silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.366 2018/11/17

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------文献探索シリーズ------------------------

一神教にとっての預言とは(その1)


今回このシリーズでは、中東世界の文献を取り上げてみたいと思います。

中東世界にとっての預言とはどういうものだったのかを見ていきます。こ

れはある意味、混迷する現代の宗教的事象にとっても重要な論点だと思わ

れます。中東は昔から、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の三大一神教

がせめぎ合う土地で、相手に対する批判的な文章というものも、それぞれ

の陣営にそれなりに存在していたことが窺えます。今回眺めていくのは、

13世紀のイブン・カムーナ(Ibn Kammuna)という、いわゆる東方の

イスラム世界では名の知れた、当時としてはそれなりに影響力の大きかっ

た哲学者が著した、『三大一神教の批判的検討』というものものです。こ

こでは仏訳版(Ibn Kammuna, ”Examen de la critique des trois 

religions monotheiste", trad. Simon Bellahsen, <<Sic et Non>>, J. 

Vrin, 2012 )を要約していきたいと思います。


今回はまず、テキストに先立つ解説序文から見てみましょう。イブン・カ

ムーナは13世紀のヘブライの学者ですが、その著書が西欧において見い

だされたのは17世紀になってからで、学術的な研究が始まったのは19世

紀からでした。20世紀になってやっと文献研究が行われるようになりま

すが、西欧に現存する文献しか事実上扱っておらず、イラン、イラク、ト

ルコなどに眠る史料は長い間手つかずだったようです。


カムーナの生涯については、自著なども含め、いくつか言及している文献

があるようですが、基本的には詳しいことはわかっていないようです。こ

れまでに復元されているところでは、カムーナは人生の多くの時間をバグ

ダードで過ごしていたといい、その著書からはヘブライ語とユダヤ教、さ

らにはイスラム教の文学についても豊かな学識をもっていたことが窺える

とされます。哲学に関しては独学であるということを、自著に記している

のだとか。一方で、13世紀当時の知識人たちとの交流も盛んに行ってい

た様子が、書簡などから窺えるのですね。博学を思わせる著書を多く著し

ているらしいカムーナですが、教師であったという記述などはないよう

で、むしろ国の行政官のような職務に就いていた可能性があるといいま

す。


ここで見ていく著書『三大一神教の批判的検討』は、1280年にバグダー

ドで書かれたものです(テキストにその旨が記されています)。原文はヘ

ブライ語で、ヘブライ文字で記されているといいます。これはいわば一神

教をなす三大宗教の比較論なのですが、扱われている題材は預言をめぐる

問題です。この書は、書かれてから4年後の1284年に、バグダードでイ

スラム教徒たちの反感が一気に高まったといいます。直接的なきっかけは

不明ですが、ある逸名著者の文献によれば、著者を殺害しようとする民衆

が自宅にまで押し寄せたとされます。この事件をめぐっては、行政ばかり

か当時の博士たちをも巻き込み、結果的にカムーナを火刑に処すという長

官命令が出されます。当のカムーナは皮のケースに身を隠して、息子が公

務についていたヒッラの町に逃れ、そこでしばらく暮らした後、同年

(1284年)没したとされています。傍証的な史料がないため、この一連

の話の真偽は不明とか。


解説序文では、カムーナの基本的な思想についてもまとめられています。

それによると、哲学者としてのカムーナはアヴィセンナの弟子筋というこ

とのようで、とくにカムーナが考えるコスモロジーにそれが顕著だといい

ます。一者(神)が必然的存在であり、それ以外の存在者が偶有的である

という考え方もアヴィセンナから受け継いだものとされますし、『三大一

神教の批判的検討』に見られる預言についての考え方もそうだといいま

す。ただ、なんでもアヴィセンナを踏襲しているかというと、そうでもな

いようで、たとえば霊魂論においては、身体が出来上がるときに理性的魂

が定着するという考え方を拒み、魂はもとより永劫的でなければならない

という説を唱えています。魂は単純であり、時とともに生成していくもの

はすべて複合的なのだから、理性的魂も、もとからあるのでなくてはなら

ない、というわけです。


アヴィセンナに大筋では準拠しつつも、カムーナは大元のアリストテレス

を批判していたりもするといいます。その背景には、アリストテレス批判

者として有名だった二人の論者、アブル=バラカット・アル=バグダディ

(12世紀のバグダードの哲学者で、ユダヤ教からイスラム教に改宗した

人物です)と、12世紀イランの照明派の開祖スフラワルディからの影響

があったとされます。とはいえ、カムーナの思想はそれらととくに一致し

ているわけでもないようです。カムーナの独創とされる上の霊魂論の考え

方がやはり最たるもののようで、同じく親しんでいたとされるガッザーリ

ーやアル=ラーズィーの思想についても、自説に反する考え方をカムーナ

はすべて斥けているといいます。


解説序文はさらに、カムーナの後世への影響などについても触れています

が、それはまた後で取り上げることにしましょう。とりあえず次回から、

そのテキストを要約していきたいと思います。中世イスラム世界に流布し

ていた、アヴィセンナ(偽)による預言についての議論も随時、参考とし

て見ていければと思っています。お楽しみに。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その1)


前回予告しましたように、ここではダンテの『俗語論』を読んでいきたい

と思います。底本とするのは、ネットで公開されているテキスト

(http://www.thelatinlibrary.com/dante/vulgar.shtml)ですが、これ

までと同様、羅独対訳版(Dante Alighieri, "De vulgari eloquentia I - 

Uber dke Beredsamkeit in der Volkssprache", Ubersetzt : Francis 

Cheneval, Felix Meiner Verlag, 2007)も参照していきたいと思いま

す。


今回は第一回目なので、まずその『俗語論』はどういうものなのか、とい

うことに触れておきたいと思います。これについてはネット上に大変参考

になる論考が公開されていますので、それを眺めるのが手っ取り早いと思

います。そんなわけで、いつもとは逆ですが、まずは論文を見ることから

始めたいと思います。糟谷啓介「イタリアの「言語問題」における言語と

文体の概念ーーダンテ『俗語論』はどのように読まれたか」(『言語社

会』10, 2016, http://doi.org/10.15057/28136)というものです。


まずはその『俗語論』のアウトラインが示されます。ダンテは、生まれな

がらにして人が覚える自然な「俗語」と、文法として人為的に作られた二

次的な言語こと「ラテン語」を比較して、俗語のほうが高貴だというテー

ゼを提示します。自然なもののほうが上だというテーゼですが、これは神

学を背景としており、観察にもとづく見解ではありません。ですが同時に

ダンテは、自然な言語が多様化し乱立する状況を前に、不変とされる文法

(すなわちラテン語)を掲げる必要性も認めているのでした。


ここからダンテは、様々な俗語をめぐってそれぞれを検討する際の基本的

立場として、文法(ラテン語)にどれだけ近いかという観点から論じてい

くことになります。ラテン語はやはり、ダンテにおいてはその修辞的・美

的な優位性を誇っているものとされます。俗語の優位性はあくまで神学的

な論拠にもとづく優位性でしかなく、かたや修辞的な論拠にもとづく優位

性を保つのがラテン語ということになるのでしょうか。詩作などのような

人為的・技芸的な実践においては、ラテン語が規範であることは揺るがな

いのですね。


とするならば、俗語がラテン語的な表現力・規則性などを獲得しさえすれ

ば、それは高貴な言語にもなりうることになります。ダンテはその理想型

を「高貴な俗語」として掲げます。ダンテの場合、そうした理想的な俗語

は、単に言語としての高貴さにのみとどまってはいません。それはすぐさ

ま、政治的な色合いをも色濃く帯びていきます。というのもダンテは、イ

タリアに宮廷があったとしたら、その宮廷で使われてしかるべきはそうし

た高貴な俗語だ、と主張するからです。これはダンテが身を置いていた、

教皇に敵対する皇帝派の議論にも重なってきます。ダンテのこうした言語

論について、同論考は、「政治的分裂を超えた次元でイタリアの言語的共

同体を打ち立てようとする試み」だったと評しています。


『俗語論』のこうしたアウトラインに続いて、同論考はその後の受容へと

踏み込んでいきます。それによると『俗語論』は、当初北イタリアで流布

したものの、さしたる評価は得られず、15世紀まではほとんど忘れられ

た著書だったようです。ところが16世紀になって、パドヴァで写本が発

見されたことをきっかけに(トリッシーノという文学者がその発見者でし

た)、歴史的論争(言語問題)を巻き起こすことになります。


同論考によると、15世紀の言語状況は、ラテン語と俗語とがともに使わ

れるようになり、「一種の並行関係」になるにまでいたっていたといいま

す。ここから、俗語に古典語の規範を機械的に持ち込む立場と、俗語はそ

れ独自の規範を確立すべきだという立場とがともに台頭し、対立するよう

になっていきます。こうして、俗語における規範はどうあるべきかという

論争が巻き起こります。ここでの俗語はあくまでイタリア語なのですが、

これはフレンツェの威信をかけた戦いの様相を呈していきます。1300年

代以来のフィレンツェの文学の伝統と、現実的なフィレンツェの文化的威

信の後退などが絡んで、話はややこしくなっていくのですね。1300年代

のフィレンツェの文学語こそ規範だという人々もいれば、教養人が用いる

宮廷語・共通語が規範だとする立場もあり、またフィレンツェの口語の慣

用を規範とする論者などもいて、一種の乱立状態になっていたようなので

す。面白いことに、ダンテ自身は、上のラテン語との近さという点から、

フレンツェ語よりもむしろボローニャ語を評価していました。


さて、話は『俗語論』がその言語問題で果たした役割に及びます。写本発

見者のトリッシーノは同書を周囲の文学者たち、あるいはフィレンツェの

文学サークルに伝え広め、イタリア語訳まで刊行する熱の入れようでし

た。トリッシーノが俗語の正書法の改革まで訴えたために、反響に加えて

反発をも呼ぶことになったようです。トリッシーノの『俗語論』解釈に

は、やや過剰にすぎる部分もあったようです。ダンテが、自分の使う言語

を「イタリア語」として認識していた云々といったトリッシーノの主張

は、やや誇張された解釈のようにも見受けられます。実際のところはどう

だったのでしょうか。ダンテは地域語をどう受け止め、どう高めようとし

ていたのでしょうか。この論考によれば、トリッシーノ本人は、「イタリ

アのすべての言語のなかから選別された要素からなる共通語」を理想とす

る「共通語論者」だったようですが、ダンテは果たしてそのように考えて

いたのでしょうか。


論考はこの後、トリッシーノに対するマキャベッリの応答・批判を検討し

ています。マキャベッリは、共通語と地域語との差は相対的なものでしか

ないという議論を示し、ダンテが用いていた言語は、どんなに外部的な要

素があるとしても、フィレンツェ語であることには変わりがない、と主張

していたといいます。もはや中世のように神学的な基盤をもたない「共通

語」「地域語」の区別にあって、マキャベッリは事実上きっぱりと、厳密

な共通語というものは存在しないと主張しているのですね。こうした経緯

もあって、ダンテの『俗語論』は「反フィレンツェ」の書と烙印を押され

(?)、つまりは「反メディチ家」を標榜する「不穏な書物」として扱わ

れるようになったのだとか。ダンテの意図とはまったく異なる政治的文脈

で、同書は翻弄されていったのですね。


以上、導入の意味合いも込めて、『俗語論』の再評価と受容についての一

論考を見てみました。そこでの論点を確認しながら、また別筋の問題系は

ないかと探りながら、次回から『俗語論』のテキストそのものを眺めてい

くことにします。お楽しみに。

(続く)



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