silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.344 2017/12/09 ============================== *お詫び 本号は先週12月02日の発行を予定しておりましたが、筆者の体調不良の ため一週間遅れました。改めてお詫び申し上げます。なお、それにともな い、続く次回の号も12月23日にずらすことにいたします。ご了承くださ い。こうした直前の変更などはブログでお知らせしておりますので、届か ないと思われる際には、ブログをチェックしていただくよう重ねてお願い 申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ ルネサンスと錬金術(その8) フランスで刊行された論集『ルネサンス期における錬金術と哲学』 (1993)を見ています。前回まででいちおう、中世から16世紀ごろまで の概略的な錬金術観が浮かび上がったと思います。これを踏まえつつ、今 度は17世紀について扱った論考を見ていきましょう。今回取り上げるの は、ベルナール・ジョリ「17世紀の錬金術文献に見られるストア派自然 学の諸概念」("Presence des concepts de la physique stoicienne dans les textes alchimiques du XVIIe siecle", pp.341-354)です。い きなりストア派が問題になってくるというのが興味深いですね。それが物 質論的・操作主義的な思想としてあったからでしょうか。ルネサンス以降 のストア派思想の継承がどのようなかたちでなされていたのかは、とても 面白そうな問題です。 論文著者はまず、17世紀の代表格とされる哲学者たち(ベーコン、メル センヌ、デカルト、スピノザ、ライプニッツなど)が、いずれもその哲学 的な営みの枠内において、錬金術に多少とも関心を寄せていたことを指摘 します。彼らが読んでいたであろう錬金術の諸文献は、「自然哲学」を着 想させるだけの、物質に関する一貫した理論を展開していたといい、各人 とも錬金術に批判的ではあっても、とにかく第一原理をめぐるほかの理論 と突き合わせて考えてみるだけの価値はあると捉えていた、というのです ね。例としてデカルトが言及されています。1644年の『哲学の原理』の 序文で、彼はそんなことを考えていたのではないかと論文著者は述べてい ます。 錬金術は一貫した思考と合理性を備えていると見なされていたわけです が、一方で錬金術は、みずからについての幻想を膨らませてもいました。 事物の起源や歴史、そしてそれらを説明づける諸概念や理論の産出力など についての過度の幻想を抱いていたというわけです。錬金術はみずから を、ほかの哲学的立場よりも優れた世界観・人間観を提示できる、自立し た包括的な学説であると考えていました。ですが論文著者によれば、そう した学説は、それ以前に構築されていた哲学の枠内においてのみ育むこと ができたのだといいます。そのような哲学的枠組みとしてとりわけ際立っ ているのが、17世紀の錬金術文献に色濃く息づいていたストア派の自然 学なのだ、というわけです。 ここで論文著者のジョリは、17世紀のある錬金術書を取り上げます。フ ランス南西部カステルノーダリで17世紀初頭に医者をしていた、ピエー ル=ジャン・ファーブルという人物の手になる『錬金術の守護神 (Palladium Spagyricum)』という著書です。そこには、ストア派と明 示的的に名指しされることこそないものの、ストア派的なテーマや理論が 随所に見いだされるといいます。 たとえば錬金術でいう天空由来の精髄というのは火と空気の混成物とさ れ、万物に個別の特性をもたらす世界の種子といった体のもののようです が、これはストア派のプネウマを彷彿とさせます。錬金術の理論では硫黄 と水銀が結合しても、それらの特性は失われないとされますが、これもま たストア派の全体的な混成の考え方に似ています。それだけではありませ ん。論文著者によれば、ファーブルは主に古い錬金術書をベースに議論を 組み立てているといい、それには潮汐の動きに太陽や月が関与していると いう話なども含まれるというのですが、これなどはまさにストア派が唱え たものとしてストラボン(1世紀ごろの地理学者)が報告している説その ものなのですね。セネカやプリニウスなどにも見られる説明だといいます が、それら古代の知識人たちは皆、みずからをストア派と自認していま す。ファーブルはそれらの著者にも親しんでいたらしいのです。 17世紀のヨーロッパでは、ストア派への関心は少なからず高まっていた ようで、それは道徳哲学だけにとどまらなかったと論文著者は述べていま す。つまりストア派の自然学も広く学術世界に浸透していたようなのです ね。たとえばプネウマについての議論がそうで、論文著者はその一例とし て、1621年にジュネーヴで反アリストテレス的自然学の著書を上梓した セバスティアン・バソンという人物を挙げています。真空が認められてい なかった当時、極微細な物質とされたプネウマは、火によって空気が薄く なった空間を満たすものとして重宝されていたというのです。 また、「世界とは生き物である」「世界には霊魂がある」といった説も、 広く人口に膾炙していたといいます。論文著者は、そうしたストア派的学 説を伝え広めた一人として、フラマンの文献学者ユストゥス・リプシウス を挙げています。もっともリプシウスは、古代の著者たちが唱えていない 説をも彼らの所産であるとして、自分が擁護したい説をやや強引に変形し ているきらいもあるようです(笑)。世界は生き物であるという説につい ても、リプシウスはソクラテスやプラトンがそれを主張していたと述べて いるのだとか。いずれにしても世界に霊魂があるという話は当時それなり の常套句と化していて、17世紀の人々は、世界霊魂をめぐる党派的な対 立(ストア派vsプラトン主義)などは、はっきりと捉えてはいなかった のではないかといいます。 そのような背景にあってファーブルは、誤ってストア派の教説とされるも のを正したりできるほど、その学説に詳しくなっていたらしいのです。論 文著者によれば、ひとたびそうした特定ができるようになると、ファーブ ルはとりたててストア派の学説を振りかざすようなことはしなくなり、ひ たすら錬金術の理論を説くだけにとどまるようになったといいます。起 源・背景などというものは、こうしてひっそりと目立たなくなっていくも のなのかもしれませんね。いずれにしても、新しい学知(化学)の時代も すぐそこに迫ってきていたようで、錬金術はその一つ手前の段階として、 ストア派のような古来の理論やコスモロジーをある意味媒介しつつ、続く 時代への橋渡しの役割を果たしていたと言えるのかもしれません。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ クザーヌス『推論について』(その8) クザーヌスの『推論について』に出てくる図Pと図Uについて、前回に引 き続き別の論考も取り上げておきましょう。前回と同様、学術誌『ノエシ ス』から、クリスティアン・トロットマンという研究者の論考「<何か> から<何者か>へ:偽ディオニュシオスの読み手(?)クザーヌスにおけ る人間学的転回または人文主義的惨事」("Du ti au tis, tournant anthropologique ou catastrophe humaniste chez Nicolas de Cues, lecteur du Pseudo-Denys?", pp.69-97)です。この論考から、図Pと 図Uの狭間、両者間の「移行」について再考している箇所をまとめてみま す。 論考はまず、次のような議論から出発します。クザーヌスが説くような認 識形而上学的な相対主義は、個物の厳密な存在論にはいたらず(すべては 推論にすぎないわけなので)、一方でディオニュシオス(アレオパギテ ス)的な光の形而上学の力学を温存しています(クザーヌスは光と闇とい う言い方を多用します)。これは次のような解釈になります。ディオニュ シオスには天使の階級論があるのですが、クザーヌスはそれを踏襲して、 あらゆる存在者が秩序の中に「相対的に」位置付けられることを図Uとし て説いた、というわけです。で、論文著者はそこに、クザーヌス的な人間 学的転回があったのだと論じます。 ここで興味深いことに、日本のクザーヌス学会の会長でもある大出哲氏の 議論が取り上げられています。氏はかつて、図Pの光の側の端(陥入して いる円錐の突端)を中心として図Pを回すことで、図Uの三層の同心円が 得られるということを論じていました(トロットマンが再録しているこの 参考図をブログに引いておきましょう→http://www.medieviste.org/? p=9214)。その同心円は内側から順に、知性、理性、感覚の世界を表し ます。この解釈にしたがうと、光と闇のコントラストで世界を描き出して いた図Pは、遠心的に回る同心円へと移行することになり、結果的に闇の 残滓の部分は円周側というか外側へと追いやられ、翻って光の中心部への 求心的な動きもいっそう深まることになるという次第です。 平面図的に三層で描かれる同心円を、立体的に縦に三つの円が重なったも のと考えるなら、それぞれの円がさらに3分割されることで、9層ができ あがることも、天使の軍隊の垂直的ヒエラルキーに倣った安定したものと して見ることができます。また、各円がそのように細分化されるというこ とは、知性的な世界(天使の世界)の媒介機能が、理性の世界(人間の精 神)にも移しかえられうることを意味します。かくして神的な光への神学 的な遡及の求め(中心となる神の光へと向かう動き)は、自由意志を多少 とも伴うかたちでいや増していくことになります。しかもそれは、人間そ のものが神の知性に与るという意味合いにもなり、かくして天使の媒介機 能は相対的に小さなものになっていきます。これがまさに、人間学的な転 回だというわけです。 しまいには天使の媒介という側面はほとんど消えてしまい、まるで人間の 理性と神の知性のみがあるかのような問題機制が生じます。その最たるも のが、「複雑な被造物の全体を包摂しながら、神の知性はいかにして端的 なものであり続けうるのか」という問いです。これについてはディオニュ シオスの『神名論』が、神は自身の本質をみずから認識することであらゆ る被造物の知る、と論じているといいます。また、そのような「包括的な 知性」(なにごとも捨象したりせず、概念に落とし込むこともない)は神 においてのみ可能ではあるものの、天使は言うにおよばず人間の知性もま た、そうした端的・直観的な知性に与っている、とディオニュシオスは説 いているのですね。クザーヌスはこの議論を受け継ぎ、人間の思考もまた 神の包括的な思考に与っていると見ているわけですね。後の著作『精神に ついて』(1450年)で、そのことをはっきりと記しているようです。 * このように、トロットマンは『推論について』に人間学的転回を見てとっ ているわけですが、これに関連してもう一つ、こちらはオンライン公開さ れているPDFですが、島田勝巳「「推測」と<否定神学>」も興味深い論 考です。ここでは要点だけですが見ておきましょう(http://ci.nii.ac.jp/ naid/120005858376)。これはクザーヌスの連続した二著作、つまり 『知ある無知』と『推論について』(同論考では『推測論』としていま す)のあいだの関係性を問い直す内容になっています。従来ドイツでの研 究などでは、二つの著作の間に相違、あるいはラディカルな変容を見よう とする立場が優勢だったようですが、同論考はそれに対して両者を連続的 な相で見ることを提唱しています。とくにフラッシュという研究者が唱え た、『推論について』では否定神学の優位性が失われているという見解に 対して、論文著者は、一性と他性の相互媒介の問題からアプローチし直す ことを訴えます。 図Pはまさにそうした一性と他性の相互媒介を示すものでした。論文著者 いわく、一性と他性の連関は、『知ある無知』での存在論的洞察だった 「存在性の分有」の議論(絶対的一性、すなわち神が、あらゆる存在の存 在性、あらゆる何性の何性、あらゆる原因の原因、あらゆる目的の目的を なすという議論)にもとづいており、『推論について』は『知ある無知』 を踏まえこそすれど、断絶するものではないと解釈されることになりま す。ここで論文著者は、クザーヌスによる曲線の考え方を事例として挙げ ています。あらゆる曲線は、直線の「直」をみずからの原因・目的として 分有しており、不完全性・相違性とされる湾曲は、それぞれの曲線の有限 性に根ざした個別の性質にほかならず、そうした直と湾曲との多さ・少な さが、個別の曲線を形作るという考え方です。まさしく一性と他性の力学 とパラレルな見方ですね。 さらにまた、これを知性と理性との違いに着目して捉え直すこともできそ うです。論文著者はここで、『推論について』においてクザーヌスは、理 性を「区別する能力」、知性を「対立する同士を一致させうる能力」とし て描いているというフラッシュの議論を引き合いに出します。『知ある無 知』においては、知性はそうした対立の一致の能力を与えられてはいなか ったといい、ゆえにフラッシュは、二つの著作に断絶を見ようとするわけ ですね。知性に対立の一致の能力を認めるがゆえに、『推論について』で は否定神学の優位性が崩れてしまっているのだ、と。ですが論文著者は、 真理への到達が不可能である点はまったく変わらないとし、対立の一致が あくまで推論内部のものであることを指摘して、両著書には断絶のような ものはないと改めて主張します。 上のトロットマンも、『推論について』がクザーヌスにおける人間中心へ の転回点をなしているとして、ある種の断絶をそこに見いだしているよう ですが、果たして同書が本当に転回点をなしているのかどうかは、こうし てみると必ずしも明確ではないのかもしれません。いずれにせよ、研究者 の間でも議論は多々あるようで、このような様々な読みを許容するテキス トとして、クザーヌスのこの書は改めて興味深いものがあります。私たち も実際の本文そのものを見てみることにしましょう。後半の第二部から少 しだけ訳出を行っていきたいと思います。 (続く) *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------