silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.347 2018/01/27

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------文献探索シリーズ------------------------

ルネサンスと錬金術(その11)


今回と次回は駆け足で、16世紀末あたりの3人の人物(それぞれ神秘主義

者、占星術師、学者・哲学者です)による錬金術への応答・関わりを見て

いきたいと思います。順にジョルダーノ・ブルーノ、ティコ・ブラーエ、

トマソ・カンパネッラです。論集『ルネサンス期の錬金術と哲学』では、

それぞれエレーヌ・ヴェドリヌ「ジョルダーノ・ブルーノにおける錬金

術、ヘルメス主義、哲学」、アラン・フィリップ・スゴン「ティコ・ブラ

ーエと錬金術」、ミシェル=ピエール・レルネール「カンパネッラとパラ

ケルスス」で取り扱われています。順に見ていきましょう。


まずはドミニコ会士ながら宇宙の無限や地動説を擁護したことで異端とし

て処刑されたジョルダーノ・ブルーノ(1548 - 1600)です。ヘルメス

主義者として知られるブルーノですが、錬金術については冷ややかな立場

を取っていたようです。金属の変成や蒸留の実践といった技術的事象その

ものには反対することはなかったものの、生命の「根幹をなす単位」と元

素の関わりについては認めようとはせず、錬金術が実験で何も得られない

のは、それが真の素材を知らず、生成の原理を知らないからだと見なして

いたというのです。ブルーノが考えていた「根幹をなす単位」というのは

形相的原理と質料的原理との結合体で、神に由来するとされる原理をそこ

にもちこむことで、ブルーノはある種の二元論を唱えていました。そうな

ると、ある意味過度の物質主義でもある一元論的な錬金術は、相容れない

存在ということになってしまいます。


ブルーノの考えにおいては、2つの原理の結合体に加わる3つめの要素と

して精髄(spiritus)があります。精髄は動植物だけでなく、鉱物にも入

り込むとされ、これがあることで元素の変成なども可能になるという、き

わめて力動的な要素です。ブルーノはこうした関係性を、たとえば幹と枝

葉とのアナロジーなどで語っているのですね。ある意味当然と言うべき

か、ブルーノもアナロジーを重んじる文化的風土の中にいたことがわかり

ます。もちろん錬金術も、当時優勢だったそういう風土に位置づけられて

いたわけですが、同じ文化的コンテキストにあってもこのように反目し合

っているというのが、なんとも面白い点です。


ブルーノは自著において、ヘルメス主義、すなわちエジプト(カルデア)

信仰に言及したりもするわけですが、論文著者によれば、それは当時の宗

教改革派などの状況を踏まえて記された、徹底した批判なのだといいま

す。現代の読者からすれば、なにやら朧気にしか見えないものの、書かれ

た当時には、その著作が何を当てこすっているのかは一目瞭然だったとい

うのですね。批判の矛先が向かったのは、徳の倫理の崩壊や、改革派やカ

トリックの、宗教の名の下になされる無意味な戦の数々などです。ですか

らそこで言及される異教的な伝統に、ブルーノは忠実であるように見え

て、実はその伝統はすでにして内部から損なわれ、中心をずらされていた

のだ、と論文著者は指摘しています。要はブルーノの場合、異教への言及

が必ずしもそれへの追従を意味してはいないということで、その点でも錬

金術との関わりは薄いと言わざるをえないように思われます。


ブルーノについてもまだまだいろいろな切り口で錬金術との関わりは語る

ことができそうですが、さしあたり今は次に進みます。今度は天文学者・

占星術師のティコ・ブラーエ(1546 - 1601)です。ブラーエは堅実な

観察者としての側面がよく知られていますが、近年の研究によって徐々

に、その活動の中に錬金術がいかに大きな場所を占めていたかが浮かび上

がってきているといいます。ブラーエは錬金術を「地上の天文学」と称

し、若いころから本来の天文学にも劣らぬ関心を寄せてきた、ということ

が、ある著作の中で告白されているといいます。もっとも、論文著者が述

べているように、その著作は錬金術師を擁護していたルドルフ2世に宛て

て書かれたものでもあり、多少の誇張はあるのかもしれません。ですがそ

れとは別に、ブラーエは自著の扉の頁と奥付の版画に、必ず天文学と錬金

術を暗示するエンブレムを印刷していたといいます。なぜブラーエはその

ように錬金術に傾倒していたのでしょうか。


一つにはブラーエが、既存の大学で教えられるような世俗的な自然学に批

判的だったことが挙げられています。つまりは反アリストテレスというこ

となのですが、論文著者によると、16世紀から17世紀にかけての錬金術

の文献には、一般にアリストテレスへの激しい攻撃が見られるといいま

す。ブラーエはそうした反アリストテレス的な立場を一貫して取っており

(それは新星や彗星の観察記録に顕著だといいます)、そうした性向に錬

金術がフィットしていた、あるいは親和性をもっていたという印象を受け

ます。


アリストテレスに代わるものとしてブラーエが持ち出してくるのは何かと

いえば、それはパラケルススなのですね。論文著者によれば、パラケルス

スのコスモロジーでは、天空(天上世界)は第4の火の元素と見なされ、

そこでは生成と消滅が生じうるとされます。よって彗星が現れることも不

可能ではないというわけなのです。それはちょうど、地上や金属の変成に

おいても、未知のものが生じることがあるのと同様だとされていました。

アリストテレスの自然学では、新星や彗星は気象現象として記述されてお

り、天上世界はエーテルに満たされて生成・消滅はないとされていたので

した。パラケルススの理論は、天上世界に新星や彗星の出現を位置付ける

ための足がかりをなしていたようです。Penates superi(上位の守護

神)と呼ばれる天空の力が、神の命令にしたがって、新星や彗星のかたち

で現れるというのです。


こうしてみると、神秘主義者だから錬金術に絶対的に好意的かといえばそ

うでもなく、学者だからといって錬金術に必ずしも否定的というわけでも

なく、このあたりは個人差というか、それぞれの論者の基本スタンスやバ

ックグラウンドによって、対応・関わりは実に様々であったことがわかり

ます。単純に括ることはできそうにありません。それにしてもやはり、パ

ラケルススをどう捉えるかは大きな分かれ目をなしているようにも思われ

ますね。そのことをもう一人の人物、トマソ・カンパネッラについても見

てみたいと思いますが、これはまた次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

クザーヌス『推論について』(その11)


第二部第一四章「人間について」を読んでいるところです。粗訳・試訳で

すが、早速今回の箇所を見ていきましょう。



Humanitatis igitur unitas cum humanaliter contracta exsistat, 

omnia secundum hanc contractionis naturam complicare videtur. 

Ambit enim virtus unitatis eius universa atque ipsa intra suae 

regionis terminos adeo coercet, ut nihil omnium eius aufugiat 

potentiam. Quoniam omnia sensu aut ratione aut intellectu 

coniecturatur attingi atque has virtutes in sua unitate complicari 

dum conspicit, se ad omnia humaniter progredi posse supponit. 

Homo enim deus est, sed non absolute, quoniam homo; humanus 

est igitur deus. Homo etiam mundus est, sed non contracte 

omnia, quoniam homo. Est igitur homo microcosmos aut 

humanus quidem mundus. Regio igitur ipsa humanitatis deum 

atque universum mundum humanali sua potentia ambit. Potest 

igitur homo esse humanus deus atque, ut deus, humaniter potest 

esse humanus angelus, humana bestia, humanus leo aut ursus 

aut aliud quodcumque. Intra enim humanitatis potentiam omnia 

suo exsistunt modo.


したがって人間の一性は、人間的に縮減したかたちで存在し、その自然の

縮減にもとづいてすべてを包摂するように思われる。その人間の一性の力

は宇宙を内包し、おのれの領分の域内に収め、いかなるものも人間の潜在

力を逃れることはできないようにするからだ。あらゆるものは、感覚、理

性、知性のいずれかによって触れられると推測され、またその諸力は、人

間の一性に包摂されると認識されるが、それゆえに、人間の一性はあらゆ

るものに人間的に及びうると想定される。人間は神であるからだが、ただ

し絶対的にそうなのではない。なぜなら人間だからである。ゆえに人間は

人間的な神なのである。さらに人間は世界でもある。ただしあらゆるもの

が縮減されているわけではない。なぜなら人間だからである。したがって

人間はミクロコスモス、あるいは人間的な世界をなしているのである。し

たがって人間性の領域も、神や人間的な世界の全体を、その潜在力のうち

に包摂しているのである。よって人間は人間的な神でありうるし、神のご

とくに、人間的なかたちで人間的な天使でもありうるし、人間的な動物、

たとえば人間的なライオンや熊でもありうるし、その他いかなるものでも

ありうる。人間の潜在性の内部には、あらゆるものが人間的な様態で存在

しているからだ。


In humanitate igitur omnia humaniter, uti in ipso universo 

universaliter, explicata sunt, quoniam humanus exsistit mundus. 

Omnia denique in ipsa complicata sunt humaniter, quoniam 

humanus est deus. Nam humanitas unitas est, quae est et 

infinitas humaniter contracta. Quoniam autem unitatis condicio est 

ex se explicare entia, cum sit entitas sua simplicitate entia 

complicans, hinc humanitatis exstat virtus omnia ex se explicare 

intra regionis suae circulum, omnia de potentia centri exserere. 

Est autem unitatis condicio, ut se finem explicationum constituat, 

cum sit infinitas. Non ergo activae creationis humanitatis alius 

exstat finis quam humanitas. Non enim pergit extra se, dum creat, 

sed dum eius explicat virtutem, ad se ipsam pertingit. Neque 

quidquam novi efficit, sed cuncta, quae explicando creat, in ipsa 

fuisse comperit. Universa enim in ipsa humaniter exsistere 

diximus. Sicut enim humanitatis virtus potens est humaniter ad 

cuncta progredi, ita universa in ipsam, nec est aliud ipsam 

admirabilem virtutem ad cuncta lustranda pergere quam universa 

in ipsa humaniter complicare.


したがって、宇宙にあってはあらゆるものが普遍的に拡がっているよう

に、人間性においてはあらゆるものが人間的に拡がっている。なぜならそ

れは人間的な世界として現れるからだ。さらに、それに包摂されているあ

らゆるものは、人間的に包摂されている。なぜなら人間とは人間的な神だ

からだ。人間性とは一性だからであり、それは人間的に無限に縮減されて

いる。だが一性の条件として、おのれ自身から諸々の存在が展開していく

ということがある以上(なにしろ人間性とは、その端的さのうちに諸存在

を包摂する実体なのだから)、人間の力はおのれから発して周囲を取り巻

く領域内へと展開していくのであり、その潜在力のすべては中心から拡が

るのである。ところで一性の条件には、展開の目的(限界点)を構成する

という条件もある。なにしろそれは無限だからだ。その意味では、人間の

創造性の活動には人間性以外の目的などない。というのも、創造する際、

それはみずから以外に赴くことはなく、またその力を展開する際にも、お

のれ自身に到達するからである。それは新しいものをもたらすことはない

が、人間性が展開しつつ創造する全体を、みずからのうちにあったものと

して見いだすのである。というのも、先にわれわれが述べたように、人間

性における宇宙とは、人間的に存在するものだからだ。人間性の力があら

ゆるものへと人間的に赴く潜在力をもっているように、宇宙もまた人間性

の中へと赴くことができる。そのような讃えるべき力にとって、吟味され

るべき全体へと到達することは、宇宙をおのれのうちに人間的に包摂する

ことにほかならない。



今回の箇所はまさにハイライトといいますか、クザーヌスによる、この上

なき人間讃歌といった趣きの一節ですね。人間というものは、縮減された

かたちですべての事象をおのれのうちに包摂・内包しているがゆえに、神

的な存在、人間的な神でもある、というのです。狭い意味での中世におい

ては、これはなかなか出てこないパースペクティブです。万物への神の示

現が言及されているという点では、中世的な基準からすれば、異端すれす

れの教義と言えるかもしれません。ですがクザーヌスの生きた当時は、も

はやそうした中世的な縛りに拘泥するような時代ではなかったのでしょ

う。また、なによりもそれは、後世のライプニッツの先取りであるように

も思われます。あらゆるものが内的に含まれていて、その外部はない、と

いうのは、まさにライプニッツのモナドロジーの考え方ですね。


クザーヌスとライプニッツについて、以前少し眺めた『ノエシス』誌のク

ザーヌス特集に、モード・コリエラスという人の「クザーヌスとライプニ

ッツにおける認知と被造物の地位の問題」という論考が収録されていま

す。クザーヌスとライプニッツについて、旧来のような性急な系譜とか影

響関係の議論(エルンスト・カッシーラーなどの)に飛びつくのではな

く、両者の類縁性を見据えつつ、クザーヌスを通じてライプニッツの理解

を、あるいはライプニッツを通じてクザーヌスの理解を深めようという趣

旨の論文です。ほんの少しだけ中味を見ておきましょうか。


ライプニッツも「あらゆるエンテレケイア(現実態)は、それが内包する

無限を明確に知る限りにおいて、神である」と述べているわけですが、こ

れは、有限の被造物もおのれのうちに無限を内包していて、それを認識す

るならば神にも等しい、というふうに読めます。ですが、そこで問題にな

ってくるのが、その「知る」とはどういうことか、という問いです。同論

考によるとライプニッツは、事物を知るとは「事物の観念」に含まれる内

実をすべて展開することと規定していたといいます。ここから、事物の真

実(真理)の探求とは、第一原理あるいは創造主の意図へと戻っていくこ

と、要はその事物を一種の像(類似物)として扱い、その大元の原理へと

迫っていくことに帰着します。これはクザーヌスが考えている「知る」の

意味とまさにオーバーラップします。


クザーヌスは、事物の存在理由を創造主の意志・意図に求めます。これは

ある意味、形相(事物の原理)を「ある事物がその事物であることの寄っ

て立つ原理」(トマス・アクィナス)とするスコラ学の、主意主義的なバ

ージョンと言うこともできます。ですが、有限の存在である人間は、あく

までその有限性にもとづいて事物を知るのであって、創造主の意図を完全

に知ることはできません。限定された視点しか持ち得ない人間は、神にあ

るとされる無限の視点を追体験することはできません。それでもなお、そ

うした神の視点を推測することはできる、というのがクザーヌスの議論な

のでした。


ライプニッツは、まるでクザーヌスの議論をより精細化するかのような議

論を展開します。人間が事物を「混乱したかたち」でしか認識できないの

は、有限の存在には展開しえないような宇宙の無限が内包されているから

なのだ、とライプニッツは述べます。一方で一つの事物を他から区別でき

る場合をもって、その事物についての思惟は十分に明確なのだ、とも述べ

ています。認識というものには、感覚のほか、感覚に依らない種類の知も

存在するわけですが、ライプニッツによればそれは帰納的推論から生じる

とされます。さらには、人間が行うそのような推論を用いた事物の分析に

は、完遂することがないとされます。


クザーヌスは、世界は原理を反映した像として把握できるが、それは原理

そのものが見られることを望んでいるからだ、という言い方をします。一

方のライプニッツはこれを、推論の技術とは、可能な限り異なる視点を統

合しつつ、対象物の真理に迫っていくことであると述べています。論文著

者はこの点に関して、単独で神との対話をなそうとするクザーヌスに対

し、ライプニッツの場合は、複数のモナド、つまり他者との連携を通じて

複数性でのアプローチを試みようとしているのだと論じています。両者の

差異についての、なかなか興味深い捉え方ですね。


次回はこの第一四章の最後の部分を見ていきます。

(続く)



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