silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.355 2018/05/26

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その5)


今回からはアクアスパルタのマテウス(マッテオ)(1240 - 1309)に

よる天使論を見ていきます。まずこのマテウスですが、イタリアはウンブ

リア州アクアスパルタ出身のフランシスコ会士で、後に同会の総代表にも

なった人物です。ボナヴェントゥラの弟子で、思想的にはアリストテレス

主義よりもむしろアウグスティヌス主義を重んじていたとされています。

また、ダンテの同時代人でもあり、フィレンツェを二分したビアンキ(白

派)とネリ(黒派)の抗争では、進歩的な白派に立ったダンテが、保守派

に立っていたマテウスに冒とく的な言葉を投げかけたりもしていたのだと

か。


私たちは見ている『天使と場所』(ヴラン社刊、2017)の解説論文によ

れば、アクアスパルタのマテウスは、タンピエの1277年の禁令後、フラ

ンシスコ会士としてはじめて霊的実体(天使など)についての論を著した

人物でもあるようです。というか、その禁令こそがマテウスの執筆を促し

ているのかもしれない、と解説のスアレス=ナニ氏は述べています。マテ

ウスはどうやら、パリ司教タンピエの禁令の正統性を擁護しようとしてい

るというのですね。そうして書かれたのが、『離在的魂についての諸問

題』(Quaestiones de anima separata)という一篇です。


これも様々な問題を論じている文章のようですが、場所論に関しては、魂

の運動について論じた同文章の第一問と第二問に見られるといいます。マ

テウスは離在的な魂と天使とを「霊的実体」として一緒くたに扱っている

のですね。具体的な議論は禁令に則したかたちで進められ、トマス・アク

ィナスに対する批判が強く前面に出ているのだとか。マテウスは、トマス

の議論(「天使は作用によって場所に存在する」)は聖書にも理性にも反

するとして批判し、それとは逆に「霊的実体は作用によってではなく本質

によって、一つの場所に限定されうる」と説くのだといいます(もちろん

その場所によって囲まれたりはしないわけなのですが)。


そう考える理由をマテウスは4つ挙げています。すなわち、順に宇宙の秩

序、被造物に内在する制約、摂理、そして神の正義の秩序です。とくに重

要なのは最初の二つで、マテウスは霊的実体についても「現前しているこ

との伝達」、「実体の現前」、「現前としての存在の境界画定」によって

場所に限定されると考えています。ただ世界の諸部分は物体的な場、配置

であるがために、霊的実体が特定の場所に現前していることを示すことは

できない、というのです。


つまり、天使なども被造物であるからには、どこどこに在るということが

規定され、またなんらかのかたちでそれが個体として空間的に他と区別さ

れているはずで、量として測ることすらできるはずだというのですが、そ

れがどういう仕方で規定・区別されているかは、全能の神のみぞ知る、と

いうことなのですね。場所への特定は、人間には計り知れない仕方でなさ

れているに違いない、というわけです。


解説論文では、そうした霊的被造物の場所への限定は、その被造物の不完

全性を表すものではないとも記されています。移動の自由、つまり場所を

変える自由は、自由を享受できる存在の完全性に属するものだというわけ

です。もし霊的実体が作用のみによって場所への限定がなされるのだとし

たら、作用のない場所には存在しえないということになるので、移動の自

由は妨げられてしまうことになります。したがって天使は、そのような作

用によってではなく、その存在そのものによって、移動の自由をもともな

って、場所に限定されているのだ、とマテウスは考えているのですね。ち

ょうど魂が肉体に存在すると言われるときのように、天使は場所の全体に

拡がりつつ、その各部分に見いだされるというかたちで存在するのだ、

と……。


マテウスはしたがって場所との関係を、事物の存在そのものに組み込まれ

ているものと考えていることになります。この立場は、後のメディアヴィ

ラのリカルドゥス、あるいはオリヴィなども同様だといいます。解説論文

によれば、これはまた、天使と場所の関係を、依存関係こそ伴わないもの

の、「自然なもの」、自然な関係と考える立場でもあるといいます。なる

ほど、ガンのヘンリクスが独自の場の理論を作り上げようとしたところ

に、マテウスはあえてそうした場を設けない、自然な、神の摂理にもとづ

く関係、それでいて不可視の関係を見て取っている、というところでしょ

うか。次回から、少し詳しくそのマテウスの議論を見ていくことにしま

す。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その5)


ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。今

回は第12節ですが、少し長い節なので、便宜的な改行を入れておきます

(改行は//で示しています)。早速見ていきましょう。



[XII]. Ad destructionem igitur primi membri consequentis dico 

quod aquam esse ecentricam est impossibile. Quod sic 

demonstro: Si aqua esset ecentrica, tria impossibilia sequerentur; 

quorum primum est quod aqua esset naturaliter mobilis sursum 

et deorsum; secundum est quod aqua non moveretur deorsum 

per eandem lineam cum terra; tertium est quod gravitas equivoce 

predicaretur de ipsis; que omnia non tantum falsa sed impossibilia 

esse videntur. // 


 12. 帰結を構成する最初の部分を論破すべく、私は水が偏心していると

いうのはありえないと言おう。それは次のように論証できる。仮に水が偏

心しているのであれば、三つの不可能なことが導かれる。まず一つめは、

水が自然に上方に、または下方に動くことになるということである。二つ

めは、水は土と同じ直線上を下降しないということである。三つめは、重

さがおのずと両義的な意味になってしまうということである。これらはす

べて、単に偽であるだけなく、不可能であると思われる。


Consequentia declaratur sic: Sit celum circumferentia in qua tres 

cruces, aqua in qua due, terra in qua una; et sit centrum celi et 

terre punctus in quo A, centrum vero aque ecentrice punctus in 

quo B; ut patet in figura signata. Dico ergo quod, si aqua erit in A 

et habeat transitum, quod naturaliter movebitur ad B, cum omne 

grave moveatur ad centrum proprie circumferentie naturaliter; et 

cum moveri ab A ad B sit moveri sursum, cum A sit simpliciter 

deorsum ad omnia, aqua movebitur naturaliter sursum; quod erat 

primum impossibile, quod sequi dicebatur. //


帰結は次のように示される。(図で)三つの十字があるものが天の円周、

二つの十字があるものが水の円周、一つの十字があるものが土の円周であ

るとしよう。また、図に明らかなように、点Aがあるのが天と土の中心、

点Bがあるのが水の偏心した中心であるとしよう。その場合、私はこう言

おう。水がAにあって移動するのだとすると、自然にそれはBへと向かう

であろう。重さのあるものはすべて、自然に所定の円周の中心へと移動す

るからである。また、AからBへの移動が上方への移動となる場合、Aは

端的にすべての下方にあるであろうから、水は自然に上方へと移動するだ

ろう。だが上で帰結として述べたように、それはまずもって不可能であ

る。


Preterea sit gleba terre in Z, et ibidem sit quantitas aque, et absit 

omne prohibens: cum igitur, ut dictum est, omne grave moveatur 

ad centrum proprie circumferentie, terra movebitur per lineam 

rectam ad A, et aqua per lineam rectam ad B; sed hoc oportebit 

esse per lineas diversas, ut patet in figura signata, quod non 

solum est impossibile, sed rideret Aristotiles si audiret. Et hoc erat 

secundum quod declarari debebatur. //


さらに、Zに土塊があり、また同じ量の水があり、妨げとなるものがいっ

さいないとしよう。すると、すでに述べたように、重みのあるものはすべ

て固有の円周の中心に向かって動くのであるから、土は直線上をAに向か

って動き、水は直線上をBに向かって動くことになる。けれどもそのため

には、図に明らかなように、複数の直線がなくてはならない。それは不可

能であるばかりか、アリストテレスが聞いたら笑い出すような話である。

以上が示されるべき二つめであった。


Tertium vero declaro sic: Grave et leve sunt passiones corporum 

simplicium, que moventur motu recto; et levia moventur sursum, 

gravia vero deorsum. Hoc enim intendo per grave et leve, quod 

sit mobile, sicut vult Phylosophus in Celo et Mundo. Si igitur aqua 

moveretur ad B, terra vero ad A, cum ambo sint corpora gravia, 

movebuntur ad diversa deorsum; quorum una ratio esse non 

potest, cum unum sit deorsum simpliciter, aliud vero secundum 

quid. Et cum diversitas in ratione finium arguat diversitatem in hiis 

que sunt propter illos, manifestum est quod diversa ratio 

gravitatis erit in aqua et in terra; et cum diversitas rationis cum 

identitate nominis equivocationem faciat, ut patet per 

Phylosophum in Antepredicamentis, sequitur quod gravitas 

equivoce predicetur de aqua et terra; quod erat tertium 

consequentie membrum declarandum. Sic igitur patet per veram 

demonstrationem hoc, quod aqua non est ecentrica; quod erat 

primum consequentis principalis consequentie quod destrui 

debebatur.


三つめとして次のように述べよう。重さと軽さは端的な物体が被る作用で

あり、それによって動体は直線的に動かされる。つまり軽いものは上方

に、重いものは下方に動かされる。私が重さ・軽さで言おうとしているの

は、哲学者が『天空論』『世界論』で言おうとしているように、それらが

動体であるということである。したがって、水がBに向かって動き、土が

Aに向かって動くとするなら、両者ともに重い物体なのだから、異なる意

味での下方へと動くことになるであろう。その場合の意味は同じではあり

えない。一方は端的に下方へ、もう一方は相対的に下方へと動くからであ

る。また、最終的な意味の違いは、それら(絶対か相対か)に対する違い

を示すのであるから、水と土で重さの意味上の違いがあることは明らかで

ある。さらに、哲学者が『範疇論』で明らかにしているように、名称が同

一であるような意味の違いは両義性をなすことから、水と土で重さの意味

は両義的になることが導かれる。以上が示されるべき帰結の三つめとな

る。したがって以上のことから、水が偏心してなどいないことが真に証さ

れることは明らかである。以上が、論駁すべき主要な帰結のうちの第一の

帰結なのであった。



この12節は、先に述べられている5つの反論のうちの第一のものです。す

なわち、「水の球(円周)が偏心していることはありえない」という議論

が示されています。


12節には図が挿入されています。図には文中で示されているAやB、Zな

どが書き込まれています。これをブログのほうに貼っておきましたのでご

参照ください(http://www.medieviste.org/?p=9422)。水の球が偏心

しているということを前提にすると、導かれる帰結が三つあるとダンテは

述べ、それら各々が不可能であることを示してみせることで、前提が誤っ

ていることを証す、という論法を取っています。


一つめのありえない帰結は、水は下方に向かうという原則に反した動きが

導かれるということです。これはすでに出てきた議論ですね。水が上方に

向かうことは経験上ありえないとされていたのでした。二つめは、土と水

が下方へ向かう場合に同じ直線上を辿らないことになる、というもので

す。ここで土は土の、水は水の円周(球)の中心に向かうとされています

が、独訳の注釈によれば、この部分の議論はアリストテレスの『天空論』

に見られる議論にもとづいているとされます(309b16 - 313b23)。


天空論の末尾となるその箇所を見ると、元素に内在する性向として、たと

えば火なら軽さがあって上方に、土なら重さがあって下方に向かうという

ことが示されています。中間形とされる空気や水は、それぞれに重さと軽

さのヴァリエーションを備え、それらのバランスで相対的に空気は上方

に、水は下方に向かうとされます。火や土には絶対的な軽さ・重さがあ

り、空気や水には相対的な各種の混在状態がある、という話にもなってい

るわけですが、それぞれの元素の圏内でその中心に向かうという話は記さ

れていないように思われます。注釈書などなら出てくるのでしょうか。こ

のあたり、もう少し探ってみる必要がありそうです。


三つめは、下方に動くという場合に、水と土とでその「下方」の意味に差

異が生じることになるという帰結です。同一語が用いられているにもかか

わらず意味の違いが生じる場合があることは、アリストテレスが『範疇

論』で示しているものの(1a1-4)、土と水に関しては両者ともに重い物

体でもあるので、「下方」の意味が異なるというのは受け容れがたい、と

いうわけですね。下方・上方の差は重い・軽いの程度の差において生じる

というのは、先の『天空論』に示されている通りなのですが、その一方

で、方向性そのものに差異を認める(下方に二方向がありうるというよう

な)のはおかしいということなのでしょう。


ダンテはこのように不可能な帰結を三つに分けて挙げていますが、基本的

には同じことを視点を変えて取り上げているにすぎないようにも見えま

す。要はなんらかの落下運動が生じる場合に、土と水とでその運動が異な

るというのはありえないだろうというわけです。これを、経験論的、推論

的、意味論的に捉え直したのが、三つの不可能性ということになるのでは

ないでしょうか。次回は続く二つめの反論を見ていきます。

(続く)



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