silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.368 2018/12/15

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*お知らせ

年末の慌ただしいなか、皆様いかがお過ごしでしょうか。本メルマガも本

号が年内の最後となります。今年もありがとうございました。例年通り、

本メルマガは年末年始をお休みとさせていただきますので、次回の発行は

年明けの1月12日を予定しています。少し早いですが、来年もどうぞよろ

しくお願いいたします。皆様、よいお年をお迎えください。



------文献探索シリーズ------------------------

一神教にとっての預言とは(その3)


イブン・カムーナ『三大一神教の批判的検証』の第一章を見ています。前

回の冒頭部分では、カムーナが預言というものを、個人の能力、それも感

覚や知性を超えた先の段階にある能力であると捉えていたことを見まし

た。今回はその続きです。預言者が本物であると認める人々には三種類の

見解がある、とカムーナは述べています。一つは、預言者には賢者という

条件は不要で、神の望む人物が選ばれるだけだとする考え方です。これか

らすると、賢者と無学者とか、若いか年寄りかといった差はまったく関係

なくなります。ある意味平等主義的な考え方といえるでしょう。


二つめは、預言者を人間本性の完成として捉える立場です。そのような完

成にいたるには、人間という種にとって潜在的であるものを、現実態にす

ることを学ばなくてはならないとされます。つまり預言者というものは、

完全な知性と徳を備えた、たぐいまれな優秀な人物だというのですね。で

すから預言者になる人物というのは、そのような才能が予めあって、しか

も預言者になるべく準備をしている人なのだとされます。エリート主義的

な考え方です。三つめは、預言者であるには優秀でしかも完全である必要

があるけれども、そのような素質がある人であっても、神の意志と決定に

よってはじめて預言者になれる、という立場です。上の二つの折衷案的な

考え方です。


ではカムーナ自身はどう考えているのでしょうか。まず彼は、預言者が受

け取るものには二つの部分があると考えます。その人物を完成にいたらし

める神からの霊感が一つ。そしてほかの人々に告げるよう促されるメッセ

ージがもう一つです。この後者については、たとえば賢者の中にも、人に

教えを与えることが得意でなかったり、できなかったりする者もいれば、

書物を記したり人に教えたりする必要を熱心に感じとる者もいるように、

預言者にも人々に告げようとする衝動がなければ、真理の伝達はなされな

いことになってしまいます。その意味で、伝達能力は賢者にも預言者にも

共通する、人間側の特性ということになります。というわけで、これは三

つめに近い考え方だといえそうです。


預言者が受け取る霊感(つまり上の前者の部分ですね)は、睡眠時か覚醒

時か、直接的に受け取るのか間接的に受け取るのかで4つに分類されます

(こうした細かい分類は、アリストテレス思想がその立脚点になっている

ことを印象づけますね)。また、それを人々に伝える際にも、それらの分

類のどれで受け取ったのかを告げることもあれば、告げないこともあり、

たとえ話で伝える場合もあるとされます。その預言者が霊感を、たとえ話

のかたちで受け取ることもあるといいます。その場合、預言者はそのたと

え話の意味を解釈して聞かせることになるわけですね。たとえ話の意味

は、預言者がビジョンを受け取るときに説明も受ける場合もあるとされま

す。その場合は、ちょうど夢を見た人が、目覚めてからその夢を解釈しつ

つ他人に聞かせるときのようなかたちになります。


一方、ビジョンそのものを受け取るときには説明がなされず、後になって

から預言者がその意図を知るという場合もあります。たとえば預言者が、

なにかの事物を見、その事物の名前から(あるいはその派生語や同義語な

どから)、霊感として受け取ったものの意図が預言者に伝わるといったよ

うな場合です。カムーナは、そうしたやり方がヘブライの一部の預言者に

見られると指摘しています。また、預言者が人々に告げる際の言葉に、メ

タファーや文彩などが散りばめられることで、それを解釈する人の側が誤

った解釈をしてしまう可能性もある、とも指摘されています。


続いてカムーナは、預言者と聖人について考察します。両者は互いに隣接

している存在だとされますが、一方で、すべての預言者は聖人だが、すべ

ての聖人は預言者とは限らないとされています。聖人の方が広いカテゴリ

ーをなしているのですね。預言者はまずもって言葉で伝え広める人です

が、ある種の聖人はむしろ行動によって、たとえば共同体を悪しき者たち

から守ったり、様々な人に善を広めたりする者とされます。同じ聖霊の助

けを借りるにしても、聖人はそれをもとに「行動する人」となるのです

ね。ですがその場合の聖人の姿勢は、預言者のそれに隣接している、とカ

ムーナは考えます。


聖人もまた、たとえば聖霊により、外部から突き動かされて言葉を発する

こともあります。そのような場合も、当然ながら預言の範疇に重なるとい

うことになります。聖人における聖性というのは実に多岐にわたるとカム

ーナは言いますが、以上二つの事例においては、預言とかなり大きく重な

り合うことが指摘されます。


続いてカムーナは、預言にも様々なレベルがあるとして、10段階に分類

してみせます。これについてはまた次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その3)


ダンテ『俗語論』を見ています。今回は第二章です。さっそく見ていきま

しょう。



II  1. Hec est nostra vera prima locutio. Non dico autem ‘nostra’ ut 

et aliam sit esse locutionem quam hominis: nam eorum que sunt 

omnium soli homini datum est loqui, cum solum sibi necessarium 

fuerit.

2. Non angelis, non inferioribus animalibus necessarium fuit loqui, 

sed nequicquam datum fuisset eis: quod nempe facere natura 

aborret.


第二章 1. それ(俗語)が私たちの真の最初の言葉である。ただし私

は、人間以外に言葉があるという意味で「私たちの」と言っているのでは

ない。あらゆるもののうちで、人間だけが言葉を与えられたのは、人間に

のみそれが必要だったからである。

2. 天使も、より下位の動物も、言葉の必要はなかった。それらのいずれ

に与えられても、無駄であっただろう。自然は明らかに無駄を嫌うのであ

る。


3. Si etenim perspicaciter consideramus quid cum loquimur 

intendamus, patet quod nichil aliud quam nostre mentis enucleare 

aliis conceptum. Cum igitur angeli ad pandendas gloriosas eorum 

conceptiones habeant promptissimam atque ineffabilem 

sufficientiam intellectus, qua vel alter alteri totaliter innotescit per 

se, vel saltim per illud fulgentissimum Speculum in quo cuncti 

representantur pulcerrimi atque avidissimi speculantur, nullo 

signo locutionis indiguisse videntur.


3. というのも、もし私たちが明敏に、私たちが発話するとき、何を意図

しているのかを考慮するなら、それは私たちが心に抱くことを他の人々に

明確に伝える以外にないことは明らかであるからだ。ゆえに天使たちは、

彼らの輝かしい考えを伝えるために、この上なく迅速で、えもいわれぬ知

性があれば十分なのである。それによって彼らは互いに、おのずとすべて

知られるようになる。あるいはおそらく、この上なく輝かしい鏡によっ

て。そこでは全体が、この上なく美しく表され、この上ない熱意をもって

見られるのであり、言葉のいかなる記号も必要としないように思われる。


4. Et si obiciatur de hiis qui corruerunt spiritibus, dupliciter 

responderi potest: primo quod, cum de hiis que necessaria sunt 

ad bene esse tractemus, eos preferire debemus, cum divinam 

curam perversi expectare noluerunt; secundo et melius quod ipsi 

demones ad manifestandam inter se perfidiam suam non indigent 

nisi ut sciat quilibet de quolibet quia est et quantus est; quod 

quidem sciunt: cognoverunt enim se invicem ante ruinam suam.


4. また仮に、天使の中にも堕落したものがあったではないかとの反論が

示されるならば、それには二重に答えることができるだろう。一つは、私

たちは善き存在であるために必要なものについて論じるのであるから、そ

のようなものを優先すべきだということである。倒錯したものたちは、神

の配慮を待とうとはしなかったのだから。二つめはよりよい議論だが、そ

れら悪魔が互いに不実を伝え合うために必要とするのは、彼らのうちの任

意の者が、存在しているか、その階級はどれほどか知ることだけだという

ことである。彼らはそれらのことを確かにすでに知っている。彼らは堕落

する以前、相互に知っていたからだ。


5. Inferioribus quoque animalibus, cum solo nature instinctu 

ducantur, de locutione non oportuit provideri: nam omnibus 

eiusdem speciei sunt iidem actus et passiones, et sic possunt per 

proprios alienos cognoscere; inter ea vero que diversarum sunt 

specierum non solum non necessaria fuit locutio, sed prorsus 

dampnosa fuisset, cum nullum amicabile commertium fuisset in 

illis.


5. 同じく下位の動物も、自然の本能によってのみ導かれているのである

から、言葉を備える必要はなかった。同じ種に属するすべての動物は、行

動および情動において同一であり、自分の行動や情動によって、ほかの個

体の行動や情動を知ることができるのである。種が異なる動物のあいだで

は、言葉は必要でなかったばかりか、まったくもって有害ですらあっただ

ろう。そのような動物のあいだには、いかなる友愛的な交流もなかったの

だから。


6. Et si obiciatur de serpente loquente ad primam mulierem, vel de 

asina Balaam, quod locuti sint, ad hoc respondemus quod 

angelus in illa et dyabolus in illo taliter operati sunt quod ipsa 

animalia moverunt organa sua, sic ut vox inde resultavit distincta 

tanquam vera locutio; non quod aliud esset asine illud quam 

rudere, neque quam sibilare serpenti.


6. 最初の人間の女性に語りかけた蛇や、バラムに語りかけたロバを反論

として挙げるのであれば、私たちは次のように答えよう。それらに入って

いた悪魔や天使は、それら動物に器官を動かさせ、そこから生じた声が、

あたかも本物の言葉と同じようにはっきりとしたものであるようにしたの

である。それはロバにとっては鳴き声でしかなく、蛇にとってはシューシ

ューという音以上のものではなかった。


7. Si vero contra argumentetur quis de eo quod Ovidius dicit in 

quinto Metamorfoseos de picis loquentibus, dicimus quod hoc 

figurate dicit, aliud intelligens. Et si dicatur quod pice adhuc et alie 

aves locuntur, dicimus quod falsum est, quia talis actus locutio 

non est, sed quedam imitatio soni nostre vocis; vel quod nituntur 

imitari nos in quantum sonamus, sed non in quantum loquimur. 

Unde si expresse dicenti ‘pica’ resonaret etiam ‘pica’, non esset 

hec nisi representatio vel imitatio soni illius qui prius dixisset.

8. Et sic patet soli homini datum fuisse loqui. Sed quare 

necessarium sibi foret, breviter pertractare conemur.


7. オウィディウスが『変身物語』の第5巻で、言葉を話すカササギについ

て述べていることを誰かが反論とするなら、私たちはこう反駁しよう。そ

れは文彩として述べているのであり、別の意味で理解するものなのだ。ま

た、このカササギのほかにも言葉を発する鳥がいると言われるのならば、

私たちはそれは誤りであると言おう。なぜなら、そのような行動は発話で

はなく、私たちの音声の模倣にすぎないからだ。あるいはまた、音を発す

る私たちを真似ようとするのであって、発話する私たちを真似ているので

はないからだ。したがって、人が「カササギ」と声に出して言うと、同じ

く「カササギ」と返してくるとしても、それは、最初に発声した者の音を

再現もしくは模倣しているにすぎない。

8. したがってこのように、人間にのみ言葉が与えられたことは明らかで

ある。だが、なぜそれが必要とされたのかを、私たちは簡潔に検討してみ

よう。



第二章の話は基本的に「言葉が与えられたのは人間のみ」ということです

ね。まず、第2節の「自然は無駄を嫌う」という節約的原理は、一つの公

理として考えられていたものです。前に見た水と土の元素の議論でも援用

されていた、アリストテレスを出典とする「自然は無駄をなさない」とい

う文言が、ここでは自然が無駄を嫌う・避けるというかたちで若干変更さ

れて言及されています。こうした変更もダンテのある種の特徴であること

は、前にも見た通りです。


第3節では、天使の場合のコミュニケーションは言語を必要としない、と

いう話が取り上げられています。天使の意思疎通の問題については実に長

い神学的伝統があります。一つの説としては、天使は直観的・直接的に認

識するのであって、言葉のような間接的な手段を取らない、というものが

あります。アウグスティヌス主義の伝統や、そこにやや回帰していく成熟

期のトマス・アクィナスの議論に見られるものです。独訳注によると、も

う一つの説として、天使同士のコミュニケーションには神の知性が介在す

る、というものもあったようです。ダンテの本文で鏡と言い表されている

のがそれにあたります。つまり鏡のごとく、神の知性は、相互の意思を美

しく映し出すというわけですね。二つの考え方はアルベルトゥス・マグヌ

スなども併記していたようです。


第4節では、ありうる反論を取り上げています。反論としての堕天使への

言及は、天使が直観的・直接的にわかり合えるならば、そもそも仲間内か

らの堕落者は出なかったはずではないのか、ということが含みとされてい

るのでしょう。これに対してダンテはまず、堕天使など議論の対象にして

も仕方ないじゃないかと反駁します(笑)。次いで、堕天使たちはそもそ

も限定した部分だけ、それもすでに知っている部分だけを示し合うにすぎ

ないと主張します。堕天使の相互認識は、相手の存在と堕落の程度、つま

りは階級の認識にのみ縮減されてしまっているというのです。しかもそれ

は、堕落前の認識をそのまま維持しているだけなのですね。天使でも悪魔

でも、秩序こそが重要視されているという点が興味深いですね。


第5節になると、今度は動物にとっても言葉は不要であるという話になり

ます。同じ種同士なら、自己の行動や感情の認識によって、別の個体の行

動や感情もそれと知ることができるので、言葉は不要とされます。また、

異なる種同士のあいだには交流はないので、そもそも言葉は不要なだけで

なく、有害ですらあると述べています。ここでもまた、自然の秩序が乱さ

れることが忌避されている、と見ることができます。


創世記のエヴァほどには知られてないバラムですが(第6節)、これは

『民数記』22章に登場する人物です。ロバとともに旅をする途中で、彼

を止めようと神が遣わした天使を見たロバが、恐れをなして進まなくな

り、バラムはそのロバを打ちつけます。するとロバは抗議の言葉を発し、

バラムにも天使が見えるようになる、という逸話です。ダンテの反駁で

は、聖書に描かれる言葉を発する蛇もロバも、それぞれ悪魔と天使が及ぼ

す作用に帰されています。独訳注によれば、これはアウグスティヌスの創

世記注解を出典としています。一方で人間の声を真似る鳥については、そ

れが発話ではなく、発声を真似ただけものだと説明していますね。ダンテ

は『饗宴』第三巻7章でも同じような説明をしています。


今回の本文も、掘り下げれば長々と議論できそうな箇所が散見されます

が、このテキストはまだまだ先も長いので、とりあえずは簡単にコメント

を付けるだけで次に進むことにします。その点はご容赦ください。次回は

第三章を取り上げます。

(続く)



*本マガジンは原則隔週の発行ですが、次号は年明けの01月12日の予定

です。


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