的)にパラレル なものと見なし、それをもって説明とする、ということです。たとえば調 理における熱での加工と、胎児にとっての熱による(と説明されていた) 成熟とが、同じ熱という類推で結びつけられます。 アルベルトゥスは、金属も同じく熱によって、硫黄と水銀から作られると 考えました。ですが、すると熱と運動は魂に由来するという新プラトン主 義的なコスモロジーが、金属には生命はないとするアリストテレスの理論 に矛盾を突きつけます。また、金属の生成は熱ではなく冷たさであるとす るアリストテレス説も斥けなくてはならなくなります。アルベルトゥス は、こうした矛盾を解消するような理論を述べる適切な言葉はないと認 め、胎児の成長と石の形成とを類比(アナロジー)で語る必要を示唆する にとどめます。ですがアルベルトゥス以後、生物と金属とを結びつけるア ナロジーは、様々に変奏されて盛んに使われていくようです。 アリストテレスにおいても、またアルベルトゥスにおいても、人工物と自 然とのアナロジーは、まずもって自然を説明づけるために用いられていま した。一方、錬金術師においては、アリストテレスによる自然の記述をア ナロジー的なモデルと捉えていました。自然のプロセスと人為的なプロセ スを同じようなものと見なすアリストテレスの自然観によって、人為的な プロセス、自然にまで介入するそのプロセスが正当化されていたわけで す。しかも、自然のほうが上位にあると考えていたアリストテレスに対し て、錬金術は、自然のプロセスの不備を、適量の熱を適量の時間与えるこ とで補うことができる、とさえ考えていました。こんなわけで、自然学と 錬金術とは最初から、いわばボタンの掛け違いをしていたようなものだっ たのですね。 錬金術の側は、観察からの帰納と原理からの演繹にもとづく学問としての ステータスを切望していました。錬金術の理論の全体は大学で教えられて いた概念や用語をベースにしていたわけで、当初はいわゆるオカルト的な ものではまったくなかったといいます。ところが実践の場では黄金の産出 はあえなく失敗し、そこから、実践と理論との関係性にも疑問が付される ことになります。大学で講じられていた自然学の側は、鉱物学の体系化や 金属の人為的な変成理論を早々に放棄してしまいます。いきおい一部の錬 金術系の著者たちは、ストア派のプネウマ概念などを用いるようになり、 広く認知されていた自然学の認識とは別種のものを参照するようになって いきます。直観や啓示のようなものが、錬金術の世界では方法論的に有効 と認められるようになります。 こうして13世紀末ごろから、一部の錬金術がオカルト化していくという のですね。いわば失敗のカモフラージュのためですね。論文著者はとりわ け、それは錬金術が置かれていた両義的な社会的地位のせいであると考え ています。そうでなくとも怪しげと見なされていたところに、産出される 黄金が通常のものとは異なると異義が唱えられたりすれば、その地位を守 るためになんらかの手を打つしかありません。まずはなにがしかの生成物 の製造権を独占するために、素材を神秘的なものにしなくてはなりませ ん。さらには理論や、理論と実践との関係についても特殊なものにしてい く必要があります。一般人には伺い知れない、専門家しか知りえないよう なものにしようというわけです。ですが結局のところ、当然ながらそれは 功を奏せず、14世紀には錬金術師は山師扱いされるようになってしまい ます。これが論文著者のいう第二段階です。 錬金術が批判に晒されるようになると、まずは実践と理論との関係、それ が用いていたアナロジーが標的となります。アリストテレス自然学と錬金 術とのアナロジーですね。まずそこで問題とされたのが、カテゴリーの混 同という議論です。錬金術においては鉱物・植物・動物のカテゴリーが混 同され、どれからでも四元素が蒸留で抽出できるとされていたりしました (9世紀ごろのイスラム世界の化学者ジャービル・イブン・ハイヤーンに もとづくモデルとされます)。これに対する批判から、その後、金属の生 成プロセスは、金属由来の素材(水銀を原理とするもの)からしか成立し ない、という考え方(ヴィルヌーヴのアルノーに帰される『光の光』など の文献に見られるといいます)が育まれてきます。一方で生物の成長をモ デルとする考え方も根強く残ります。 水銀のみを金属生成の原理とするための具体案として、ロジャー・ベーコ ンの光学モデルをベースにする試みなど、様々な案が提示されていくよう ですが、ジャービルのモデルに代わろうとするそうした別様のアナロジー は、どれもあまりうまくいきませんでした。また、そうしたモデルの多様 化にともなって、用いる素材も多様化していくことになります。さらに実 際にうまくいかない理由として、錬金術の文献を読み手が理解していない ことが挙げられるようにもなっていきます。植物や動物が言及されている のは、近似的な物言い、つまりは比喩にすぎない、とされるのですね(ロ ジャー・ベーコンに帰される『錬金術の鑑』など)。こうして全体が、 「オカルト化(秘匿化)」へと向かっていくことになります。この中世盛 期以降の話、もう一回だけ続きます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ クザーヌス『推論について』(その4) こちらの講読シリーズについてもお問い合わせをいただきました。前はラ テン語原文と訳を載せていたのに、最近はまとめだけだが、そういう方向 にするのか、ということでした。これにつきましては、長いテキストに取 り組む場合、どうしても細かい訳出では対応できないので、要約するしか ないという事情があります。前シリーズのビュリダンでも、そのさらに前 のパドヴァのマルシリウスでも感じていたことですが、原文を挙げての訳 出では全体像が見えにくく、かといって要約にしてしまうと原文の豊かさ が味わえない、というジレンマがあります。さしあたり、現在のクザーヌ スにつきましては、引き続き要約路線で見ていこうと思っていますが、今 後はまた短めのテキストに戻ってじっくり見ていくほうがよいかなという 気もしています。そんなわけで現在思案中です。とりあえずは、今しばら く要約にお付き合いいただけたらと思います。 さて、今回は六章めから見ていきます。クザーヌスは四種類の一体性(一 性の四つの側面)を取り上げ、各章で一つずつ解説しているのでした。一 つめは前回見た絶対的な一性でした(第五章)。今回の第六章では、二つ めの「根底をなす」(radix)一性が取り上げられています。これは知的 に構成されるもの(intellectualiter composita)だと言われます。絶対 的一者には外部はありませんが、こちらは「他性」を取り込むことになり ます。一者と他者から成るその一性(一体性)は、対立に由来し(hoc est ex oppositis)、「単一の根底」に相応しい形でのみ対立から生じる (nec tamen haec unitas aliter ex oppositis est quam simplicem convenit esse radicem)とクザーヌスは記しています。 ここで「根底」を表すradixは具体的にどういうことかというと、数学の 根の概念と同じように理解することができそうです。a^x(aのx乗)とい う場合、乗数xに対するもとの数aを根と称したりします。クザーヌスは 10という単位は根をもっていない(Denaria enim unitas absque radice est)と述べています。100は10を根として、その10の2乗という ことになるわけですが、10そのものを得るための根はないというわけで すね。他方、数学とは別筋の話になりますが、「他性」すなわち2があっ て以降の最初の完全数(秘数的な意味での)は10だとされます。秘数的 な意味では1も完全数とされたりしますが、それは形而上学的にはまった く別物の「絶対的一者」なので除外されるということでしょう。 上に記したように、この二つめの一性には対立、すなわち他性が取り込ま れているのですが、だからといってその一体性が分かれているわけであり ません。根の単一性において、対立が分かちがたく、また解消しがたく結 びついている(Copulantur igitur in eius simplicitate radicali opposita ipsa indivise atque irresolubiliter)といいます。ゆえに対立 する一方の側のみを否定し、他方を肯定するような問いの立て方は適切で はないことがわかるだろう(Quapropter questiones, alterum oppositorum de ipsa entitate negabile supponentes atque alterum tantum affirmabile, improprie moveri vides)とクザーヌスは述べてい ます。知的な存在は、非在とは相容れないような存在様式のものよりも上 位に位置しているからだ、とも(Altius enim atque simplicius est intellectuale esse eo essendi modo, quod cum non esse est incompatibile)。たとえば動と静は、理性的な一性(それは次の三つめ の一体性になります)では対立し合いますが、一者(第一の一性です)の もとでは無限の動が静と合一します。一者に近いこの第二の一性において は、動と静は互いに排除することなく両立している(ita et in proxima eius similitudine non se exterminant, sed compatiuntur)というの ですね。あらゆる対立物が、そこ(知性)においては融和的なのだ、と。 第一と第二の一性(神と知性)の関係は、第二と第三の一性(知性と理 性)の関係に等しい、とクザーヌスは述べ、神が知性にとっての前提にな っているように、知性は理性にとっての前提になっている、というような ことを説いています。ということはつまり、そこにはある種の次元的な断 絶があり、したがって人間が用いる言葉や概念は、その上位の次元にある 知性には到達しえない、というわけですね。一方で、その知性は人間の理 性のひな形・モデルをなし、理性的な概念の原理をなしている、とされま す。このように、この章でもすでに対比的なかたちで理性が問題になって きていますが、それについてより詳しくまとめられているのが第七章で す。 魂というもの(つまりは理性的魂ですが)は、それ自体崇高な存在とされ る知性が、いわば水平的に(二次的・方形的に)投影されたものにすぎな い、というのが基本的な考え方です。知性は上で見たように、根底(根) をなし、10の数に対応するとされます。それが投影される(=展開され る)というのですから、魂(理性)においては、その10が展開していっ た先の次なる秘数的完全数100に対応するという理屈になります。神が知 性にとっての光であるように、知性は魂にとっての光である、知性は魂の 一体性だからだ(Deus lumen est intelligentiae, quia eius est unitas; ita quidem intelligentia animae lumen, quia eius unitas)とクザーヌ スは言い、また神は知性の形相、知性は魂の形相、そして魂は物体の形相 であるとも述べています。理性を立方体的な物体の根と考えてはならな い、知性という根が物体にまで降りてくるその手段であると考えるのだ (Considera igitur rationem ipsam non ut cubici corporis radicem, sed medium, per quod intellectualis radix in corpus descendit)と 助言しています。なにしろ、100に対応する魂が知性の10と掛け合わさ れて、1000に対応する物体ができるのですから。 そのように知性の投影としてある魂は、様々な感覚的表象によって満たさ れているわけですが、その意味で魂は知性の痕跡を受けており (signata)、知性を根とする数をなす限りにおいて量的だ(qunta)と 言うこともできる、とクザーヌスは考えています。また、理性的魂が抱く 概念がそうしたあらゆるもの(感覚的表象)をまとめ上げることから、魂 はあらゆる事象の一体性をなしている(Nam cum sit unitas sensibilium, omne diversum sensibiliter in ipsa est unum)とも言わ れます。魂の判断は数についての判断のごとくになされ、つまりは奇数と 偶数が両立しえないように、魂は対立物が両立しうると考えることはでき ません。知性においてあらゆるものが両立可能だったのとは、まったく異 なっているわけですね。この話の流れから、続く四つめの一体性、すなわ ち物体の一体性が取り上げられます。それが第八章です。 四つめの一性は感覚的な一性とも言われます。それ以上の数的な展開はな いことから、それは第一の一性と同様に、ある意味包摂的な一性でもあり ます。第三の一体性とはまた一つ次元が異なっており、たとえば線の単一 さを物体(立方体)で表そうとすると、人間は無力さを覚えるしかなくな る(Inepte quidem agimus, si lineae simplicitatem per corpus figurare nitimur)とクザーヌスは指摘します。感覚世界からその上位の 次元を推し量ろうとするのは徒労であるというわけです。感覚的な一体性 がなければ感覚対象もないわけですが、その感覚対象の切り出し・区別は 理性に由来します(Omnis enim discretio a ratione est)。感覚それ自 体は否定はせず、感覚対象が存在することをひたすら肯定するのみです。 そこに区別(「これではなく、あれである」など)がもちこまれるのは、 理性の次元が作用するからだといいます。 こうして四つの一性をひととおりめぐった後、クザーヌスは想定読者とさ れるユリアヌス神父(枢機卿)に(この『推論について』は、形式として はその人物に語りかけるという形で書かれているのでした)、最下層の物 体の一性から理性へ、次に理性から知性へ、やがて知性から究極の一性で ある神へと遡っていくことについて、留意すべき点などを述べていきま す。とくに時間(時制)の概念に言及があり、そもそも第一の一性では時 間の概念が当てはまらず、第二においては現在と非現在とが共存し、第三 においては両者が展開的に区別され、第四においては現在のみとなる、と 説かれています。それらについて語るときの言葉も、それに応じて適合さ せなくてはならない、とクザーヌスは述べています。 (続く) *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月21日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------