silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.357 2018/06/23

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その7)


アクアスパルタのマテウスによる霊的実体の場所論を見ています。前回見

たところでは、マテウスは霊的実体が作用によってのみ場所に在るという

説を否定し、本質によっても場所になければならないという議論を展開し

ていました。今回はそれに続く箇所で、場所に在るときの霊的実体の様態

について考察しています。そのあたりは少し議論の筋道が行きつ戻りつす

るような感じもありますが、とりあえずまとめてみましょう。


マテウスはみずからの議論の難所として二つの問題を見て取り、それぞれ

を取り上げていきます。一つは、完全に単一で不可分の霊的実体がいかに

して物体的で延長をともなう場所にありうるのか、という問題、もう一つ

は、そうした霊的実体が場所に在るための基礎づけをなすのは何か、とい

う問題です。一言でまとめるなら、場所に存在するときの「様態」と「基

礎」です。


まず様態についてですが、マテウスは最初に、霊的実体が場所に依存して

いないことを再度強調します。依存していないというのは、仮に場所を取

り払ったとしても、霊的実体が存在しなくなることはないからだとされま

す。その非依存の関係を、マテウスはさらに分析していきます。まずはそ

れは容器と内容物のような包摂の関係ではないとし、次に今度は領域的限

定や通約性(同一単位で数量的に測れるということ)でも位置付けられな

いとします。霊的実体には延長(空間的な広がり)がないからです。


一方で霊的実体といえども、存在しているなら「現前」していなくてはな

らないし、現前していることを伝えなくてはなりません。世界は部分同士

のつながりと秩序で成り立っている以上、霊的実体もまた物体的な場所に

おいてみずからの現前を示さなくてはなりません。するとどうなるのでし

ょうか。霊的実体は単一だとされるのですから、どうやらそれは、物体的

な任意の部分のうちに(霊的実体の)全体が在るようなかたちで、場所に

存在するということになりそうです。


ただし、被造物として制約が課されている以上、霊的実体は遍在はでき

ず、それが在る場所もなんらかのかたちで数量的に限定されていると考え

ないわけにはいきません。マテウスは、厳密に言ってそうした限定の仕方

そのものは「神のみぞ知る」ものであるとして、考慮の対象外としていま

す。ただ、霊的実体の単一性を極小性のように解してはならないと注意を

促しています。その単一性は、ほかのものに力を委ねうる一性であって、

逆に「広大無辺」なものと理解しなくてはならない、というのですね。マ

テウスは、霊的実体が場所に在る仕方というのは、魂が身体のもとに在る

仕方と同じである、と述べています。


二つめの基礎付けについては、まず一部の神学者らの教説として、作用そ

のものは霊的実体が場所に存在する理由にはならないということが改めて

指摘されます。霊的実体は天空に棲まうとされ、それらがそこでなす所作

は、場所に適用されることがないからだ、というのですね。また、霊的実

体は本質によってのみ場所に存在するのでもない、という説も再度引き合

いに出されます。霊的実体の本質は場所に依存していないからです。マテ

ウスはここで、なんらかの実体が場所に割り当てられる理由と、それが場

所において限定される理由とは別物だと論じます。


場所に依存もしていないのに霊的実体が場所に割り当てられる理由は、世

界における全体と部分の秩序、配置、つながりにある、とマテウスは考え

ます。霊的実体もこの世界の一部をなしている以上、部分同士のむすびつ

きの中に組み込まれていなくてはならず、つまりは神の恩寵により物体の

世界に現前するようになっているのだ、というのです。一方で、霊的実体

も被造物であるので、場所においてなんらかの制限を受けているとされま

す。このあたりは上の話の繰り返しでもあります。


場所において限界されていることは、本質そのものではない、とマテウス

は見なします。つまりその限定は、潜在態である本質が現働化するとき

に、結果的に生じるものなのだ、というわけです。現働化によって霊的実

体は現実態としての数量的限定、あるいは様態化を受けることになりま

す。霊的実体はその際、神のように絶対的に場所に限定されない(つまり

遍在できる)ものと、物体のように場所で限定される(局在する)しかな

いものとのあいだの、いわば中間形として存在することになるようです。

つまり、なんらかの一定範囲に限定されつつ、その範囲内全体に拡がるよ

うな仕方で存在し、しかしながら完全な意味で局在するのではないという

存在の仕方です。このあたりの議論ではアンセルムスやサン・ヴィクトル

のフーゴーなどが引用されており、それら先行する神学者たちの学説がも

とになっていることがわかります。


かくして霊的実体は場所を移動する場合にも、現前する空間部分に全体と

して在るというかたちで移動するため、物体の場合のような継続的運動

(時間の経過にともなって漸進的に移動するイメージですね)であると同

時に、連続した運動(移動量が数量的に区切れないということでしょう)

にもなる、とマテウスは考えています。そしてどうやらマテウスのこうし

た考え方は、スコラ学の世界において広く浸透し、ほかの論者たちにとっ

ての基本的な参照枠になるようなのです。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その7)


ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。今

回は第14節から第16節の冒頭までです。第16節は途中までで、ちょっと

切り方が変になってしまっていますが、どうかご了承ください。ではさっ

そく見ていきましょう。



[XIV]. Si ergo impossibile est aquam esse ecentricam, ut per 

primam figuram demonstratum est, et esse cum aliquo gibbo, ut 

per secundam est demonstratum; necesse est ipsam esse 

concentricam et coequam, hoc est equaliter in omni parte sue 

circumferentie distantem a centro mundi, ut de se patet.


14. 第一の議論で論証されたように水(の圏)の偏心がありえず、第二の

議論で論証されたようになんらかのコブの存在もありえないとするなら、

水の圏は必然的に同心円をなし、また相互に均一であることになる。つま

り、おのずと明らかなように、水の圏の円周はどの部分をとっても、世界

の中心から等距離にあるということである。


[XV]. Nunc arguo sic: Quicquid superheminet alicui parti 

circumferentie distantis equaliter a centro, est remotius ab ipso 

centro quam aliqua pars ipsius circumferentie: sed omnia littora, 

tam ipsius Amphitritis quam marium mediterraneorum, 

superheminent superficiei contingentis maris, ut patet ad oculum; 

ergo omnia littora sunt remotiora a centro mundi, cum centrum 

mundi sit centrum maris ut visum est, et superficies littorales sint 

partes totalis superficiei maris: et cum omne remotius a centro 

mundi sit altius, consequens est quod littora omnia sint 

superheminentia toti mari; et si littora, multo magis alie regiones 

terre, cum littora sint inferiores partes terre, et id flumina ad illa 

descendentia manifestant. Maior vero huius demonstrationis 

demonstratur in theorematibus geometricis; et demonstratio est 

ostensiva licet vim suam habeat ut in hiis que demonstrate sunt 

superius, per impossibile. Et sic patet de secundo.


15. さらに次のように論じよう。中心から等距離にある円周上の任意の部

分よりも高い位置にあるものは、その円周のほかの部分よりも、中心から

いっそう離れていることになる。だが、アンフィトリテ(大洋)も地中海

もそうであるが、あらゆる岸辺は、目に明らかなように、隣接する海面よ

りも高い位置にある。したがって、あらゆる岸辺は世界の中心点からより

遠く離れていることになる。すでに見たように、世界の中心点は海の中心

点でもあり、岸辺の海面は海面全体の一部をなしているからだ。また、世

界の中心点からいっそう遠く離れているものはすべて、より高い位置にあ

り、結果的に岸辺はすべて海面全体よりも高い位置にあることになる。岸

辺がそうであるとすると、他の地域はさらにいっそうそうだということに

なる。岸辺は陸地の低い部分であるからで、そのことは、河がそこに向か

って流れてくることから明らかである。この論証の大前提は幾何学の定理

によって証される。その論証は、先に論証されたときのように帰謬法から

論証の力を得ているが、やはり明示的である。以上のことから、第二の議

論は明らかである。


[XVI]. Sed contra ea que sunt determinata sic arguitur: 

Gravissimum corpus equaliter undique ac potissime petit centrum: 

terra est gravissimum corpus; ergo equaliter undique ac 

potissime petit centrum. Et ex hac conclusione sequitur, ut 

declarabo, quod terra equaliter in omni parte sue circumferentie 

distet a centro, per hoc quod dicitur 'equaliter', et quod sit 

substans omnibus corporibus, per hoc quod dicitur 'potissime'; 

unde sequeretur, si aqua esset concentrica, ut dicitur quod terra 

undique esset circumfusa et latens, cuius contrarium videmus. //


16. だが、論証済みの議論に対して次のような異論もある。最も重い物体

はあらゆる場所から同等に、また最大限の力で中心に向かう。土は最も重

い物体である。したがってあらゆる場所から同等に、また最大限の力で中

心に向かう。この帰結からは、以下に示すように、土もその円周のあらゆ

る部分において(「同等に」という言葉の意味で)中心から等距離離れて

いること、さらに(「最大限の力で」という言葉の意味で)あらゆる物体

よりも下に位置するであろうことが導かれる。ゆえに、先に述べたよう

に、仮に水(の圏)が同心円であるとするなら、土はあらゆる場所を取り

巻き、また隠れていることになるが、私たちはそれとは逆のことを目にす

る。//



15節に出てくるアンフィトリテ(アンピトリーテー)は、海神ポセイド

ンの妃で海の女神です。原義が「取り巻く第三のもの」(amphiが「周囲

の」、tritesが「第三のもの」)ということで、「大洋」を表していると

されます。詩的な表現ですが、独訳注によれば、こうした自然学的なテキ

ストに用いられるのも珍しいことではないといいます。


メトニミーを語源的な説明でもって解き明かそうとするのも、中世の著者

たちがよく行っていることだといい、独訳注ではアルベルトゥス・マグヌ

スが『神学大全』でアンフィトリテを説明した箇所が引用されています。

面白いのはamphiをdubium(疑わしい・はっきりしない)の意味、trite

はteres(円の)の意味だとされていることです。マグヌスは、「はっき

りものとは丸みを帯びつつも完全に円ではないものである」とし、「そう

でなければ乾いた土地(arida)も生じない」と説明しています。マグヌ

スの立場が、水の圏は完全な円ではなく、そのいびつな部分から土がのぞ

くのだという、ダンテと対立する異説であることが窺えます。


アンフィトリテが大洋、つまり全世界的に大地を取り巻く海であるのに対

して、地中海(marium mediterraneorum)のほうは、中世においては

「大洋から派生的に生じた小さな内海」と定義されていたようです。同じ

くアルベルトゥス・マグヌスの『気象論』では、そうした内海の水が尽き

ないのは、雨を通じて大海の水が補充されているからだ、という説明がな

されています。


幾何学への言及もありますが、これはエウクレイデス(ユークリッド)の

『原論』への言及とのことで、中心を通り円周の任意の2点を結ぶ直線

(つまり直径)はどれも等しい大きさになるという定理を指しています。

その定理ゆえに、円周よりも外側(高い位置)にあるものから中心を通る

線を引けば、その直線はもとの直径よりも大きくなるというわけですね。

ちなみに、『原論』のラテン語訳で現存する最古のものは、バースのアデ

ラード(12世紀)によるものとされています。


その絡みで帰謬法の話も出てきました。reductio ad impossilbe(また

はreductio ad absurdum)と言い表すのが一般的と思われますが、こ

こではper impossibileという部分がそれに当たります。前回の第13節な

どでも用いられている論法ですね。ある命題が偽であるとした場合に矛盾

もしくは不可能性が導かれることから、結果的に命題を偽としたことが誤

りで、もとの命題が真であることが証明されるという論法です。これも独

訳注からですが、明示的(ostensiva)であるとは、命題において結論が

一つのみ導かれる場合のことを言うと、ペトルス・ヒスパヌス(13世

紀)が述べています。一方の帰謬法(sillogismus ad impossibile)で

は、矛盾する結論の原因となった前提を取り除くことでその結論を回避す

るので、必然的に二つの帰結が導かれるというわけですね。ダンテは、こ

の節の最初の大前提部分(それが大枠をなすわけです)の三段論法は明示

的だけれども、実際の論証プロセスでは帰謬法が用いられていることを、

ここで示しているのでしょう。


16節はスコラ学の形式に準じた「異論」の提示です。これについては次

回にまとめて見ていくことにします。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は07月07日の予定です。


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