silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.362 2018/09/22

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その12)


引き続きオリヴィによる天使の場所論について、アンソロジー本の解説序

文の記述を見ていきましょう。前回は、被造物を特徴付ける三つの関係性

(現前、行為、運動)から、まずは現前の関係、つまり事物が他の事物に

対してもつ補完の関係についての考察でした。オリヴィは、事物の現前の

仕方を完成形へのプロセスと捉え、個々の事物は完成にいたるために他の

事物を必要とするとして、各々の事物が場所に位置付けられることの理由

としていたのでした。今回は残る二つの関係性から、オリヴィが天使など

霊的存在の場所への位置付けを正当化する理由を見ていきます。


まずは「行為」です。この関係性においてオリヴィは、重要概念である

「注視(aspectus)」を取り上げます。これは、各々の主体がその対象

と結ぶ意志的な関係です。主体は対象を知ったり、望んだり、対象に働き

かけたりし、対象に向けたなんらかの行為をなします。意志的な関係と

は、そういう行為の対象に据える関係を言うのですね。その関係性にあっ

ては、主体と対象とがともに現前していることが前提となります。そして

その現前は、任意の場所で生じるのでなくはなりません。


天使のような霊的実体の場合でも、対象との関係は、まずはその対象が注

視できなければ始まりません。そのことがすでにして、天使を場所的に決

定付けていることになります。注視がなされるためには、対象がある場所

に、その主体(ここでは天使)もまた現前していなくてはならない、とい

うわけです。その意味で、場所への位置付けは、主体になりうる被造物が

本質的にもつ属性だということにもなります。


働きかけるには、作用主と対象とが近接した場所にいなければならない、

というこの前提から、オリヴィは天使が離れた場所から働きかけることが

できるとする主張(トマスなどの)を、改めて一蹴します。離れた場所か

ら働きかけができるのは神のみとされ、近接性の条件は、被造物に内在す

る制限でもあることがわかります。ですがオリヴィは、そこに制限のみを

見るのではなく、むしろ働きかけの自由という側面に重きを置いているよ

うなのです。


そのことは、もう一つの「運動」の関係性からいっそう明らかです。オリ

ヴィはまず、被造物はそれぞれの序列に応じて、任意の場所に行く、ある

いは遠ざかる、近づくなどの移動の自由を備えていると考えます。また、

ある場所から別の場所に移動するためには、まず最初の場所にその被造物

が現前していなくてはならず、またそれが二番目の場所から任意の距離だ

け離れていなければならない、と考えます。さらに、移動が生じるために

は、目標に向かうという意味での意図も必要になってきます。


動体が任意の場所へと移動するには、移動先へと「向けられ導かれる」

(意志と自由でもって)必要があるというのですね。この前提は、そのま

ま天使にも当てはめられます。天使が場所を移動できるためには、まずは

天使が場所に位置付けられている必要があります。オリヴィからすれば、

場所に在るということは、移動する自由の前提条件です。それは決して制

限だけでしかないのではありません。時空間への位置付けは、知的被造物

にとっての高貴さを特徴付けるものだ、とオリヴィは考えているようで

す。このあたり、オリヴィの革新性・先進性が感じ取れる部分かもしれま

せん。


このように、オリヴィの場合、場所への位置付けは被造物にとって三重に

本質的なことであり、偶有的なものではとうていありえないことになりま

す。さらにそのことは、被造物が外界に対してもつ関係性という本質に根

ざすものとされて、単なる場所論を越え出ています。単なる場所論である

なら、たとえば運動の距離などの問題は数量的に表されなくてはなりませ

んが、オリヴィは天使の場合についての距離というのは、「霊的」もしく

は「知的」数量であるとして、ここに独自の数量概念さえ導入しているよ

うです。この別様な数量概念がどういうものなのか、少し探ってみたいと

ころです。


また、解説序文によれば、この天使の位置付け問題に関連して、オリヴィ

は物体破壊問題を取り上げているといいます。これは何かというと、全能

の神が天上世界と霊的被造物のみを残し、月下世界の物質をすべて破壊し

たとしたらどうなるだろうかという思考実験です。言い換えると、物質世

界がすべて空になってしまったら、それでもなお天使は物理的空間に位置

付けられるのだろうか、という問いです。位置の限定がどれほどの射程を

もつかという問題の検討になることから、中世盛期以降、多くの論者がこ

の物体破壊問題を考察していたといいます。で、オリヴィはこれについ

て、物体がなくなっても、霊的被造物は物理空間に位置付けられる、と考

えていたようです。場所への位置付けは、身体に作用する外的な因果関係

によるものなどではなく、被造物の本質に内在するものだからです。これ

は、場所への位置付けをあくまで物質的な身体の問題としていたアリスト

テレスの議論からも離れた、オリヴィ独自の考え方です。アリストテレス

からのそうした離脱は、オリヴィにおいては被造物の場所への関係が、完

全に本質化・内在化されていたことの証しであると、解説序文は結んでい

ます。


今回はちょっと解説序文を見るだけで長くなってしまいました。オリヴィ

のテキストを見ていくのは次回にしたいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その12)


ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。今

回は第21節になります。作用因についての考察が続いています。さっそ

く見ていきましょう。例によって適宜段落分けをしています。



[XXI]. Hec eadem ratio removet ab huiusmodi causalitate omnes 

orbes planetarum. Et cum primum mobile, scilicet spera nona, sit 

uniforme per totum et per consequens uniformiter per totum 

virtuatum, non est ratio quia magis ab ista parte quam ab alia 

elevasset. Cum igitur non sint plura corpora mobilia, preter celum 

stellatum, quod est octava spera, necesse est hunc effectum in 

ipsum reduci. Ad cuius evidentiam sciendum quod, licet celum 

stellatum habeat unitatem in substantia, habet tamen 

multiplicitatem in virtute, propter quod oportuit habere 

diversitatem illam in partibus quam videmus, ut per organa 

diversa virtutes diversas influeret, et qui hec non advertit extra 

limitem phylosophie se esse cognoscat. 


21. この同じ考え方によって、すべての惑星軌道が原因から除去される。

また、第一の動体、すなわち第九の天球は、すべてにおいて均質であり、

結果的にすべてにおいて均一な力をもっており、一部を他の部分よりもせ

り上がらせる理由はない。このように恒星天、すなわち第八の天球を除

き、それ以上の動体はないのであるから、せり上がりの結果はその第八天

に帰されなくてはならない。これを明確にするためには、恒星天が実体に

おいて一つであること、しかしながら力においては多様性があることを知

らなくてはならない。それゆえに、多様な器官によって多様な力が作用す

るよう、私たちが目にする部分においても多様性がなくてはならないので

ある。そのことを見据えようとしない者は、おのれが哲学の領域の外にい

ることを認識することになるのである。


Videmus in eo differentiam in magnitudine stellarum et in luce, in 

figuris et ymaginibus constellationum, que quidem differentie 

frustra esse non possunt ut manifestissimum esse debet 

omnibus in phylosophia nutritis. Unde alia est virtus huius stelle et 

illius, et alia huius constellationis et illius, et alia virtus stellarum 

que sunt citra equinoctialem, et alia earum que sunt ultra. Unde 

cum vuItus inferiores sint similes vultibus superioribus ut 

Ptolomeus dicit, consequens est quod, cum iste effectus non 

possit reduci nisi in celum stellatum ut visum est, quod similitudo 

virtualis agentis consistat in illa regione celi que operit hanc 

terram detectam. 


私たちはその恒星天において、星々の大きさや光、星座における像やかた

ちの違いを目にするが、哲学で育まれた人々にとってはこの上なく明らか

なように、そうした違いは無意味ではありえない。したがって、こちらの

星とあちらの星では力は異なるし、こちらの星座とあちらの星座も同様で

ある。また分点のこちら側の星と向こう側の星でも力は異なる。ゆえに、

プトレマイオスが述べるように、下位のものの様相も上位のものの様相と

同様であることから、先に見たようにしかじかの効果は恒星天に帰す以外

にないのだから、作用体の同質性は、むき出しの土を生じさせる天の一領

域に存するのである。


Et cum ista terra detecta extendatur a linea equinoctiali usque ad 

lineam quam describit polus zodiaci circa polum mundi, ut 

superius dictum est, manifestum est quod virtus elevans est illis 

stellis que sunt in regione celi istis duobus circulis contenta, sive 

elevet per modum attractionis, ut magnes attrahit ferrum, sive per 

modum pulsionis, generando vapores pellentes, ut in 

particularibus montuositatibus. Sed nunc queritur: Cum illa regio 

celi circulariter feratur, quare illa elevatio non fuit circularis? Et 

respondeo quod ideo non fuit circularis, quia materia non 

sufficiebat ad tantam elevationem. 


また、先に述べたように、むき出しの土は分点の線から、世界の軸の周囲

に獣帯の軸が描き出す線にまで拡がることから、次のことは明らかであ

る。せり上げの力は、それら二つの円周に含まれる天球の一領域にある星

のものであり、磁石が鉄を引き寄せるように、誘引によってせり上げる

か、あるいは特定の山々に見られるように、蒸気を発する衝撃で押し上げ

るかである。だがここで次のことが問われる。その天の領域は周回的に動

いているのに、なぜせり上がりは周回的ではなかったのだろうか。これに

は次のように答えなくてはならない。それが周回的でなかったのは、質料

がそれほどのせり上がりに十分適していなかったからなのである。


Sed tunc arguetur magis, et queretur: Quare potius elevatio 

emisperialis fuit ab ista parte quam ab alia? Et ad hoc est 

dicendum, sicut dicit Phylosophus in secundo De Celo, cum querit 

quare celum movetur ab oriente in occidentem et non e converso; 

ibi enim dicit quod consimiles questiones vel a multa stultitia vel a 

multa presumptione procedunt, propterea quod sunt supra 

intellectum nostrum. Et ideo dicendum ad hanc questionem, quod 

ille dispensator Deus gloriosus, qui dispensavit de situ polorum, 

de situ centri mundi, de distantia ultime circumferentie universi a 

centro eius, et de aliis consimilibus, hoc fecit tanquam melius, 

sicut et illa. Unde cum dixit: "Congregentur aque in locum unum, 

et appareat arida", simul et virtuatum est celum ad agendum, et 

terra potentiata ad patiendum.


だが、するとさらなる議論を呼び、次のように問われることになる。なぜ

半球のせり上がりは、こちらの部分(北半球)が向こうの部分(南半球)

よりも大きいのか、と。これに対しては、哲学者が『天空論』第二巻にお

いて、なぜ天球は東から西へと動き、その逆ではないのかと問うたときに

述べたのと同様に答えなくてはならない。哲学者はそこで、そのような疑

問は、多大な愚かしさからか、もしくは多大な推測から生じているのであ

る、なぜかというと、その疑問は私たちの知性を超えてしまっているから

だ、と述べている。したがってその疑問には次のように答えなくてはなら

ない。その分配者である栄光の神は、軸の位置や世界の中心の位置、中心

から最果ての円周までの距離、その他類似の事象を設定したわけだが、そ

れらのいずれも同様に、最良の形でなしたのである。だからこそ、神はこ

う述べたのだ。「水を一つの場所に集め、乾いた地を出現させよう」。そ

のとき、天球には作用する力が与えられ、土には作用を受ける潜在性が与

えられたのである。



最初の段落ですが、第九の天球というのは原動天とも言われ、ダンテにお

いては最上位の天球とされています。最上位なだけに、そこは最初の動体

とも見なされますが(天球として回っているからですね)、独訳注によれ

ば中は完全に透明であるとされ、ゆえにDiaphanumとも称されていると

いいます。他の天球を動かす光、つまり不動の動者(神)の座とも言われ

ています。その下に第八天があり、これが恒星天で、第一天から第七天ま

ではそれぞれの支配的な天体(月から土星まで)がありますが、第八天は

多様な天体が混在していることになります。


ここでの議論では、土の隆起の原因を月に求めるのは当たらないという前

の節の議論を受けて、第七天までの影響が同じ理由で斥けられています。

第九天も均質性ゆえに原因として除外され、残る第八天が隆起の原因の候

補として残ります。恒星天は様々な星に彩られていて、そうした多様性こ

そが地上世界の多様性を司るに相応しいではないか、というのが基本的な

含意になっているのですね。その意味で、第八天はまさに隆起の原因とし

ても相応しいということになるのでしょう。


二つめの段落の後半にはプトレマイオスへの言及がありますが、やはり独

訳注によれば、どうやらこれは天文学や占星術に関するプトレマイオスの

格言などを集めたとされる、偽プトレマイオス『百言集』

(Centiloquium)を参照しているらしいとのことです。これは10世紀ご

ろにアラブ世界でまとめられた格言集で、そこに、天上世界と地上世界と

の並行関係がはっきりと表明されているといいます。そんなわけで、ここ

でも土の隆起(むき出しの土)は、それに作用する恒星天の一領域(一区

画)によると説明されています。


第三段落では、隆起をもたらす具体的な力として、磁石のような誘引の

力、もしくは蒸気のような衝撃の力が挙げられています。いずれの力なの

かは判断を避けているようにも見えます。独訳注には出典として、前者で

はレストロ・ダレッツォ(13世紀のイタリアの神学者で『世界の構成』

の著者)、後者ではアルベルトゥス・マグヌスのアリストテレス注解や、

ピエトロ・ダーバノが挙げられています。また、マグヌスによる誘引力へ

の言及として、潮汐と月の関係の指摘箇所も挙げられています。後者の蒸

気の話は、アリストテレスにおいてはむしろ地震の原因として考えられて

いるようなのですが、これが流用されたかたちになっているようです。


なぜ土の隆起が周回的に起こらないのかという問題はなかなか面白いです

ね。ダンテは質料的な限界をもって答えていますが、続いて問われた北半

球と南半球の差の理由については、神の叡智ということで、不可知の領域

へと送り返してしまっています。これは当時の人々の限界でもあるわけで

すが、独訳注ではこれを、神が世界に据えたものには元素だけでなく秩序

もあり、ゆえに秩序を司る自然の法則には、哲学的に応答できるような基

盤というものがない、とコメントしています。つまりダンテのこの言は、

哲学と神学が接し、なおかつ明確に分かれる、重要な識域・臨界を示唆し

ている、ということです。なるほど確かに、ここに思考的枠組みの限界と

いうより、むしろ思考の領域的区分を読み取るほうが、思想史研究的には

生産性も高まるだろうと思われます。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は10月06日の予定です。


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