silva speculationis 思索の森
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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>
no.369 2019/01/12
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年末年始、いかがお過ごしでしたでしょうか。個人的に少しまだエンジ
ンが掛かりきっていない感じですが(苦笑)、ぼちぼちと再開したいと
思います。今年も本メルマガをどうぞよろしくお願いいたします。
------文献探索シリーズ------------------------
一神教にとっての預言とは(その4)
年末年始で少しあいだが空いてしまいましたが、イブン・カムーナ『三
大一神教の批判的検証』を見ています。前回まではカムーナが(1)予
言とは一種の能力である、(2)預言者は聖人と一部重なり合う、とい
ったことが示されました。続いてカムーナは預言の諸相について考察し
ていきます。今回はそこからです。
カムーナは基本的に、預言を10のレベルに区別しています。まず最初の
レベルでは、預言者は夢を見、そのたとえ話の意味や目的が当人に開示
されるというものです。第2のレベルでは、預言者は預言を夢に見、そ
の説明を聞くものの、発話者の姿は見えません。第3のレベルでは、や
はり預言は夢で伝えられ、発話者としてなんらかの人間が夢に現れま
す。第4のレベルでは、預言は夢で伝えられ、天使が夢に現れます。第5
のレベルでは、夢で伝えられ、しかも神が語りかけるところを見るとさ
れます。
第6以降のレベルでは、預言は預言者に、覚醒時に伝えられます。まず
第6のレベルでは預言はたとえ話のような形で預言者に伝えられます。
第7のレベルでは言葉が聞こえ、第8のレベルではなんらかの人間が語
りかけます。第9のレベルでは天使が覚醒時に現れ、第10のレベルでは
神が語りかけるのが眼にできるとされます。
カムーナはこれらのレベル分けを宗教的伝統(文献)から汲み上げてい
ます。預言者によっても、また預言者が預言を受けるタイミングによっ
ても、レベルは異なります。同じ預言者がときにはあるレベル、また別
のときには別のレベルを体験することもあるとされます。
また、レベル分けは基本的に機能的に行われていることがわかります。
まさにアリストテレス的なアプローチだと言えそうですが、実はこれは
カムーナの独創ではないようで、仏訳の注によれば、この分類はマイモ
ニデス(12世紀スペインのユダヤ教の高名なラビ)による預言の分類に
対応しているとのことです。そちらは同じ10のレベルに先だって、最初
のレベルとして神の支援、第2のレベルとして預言者が公の場で発言を
促されるというレベルが設けられているのだとか。
カムーナは次に、預言が真正であることを証す根拠の一つとして、「奇
跡」を引き合いに出します。奇跡を伴っていることが、預言の信憑性の
指標になるというわけですね。偽の預言者を排除するといった意味で、
これは重要な考察だと思われます。カムーナによれば、奇跡とは、人間
の力、知、手段ではなしえない、もしくは制御できない事象のことで
す。これが預言の信憑性を証すために適用されるには、5つの条件(他
の者がなしえないこと、自然の流れに反すること、神の法が正当に適用
される場合に生じること、預言者が預言を主張するときに生じること、
神の行為もしくは許可によって生じること)が必要だとし、それらがす
べて満たされる場合に預言は真正とされる、としています。
総じてカムーナは現象の機能的な分析を多用しているわけですが(対象
を小分けにしてそれぞれを見ていくという手法ですね)、それはこの後
の想定問答でも活かされています。預言の信憑性の証明について想定さ
れる疑義を7つに分けて列挙し、そのそれぞれについて反論しているの
です。疑義とそれらへの応答についてはここでは詳しくは取り上げませ
んが、そうした奇跡が本当に預言の信憑性を証すのかという問いについ
てカムーナは、論理的に反論できる場合にはそうしつつも、内省的な信
仰心、あるいはアプリオリな判断を持ち出したりもしています。このあ
たりは深掘りしていくと面白いのかもしれませんが、ここではさしあた
り先に進みましょう。
続いて話は預言のメカニズムに及びますが、これは次回に見ていくこと
にします。
(続く)
------文献講読シリーズ------------------------
ダンテの俗語論(その4)
ダンテの『俗語論』を読んでいます。第三章は若干短い章なので、新年
の一回目としてはよいウォーミングアップになるでしょうか。これと第
四章の冒頭部分までを見ていきましょう。
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III 1. Cum igitur homo non nature instinctu, sed ratione moveatur,
et ipsa ratio vel circa discretionem vel circa iudicium vel circa
electionem diversificetur in singulis, adeo ut fere quilibet sua
propria specie videatur gaudere, per proprios actus vel passiones,
ut brutum anirnal, neminem alium intelligere opinamur. Nec per
spiritualem speculationem, ut angelum, alterum alterum introire
contingit, cum grossitie atque opacitate mortalis corporis
humanus spiritus sit obtectus.
第三章 1. したがって人間は自然の本能ではなく理性によって動かさ
れ、その理性は識別、判断、選択において、個人により大きく異なり、
あらゆる者がまるで固有の種を楽しんでいるかのように思われるほどだ
が、ゆえに野生の動物が行うように、他人の行動や情動を、自分の行動
や情動を通じて理解することはできないように思われる。また、天使の
ように、精神的な内省によって互いの内部に立ち入ることもできない。
人間の死すべき肉体の厚みと不透明性とによって、精神は覆われている
からである。
2 Oportuit ergo genus humanum ad comunicandas inter se
conceptiones suas aliquod rationale signum et sensuale habere:
quia, cum de ratione accipere habeat et in rationem portare,
rationale esse oportuit; cumque de una ratione in aliam nichil
deferri possit nisi per medium sensuale, sensuale esse oportuit.
Quare, si tantum rationale esset, pertransire non posset; si tantum
sensuale, nec a ratione accipere nec in rationem deponere
potuisset.
2. したがって人類は、相互に概念を伝え合うために、なんらかの理性
的・感覚的な記号をもつ必要があった。その記号は理性から(内容物
を)受け取り、理性へと伝えるのであるから、理性的なものでなければ
ならなかった。だが、一つの理性から他の理性へと伝えるには、感覚的
な媒質によるしかない以上、その記号は感覚的なものである必要もあっ
た。というのも、あまりに理性的なものであったなら、伝わることはで
きなかっただろうし、あまりにも感覚的であったなら、理性から(内容
物を)受け取ることも、理性に伝えることもできなかっただろうから
だ。
3. Hoc equidem signum est ipsum subiectum nobile de quo
loquimur: nam sensuale quid est in quantum sonus est; rationale
vero in quantum aliquid significare videtur ad placitum.
3. まさにそのような記号こそが、私たちが述べるところの高貴な主題
となる。それは音声である限りにおいて、確かに感覚的なものでもあ
る。また、定められた通りに何かを意味するとされる限りにおいて、理
性的なものでもある。
IV 1. Soli homini datum fuit ut loqueretur, ut ex premissis
manifestum est. Nunc quoque investigandum esse existimo cui
hominum primum locutio data sit, et quid primitus locutus fuerit,
et ad quem, et ubi, et quando, nec non et sub quo ydiomate
primiloquium emanavit.
第四章 1. 上の前提から明らかなように、話す能力が与えられたのは人
間のみである。ここではまた、どの最初の人間に言葉が与えられたの
か、そして最初に発せられた言葉とは何で、誰に、どこで、いつ、さら
にどのような言語で発せられたのかについても、検討しなければならな
いと私は考える。
2. Secundum quidem quod in principio Genesis loquitur, ubi de
primordio mundi Sacratissima Scriptura pertractat, mulierem
invenitur ante omnes fuisse locutam, scilicet presumptuosissimam
Evam, cum dyabolo sciscitanti respondit: ‘De fructu lignorum que
sunt in paradiso vescimur; de fructu vero ligni quod est in medio
paradisi precepit nobis Deus ne comederemus nec tangeremus,
ne forte moriamur’.
2. 聖書が原初の世界について論じている創世記の冒頭で言われている
ことによれば、誰よりもまず先に女性が言葉を発しているのがわかる。
つまり、誰よりも前にエヴァが、探りを入れる悪魔に対してこう答えて
いるのだ。「楽園にある木の果実を私たちは食べることができる。けれ
ども楽園の中央にある木の果実については、神が私たちに、食べてもい
けないし触れてもいけないと命じた。さもなくば私たちは死んでしまう
だろう、と」
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天使や動物が言語を介さずに意志の伝達を行っているという前章の話に
続いて、第三章では人間が言語を介さずに伝達ができないことを、動物
や天使との対比で語っています。動物は類において同じなので、自分自
身の行動や情動を通じて相手を理解できるといいますが、人間は個々人
の違いが大きすぎるためにそれは望めない、というのです。ここでは、
「識別、判断、選択」、つまりは自由意志の三つの内実が、人間固有の
特徴として引き合いに出されています。
また天使は、個々に別の種をなしているとされるのですが、ある種の精
神的内省によって相互に理解し合えるといいます。これに対して、人間
は身体がその妨げとなるので、それは望み得ないというのですね。知性
と感覚とを併せ持つという意味で、人間は動物と天使との中間に位置し
ているわけです。
感覚をもたらす肉体を、ある種の障害物、あるいは重荷と見なすという
発想も、神学的な伝統にしっかりと息づいているものです。独訳注で
は、ダンテが準拠している議論として、トマス・アクィナスのものが挙
げられています。「人間の精神が閉ざされているのは、一つにはみずか
らの意志によるし、もう一つには肉体の厚みによる」(大意)という
『神学大全』からの一節です。
トマスの言にもあるのですが、ダンテもここで、中間に位置する人間に
は、ゆえに理性的であると同時に感覚的でもあるような記号(ここでは
音声)が必要とされる、と述べています。再び独訳注を見ると、ここで
もトマスと、さらにはボナヴェントゥラが下敷きになっているとコメン
トされています。「人間は魂と肉体から成っているように、その言葉も
ときに精神的なものであり、ときに肉体的なものである」という『命題
集注解』からの一節です。
第3節の末尾部分は、記号についての意味論的な面で興味深い点(?)
があります。ad placitumとはここでは「定めにしたがって」くらいの意
味だと思われますが、これなどはどこか、言語の恣意性(これこれの言
葉がこういう意味であるという場合、そこに自然な、あるいは論理的な
根拠があるわけではないこと)の考え方を先取りしているかのように思
われるのです。そう思うと、なにやらダンテの言語観を詳細に追ってみ
たい気分になってきます(笑)。
第四章は冒頭部分だけですが、ここでは言葉をめぐる前史的、あるいは
史的考察が始まっています。これについては改めて次回に取り上げたい
と思います。
(続く)
*本マガジンは隔週の発行です。次号は01月26日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
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