silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.354 2018/05/12

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その4)


アンソロジー『天使と場所』(スアレス=ナニ編、ヴラン社、2017)か

ら、ガン(ヘント)のヘンリクスの天使論を見ています。前回のところで

は、ヘンリクスが自然な場と数学的な場とを分け、天使はこの後者に位置

付けられると論じる議論を見ました。次いでヘンリクスは、天使がどのよ

うに限定されるのかを考えていくのでした。今回はその続きの部分を見て

みます。点と単位との違いの規定に、ヘンリクスはアヴィセンナを援用し

ています。アヴィセンナは、「それ以上分割できない性質とは位置であ

り、それに対応するのが点だが、分割はできない上に、位置でも点でもな

いものは知性もしくは魂であり、それに対応するのが単位である」と述べ

ているのですね。


アリストテレスに即し、ヘンリクスは、これを理解するには、想像力に頼

らない、想像力を越えた知的理解が必要だと説きます。つまりそれだけ抽

象度の高い議論、具体的なものを削いだ上での純粋に抽象的な理解が必要

だというわけですね。その上で、天使が実体にもとづいて場に位置付けら

れるのではない以上、場との関係は別様な観点から理解されなくてはなら

ないとし、そのために天使の「潜在性(potentias)」を考慮しなくては

ならないと主張します。


天使の場所への存在様態を、ヘンリクスは次のように示します。それは潜

在態としてあり、場所に位置付けられた実体(つまり自然の事物ですね)

に作用を及ぼすときになって、はじめてその作用が顕在化し適用されるの

だというのです。作用が生じる場所にのみ現勢化する、ということでしょ

うか。これに関しては、ダマスクスのヨアンネスが述べる、局所における

神の在り方と同じだとされます。目に見えないかたちであらゆる事物を貫

いて「在り」、事物の受容力に応じておのれの作用を伝える、というので

すね。厳密に言うなら、それは場所にあるのではなく、運動の中にあると

言えるだろう、とヘンリクスはアリストテレスの運動論に関するアヴェロ

エスの注解を引用してもいます。


この立場は、一見タンピエの禁令が禁じた教説のようにも見えますが、実

はそれとは異なります。禁令では、「作用を伴わなければ実体は場所にな

い」(つまり霊的実体は作用において場所に在る)とする教説を誤りと断

定しているのでした。つまり実体こそが、場所に在る理由をなしていなく

てはならないということになります。前に触れたように、作用において場

所に在るとする議論は、トマスなども採用していた立場だったようです

が、ヘンリクスはこの禁令の条項に目配せし、作用の問題をうまい具合に

潜勢・現勢の議論ですくい取っているのですね。これでヘンリクスは、作

用を伴わずとも天使は場所に存在しうると主張できるようになります。


一方でこれは、実体こそが場所に存在する理由であるという議論を無効に

してもいますし、潜在性(知性や意志)もまた、場所に存在する理由にな

ってはいません。天使が場所に存在する理由となるものは何なのでしょう

か。この点についてヘンリクスは、ちょっとずるい感じもしないでもない

ですが(笑)、他の人々の議論を聞いてみたいとして態度を保留していま

す。天使の実体が場所に在るのは、作用によってではなく、何かほかの別

ものだろうとヘンリクスは推測し、それはむしろ事物の側から天使が受け

取る何かではないかと指摘しています。というのも、天使そのものは非物

体的ながらも、物体から何かを被る存在だからです。


ここで再びダマスクスのヨアンネスが引かれ、何も被らないのは神だけだ

との説明がなされています。それによれば、天使は元来、地上世界の物体

を支配・管理する権限を神によって与えられており、その意味で場所に対

して決定付けられているとされます。また、そうした管理の権限は、操

作・作用を通じて行使される、とも言われています。しかしながら天使に

はその本性上の制約があり(神ではないのですから)、場所に対する決定

付けは、作用だけでなくその(潜在的)適性を指す場合もあり、すべては

神の意志にもとづくのである、とされています。


これまたダマスクスのヨアンネスの引用ですが、天使も時間と空間に限定

されているが、事物が始まりと終わりによって囲まれ(時間的・空間的

に)、また内包の関係(comprehensio)でも囲まれている(場所の意

味内容に事物はもとより組み入れられている)のに対して、天使はあくま

で後者の内包の関係のみによって囲まれている、とされます。これを受け

てヘンリクスは、天使の本性がどのようなもので、なぜそのようなかたち

で場所に在るのかはわからないとしつつも、物体的でない場所への存在の

仕方というものが、知的に理解されうるという可能性を示唆しています。


……以上、大筋のところでのヘンリクスの議論を見てきました。前回の数

学的な位置付けという話と、今回の潜在態の話がどのようにうまく連動し

ているのか、やや疑問も残りますが(読み間違いの可能性もあります

し)、とりあえずここでは深入りしないでおくことにします。今回の部分

では参照元として、ダマスクスのヨアンネスが大活躍しています。その重

要性についても、またそのうち改めて考えたいと思っています。さしあた

り次回からは、アクアスパルタのマテウスによる天使の場所論を見ていき

たいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その4)


ダンテの『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。

さっそく今回の箇所を見てみましょう。



[IX]. In ostendendo sive determinando de situ et forma duorum 

elementorum ut superius tangebatur, hic erit ordo. Primo 

demonstrabitur impossibile aquam in aliqua parte sue 

circumferentie altiorem esse hac terra emergente sive detecta. 

Secundo demonstrabitur terram hanc emergentem esse ubique 

altiorem totali superficie maris. Tertio instabitur contra 

demonstrata et solvetur instantia. Quarto ostendetur causa finalis 

et efficiens huius elevationis sive emergentie terre. Quinto solvetur 

ad argumenta superius prenotata.


9. 上で触れたように、二つの元素の場所と形状について明示もしくは決

定するには、以下のような段階を踏むことになるだろう。まず第一に、周

囲の任意の部分における水が、表面に出ている土もしくはむきだしの土よ

りも高い位置に在ることはありえないことが論証されるだろう。第二に、

その表面に出ている土が、どの場所においても、海面全体よりも高い位置

にあることが論証されるだろう。第三に、論証に対する反論を掲げ、その

反論への解決策を示す。第四に、土の隆起ないし表出の目的因と作用因を

明らかにする。第五に、先に示した議論への解決策を示す。


[X]. Dico ergo propter primum quod si aqua, in sua circumferentia 

considerata, esset in aliqua parte altior quam terra, hoc esset de 

necessitate altero istorum duorum modorum: vel quod aqua esset 

ecentrica, sicut prima et quinta ratio procedebat; vel quod, 

concentrica existens, esset gibbosa in aliqua parte, secundum 

quam terre superhemineret; aliter esse non posset, ut subtiliter 

inspicienti satis manifestum est: sed neutrum istorum est 

possibile; ergo nec illud ex quo alterum vel alterum sequebatur. 

Consequentia, ut dicitur, est manifesta per locum a sufficienti 

divisione cause; impossibilitas consequentis per ea que 

ostendentur apparebit.


10. では、第一の段階について次のように述べよう。水をその周囲におい

て考える場合、仮に任意の部分においては土よりも高い位置になるとした

ら、それは必然的に次の二つの様態のいずれかであるからだろう。すなわ

ち、上に挙げた第一と第五の議論のように、水が偏心しているか、もしく

は中心にあるものの、いずれかの部分でもり上がっており、そのために土

よりも高い位置に来るか、である。詳細に検討すれば十分に明らかとなる

ように、それ以外にはありようがない。しかしながらこのいずれも可能で

はない。したがって、そのそれぞれが帰結したもとの仮定もありえない。

ここで示されているように、その帰結は、原因を十分に分割するという議

論の前提から明らかである。帰結の不可能性は、以下の指摘により歴然と

なるであろう。


[XI]. Ad evidentiam igitur dicendorum, duo supponenda sunt: 

primum est quod aqua naturaliter movetur deorsum; secundum 

est quod aqua est labile corpus naturaliter, et non terminabile 

termino proprio. Et si quis hec duo principia vel alterum ipsorum 

negaret, ad ipsum non esset determinatio, cum contra negantem 

principia alicuius scientie non sit disputandum in illa scientia, ut 

patet ex primo Physicorum; sunt etenim hec principia inventa 

sensu et inductione, quorum est talia invenire, ut patet ex primo 

Ad Nicomacum.


11. ここで述べるべき内容の論証には、二つの前提が必要となる。一つ

は、水は自然状態において下方へと動くということである。もう一つは、

水は自然状態において滑らかな物体であり、水に固有の境界に限定されえ

ないということである。仮に誰かがこの二つの原理、あるいはそのいずれ

かを否定するなら、その者にとって議論は決着しないであろう。自然学の

第一巻に明らかなように、なんらかの学問上の原理の否定に対しては、そ

の学問内においては議論にならないからである。実際、これらの原理は感

覚と推論で発見されたものであり、ニコマコス倫理学の第一巻から明らか

なように、その発見はそれら感覚と推論に属しているのである。



9節はこの後の議論展開の見取り図を示した箇所です。5つの部分に分か

れ、それぞれが詳細に検討されていくことになるようですね。一つめの部

分、つまり水は土よりも上に位置することはないという議論の詳細が10

節から始まります。10節では、いきなりその帰結が提示されています。

内容の細かい検討はその後に続くことになります。11節はまだ議論のほ

んの入り口で、議論に先立つ前提条件を示しているにすぎません。


9節に出てくるinstantiaは、独訳中によれば中世の論理学の「技術用語」

の一種で、要は「反論」を意味しています。動詞insto(攻撃する、要求

するetc)の派生形ですね。独訳注ではボエティウスによるラテン語訳の

アリストテレス『分析前書』が引用されていて、命題がその全体あるいは

三段論法において偶有的でないのに対して、「反論」のほうは部分的に偶

有的なものがふくまれる、と説明されています。


10節の末尾に出てくるlocusもまた一種の技術用語で、レトリカルな意味

での議論のトポス、議論を成立させる諸条件などを指しているようです。

独訳注では例として、ソフィスト的なロクス(loci sophistici)が取り上

げられています。ソフィスト的議論は外見上は賢慮であるかのように見え

て、その実、議論に勝つことを目的とし、相手を追い込むことばかりを導

くものだったりするわけですが、そうした議論の大元となる諸条件を、ロ

キ・ソフィスティキと言う、と説明されています。


11節に見られる、学問上の原理の否定はその学問内ではできない、とい

うのは面白い視点ですね。体系の要石をなしている基盤部分は、その体系

の中には含まれえないということでしょうか。どこかゲーデルの不完全性

定理などを連想させたりもしますが、そうした体系についての穴というか

疑義のようなものは、アリストテレスのころから感じ取られていたことに

なります。哲学の長い伝統には、そういう視座がつねにあったのでしょ

う。自然学の第一巻の該当箇所は185a1-4です。不動の一者を考察する

には、自然学的な考察ではだめで、たとえば幾何学は、その起源を語る言

葉をもたないし、全体に共通するような別の知をもってきたところで、や

はり起源には届かない、というようなことが記されています。


目下の11節で示されている二つのテーゼは、感覚的・経験的なテーゼ、

また推論にもとづくテーゼ(滑らかな液体なので、一定の形に限定されな

い)になっています。ここでは、それすら認めないなら、さしあたり議論

はできないということを述べているわけですね。ニコマコス倫理学の該当

箇所は第一巻の七章の末尾のあたり(1098b3-5)で、端緒(原理)は場

合により、推論、感覚、習慣などに属していると述べているところです。


今回の箇所は第一段階のさわりの部分でしかなく、これから本格的な検討

がなされていくことになりそうです。というわけで、それはまた次回以降

に持ち越しです。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は05月26日の予定です。


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