silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.367 2018/12/01

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------文献探索シリーズ------------------------

一神教にとっての預言とは(その2)


『三大一神教の批判的検証』を扱うこの連載、前回は著者イブン・カムー

ナについて、底本としている仏訳の解説序文から著者とその思想の概要を

まとめてみました。今回からは本文を見ていきたいと思います。全体に先

立って、冒頭にまずは短い献辞もしくは序文がついています。そこでは神

への感謝と、執筆動機、全体の構成について触れています。それによると

カムーナが同書を著したのは、執筆当時の論争を受けてのことだとされて

います。具体的にどういうものなのかは明言されていません。


本文は全部で4つの章に分かれています。第一章「預言の真の性質」、第

二章「モーセの預言に関するユダヤ教の証拠」、第三章「キリスト教の教

義の概要」、第四章「イスラム教の教義の概要」です。第一章が見るから

に総論で、残る三つの章が各論ということになるのでしょう。カムーナは

これを年代順(各宗教の成立年代ということです)に記したと述べ、それ

ぞれの宗教の信仰箇条を取り上げる(ただし服従の義務には立ち入らない

ので不完全だとの留保をつけています)としています。さらにそれぞれの

陣営における、創始者の預言の信憑性について肯定する議論を取り上げ、

さらにそれらへの反論と応答をも取り上げると記しています。


ではさっそく第一章から見ていくことにしましょう。カムーナはまず、人

間の成長の段階について語ります。人間は生まれながらにして知覚の機能

をもっているとされますが、それは直接的な感覚の域を出るものではあり

ません。最初にあるのはいわゆる五感です。感覚はそれぞれ閉じていて、

たとえば視覚が捉えたものは聴覚にとっては存在しないかのようだとされ

ます。ですがやがて人間は感覚を超えた段階に進みます。年齢で言えば7

歳ごろから、人は分別の段階へといたり、五感では開示されないものを掌

握するようになると述べています。やがてそれに知性の段階が続きます。

必然性や可能性、不可能性などの概念を理解するという段階です。


こうした発達の観点からすると、預言というものはさらにもう一つ上の段

階にあたる、とカムーナは言います。そこでは隠されたものが見えるよう

になり、未来のこと、過去のことなども分かるようになる、というのです

ね。預言は認識のヒエラルキーの頂点をなすという扱いです。このヒエラ

ルキーでは、上位のものは下位のものに働きかけることができますが、逆

は成り立たないとされます。五感が分別に対しては無力であり、分別が知

性に対して無力であるように、知性もまた預言に対しては無力なのだ、と

いうわけです。だからこそ、知的な合理主義者は、預言という与件を認め

ずそれを斥けるのだ、というのです。


次にカムーナは、預言には三つの属性(性質)があると述べます。一つめ

は、それが預言者の魂に内在する能力であるということです。その能力

は、物質的な実体やほかの魂に働きかけ、形相を取り除いては別の形相を

もたらしたりできるというのです。二つめは、それが預言者の魂の思弁的

能力に見いだされるということです。それはきわめて純粋になりうるがゆ

えに、分配者・贈与者(つまり神です)からの知識を受け止めることがで

きるとされます。三つめは、預言者が覚醒しているときでも眠っていると

きでも、隠された事象の知識を得ることができ、その現実を疑うこともな

いということです。想像力によって揺らぐことのない革新的な判断ができ

るというわけですね。


これらの属性のいずれを(あるいはいずれか二つ、あるいは三つとも)有

しているかは預言者によって異なるとされ、それぞれをどの程度有してい

るかも異なるといいます。その意味で、一口に「預言者」といっても、そ

の程度の差でかなりの振幅があるとされています。これはなかなか興味深

い指摘です。それこそが預言というものの真の属性なのだというのです

ね。


以上のことから明らかなのは、カムーナが預言というものを、一貫して心

的な能力として捉えているようだということです。人間的な成長において

開花する能力で、それは知性をも超えるものとされ、全体としてはごく限

られたエリートにしか宿らないものと見ているようです。しかも能力です

から個人差も大きく、一口に預言者といっても千差万別ということなので

しょう。


カムーナによれば、そもそも預言者というのは、神から発せられたメッセ

ージを担う人と定義されます。広義には、直接的に、もしくは天使などの

非人間的な仲介役を介して、神のメッセージが届く人を言い、より狭義に

は、神が人類をよりよいものにすべく語りかける、選抜された人物のこと

を言うとされます。掟の全体を託される預言者もいれば、そうではなく単

に民ないし個人が罰せられることを告げる者、これから起きること、ある

いは過去に起きたことを告げる者もいるという次第です。興味深いのは、

預言者に託されるのが未来ばかりか過去の事象もあるということですね。

個人が経験していない過去も、未来と同じく、不確定でおぼろげなもので

しかありませんが、それはまた、一方では現在を見直す重要な契機をな

す、ということなのでしょう。その意味でも、預言という「能力」は、知

性の先にあるものと位置付けられているのですね。


カムーナはこの後、預言の真実性をめぐる三つの見解を列挙していきま

す。それはまた次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その2)


ダンテの『俗語論』を読むシリーズです。前回は導入ということで、関係

した論文の中味を紹介しました。今回からはテキストを見ていきたいと思

います。毎度のことならが、粗訳御免ということでお願いいたします。さ

っそく第一章です。



I

1. Cum neminem ante nos de vulgaris eloquentie doctrina 

quicquam inveniamus tractasse, atque talem scilicet eloquentiam 

penitus omnibus necessariam videamus, cum ad eam non tantum 

viri sed etiam mulieres et parvuli nitantur, in quantum natura 

permictit, volentes discretionem aliqualiter lucidare illorum qui 

tanquam ceci ambulant per plateas, plerunque anteriora 

posteriora putantes, - Verbo aspirante de celis - locutioni 

vulgarium gentium prodesse temptabimus, non solum aquam 

nostri ingenii ad tantum poculum aurientes, sed, accipiendo vel 

compilando ab aliis, potiora miscentes, ut exinde potionare 

possimus dulcissimum ydromellum.


第一章 1. 私たちよりも前に、俗語の雄弁術についての教説を論じた者

は見いだせないが、そうしたなんらかの雄弁術は、誰にとっても絶対的に

必要であると思われる。なにしろ、自然が許す限りにおいて、男性ばかり

か女性や子どもも、そうした雄弁術を得ようと努力しているのだから。だ

からこそ、目が見えないかのように通りを歩き、多くの場合、前にあるも

のを後ろにあると見なす人々の判断を、少しばかり明確にしたいと思い、

天の御言葉の助力を得て、世俗の言葉を話す人々の役に立つことを試みる

次第である。ただし、私たちの才覚の水をかかる大きな杯に注ぎこむのみ

ならず、ほかの人々の言をも受け入れ、収集し、よりよく混ぜ合わせるこ

ととする。そこから甘美な蜂蜜酒を作り上げることができるように。


2. Sed quia unamquanque doctrinam oportet non probare, sed 

suum aperire subiectum, ut sciatur quid sit super quod illa 

versatur, dicimus, celeriter actendentes, quod vulgarem 

locutionem appellamus eam qua infantes assuefiunt ab 

assistentibus cum primitus distinguere voces incipiunt; vel, quod 

brevius dici potest, vulgarem locutionem asserimus quam sine 

omni regola nutricem imitantes accipimus.


2. しかしながらどの教義も、それが対象とするものを、ただ通用させる

のではなく明らかにし、何について論じているのかがわかるようにすべき

なのであるから、私たちはさっそくこう述べよう。私たちは、子どもが最

初に音の区別がつき始めると、周囲にいる人々を通じて慣れ親しんでいく

言葉を、俗語と呼ぶ。あるいはまた、より手短に言ってよければ、あらゆ

る規則なしに、乳母の真似をしながら学んでいくものを、私たちは俗語と

称する。


3. Est et inde alia locutio secondaria nobis, quam Romani 

gramaticam vocaverunt. Hanc quidem secundariam Greci habent 

et alii, sed non omnes: ad habitum vero huius pauci perveniunt, 

quia non nisi per spatium temporis et studii assiduitatem 

regulamur et doctrinamur in illa.


3. そのほかに、ローマ人たちが文法と呼んできた、私たちにとって別の

第二の言語も存在する。ギリシア人やその他の人々もそうした第二の言語

をもつが、誰もが使えるわけではない。それを使いこなせるようになるの

はごく少数にすぎない。というのも、長い時間と根気のいる学習があって

はじめて、その言葉の規則を身につけ、言葉を駆使することができるから

だ。


4. Harum quoque duarum nobilior est vulgaris: tum quia prima 

fuit humano generi usitata; tum quia totus orbis ipsa perfruitur, 

licet in diversas prolationes et vocabula sit divisa; tum quia 

naturalis est nobis, cum illa potius artificialis existat.


4, これら二つの言葉のうち、より高貴なのは俗語のほうである。なぜな

ら、そちらは人間一般が用いてきた言葉だからであり、また、たとえ発話

の方法や語彙はそれぞれ異なるにせよ、地上のあらゆる人々がそれを使い

こなせるからだ。さらに、そちらのほうが私たちにとって自然であり、も

う一つのほうはより人為的なものであるからだ。


5. Et de hac nobiliori nostra est intentio pertractare.


この、より高貴な言語が、私たちが考察しようと考えているものである。



第一章はいわば序論です。ここでは何を論じるのかが示されています。つ

まり議論の対象です。もちろんそれは俗語というわけなのですが、なぜそ

れを取り上げるかといえば、世俗語での雄弁術というものが是非とも必要

だとダンテは考えているからなのですね。そうした雄弁術の可能性につい

て、学識のない人々が誤ることのないようにと、その役に立つ議論を示そ

うというのです。


第1節の末尾に出てくるydromellusは、今風に記せばhydromelで、蜂蜜

酒を意味します。おのれの才覚の「水」を注ぐだけでなく、他の人々の言

をも合わせて、甘美な蜂蜜酒をしつらえる、という言い方が、なにやら印

象的ですね。第2節に出てくるsubjectusは、「支えるもの」(基礎)と

いう解釈もありうると思われますが、ここでは「その支配下にあるもの」

くらいの意味ととらえ、対象と訳出しています。あるいは主題と捉えるほ

うがよいのかもしれません。


第3節では、人為的な第二の言語の存在が示されています。ギリシア語に

おけるコイネー(共通語)、あるいはアラビア語のフスハー(もっぱら書

き言葉である共通語)などが念頭にあるのだと思われます。ローマ人が文

法と称したラテン語も、もっぱら書き言葉としてあるわけで、その習得に

は長い時間と根気が必要だとされています。


この第一章のハイライトは、なんといっても第4節の、高貴さでは俗語が

勝っていると主張する部分でしょう。ここでの俗語の高貴さは、それが人

間が全般的に用いている・使いこなせる点と、人為的でない自然なものだ

という点にあるとされています。そうではないもう一つのもの、つまり少

数の人々しか使いこなせず、人為的な面が強く出ているものよりも上位に

置かれるというわけなのですが、これはつまり自然イコール神の創造物、

人為イコール人間の工作物という対比です。前回の関連論文にもあったよ

うに、ここに見られる対比は神学的な自然観に根ざしているようです。第

1節に出てくる「Verbo aspirante de celis」(「天の御言葉の助力を得

て」と訳出しています)などは、当時の決まり文句のようでもあります

が、どこかそうした自然観にも関係していそうに見えてきます(というの

は考えすぎでしょうか……)。


今回はまだ序の口なので、あまりコメントもありませんが、このような感

じでぼちぼちと本文を眺めていきたいと思います。どうかお付き合いのほ

ど、お願いいたします。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は12月15日の予定です。


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