silva speculationis 思索の森
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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>
no.352 2018/04/07
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------文献探索シリーズ------------------------
天使と場所について(その2)
今回は早速、ガン(ヘント)のヘンリクス(1217 - 1293)の議論から
見ていくことにします。前にも取り上げたことがありますが、ヘンリクス
は哲学と神学を学びパリ大学で教鞭を執った在俗のスコラ学者で、1277
年のタンピエの禁令の作成にも一枚噛んでいた人物です。アリストテレス
の議論を重んじていますが、アウグスティヌス主義者でもあり、ある意味
バランスのとれた良識派(?)と言えるかもしれません。
今回見ているアンソロジー本『天使と場所』に収録されているのは、
1277年に出て1279年にかけて改訂されたという『自由討論集
(Quodlibet)』第二巻の九章です。章題は「天使は場所に、その実体に
即して、作用なしで存在するか」となっています。最初の刊行が1277年
の禁令の直後だっただけに、多少ともその影響を受けているとされ、教条
的に断定することを避けて、他者の意見を聞きたいというようなことを述
べているようです。さらにまた、場所の特定が作用から独立していること
(トマスのような、作用によって天使の場所が特定されるという考え方は
禁令によって斥けられたのでした)や、天使の実体は物理的な空間に対し
て基礎をもたないことなどを是としています。これもまた、禁令に抵触し
ないようにとの配慮だとされます。
ではヘンリクスは、天使と場所の関係をどのように規定してみせたのでし
ょうか。アンソロジー本の解説序文によれば、ヘンリクスは「あらゆる被
造物の現実をなす存在論的限定において、場所に対する霊的存在の関係を
定着させようとした」と評されます。どういう意味でしょうか。天使も被
造物である以上、当然なんらかの限定はなされているはずで、そうである
なら、物体的世界においてもなんらかの場所を占めていなければならな
い、とヘンリクスは考えるのですね。たとえ「ここ」「そこ」のように指
し示すことはできないにしても、いかなる場所にもないとは言えないし、
あらゆる場所にあるとも言えないわけですから、なんらかの場所が限定的
にあてがわれているはずだ、というわけです。
ヘンリクスはその問題を考える上で、まずは二種類の限定を分けて考えま
す。一つは事物の本性・本質に関わる限定で、定義が意味するものです。
実体をなす被造物の場合(つまり人間など、純粋に霊的な存在以外の被造
物です)は、そのような限定によってほかの種や類から区別されます。も
う一つの限定は、場所(局所)による限定です。被造物はいずれも、空間
的な限定を受けており、物理的な空間に位置付けられるとされます。ただ
し、天使など純粋に霊的な存在には、境界で囲まれなくてはならないわけ
ではない、との留保がつきます。
ヘンリクスはさらに、霊的存在の場合、物体的な位置特定の条件は取り払
われると考えます。そのため、天使は場所に対して、自然な位置関係も、
依存関係も、共通尺度で測れるような関係ももたなくてよいことになりま
す。天使が場所に対してもつ関係とは、物質的な大きさや数量を捨象し
た、抽象化された「数学的関係」だけだ、と彼は主張します。
天使が場所に対してもつ関係を考えるために、まずは場所(locus)と位
置づけ(situs)が区別され、また、自然的な位置付け(situs
naturalis)と数学的な位置付け(situs mathematicus)とが区別される
のですね。天使は物体のように境界線では囲まれないものの、どこかに位
置するという意味においては、場所に数学的に位置付けられている、とい
うわけです。
ヘンリクスのこうした考え方は、一つには禁令が課した、被造物の存在を
時空間的な座標に位置付けるという要請に応えようとしたことと、もう一
つには、数量的でないかたちで霊的存在をも物理空間に位置付けるという
難題に挑んだことの帰結だった、と解説序文は述べています。なるほどそ
れは難しい、アクロバティックな議論とも言えそうです。実際、この解説
序文だけを見ても、ヘンリクスの数学的位置付けというものがどのような
ものか今一つピンときません。抽象的な位置付けということですが、具体
的な空間概念以外に、なんらかのモノ(霊的存在など)を位置付けること
が果たしてできるのでしょうか。……というわけで、次回はヘンリクスの
本文に当たって、そのあたりを詳しく検討できないか見ていくことにしま
す。
(続く)
------文献講読シリーズ------------------------
ダンテの自然学(その2)
ダンテの『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。
前回は冒頭部分を見てみました。そこでは、水が土よりも上に位置すると
する説を擁護するために、些末ではない議論として5つの議論を挙げてい
く、と宣言されていました。今回はダンテが挙げるその5つの議論のう
ち、最初の3つについて見ていきましょう。
*
[III]. Prima fuit talis: Duarum circumferentiarum inequaliter a se
distantium impossibile est idem esse centrum: circumferentia
aque et circumferentia terre inequaliter distant; ergo etc. Deinde
procedebatur: Cum centrum terre sit centrum universi, ut ab
omnibus confirmatur, et omne quod habet positionem in mundo
aliam ab eo, sit altius; quod circumferentia aque sit altior
circumferentia terre concludebatur, cum circumferentia sequatur
undique ipsum centrum. Maior principalis sillogismi videbatur
patere per ea que demonstrata sunt in geometria; minor per
sensum, eo quod videmus in alique parte terre circumferentiam
includi a circumferentia acque, in aliqua vero excludi.
3. 最初の議論は次のようなものだった。相互に均一に離れているのでは
ない二つの円周において、中心点が同じであることはありえない。水の円
周と土の円周は均一ではなく離れている。したがって云々。すると次のこ
とが導かれる。万人が一致して述べるように、土の中心は宇宙の中心であ
るのだから、世界のうちに土以外の位置を占めるすべてのものは、それよ
りも高い位置にある。かくして水の円周は土の円周よりも高い位置にある
と結論づけられる。円周はいかなる場合でもその中心に付き従うからであ
る。(一つめの)三段論法のうちの大前提は、幾何学で証明されたことに
よって明らかであると思われる。小前提は感覚的な論証から明らかであ
る。わたしたちは、土の円周のなんらかの部分が水の円周に含まれ、また
別の部分がそこから排除されていることを目にするからだ。
[IV]. Secunda ratio erat: Nobiliori corpori debetur nobilior locus:
aqua est nobilius corpus quam terra; ergo aque debetur nobilior
locus. Et cum locus tanto sit nobilior quanto superior propter
magis propinquare nobilissimo continenti quod est celum primum,
relinquitur quod Iocus aque sit altior loco terre et per consequens
quod aqua sit altior terra, cum situs loci et locati non differat.
Maior et minor principalis sillogismi huius rationis quasi manifeste
dimittebantur.
4. 二つめの議論は次のようなものだった。より高貴な物体にはより高貴
な場所があてがわれなくてはならない。水は土より高貴な物体である。し
たがって水にはより高貴な場所があてがわれなくてはならない。また場所
は、最も高貴な領域である第一天に近いほどいっそう高貴であり、よって
水の場所は土の場所よりも高くにあることになり、結果として水は土より
高いことになる。場所の位置と置かれるものの位置に違いはないからであ
る。この三段論法の大前提と小前提は、ほぼ明白なことわりとされてい
る。
[V]. Tertia ratio erat: Omnis oppinio que contradicit sensui est
mala oppinio: oppinari aquam non esse altiorem terra est
contradicere sensui, ergo est mala oppinio. Prima dicebatur patere
per Commentatorem super tertio De Anima; secunda sive minor
per experientiam nautarum, qui vident, in mari existentes, montes
sub se, et probant dicendo quod ascendendo malum vident eos,
in navi vero non vident, quod videtur accidere propter hoc, quod
terra valde inferior sit et depressa a dorso maris.
5. 三つめは次のようなものだった。感覚に矛盾する臆見はすべて悪しき
臆見である。水が土よりも高いところにないとの臆見は、感覚に矛盾す
る。したがってそれは悪しき臆見である。最初の部分(大前提)は、注解
者(アヴェロエス)の『魂について』第三巻の注解によって明白であると
言われている。第二の部分、すなわち小前提は、水夫たちの経験から明ら
かである。彼らは海上で、自分たちの下に山が存在することを目にし、船
ではそれらの山は見えないが、マストに登ると見えると述べていて、その
ことから、土はだいぶ深いところにあり、海の背によって低く押し込めら
れていると考えている。
*
テキストの全体の構成は、スコラ学的な「是と否」(sic et non)の形式
に則っています。最初にテーゼを示し、次にそれへの反論のテーゼが示さ
れ、最後に自説による再反論でジンテーゼとする、という形式ですね。今
回の箇所は、「水は土よりも高いところにある」という議題を擁護するた
めに、ダンテが取り上げるべき議論として列挙しているもので、いわばそ
の最初のテーゼの提示部分にあたります。
最初の第3節の議論はいきなり少しわかりにくいものになっていますね。
最初の三段論法で、水の円周(存在する範囲ということでしょうか)と土
の円周が同心円の関係にはない、ということが示されていますが、二つめ
の三段論法では、土の中心が世界の中心をなしているとされていて、なに
やら最初の三段論法と相容れないものになっている印象を抱かせます。羅
独対訳本の注によると、実はこれ、一つめの三段論法で導かれた「水が同
心円ではない」という帰結を補完するために、第二の三段論法を用意して
いたということのようです。土の中心は世界の中心なのだから、それが最
低部をなし、それに一致しないかたちで存在しているほかのものは、それ
より高い位置に(同一面ではないとすれば、中心点も垂直方向にずれてい
て当然、ということでしょうか)位置付けられることになります。ダンテ
はこのあたりの係り受けを明確にしていない、というわけですね。
同じくその注によれば、世界の中心と土の中心とが重なるという話は、ア
リストテレスの『天空論』第二巻13から14節に遡り、そこから注解の長
い伝統が続いています。中世には、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・
アクィナスの注釈書のほか、天球論の数々(サクロボスコ、ロベルトゥ
ス・アングリコス、マイケル・スコットなど)があったといいます。ダン
テは『饗宴』第三巻において、数々の権威によって支えられた説として、
地球中心説(天動説)に言及しています。『神曲』においても、そうした
考え方が基礎をなしている、と注釈は指摘しています。水の円周が土の円
周よりも高い位置にあるという話は、サクロボスコの『天球論』などに見
られるといいます。これはそのうち確認したいところです。
第4節では、天球が階層をなしていること、しかもそれが高貴さという価
値の序列をなしていることが示されています。一番外側の、すべてを包摂
する天球が第一天となり、最も価値の高いものとされ、それに近いほうが
高貴であるというわけですね。土は中心なので最も低い位置付けとなり、
水は土よりも高貴なので、その上の位置付けになる、というのです。注釈
によれば、元素の序列の出典もやはりアリストテレスで、ダンテはその文
面を知っていたことが、やはり『饗宴』第三巻から窺えるといいます。土
の球を中心に、9つの天球がそれを順に覆っている(包摂している)とい
う構図は、アリストテレスの『天空論』や、偽アリストテレスの『世界
論』などを出典としていて、ダンテはそれについても『饗宴』第二巻で言
及しているのですね。
これらの出典関係は詳しく見ると面白そうですが、煩雑にもなるので、残
念ですが大幅に割愛して先に進むことにしましょう。第5節には水夫の事
例が出てきますが、これも同じ注釈によると、古来から伝わっている水夫
の逸話として、水面が遙か彼方で歪曲していることが、マストに登れば見
えるのに船からは見えない現象とされていたといいます。ダンテの言う海
中の山の話そのものの出典は、注釈にもなく不明ですが、あるいは上の古
来からの話を、水の塊の重さによるたわみと解釈したものなのかもしれま
せん(?)。
(続く)
*本マガジンは隔週の発行です。次号は04月21日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
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