silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.363 2018/10/06

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その13)


今回からは、オリヴィのテキストを要約で見ていくことにします。対象と

するテキストは『命題集第二巻の諸問題』(Quaestiones in II Librum 

sententiarum)という注解書の、問題32「天使の実体は物体的場所にあ

るかどうか」(Quaestio XXXII, Primo quaeritur an substantia angeli 

sit in loco corporali)です。全体はそれなりに長く、また基本的には前

回までに解説序文で見た議論が展開されていますので、ここではそれに肉

付けするようなかたちで見ていくことにしたいと思います。とりわけ前回

出てきた「霊的・知的数量」の概念あたりが気になりますね。


オリヴィの議論はまず、天使が作用によってのみ(つまり本質によらず

に)場所に在るという議論と、天使がもとより(本質によって)場所に在

るという議論とを併記します。前者はもちろん否定されるべきものなので

すが、後者の陣営内においても、内部的に受け容れがたい異論を唱える

人々がいることを指摘しています。とくに取り上げられているそうした異

論とは、(1)天使が様々な種類に分かれることを理由とする(場所によ

って天使は区別されるという立場)もの、(2)最上位の天体もしくは物

体的宇宙にあらゆるものを内包する力がある(がゆえにすべては場所に位

置付けられる)と論じるもの、(3)天使が天空を飾っていることを理由

に場所が指定されているとするもの、(4)事物はすべて場所に依存して

いると論じるもの、の4つです。


オリヴィはそれらは馬鹿げていると断じています。まず(1)について

は、天使は自身の本質とその知的属性によって十分区別されるし、物体的

な場所の一性がそうした区別に影響することもないと反論しています。さ

らに、もし場所による区別を認めてしまうと、栄光の身体(復活後の身

体)が他の物質と同じ場所に共存することもできないことになってしまう

ではないか、あるいは共存するものが相互に陥入してしまうことになるで

はないか、と述べています。(2)についても、天体もしくは任意の物体

に、霊的な実体をも内包する力があるというのは不条理だとコメントして

います。形相的で上位にあるほど、下位のものを内包できるのだから、な

らば物体よりも上位(形相的)である霊的な実体のほうが、物体を内包す

ると考えるのが自然ではないか、というわけです。


同じような理由から、(3)もまた不条理だとオリヴィは言います。むし

ろ下位にある物体のほうが、天使のような知的な実体の装飾になるはずで

ある、というわけです。そして(4)についても、知的な実体が場所に依

存することはありえないと断じています。依存関係は、双方が互いに結合

するような場合を除き、因果関係に帰着するとオリヴィは言います。依存

される側は依存する側に対して、なんらかの原因性を行使しているという

のですね。でも場所と天使に関してそれはありえません(ついでに言う

と、もちろん結合もありえません)。さもないと、石の一部分が別の部分

に付随しているように、天使には場所が付随することになってしまう、と

オリヴィは述べています。


こうして、同じ本質的な場所論の内部に散見される異論を斥けたオリヴィ

は、続いて聖書と権威にもとづく正統な議論として、解説序文のところで

まとめられていた3つの秩序(現前、行為、運動)での議論を順に取り上

げていきます。1つめの「現前」でのポイントは、被造物同士は互いに現

前するか距離を取って離れているかしかなく、現前する場合には両者が共

存している(同じ場所で接している)ことになるということです。先に見

たように、被造物はそれぞれ現前の仕方を属性としてもっており、その意

味で相補的な関係を他の事物と結ぶことになるわけですね。それは天使も

同様だとされます。


2つめの「行為」では、これも前に見たように、被造物は、なんらかの対

象に働きかける以前に、まずは対象を「注視する」必要があり、天使にお

いてもそれは変わらず、そのためにまずはその対象が存在している場所

に、ともに在らねばならないということになります。そうでなければ、天

使は神にも等しい無限の力をもつことになってしまう、というわけです。

被造物の力は限定的であり、物体に働きかけるにはその物体のすぐそばに

いなくてはならないのですね。


この議論でちょっと面白いのは、オリヴィがここでも、「天使は本質的に

場所に在る」と論じる味方の陣営に、やはり受け容れがたい議論があると

して論駁を加えていることです。たとえば「存在は行為に先立つのだか

ら、天使が作用をなしうるには、まずは場所になくてはならない」という

推論を、オリヴィは「正しくない」推論と断じています。ある事物がおの

ずと他の事物に先行しているときに、その先行する事物をとりまく状況も

他の事物に先行していると推論するのは誤りだからです。生肉が焼いた肉

に先行するからといって、その焼いた肉をほおばるとき、口の中にまずは

生肉があり、次いで焼いた肉があるわけではないではないか、とオリヴィ

は言います(ある意味秀逸な喩えですね)。また、存在が行為に先行する

からといって、悪しき存在が悪しき行為に先行するわけではない、とも述

べています。


3つめの「運動」についても、解説序文で見たように、場所を自由に行き

来できるためには、そもそも場所になくてはならないという議論が展開し

ます。天使もまた、移動するためには最初の端(場所)を後にして、別の

端へと向かわなくてはなりません。オリヴィは、天使は光源が光をもたら

す場合のような「流入」の仕方では運動できないと述べたり、また天使が

場所に在るときには、場所を乗り越えてしまうような絶対的な存在様式を

捨てているのだという議論に反論したりしています。この後者の場合、そ

の理屈を認めてしまうと、天使が場所から場所へと移るときに、通常の意

味での移動をしているのか、いったん絶対的な存在様式にシフトし、また

そこから場所への存在様式に再シフトしているのかわからなくなってしま

います。ですが現象としては同じであることから、そんな存在様式のシフ

トなどは無駄な議論でしかありません(これなどはまさに、オッカムの剃

刀の適用ですね)。


このように、オリヴィは自説と同じような結論にいたる議論についても、

それらを注意深く吟味し、斥けるべきものは斥けるという姿勢を貫いてい

ます。逆に言えば、この当時、天使の場所への存在をめぐっては、実に多

様な諸説が乱立していたことを裏付けてもいることにもなりそうです。オ

リヴィはひたすら論理を武器に、乱立する諸家をなぎ倒していくかのよう

ですね。オリヴィの議論はまだまだ続きますが、それはまた次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その13)


ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。こ

のテキストもあと少しというところにまで来ました。今回は第22節と第

23節の前半です。分量的にはいつもより少なめになっています。第22節

は立論の締めくくりの部分、第23節の前半は、5つある異論のうち最初の

2つへの反論です。さっそく見ていきましょう。



[XXII]. Desinant ergo, desinant hornines querere que supra eos 

sunt, et querant usque quo possunt, ut trahant se ad inmortalia 

et divina pro posse, ac maiora se relinquant. Audiant amicum Iob 

dicentem: "Nunquid vestigia Dei comprehendes, et Omnipotentem 

usque ad perfectionem reperies?". Audiant Psalmistam dicentem: 

"Mirabilis facta est scientia tua ex me: confortata est, et non 

potero ad eam". Audiant Ysaiam dicentem: "Quam distant celi a 

terra, tantum distant vie mee a viis vestris"; loquebatur equidem in 

persona Dei ad hominem. Audiant vocem Apostoli ad Romanos: 

"O altitudo divitiarum scientie et sapientie Dei quam 

incomprehensibilia iudicia eius et investigabiles vie eius!". Et 

denique audiant propriam Creatoris vocem dicentis: "Quo ego 

vado, vos non potestis venire". Et hec sufficiant ad inquisitionem 

intente veritatis.


22. したがって、もうやめにしてもらいたいものだ。人々は自分たちを超

えたところのものの探求をやめにして、可能である限りにおいて探求する

のがよかろう。不死で神的な事象には可能な範囲で接近し、手に余るもの

からは身を引くのである。ヨブの友人の言を聞き入れてもらいたい。「神

の足跡を理解しているというのに、全能者を完全なまでに見いだそうとす

るのか?」。また詩編作者の言も聞いてもらいたい。「あなたの学識は私

からすると驚くほど素晴らしいものになり、強固なものにもなった。だが

私はそれに到達できないだろう」。イサイアの言も聞いてほしい。「天と

地がかけ離れているほどに、私の道とあなたがたの道もかけ離れてい

る」。彼はまさしく神の立場において人に対して述べていたのだ。ロマ人

への手紙での使徒の声も聞いてほしい。「おお、神の学識の豊かさ、そし

てその賢慮はかくも高貴なものであり、その考えはいかに不可解で、その

道はいかに計り知れないことか」。そして最後に、創造主みずからの言葉

を聞いてほしい。「私が行くところに、あなたがたは来られない」。以上

で、真理の熱心な探求には十分であろう。


[XXIII]. Hiis visis, facile est solvere ad argumenta que superius 

contra fiebant; quod quidem quinto proponebatur faciendum. 

Cum igitur dicebatur: 'Duarum circumferentiarum inequaliter a se 

distantium impossibile est idem esse centrum'; dico quod verum 

est, si circumferentie sunt regulares sine gibbo vel gibbis; et cum 

dicitur in minori quod circumferentia aque et circumferentia terre 

sunt huiusmodi, dico quod non est verum, nisi per gibbum qui est 

in terra, et ideo ratio non procedit. Ad secundum, cum dicebatur: 

'Nobiliori corpori debetur nobilior locus' dico quod verum est 

secundum propriam naturam, et concedo minorem; sed cum 

corncluditur quod ideo aqua debet esse in altiori loco, dico quod 

verum est secundum propriam naturam utriusque corporis, sed 

per superheminentem causam, ut superius dictum est, accidit in 

hac parte terram esse superiorem; et sic ratio deficiebat in prima 

propositione. (...)


23. 以上のことを見れば、先に反論として示した議論に対しても容易に解

決できる。それはなすべき5番目のこととして掲げたことである。「均一

ではないかたちで離れている二つの円周は、中心が同じではありえない」

と言われたのであれば、私は、円周に一つないし複数のコブもなく、規則

的であるならば、それは真であると述べよう。しかしながら小前提におい

て、水の円周と土の円周とがそのようなものであると言われたのであれ

ば、私は、土にコブがある限りにおいてそれは真ではなく、したがって議

論は成り立たないと述べよう。次に2つめの異論に対してだが、「より高

貴な物体にはより高貴な場所が与えられなくてはならない」と述べられた

ならば、私は、自然の属性によればそれは真だと述べて、小前提について

も譲歩しよう。だが、ゆえに水は高いところになければならないと結論づ

けるならば、私は、両方の物体の自然の属性に従うならそれは真である

が、先に述べたように、より上位に位置付けられる原因によりその土の一

部が上にくるのであり、このようにその議論は最初の命題に欠陥があった

のである、と述べよう。(……)



以前読んだ第9節に、このテキスト全体の議論の流れが示されていまし

た。それは(1)水がむき出しの土より高い位置にあることはありえない

という議論、(2)むき出しの土はどこをとっても海面より上にあること

の論証、(3)反論への論駁、(4)土の隆起の目的因と作用因、(5)一

番最初に示された諸論への反論、となっていました。前回の第21節が

(4)にあたり、今回前半のみを見る第23節が(5)に相当します。第22

節は立論を高らかに締めくくる、いわば「キメ」の一節ですね。内容的に

は、前の節の最後の部分を受けるかたちで、神学と哲学との峻別を改めて

提唱しています。


神学と哲学の峻別という発想の大元は、聖書にある「神のものは神へ、皇

帝のものは皇帝へ」という一文だと思われます。14世紀当時には、教会

権力と世俗の権力との分離の文脈で、その一文はしばしば援用されていま

した。フィレンツェは両陣営の権力抗争の舞台ともなっていたのでした。

以前本メルマガで取り上げたこともありましたが、ダンテの帝政論の基調

は、両者の分離にこそ平和の鍵があるとするものでした。それとパラレル

なかたちで、本テキストでも論争を鎮めるための鍵として、神学と哲学の

領域的区分を明確にすることが提唱されていると見ることができるでしょ

う。ちなみに『帝政論』は、今年の初めごろに中公文庫(小林公訳)で邦

訳が出ています。


第22節はまた、これまでの淡々とした記述から一転して、人々への呼び

かけというかたちでレトリカルな表現になってもいます。このあたりに、

そうした峻別の必要を訴えるダンテの思い入れというか、ヴィヴィッドな

筆致が感じられるようにも思えます。新約・旧約の聖書からの引用も詩的

な雰囲気を醸しだしており、そのあたり、詩人としてのダンテの面目躍如

というところかもしれません。


第23節では、テキスト冒頭に掲げられていた諸論への反論がまとめられ

ています。1つめの異論は冒頭の第3節で、また2つめは第4節で示された

ものです。第23節でのダンテは、詳細を反復することはせず、これまで

の見解をもとに、ごく簡潔に受け答えを記すにとどめています。独訳注で

も指摘されていますが、ダンテにおいて自然の属性は、全体的なものと個

別のものとが区別され、実際の現象は両者の混成という形で議論されてい

ます。つまり、全体的に見るならば水の球は土の球の上にあるとされるの

ですが、別筋の原因(個別的原因)によって場所により土は水の上にせり

出ていると見なされます。全体的な原理と、それからすれば特殊とも言え

る現象とが、それぞれ救済されるという寸法です。


次回はいよいよこのテキストの最後の部分となります。どうぞお楽しみ

に。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は10月20日の予定です。


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