silva speculationis 思索の森
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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>
no.350 2018/03/10
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------文献探索シリーズ------------------------
ルネサンスと錬金術(その14)
フランスで刊行された論集『ルネサンス期の錬金術と哲学』から、主な論
考をピックアップしてざっと見てきたわけですが、いくつか興味深い点が
浮かび上がったように思われます。ここでは総括的にまとめておきたいと
思います。まず、本来はアリストテレス自然学などをベースに発展してき
たものと考えられる錬金術は、中世後期以降、とくにルネサンス期以降に
なると明らかにそうした伝統とは袂を分かち、反アリストテレス的な立場
を前面に押し出していました。古代のものとはもはや明らかに中味が違っ
ているのですね。反アリストテレスという流れ自体は、様々な要因で作り
上げられたものだと思われますが、錬金術関連では明らかに、パラケルス
スが重要な役割を果たしていたようです。
他方、アリストテレスに代わる別様の自然学が確立していく中で、後に
「化学」として認められるものが、錬金術から切り離されていくようにな
ります。錬金術は中世盛期ごろ、実験的な知であろうとしたものの、思う
ような再現に至らず、なぜ再現ができないのかという理由を思い描こうと
し、ある種の神秘主義に囚われてしまうのでした。一方で再現性のある実
験は、錬金術とは別の道を歩み始めるようなのですが、それはまだ先の話
になります。ルネサンス期から17世紀後半にかけての初期近代には、ま
だ化学と錬金術はそれほど分離していないのが実情だった模様です。
学問世界での化学/錬金術の受容には、関わる個人によってかなりの温度
差が見られ、教会人か世俗の学者か、神秘家かといった違いは、あまり大
きな影響をもたらしていないように思われます。むしろ各個人がどのよう
な思想的な分派に関わっていたのかという点が、ひときわ大きな比重を占
めていたようです。この観点からすると、ルネサンス以降の思想潮流を追
うような場合、あまり性急な括りはできないことになります。むしろ個別
の論者たちを、その思想的な影響関係などを含めて詳細に見ていく必要が
ありそうに思えます。それはオーソドックスな研究姿勢ですが、やはりそ
れに越したことはないのかもしれません。
また、17世紀後半ごろになると、機械論的な思想が拡散し、錬金術的な
ものはそれに押されるかたちで、少なくとも世俗の世界では、神秘主義的
なものが薄らいでいくようにも思われます。前回見た魂の蒸留の神話など
はその最たるものでしょう。そのあたりはもう少し詳しく追って行かなく
てはならないでしょうけれど、錬金術的テーマが新たに一人歩きしていく
様子が窺えそうに思えます。
さて、ここで最後のケーススタディとして、ニュートンを取り上げておき
たいと思います。ニュートンについても様々な研究がありますが、ここで
はとくに高橋秀裕『ニュートン−−流率法の変容』(東京大学出版会、
2003)から、第四章「「解析的」から「幾何学へ」ーー数学理論の転
換」を取り上げておきたいと思います。同書のその章で、ニュートンが若
いころ、古代のテキスト研究の一環として錬金術に接近していたことが触
れられています。ニュートンの基本的なスタンスは反デカルトであり、と
くにデカルトが主張する物質と延長(ないし空間・場所)との同一視に
は、断固反対していたといいます。物質と空間を明確に区別し、さらにそ
こに神学的解釈をも持ち込み、物体は被造物で、空間は神の属性である、
とニュートンは考えていたようです。
ニュートンは、最初に洗礼を受けたデカルト(の機械論)ではなく、ヘン
リー・モア(のプラトン主義)やガッサンディ(の原子論)に依拠するよ
うになり、とくにガッサンディの懐疑主義的な態度を継承していました。
こうしてデカルトの機械論を批判するなっていくのですが、そこに錬金術
への傾倒はどう絡んでくるのでしょうか。どうやらそれは並行的になされ
ていったようなのです。若きニュートンは、デカルトの『幾何学』にも親
しんではいたものの、やがて古代ギリシアの数学の研究に向かい、いくつ
かの問題についてデカルトの解法を批判するようにもなっていくといいま
す。同じように、古代の錬金術にも接近していくのですね。こうした様々
な要因が重なり合って、思想的な対立関係が形成されていったわけなので
すが、では錬金術は、その要因の一つにあたるのでしょうか、それともそ
うした対立を背景として深められていったのでしょうか。答えはその両方
であるように思われます。
高橋氏の同書によると、ニュートンは古代の錬金術の復元を試みていたと
いいます。古代人は秘儀的言語に秘密を隠したという話を、ニュートンは
かたく信じ、そのため古い文献資料を研究の対象に据えていたというので
すね。ここから察するに、パラケルスス主義とは一線を画していたのでし
ょう。ニュートンは同時代の錬金術を、堕落したものと位置付けていた可
能性が高いと思われます。同書によれば、同時期にニュートンが進めてい
た神学研究にも同じようなスタンスが見られるといいます。古代の宗教こ
そが真の信仰であり、同時代のものは頽廃している、と考えていたような
のですね。
ニュートンの錬金術研究に影響を与えた人々としては、17世紀前半のド
イツのオカルティスト、ミヒャエル・マイアーや、ニュートンの指導教官
だったアイザック・バロウなどがいました。実験によって錬金術研究に取
り組む姿勢は、バロウに学んだのではないかとされています。同書による
と、ニュートンは物質的世界が運動する粒子によって織りなされることを
信じていたらしいのですが、一方でそうした粒子のみが現実を構築すると
いう厳格な機械論には必ずしも納得しておらず、そうした機械論的世界観
を補完する別カテゴリーを開くものとして、錬金術に意義を見いだしてい
たのではないかといいます。必ずしも錬金術が完全に機械論に取って代わ
るとは考えておらず、その意味で、ニュートンは「錬金術と機械論哲学の
ある種の調和・統合を模索したと考えられる」(p.158)と同書は結論づ
けています。
ニュートンのこうした取り組み方は、上に挙げたように、思想的分派への
所属・信奉が錬金術に対する評価を決定づけているという見方を、十分に
裏付けているように思われます。そんなわけですから、ニュートンにして
も他の思想家にしても、改めて個別に詳しく検討していく必要があること
が痛感されます。
*
以上、錬金術をめぐる論集から浮かび上がる思想的風景をめぐってきまし
た。上でも触れたように、全体の流れは押さえつつも、個別の術師または
思想家を詳しく探ることはことのほか重要であることがわかりました。今
後もそうした作業は続けなくてはならないと思っていますが、とりあえず
ここでの話はこれでいったん終了といたします。
次回からは、再び中世に戻り、昨年フランスで刊行された『天使と場所』
というアンソロジー本を眺めていくことにします。これは場所論という意
味でも、面白いテーマになりうる可能性があります。現代的な意義なども
考えつつ、天使、つまり離在的な実体がどのように場所と関わるのかとい
う問題を、中世の神学者たちがどう考えていたのか覗いてみたいと思いま
す。どうぞお楽しみに。
------文献講読シリーズ------------------------
クザーヌス『推論について』(その14)
『推論について』はいよいよ今回で最終回となります。早速テキストを見
ていくことにします。この数回でとくに知性や意志の問題に少し触れてき
ましたが、今回は愛(慈愛)の問題に触れている箇所(全体の末尾)で
す。少し訳し方を変更して、今回aqeualitasを均等性ではなく公正さと訳
出してみました。こちらのほうがしっくりくる感じでしょうか?
*
Elicis ex te ipso equidem hanc amoris conexionem firmissimam
esse, quae est in unitate. Nam amorem conexionemve unitatem
dicere vides. Unit enim amor amantem cum amabili. Non est
autem amor seu naturalis conexio, qua caput corpori tuo unitur,
alius amor quam ille, qui ex unitate atque aequalitate procedit.
Conectuntur igitur a radice entitatis tuae et aequalitate ordinis ad
ipsam unitatem. Vides igitur non esse amorem divinam
conexionem participantem, qui est extra unum et ordinem ad
unum. Nihil igitur universi diligendum est nisi in unitate atque
ordine humanitatis. Nec est homo generaliter diligendus nisi in
unitate atque ordine animalitatis. Ita de singulis.
確かにあなたはあなた自身から、一性のもとにあるこの愛の繋がりが強固
なものであることを導き出している。なぜなら、愛の繋がりとは一性のこ
とであることをあなたは認識しているからだ。愛というものは、愛するも
のと愛の対象とを結びつけるのである。ところで愛もしくは自然の繋がり
は(頭を身体へと繋いでいるものだが)、一性と公正さから生じるものと
別の愛なのではない。あなたという実体の根源と、一者に対して秩序づけ
られた公正さによって、それらは結びつくのだ。よってあなたは、神との
結びつきに与る愛でありながら、一者の外、また一者に対する秩序の外に
あるようなものなど存在しないことを認識するだろう。一性と人間性の秩
序のもとにないなら、愛されてしかるべきものは世界にはない。人間もま
た一般に、魂の一性と秩序のもとにないなら、愛されてしかるべきもので
はない。
Ex te ipso igitur electiones deiformes intueri valebis. Nam
conspicis deum, qui est infinita conexio, non ut contractum
amabile aliquod diligendum, sed ut absolutissimum infinitum
amorem. In eo igitur amore, quo deus diligitur, esse debet
simplicissima unitas infinitaque iustitia. Necesse est igitur omnem
amorem, quo deus amatur, minorem esse eo, quo amari potest.
Cognoscis etiam hoc esse deum amare quod est amari a deo,
cum deus sit caritas. Quanto igitur quis deum plus amaverit, tanto
plus divinitatem participat.
したがってあなたはあなた自身から、神の似姿の選択を考察する力を得て
いる。なぜならあなたは、無限の繋がりである神を、縮約されて愛すべき
ものとなったなんらかのものとしてではなく、この上なく絶対的な無限の
愛として認識するからだ。したがって、神が愛されるときのその愛には、
この上なく単純な一性と、無限の正義とがなくてはならない。よって、神
が愛されるときの愛のいっさいは、(神に)愛されうるときの愛よりも必
然的に小さいものでなくてはならない。またあなたは、神を愛すること
は、神から愛されることであることを知っている。なぜなら神とは慈愛で
あるからだ。したがって神を愛すれば愛するほど、その神性にいっそう与
るようになるのである。
Ita etiam ex divini luminis participatione hoc iustum atque aequum
esse conspicis, quod in se unitatem conexionemque continet.
Dum lex ab unitate atque conexione recedit, iusta esse nequit.
Haec lex ”quod tibi vis fieri, alterit fac” aequalitatem unitatis
figurat. Si iustus esse velis, non aliud te agere necesse est quam
quod ab ea aequalitate non recedas, in qua unitas est et conexio.
Tunc quidem aequaliter in unitate amoreque feres adversa <et
prospera>, paupertates et divitias, honores et vituperia, nec ad
dextram aut sinistram evagabis, sed aequalitatis ”medio
tutissimus" eris. Nihil tibi grave adversumve evenire poterit, si id
omne, quod sensibus adversum videtur, intelligis atque ita
amplexaris in aequalitate unitatis essendi atque amandi ferendum,
cum hoc sit divinitatem nobiliter feliciterque participare. Vides
autem in ea ipsa aequalitate iam dicta omnem moralem complicari
virtutem nec virtutem esse posse, nisi in huius aequalitatis
participatione exsistat.
また、神の光に与っていることから、おのれのうちに一性と繋がりを含め
ているものが、正義でありかつ公正であることをあなたは認識している。
もし法が一性や繋がりから退くことがあれば、それはもはや正義ではあり
えない。「自分にしてもらいたいことを、他者にもせよ」というこの法
は、一性の公正さを表している。あなたが正義であろうとするなら、その
公正さから退かないこと以上に必要な行動というものはない。その公正さ
にこそ一体性と繋がりはあるのである。そうすれば確かに、一性における
公正さと愛とによって、あなたは敵対と共栄、貧困と豊かさ、栄誉と侮辱
をともに引き受けることができるだろうし、右にも左にも逸れることもな
く、公正さの「ただ中にあってこの上なく安全」でいられるだろう。感覚
に反すると思われるいっさいを理解し、存在と愛における一性の公正さの
うちに生じているものと受け止めるなら、あなたには深刻な事態も不運も
生じえないだろう。それは高貴かつ幸福に、神性に与ることにほかならな
いからだ。あなたはまた、ここまで述べてきた公正さにあらゆる道徳的な
美徳が含まれ、美徳とはそうした公正さに与る以外にありえないことを認
識するのである。
*
クザーヌスの場合、愛の問題は三位一体のうちの聖霊にあてがわれる「繋
がり」に関係していることがわかります。その繋がりは一性のもとにある
がゆえに強固であり、また公正さを伴うがゆえに相反する諸価値を包摂す
ることができるのだという、これまたすこぶる強度をもった見解でもあり
ますね。ここで言う愛は広い意味での慈愛ということなのでしょうけれ
ど、それは受け身のものではなく、消極的なものでもなく、きわめて積極
的・能動的な働きかけ、参与を要する強いものだとの印象を受けます。ま
たその意味で、クザーヌスはある種の力の体現を一貫して論じている思想
家であるようにも思われます。
もちろん人間は有限の存在で、その力は神の無限には及びません。神を愛
するときのその愛は、神に愛されるときの愛よりも強度が小さい、とクザ
ーヌスは述べています。ですがそれにしても、ここで開示されているの
は、人間の「力への意志」の強靱さであり、一性(すなわち神)の分有が
その力の根拠をなしているものと解釈できます。
公正さの肯定についても同じようなことが言えます。それが一性や繋がり
から離れない限りにおいて、それはすこぶる強靱な正義を体現することに
なり、相対する諸価値(敵対/共栄、貧困/豊かさなど)の中間を貫くこ
とができ、主体(という言い方をクザーヌスはしていませんが)にとって
確固たる足場を築くことができるというわけですね。これは巨視的に見る
と中庸思想なわけですが、それは安易な折衷主義とは異なり、きわめて意
志力の強い、かなり積極的・建設的な中道の立場と見ることができます。
まさしくクザーヌスは「力の思想家」なのでしょう。クザーヌスのこうし
た構え方は、わたしたちにとっても意義あるものになりうるかもしれませ
ん。個人的には、こうした慈愛の問題はまだ十分に扱えていないので、こ
こではこれ以上深く論じることはできませんが、クザーヌスのほかの著作
なども含めて、考察を深めていく必要がありそうです。
……というわけで、今後の課題を示したところで、このクザーヌスをめぐ
る旅(ほんの小旅行でしたが)はひとまず終了にしたいと思います。次回
からは、久々にダンテを取り上げたいと思います。その自然学的な著書の
一つを、少しゆっくりと眺めていくことにしましょう。またお付き合いい
ただければ幸いです。
*本マガジンは隔週の発行です。次号は03月24日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/?page_id=46
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