silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.358 2018/07/07

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その8)


前回はアクアスパルタのマテウスによる離在的実体(天使など)の場所論

を見てみました。ポイントは二つあり、一つはそうした離在的実体が場所

に依存していないにもかかわらず、被造物であることから秩序の上では地

上世界に存在場所を指定されているはずだということ、もう一つは、同じ

く被造物であることから遍在はできず、一定の場所を与えられているもの

の、その存在様式は、一定の場所(空間)のいずれの部分にも、全体とし

て在るというかたちで存在すると推測される、ということです。


こうしてみると、離在的実体をめぐるマテウスの議論は、被造物であると

いう前提から論理的に導かれる議論であって、その実際の様態がどのよう

なものであるかは不問に付していることがわかります。文字通りそれは神

のみぞ知るというわけですね。ではこれを踏まえて、今度はメディアヴィ

ラのリカルドゥス(1249頃 - 1308頃)の場所論を見てみたいと思いま

す。リカルドゥスはフランスシスコ会の神学者で、パリのフランシスコ会

系の神学校で教師となったほか、北東部メスでも教鞭を執り、さらにトゥ

ールーズ伯ルイ(カペー家)やアンジュー伯シャルル2世などの家庭教師

なども務めた人物です。近年、著作の校注・対訳版が続々と刊行され、注

目を集めています。


まずはアンソロジー『天使と場所』(T. Suarez-Nani (ed), "Les anges 

et le lieu", Vrin, 2017)から、その解説序文を見てみましょう。それに

よると、リカルドゥスは霊的被造物と物理的な場所との関係を、4つの問

題で考察します。それらは(1)天使は「どこにもいない」のか、(2)

天使は分割できない点を占めるのか、(3)天使は同時に複数の場所を占

めうるのか、(4)複数の天使が同時に同じ場所を占めることは可能か、

です。


まず(1)についてですが、リカルドゥスも「霊的被造物は作用(働きか

け)によって場所に在る」とするトマス説を批判するところから始めてい

ます。ストラボンやサン=ヴィクトルのフーゴーなどの権威のほか、

1277年の禁令が援用されているようです。リカルドゥスは、働きかける

には予め存在していなければならないとして、天使が作用によってではな

く、その存在そのものによって(本質によって)場所に在るということを

論じます。またアリストテレスに準拠して、天使の意志と神の力を作用因

とし、宇宙の統一性を目的因、さらに限定された場所もしくは場所に存在

する事物との同時性を形相因として考えています。


解説によれば、この最後の形相因、つまり同時性の議論がリカルドゥスに

固有の議論なのだといいます。物理的な場所との同時性、すなわち共存在

性こそが、天使が場所に位置付けられる根拠であるというわけです。この

考え方も、被造物全体が時空間の座標に位置付けられ、それらが相互に連

携もしくは接続されていることが前提になっていて、その意味でアクアス

パルタのマテウスの立場に連なるのですが、リカルドゥスはとりわけその

共存在性こそが、霊的存在と世界における場所との特殊な関係を構成して

いると考えているようです。


(2)については、ガンのヘンリクスやエギディウス・ロマヌスなどの立

場に準じて、天使は限定的な空間全体に、また同時にそのそれぞれの部分

に存在しうるとしています。そのことをリカルドゥスは「肯定的な」単純

さと呼び、それは点よりも完全な単純さであると考えているようです(逆

に「否定的な」単純さというのは、単に延長をもたないということで

す)。そうした単純さゆえに、霊的存在は分割不可でありながら、分割可

能な場所を占めることができるというのです。ただし制約として、同時に

現前することのできる一定範囲の場所しか占めることができないとされて

もいます。


したがって、(3)の問題に対してリカルドゥスは否定的です。同時に複

数の場所を占めることはないというわけですね。天使が場所に対してもつ

関係は、あくまで限定的な空間に制限されるからです。では(4)はどう

でしょうか。それら霊的存在が浸透しあうのを認めるかどうかということ

ですが、同じく被造物としての制約から、リカルドゥスはこれを否定して

います。被造物であるとはなんらかの身体(物体)をもつということであ

り、アリストテレス的な原理から、物体はいかなるものであれ相互浸透は

できないとされるからです。魂が身体と同じ場所を占めることができるの

は、魂が身体に入り込める(浸透できる)ためですが、制約としてその魂

は、ほかの身体には入り込めません。それと同じことだとリカルドゥスは

述べているようです。


というわけで、解説序文によれば、リカルドゥスに特徴的な議論として、

上の同時性や単純さの種別などが挙げられます。次回はリカルドゥスのテ

キストそのものをまとめつつ、そのあたりの議論をもう少し詳しく見てい

くことにしたいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その8)


ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。今

回は第16節の続きから第17節までです。早速見ていきましょう。



// Quod illa sequantur ex conclusione, sic declaro: Ponamus per 

contrarium sive oppositum consequentis illius quod est in omni 

parte equaliter distare, et dicamus quod non distet, et ponamus 

quod ex una parte superficies terre distet per viginti stadia, ex alia 

per decem: et sic unum emisperium eius erit maioris quantitatis 

quam alterum: nec refert utrum parum vel multum diversificentur 

in distantia, dummodo diversificentur. Cum ergo maioris 

quantitatis terre sit maior virtus ponderis, emisperium maius per 

virtutem sui ponderis prevalentem impellet emisperium minus, 

donec adequetur quantitas utriusque, per cuius adequationem 

adequetur pondus; et sic undique redibit ad distantiam quindecim 

stadiorum; sicut et videmus in appensione ac adequatione 

ponderum in bilancibus. //


(承前)それらのことは結論から導かれるということを、次のように示し

ておこう。あらゆる部分が(中心から)等距離にあるという結論に反する

ような、あるいは対立するような想定を考え、等距離にはないと述べると

しよう。地表面のある部分からは20スタディオン、別の部分からは10ス

タディオン離れているとしよう。すると、一つの半球はもう一つの半球に

対して量的に大きいことになる。さしあたりそれらが違っていさえすれ

ば、距離の差が大きいか小さいかは問わずともよい。するとその場合、数

量の上で大きな土は重力もより大きいのであるから、大きい側の半球はみ

ずからの重力によって小さい側の半球を、両者が数量的に均衡するまで動

かし、その均衡化によって重さも均衡化する。こうして、天秤に重りを追

加し重さの均衡化が得られるときのように、どちらの距離も15スタディ

オンになる。


Per quod patet quod impossibile est terram equaliter centrum 

petentem diversimode sive inequaliter in sua circumferentia 

distare ab eo. Ergo necessarium est oppositum suum quod est 

equaliter distare, cum distet; et sic declarata est consequentia, 

quantum ex parte eius quod est equaliter distare. Quod etiam 

sequatur ipsam substare omnibus corporibus, quod sequi etiam 

ex condusione dicebatur, sic declaro: Potissima virtus potissime 

attingit finem, nam per hoc potissima est, quod citissime ac 

facillime finem consequi potest: potissima virtus gravitatis est in 

corpore potissime petente centrum, quod quidem est terra, ergo 

ipsa potissime attingit finem gravitatis, qui est centrum mundi; 

ergo substabit omnibus corporibus, si potissime petit centrum; 

quod erat secundo declarandum. Sic igitur apparet esse 

impossibile quod aqua sit concentrics terre; quod est contra 

determinata.


ここから次のことは明らかである。等しく中心に向かう土が、周囲におい

て、その中心から多様なかたちで、あるいは等しくないかたちで離れてい

るということはありえない。したがってそれに反すること、すなわち離れ

ているならば等しく離れていることが必要となる。このように、等しく離

れているという部分に関して、結論は明らかである。加えて、そこから土

があらゆる物体の下に位置していることも導かれる。そのことも、その結

論から導かれると言われていたが、これについては次のように述べておこ

う。最も強い潜在力は、最も確実に目的に達するものである。ここで土が

最も強い潜在力をもつことから、それは最も速く、また最も容易に目的に

達することが導かれうる。最も強い重力は、最も強く中心に向かう物体の

もとにあり、それは土であることから、それは重力の目的、つまり世界の

中心に最も確実に達することになる。したがって、それが最も強く中心に

向かうのであるなら、それはあらゆる物体の下にあることになる。それは

第二の議論で示されたことにほかならない。したがってこのように、水が

土と同心円的でありえないのは明らかである。それは立証されたことに反

するのである。


[XVII]. Sed ista ratio non videtur demonstrare, quia proposito 

maior principalis sillogismi non videtur habere necessitatem. 

Dicebatur enim 'gravissimum corpus equaliter undique ac 

potissime petit centrum'; quod non videtur esse necessarium; 

quia, licet terra sit gravissimum corpus comparatum ad alia 

corpora, comparatum tamen in se, secundum suas partes, potest 

esse gravissimum et non gravissimum, quia potest esse gravior 

terra ex una parte quam ex altera. Nam cum adequatio corporis 

gravis non fiat per quantitatem, in quantum quantitas, sed per 

pondus, poterit ibi esse adequatio ponderis, cum non sit ibi 

adequatio quantitatis; et sic illa demonstratio est; apparens et non 

existens.


17. しかしながら、その理路は立証されているようには思われない。なぜ

なら、主たる三段論法の大前提は必然性を伴っていないように思えるから

だ。「最も重い物体は、どこでも同じく、また最大限の力で中心に向か

う」と言われたわけだが、それは必然であるとは思えない。土は、ほかの

物体に比べて最も重い物体であるとしても、土同士、その部分同士で比較

するなら、最も重かったりそうでなかったりするためである。なぜかとい

うと、一部分が他の部分よりも重い土がありうるからである。一方で、重

い物体の均衡化は数量的に、なんらかの量においてなされるのではなく、

重さによってなされるのであるから、ここでは数量による均衡化をともな

わずに重さの均衡化がなされることもありうるであろう。このように、そ

の論証は見せかけであって実質的なものではない。



前回も触れたように、第16節は想定された異論です。異論は、土と水が

同心円的でないということを論証しようとしています。この異論でまず注

目されるのは、物体が中心を求める(中心に向かう)という世界観でしょ

うか。物体にそうした志向性があるという話ですね。元素の上昇・下降な

どの話で援用されるこの考え方は、中世において広く共有されていたよう

です。独訳注によると、おおもとの典拠はアリストテレス『天空論』第四

巻(310b15 - 312a21)で、物体が本来的に有する復元力(治癒力)に

ついて論じている箇所です。そうした力は物体ごとの性質によって決まっ

ており、軽いものは上へ、重いものは下へ向かうとされるのですね。


ただ、そこでは物体が中心に向かうという話にはなっていません。そちら

は同じく『天空論』第二巻(297a27 - b7)が典拠とされています。そ

こでは、たとえば同一の物体に重さの大小が生じるような場合に、それら

の差が解消される中間点で均衡するまでその物体は押される(内的に)と

され、土の圏(球)が場所によって重さが違う場合、その中心とされる部

分は本来あるべき中心にないことになり、それらが均衡するところ(それ

が本来あるべき中心なわけです)まで圏全体が動くことになるとされてい

ます。異論の側はこれを論拠に、水と土の圏の中心がずれているのは十分

にありうるとしているわけです。土に起伏がありうることを認めず、「土

の圏も均一な円をなしていて、起伏があるように見えるのは中心がずれて

いるからだ」としたいわけですね。


ここで想定されている話は一種の思考実験なので、例で挙げられているス

タディオンという単位そのものにはあまり意味はありませんが、古代のア

テナイでは1スタディオンは607フィート、185mだったとされていま

す。20スタディオンといえば3.7キロということですね。ちなみに当時

(中世のころ)の計算では、地球の周囲は3万2千キロ強、直径は1万キロ

ちょっとくらいとされていたようです(今ならば周囲は4万キロ、直径は

1万3000キロ弱とされていますね)。


最も強い潜在力が最も確実に目的に達するというテーゼは、アリストテレ

ス『自然学』第七巻3章(246a10 - 17)が大元とされていますが、中世

に流布していたのはその注釈のほうで、様々な論者が解釈を施していたよ

うです。独訳注はトマス・アクィナスやアルベルトゥス・マグナスを引用

しています。「完全になったものはその潜在力を最大限発揮する」という

内容です。


異論に対する応答となる第17節では、直前の議論に疑義を呈していま

す。土の球は必ずしも各部で均一の重さをもっていない(密度などが違

う?)のだから、全体の数量が均衡する点に中心が来るように全体を移動

させたとしても、それで重さの均衡する点が中心になるわけではない、と

いう反論ですね。


最後のところのapparens et non existensのところは、このテキストで

はapparensの直前にセミコロンが入っているのですが、羅独対訳本のテ

キストにはありません。独訳注に示されていますが、意味的にはセミコロ

ンを入れずに、その句をdemonstratioの述語と取るほうが自然な気もし

ます。ここではセミコロンなしのように訳出しました。apparens et 

non existensは詭弁を定義づけるような文脈で使われることが多いよう

で、独訳注では論理学綱要で知られるペトルス・ヒスパヌスからの引用

(「詭弁的三段論法とは、見かけだけで実質のない三段論法のことであ

る」)が紹介されています。


異論への応答は次の節でも続きます。それはまた次回に。

(続く)



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