silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.372 2019/02/23

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------文献探索シリーズ------------------------

一神教にとっての預言とは(その7)


イブン・カムーナ『三大一神教の批判的検証』を見ています。前回は擬

アヴィセンナの書簡に少しだけ寄り道をしました。今回は再びカムーナ

のテキストに戻って内容をまとめていきましょう。前回も取り上げたよ

うに、預言者が存在することの正当性として、まずはその人物が、神か

らもたらされた事物の秩序を守る上で必要な人物だと見なされるのだ、

との指摘がなされます。有益性の議論ですね。


ですが有益性だけが問題ならば、同じように人々から預言者と見なさ

れ、実は魔術やなんらかの暗示的な技法を駆使するような人も、同じよ

うに有益であると主張できてしまうかもしれません。カムーナがそこで

引き合いに出してくるのが、魂に直接的(直観的)に訴えかけうるよう

な、なんらかの徴しです。これは意味論的な議論になります。


有益性と意味論というこの二つは、どうやら相互に重なりあっているよ

うです。真の預言者が発する指示の基本原理として、まずはその指示

が、神の一性や全能、その絶対性などを知らしめるものでなくてはなら

ない、とカムーナは言います。次いで、人が戻るべき場所、すなわち天

界の喜びなどを知らしめるものでなくてはならない、とも述べていま

す。その二つを繰り返し示しながら、真の預言者は人々になんらかの行

いを諭す、というのですね。その意味でも、預言者とは希有な存在、数

少ない感徳者だということになるのだ、と。


カムーナはそうした預言者の効用として15の項目を挙げています。い

ずれも社会的な意味での有益性です。1. 宗教的儀礼の行い方を明確に

する、2. 人々の無知や不注意を正す、3. 人々の誤った認識などを正

す、4. 神の属性について理性的理解の限界を超えた部分を知らしめ

る、5. 人々の信仰への恐怖を取り除く、6. それ自体で斥けるべきもの

と、人間にとって斥けるべきものとの区別をつける、7. 食料や薬品の

効用・危険性などの認識を促す、8. 天体のサイクルの理解を促す、9. 

人々の職能の習得を促す、10. 生活や公的な行いについて教授する、

11. 紛争解決のための法を確立する、12. 法の運用にまつわる共通規則

を策定する、13. 献身のモデルとなる、14. 知的なモデルとなる、15. 

身体の統合とのアナロジーにもとづき、人間社会の指導者となる。


それぞれの項目にはもう少し丁寧な説明がついていますが、ここでは割

愛します。15の項目を全体として見ると、人々に訴えかけ導く者とい

う側面が強調されていることがわかります。1から5までは宗教指導者

的な役割、6はいわゆる「悪」についての教説、7から10は生活にかか

わる事項、11と12は立法と司法、13から15はモデルとしての役割と

いうことになりますね。


こうした正当性については当然、疑義もありえます。カムーナは続いて

3つの疑義を想定し取り上げています。まず1つは、タクリーフ(法の

執行・履行を任せられているという「委任状態」のこと)についての疑

義です。預言者の正当性を考える上では、その人物がタクリーフの状態

にあることが前提となるわけなのですが、異論として、タクリーフにお

いて人は法の執行・不履行をめぐって選択の自由は与えらないことにな

ってしまうので、そうした状態に置かれるのは本来的な自由に矛盾する

のではないか、といった異論が想定されます。


この最初の疑義に対するカムーナの回答は、タクリーフの状態にある人

物は、タクリーフであることの利点についての情報を伝えることにもな

るというものです。タクリーフにおいて法の執行を果たすならなんらか

の報酬を得ることができ、逆の場合には処罰を受けるということを、預

言者が身をもって示すのだというわけですね。ここでもまた、有益性と

意味論とが重ね合わせられています。


2つめの疑義は、伝えられるメッセージの善悪が理性にとってはっきり

しない場合があるというものです。理性的判断に結びつかないのなら、

有益とは言えないではないか、というわけですね。また、3つめの疑義

は、宗教的な法が定める内容が、そもそも理性的判断としては有害・冗

長であるような場合も多々見られる、というものです。カムーナはこれ

らに対して、預言者の役割とはもともと、理性での理解を超えたものを

理解させることにあるのだ、と回答しています。宗教的儀礼について

は、そこに人知では計り知れないような有意性がある場合もある、と指

摘しています。


でもそうであるなら、改めて真正の預言者とそうでない者を見分けるの

は難しいようにも思われます。カムーナもそのことを考えているよう

で、これに続く部分では「預言者としての質を確実に見定める方法」と

題した小節を設けています。これについては次回に詳しく見ていくこと

にします。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その7)


ダンテ『俗語論』を読んでいます。前回は第6章の第2節まででした。

今回は第6章の残り部分を見ていきます。



3. Nos autem, cui mundus est patria velut piscibus equor, 

quanquam Sarnum biberimus ante dentes et Florentiam adeo 

diligamus ut, quia dileximus, exilium patiamur iniuste, rationi 

magis quam sensui spatulas nostri iudicii podiamus. Et quamvis 

ad voluptatem nostram sive nostre sensualitatis quietem in 

terris amenior locus quam Florentia non existat, revolventes et 

poetarum et aliorum scriptorum volumina quibus mundus 

universaliter et membratim describitur, ratiocinantesque in nobis 

situationes varias mundi locorum et eorum habitudinem ad 

utrunque polum et circulum equatorem, multas esse 

perpendimus firmiterque censemus et magis nobiles et magis 

delitiosas et regiones et urbes quam Tusciam et Florentiam, 

unde sumus oriundus et civis, et plerasque nationes et gentes 

delectabiliori atque utiliori sermone uti quam Latinos.


3. しかしながら、魚にとって海原が祖国であるように、世界を祖国と

する私は、歯が生えそろう前からサルノの川の水を飲み、フィレンツェ

をこよなく愛し、かくも愛するがゆえに追放を不当と考えもするが、自

分の判断においては感覚への惑溺よりも理性を重んじる。また自分の欲

望、あるいは自分の官能を鎮めるに相応しい地上の場所は、フィレンツ

ェを置いてほかにない。だが、世界を全体として、あるいは部分ごとに

記した、詩人やその他の者の書をひもとき、世界の様々な地域と、極や

赤道の円環との関係性について内省するならば、次のことを確信し、肯

定的に述べざるをえない。自分が生まれ暮らしているトスカーナやフィ

レンツェよりも高貴で楽しげな地域や都市は多数存在し、またイタリア

人たちよりも楽しく有益な言葉を用いる国民や民族も数多く存在するの

である。


4. Redeuntes igitur ad propositum, dicimus certam formam 

locutionis a Deo cum anima prima concreatam fuisse. Dico 

autem ‘formam’ et quantum ad rerum vocabula et quantum ad 

vocabulorum constructionem et quantum ad constructionis 

prolationem: qua quidem forma omnis lingua loquentium 

uteretur, nisi culpa presumptionis humane dissipata fuisset, ut 

inferius ostendetur.

5. Hac forma locutionis locutus est Adam; hac forma locutionis 

locuti sunt omnes posteri eius usque ad edificationem turris 

Babel, que ‘turris confusionis’ interpretatur; hanc formam 

locutionis hereditati sunt filii Heber, qui ab eo dicti sunt Hebrei.

6. Hiis solis post confusionem remansit, ut Redemptor noster, 

qui ex illis oriturus erat secundum humanitatem, non lingua 

confusionis, sed gratie frueretur.

7 Fuit ergo hebraicum ydioma illud quod primi loquentis labia 

fabricarunt.


4. したがって目下の話に戻るなら、最初の魂とともに、なんらかの形

の言語が神によって創造されたのだと私たちは言おう。ここで私は、事

物を表す語彙と、語彙の組成と、組成の配置に関して「形」と述べてい

る。それは、後述するように人間の思い上がりの罪によって失われてい

かなったならば、言語を話すすべての者が用ていたであろうものであ

る。

5. そのような形の言語をこそ、アダムは発していたのだ。そのような形

の言語をこそ、「混乱の塔」と解釈されているバベルの塔の建設にいた

るまでのすべての子孫が発していたのである。このような形の言語こ

そ、へベルの子孫らが受け継いだものである、それらの子孫は、彼の名

からヘブライの民と呼ばれている。

6. 混乱の後、その言語はその民にのみ残った。われらが救い主も同様

に、人間である限りにおいてはその民を出自としていた。彼らは混乱の

言葉ではなく、恩寵の言葉を用いていたのである。

7. したがって、最初の話者の唇から作られたのは、ヘブライ語だった

のだ。



第6章の冒頭では、誰もが自分の住む土地を最良と思い、そこで話され

ている言葉こそが最も優れている、それこそがアダムの言語だった、と

勝手に思ってしまいがちだという話をしていました。ダンテはそれに対

して、もっと巨視的な見地から批評を加えます。


第3節では、世界市民(コスモポリタン)としてのダンテの立ち位置が

示されています。独訳注によると、「魚にとって海原が祖国」というの

はオウィディウスの引用だといいます。追放されたフィレンツェへの祖

国愛と、世界市民への指向とが重なりあっていることも窺えます。実際

に両者は、ある意味密接につながっているように思えますね。またここ

には、情念的なものと理性的なものとの対立、さらにはそれでいてやは

り両者が密接につながっていることの示唆を読み取ることもできます。


文中にサルノ川(サルヌス)が出てきますが、これは本来ポンペイなど

を通ってナポリに流れ込む川です。独訳注によればウェルギリウスなど

が言及しています。フィレンツェを流れる川といえばむしろアルノ川な

のですが、ダンテは誤ってそれをサルノ川と同一視しているようです。

この取り違えにもどうやら出典があるようで、オロシウスの地理学書が

それに当たり、ダンテもこれを用いているのだとか。


フィレンツェからのダンテの追放については、かなり以前に触れたこと

がありますが、要はダンテが属していた白党(フィレンツェの自立を主

張)が、実権を握った黒党(教皇派寄り)に追われたというものです。

世界市民としての出発点が、このいわば故郷喪失にあったというのは興

味深い点ですね。


第4節から先になると、アダムの言語についての考察が再開します。こ

こでダンテは「形」という言い方で、構造体としての言語を考えていま

す。このあたりなかなか先進的でもあるのですが、その内実として「語

彙」「組成」(constructio)「配置」(prolatio)が挙げられていま

す。ここでのそれらの訳語は仮のものです。constructioを統語論、

prolatioを音声学に重ねるという話も研究者の間ではあるようなのです

が(独語注)、これはどこか確信をもてない気もします。そうした研究

の具体的な中身を見ないうちは訳語が確定できませんので、さしあたり

ここでは判断を保留にしておきます。


ところで、当時共有されていた言語観では、バベルの塔の逸話の前まで

は人間の言語は単一だったとされていました。同じく独訳注からです

が、アウグスティヌス『神の国』などにそうした文言があるようで、一

般にその言語はヘブライ語(もしくはヘブライ語の祖語)とされていま

した。ダンテもそれを踏襲しています。世俗の人々は自分の言葉が古く

からあるものだと考えがちですが、ダンテはそれに対して、神学的な伝

統をもとに、最初の言葉はヘブライ語だったと説いているわけです。


今回は少し短めですが、ここまでとします。続く第7章もバベルの塔の

混乱の話が続いています。それはまた次回に。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は03月09日の予定です。


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