silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.348 2018/02/10

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------文献探索シリーズ------------------------

ルネサンスと錬金術(その12)


前回触れたように、続いてトマソ・カンパネッラ(1568 - 1639)が錬

金術にどう関わったかを見ていきたいと思います。カンパネッラはイタリ

ア南部生まれのドミニコ会修道士でしたが、テレージオの自然哲学の影響

で反アリストテレス派になり、さらにジャンバティスタ・デッラ・ポルタ

の影響で魔術や占星術にも通じた人物です。異端容疑で二度にわたり宗教

裁判を受け投獄されもしましたが、それでもなお魔術への傾倒は揺るが

ず、その後、そちら方面にも理解のあった教皇ウルバヌス8世によって釈

放され、フランスに逃れてそこで歿しました。


さて、そのような思想的プロフィールをもつ人物は、錬金術をどのように

見ていたのでしょうか。それが、レルネールの論考「カンパネッラとパラ

ケルスス」の問題設定です。当時の主要な錬金術のトレンドはパラケルス

ス思想だったわけですが、カンパネッラによるパラケルススへの言及・引

用は思いのほか少ないようです。しかしながら、カンパネッラもまた、錬

金術にはある意味複雑な思いを寄せていたようなのですね。そのあたりを

具体的に見ていこうというのが、同論考の主旨です。


カンパネッラがパラケルススについて始めて耳にしたのは、ナポリ滞在の

ころではないかと論文著者は推測しています。ジャンバティスタ・デッ

ラ・ポルタと会っていた頃です。もう一人、ドイツの友人トビアス・アダ

ミも、その情報提供者だった可能性があるといいます。アダミは、カンパ

ネッラの自然学の基礎となったテレージオの原理のほうが、自然現象につ

いてキミスト(錬金術師・化学者)の理論以上に優れた説明を付けられる

と述べているのだとか。また、パラケルススの理論はカンパネッラの理論

に統合することが可能だと、その友人は考えていたといいます。


論文著者は、カンパネッラによるパラケルススへの言及を二種類に分け

て、それぞれについてまとめています。一つは、直接的にパラケルススの

名前が挙げられている箇所で、これは散発的なものがほとんどのようで

す。もう一つはパラケルススやその弟子筋の思想が取り上げられて、実際

に議論されている箇所です。まず前者については、たとえば『大跋文』

(epilogo magno)の石と金属を論じた箇所で、カンパネッラはパラケ

ルススがアリストテレスと同様に、灰を純粋な土と見なしていることを誤

りだと断じています。カンパネッラは灰を、火によって塵に還元された土

であると考えています。ほかにも随所でそうした批判がなされているよう

ですが、それぞれの細かな箇所の列挙はここでは割愛します。カンパネッ

ラは、パラケルススが古代の書を蔑んでいた点などには共感しているよう

で(カンパネッラ自身も新しい自然学の必要を説いていたといいます)、

また蒸留技術や医療面での実践についてはパラケルススの貢献を評価しつ

つも、その思弁的な面では支離滅裂とこれを一蹴したりしているのです

ね。


後者の箇所は、ほとんどが晩年のフランス滞在中に書かれたものに散見さ

れるといいます。当時(1630年代後半)のパリの知的風土では、錬金術

師たちが一定の場を占めており、カンパネッラはそれを苛立ちをもって受

け止めていたようです。パラケルススの唱える三元素(水銀、硫黄、塩)

が、それ以前の四元素とどう関係するのかといった話は、当時から議論の

対象になっていたといいますが、パラケルススとその一派が用いる説明は

新語が多用されたりし、またキミアの哲学的潮流も一枚岩ではなかったせ

いもあって、その教義は著しく曖昧なものになっていたようだと論文著者

は述べています。また、それに敵対する人々も当時いたわけなのですが、

彼らは相手のことをよく理解しようとしていたわけではなく、自説と矛盾

することを説く人々を拒絶することが主眼だったとも指摘しています。カ

ンパネッラはまさにそうした立ち位置にあったようで、テレージオに負っ

ていた自然学の諸概念に照らして、パラケルススの元素論を精査しようと

していました。


詳細な議論には立ち入りませんが、結果的にカンパネッラは、ある意味徹

底的な分析と反証をもって、パラケルススの唱える三元素が根源的なもの

ではないと結論づけています。それらは火の作用によってのみ判別できる

ことから、混合物の中にあったとしても、原因ではなく結果としてあるの

だ、とカンパネッラは主張します。また、元素というものは変成せずに常

にとどまるものだと考えてもいます。世界が持続するにはそうした条件が

なければならない、とカンパネッラは考えていたのでした。パラケルスス

の元素のほかに、ときおり他の錬金術師が自説として追加したりする新元

素についても、カンパネッラは、総じてそれらは恣意的に選択されたにす

ぎないとして一蹴しています。カンパネッラは火の作用こそがそうした一

切を産出すると考えていました。


カンパネッラはパラケルススが伝える「ホムンクルス」の生成にも懐疑的

で、アリストテレスまで持ち出してこれを一蹴しているといいます。反ア

リストテレスの立場で魔術や占星術に接近したカンパネッラですが、こと

パラケルススの錬金術に関しては、その原理や実験などを認めることはや

はりできなかったようです。それほどまでに、テレージオの自然学への確

信が強かったということなのでしょうか。ただしそのホムンクルス話に関

しては、多少とも錬金術の文献に惹かれている側面も否めないと論文著者

は指摘しています。反論を展開している文献の末尾で、カンパネッラは、

肉体が産出できるのなら、神はそこに魂を入れることを拒まないだろう、

ただし神の啓示がない以上、自分は口をつぐむしかない、と述べているの

ですね。


以上、前回と今回の二回にわたって、16世紀から17世紀前半ころの3人

の思想家の対応を見てきました。次回は上でも出てきた当時のパリの知的

風土を再度眺めて、総合的なまとめに入りたいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

クザーヌス『推論について』(その12)


『推論について』第二部一四章「人間について」の末尾です。さっそく見

ていきます。



Audisti autem, Iuliane pater, de unitrino absoluto principio 

creatore universorum quomodo ipse, quia unitas seu entitas est 

absoluta, in qua infinita aequalitas atque conexio, hinc omnipotens 

creator, at quia infinita est aequalitas, in qua unitas et conexio, 

hinc universorum rector, ordinator et gubernator, quia vero 

infinita conexio, in qua unitas et aequalitas, hinc universorum 

conservator. Ita quidem de ipsa humanitate contracte 

coniecturandum affirma. Est enim principium contractum 

creationis ordinis sui, gubernationis et conservationis, quoniam 

est unitas, in qua aequalitas et conexio, est aequalitas, in qua 

unitas et conexio, est conexio, in qua unitas et aequalitas, terminis 

in sua significatione intra humanitatis contractionem redactis. 

Quapropter in virtute humanitatis homo in superiori parte sensibili, 

puta phantastica, creat similitudines aut imagines sensibilium, quia 

unitas, in qua aequalitas et conexio. Ipsas vero creatas imagines 

ordinat atque locat, quia aequalitas, in qua unitas et conexio. Post 

haec ipsas conservat in memoria, quia conexio, in qua unitas et 

aequalitas. Ita quidem in regione intellectualium intellectualiter agit 

creando, ordinando et conservando, ac in ipsa rationali media 

pariformiter. Haec autem omnino ad se ipsum reflectit, ut se 

intelligere, gubernare et conservare possit et sic homo ad 

deiformitatem appropinquet, ubi cuncta aeterna pace quiescunt.


さて、ユリアヌス神父よ、あなたは世界の創造の絶対的原理である三位一

体について、次のことを聞き知っていよう。無限の均等性と繋がりを含み

もつそれは、一性ないし実体が絶対的であるがゆえに、いかに全能の創造

主であるか、また一性と繋がりをもつそれは、均等性が無限であるがゆえ

に、いかに世界の指導者、支配者、統治者であるか、また一性と均等性を

もつそれは、真に無限の結びつきであるがゆえに、いかに世界の保存者で

あるかを。あなたには人間性によって縮減される推測を肯定してほしい。

人間性は、人間による創造の秩序、その統治、その保存の、縮減された原

理なのだから。なぜならそれは、均等性と繋がりを合わせ持つ一性であ

り、一性と繋がりを合わせ持つ均等性であり、一性と均等性を合わせ持つ

繋がりだからである。それらの言葉が意味するのは、人間性の縮減のうち

に限定されているということだ。ゆえに人は、人間性の力において、感覚

の上位の部分、すなわち想像力の領域に、似像もしくは感覚的な像を創造

する。人間は均等性と繋がりを合わせ持つ一性であるからである。そうし

てできた想像力の産物を、人は秩序づけ、位置づける。一性と繋がりを合

わせ持つ均等性であるからである。その後、人はそれらを記憶に保持す

る。一性と均等性を合わせ持つ繋がりであるからである。またそれゆえ、

知性的なものの領域にあっては、人は想像し秩序づけ保持しながら知性的

に行動するし、理性的なものの中間領域においても同様に行動するのであ

る。ときにこうしたすべては、自己を理解し、統治し、保存することがで

きるよう、おのれ自身に向けられる。またそれにより、人は神の姿に近づ

けるようになる。神のもとでは全体が、永遠の平和において安らぐのであ

る。



ここでは「一性、均等性、繋がり」が三位一体のように扱われています。

人は一性として像を創造し、その出来た像を均等性として秩序づけ、繋が

りとして記憶にとどめる、というのですね。一性は神に、均等性は子に、

そして繋がりは聖霊に対応している感じですね。仏訳の訳注には、こうし

た三位一体的な着想の源として、アウグスティヌスの『キリスト教の教義

について』第一巻第五章が挙げられています。これは三位一体についてア

ウグスティヌスが論じている箇所で、英訳がこちらにあります

(→http://www.intratext.com/IXT/ENG0137/_P7.HTM)。確かにそ

こでは、父は一性に、子は均等性に、聖霊は一性と均等性との調和に(結

びつきに)あてがわれています。そしてまた、父ゆえにそれらは一体であ

り、子ゆえに均等であり、聖霊ゆえに調和しているとも述べられていま

す。訳注ではさらに、12世紀のシャルトルのティエリも言及されていま

すが、そちらは手元にテキストがないので確認できていません。


三位一体のそれぞれの位格には、創造(想像力による像の産出)、統治

(秩序づけ)、保持(記憶への保持)の機能が分配されています。人間は

そうした三位一体性において行動し、認識することになるわけですが、末

尾のところで示されるように、翻っておのれ自身に知性・理性のそうした

諸機能を適用し、自己の理解、統治、保持をなすことにもなります。この

自己認識論は、クザーヌスの様々な著書にたびたび登場するようです。前

回も見た論集『ノエシス』のクザーヌス特集号には、M. J. ソト=ブルー

ナ「観想、自由、理性の悲劇、哲学の人間学的転回ーークザーヌスからジ

ョルダーノ・ブルーノへ」という論考が収録されており、これがそうした

自己認識について考察しています。そこでは、自由意志の問題も自己認識

に絡めて論じています。


『推論について』よりも少し後になる、『神を見ることについて(De 

visione Dei)』(1453年)でも、人間は神への接近がいかに可能かを考

え、絶対者に問いかけながら、おのれを神の生きた像として認識し、おの

れのうちにそうした渇望の対象(つまり神です)の声を聞くのだとされま

す。自己認識は神についての認識と表裏一体となっているのですね。ま

た、さらに後期の『賢慮の探求について(De venatione sapientiae)』

(1462年)では、クザーヌスはプラトン主義的な自己認識論への賛同を

明確に述べているといいます。そこで参照されているのはプラトンの対話

篇『アルキビアデス』です。『アルキビアデス』では、事物の認識が、神

の像としての魂の自己認識に結びついていると記されています。


論考はそこから、「像としての人間」が有する自由が、「被造物とは創造

主のヴィジョンの表明である」という理解と、果たして合致しうるのか、

という問題に入っていきます。人間の自由と、被造物としての制約とをど

う整合づけるかという問題は古くからあるものですが、クザーヌスの場

合、「主体の自由・自律」は、本来突きつけるはずの「本性的な限界の否

定」という問題を生じさせません。というか、それはあらかじめ解消され

ているのですね。クザーヌスが考える人間存在は、(自由によって)他の

本性を獲得しようなどと切望したりはせず、ただ(制約をともなう)本来

の自己の完成形のみを渇望するからです。自由は人間がもつ一性(神に由

来する)に結びついていて、一方ではもともと他性(有限性に由来する)

によって限定されているのですから、それらの拮抗は予め了解ずみ・無矛

盾であるはずで、むしろ両者は多数性・多様性を生むみなもとになってい

るとされます。


かくして自由意志もまた、神の全能の縮減された像として描かれます。そ

の自由を意識することもまた、内なる神を認識することにほかならず、創

造主との合一が深まるほどに自由意志もまたその力を高めていくのだとさ

れます。このあたりの話は、今見ている『推論について』からはいくぶん

離れた議論ではありますが、いずれにしてもこのように、クザーヌスにお

いては人間の本性はすべて神の観想のもとにあり、神との合一として発露

することになります。ときに神から距離を置くことがあってもなお(人間

の自由はそのような選択すらありうるものとして示されます)、クザーヌ

スは絶対者との結びつきを重視するわけですが、これがルネサンス後期

(16世紀後半)のジョルダーノ・ブルーノあたりになると、絶対者との

合一に依らない主体性が現れてくるようになるといい、同論考はそのあた

りも視野に収めているのですが、さしあたりここでは脇に置いておきま

す。


『推論について』でも、第二部の最後の章が「自己認識について」になっ

ていますので、次回はその章を部分的に見ながら、全体のまとめに向かい

たいと思います。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は02月24日の予定です。


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