silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.373 2019/03/09

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------文献探索シリーズ------------------------

一神教にとっての預言とは(その8)


イブン・カムーナの預言論を仏訳テキストにそって見ています。今回

は、総論にあたる第1章の末尾、カムーナが真の預言者をどう見分ける

かについて触れている箇所です。すでにこれまでの部分で、カムーナは

預言者が行う奇跡こそが、その者が真の預言者であることの指標をなす

としていました。しかしながら、たとえば魔術を操る怪しげな人々との

区別が、それだけでは難しいという難点もありました。


この問題へのカムーナの対応はいたって簡潔です。預言者の真正さを判

断するには、その預言者の実践する各種の行動を観察すればよい、とカ

ムーナは次のように主張しています。たとえばガレノスを読んだりし

て、多少とも医学を学んだ者ならば、医者が真正かどうかをその医術実

践をもとに判断できる。天文学をかじっていれば、天文学者の真正さも

わかる。同じように、預言者についても、神学について学んでいれば、

その人物の行為などを観察することによって、その者の真正さを判断で

きるはずだ……。


わたしたちからするとやや楽観的にすぎる気もしますが(笑)、ここか

ら改めてわかることは、まず第一にこの『三大一神教の批判的検討』と

いう書が、基本的にそうした預言者の判断ができるような知識人層、あ

るいはその予備軍となる人々に向けて書かれている、ということでしょ

う。


預言者というのは知識人の最上位の存在とされていました。誰もがなれ

るわけなく、一握りの選ばれた人だけがなりうる存在ですが、少なくと

もその真偽判断をなすには、その周りに知識人、つまり哲学的事象や神

学的事象に通じた者の厚い層がなくてはならないわけですね。ですか

ら、神学的な理法などを最低限学んだ人々が増えることが、預言者の真

偽を見分け真正さを担保するための条件となります。カムーナはこの書

で、そうした層の拡大に貢献しようとしているのでしょう。


預言者が真正であるかどうかの判断そのものは、全体的・総合的な判断

に帰着することになります。奇跡だけでは、それが真正なものなのか、

魔術的なものなのかはっきりしない場合、それを別方向から、学知や観

察などを通じて補完していかなくてはならないというわけです。カムー

ナはそうした判断の難しさを当然認識しています。カムーナが生きてい

た当時(13世紀)にも、預言者を名乗る者は多少ともいたとされ、そ

うした者たちの真偽を的確に見抜くことが、文明化した民の必須の条件

とカムーナは考えていたようです。同書はそうした一種の啓蒙を目して

いたのだろうと思われます。



いわば総論というべきこの第1章は、最後に各宗教(三大一神教)にお

いて歴史的に記された預言者について言及し、それらを検証していくこ

とが第2章以降の内容であると宣言して終了します。実際この後の各章

では、それぞれの宗教が各論的に取り上げられます。第2章はユダヤ教

で、とくに預言者モーセについて検討されます。続く第3章はキリスト

教、第4章はイスラム教を取り上げています。


さてその第2章です。冒頭を少しばかり見ておくと、最初に旧約聖書の

諸々の預言者への言及があり、その後でモーセの偉業が讃えられます。

モーセの逸話のいくつかは旧約聖書ですでに知られているところです

が、トーラーなどに記されているらしい、あまり馴染みのないものも含

まれています。モーセがなした奇跡には、たとえば杖を蛇に変えたなど

があるわけですが、その預言者としての働きは、むしろヘブライの民に

対する敬神の教えと、儀礼や日常生活についての教えなどを告げた点に

ある、とされます。


細かな点については改めてまとめることはしませんが、注目したいの

は、カムーナが総論で論じてきた預言者の諸特徴が、およそすべてモー

セに当てはまるということです。つまりカムーナにとっての預言者の理

想的モデル、あるいは原型は、モーセにあるのではないかと思われるの

です。カムーナはユダヤ教徒(あるいはユダヤ教の一族の出)だったと

されているので、これはある意味当然かもしれません。面白いのは、こ

こでカムーナが、モーセが真正の預言者であるとする立場に対して差し

挟まれうる異論を7つほど掲げて、それに反論を加えていることです。

モーセの真正さを強固にするための論述ではあるわけですが、次回はそ

れらについて見ていきたいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その8)


ダンテの『俗語論』を眺めています。今回は第7章の途中までです。前

章に引き続き、バベルの塔についてのコメントが展開しています。さっ

そく見てみましょう。今回も本文、コメントともに短めですが、ご了承

ください。



VII 1. Dispudet, heu, nunc humani generis ignominiam renovare! 

Sed quia preferire non possumus quin transeamus per illam, 

quanquam rubor ad ora consurgat animusque refugiat, 

percurremus.


第7章 1. ああ、今思い起こしても、人類の不名誉は実に恥ずべきこと

である。だが、そこを通過せずには先に進むことができない以上、どの

ような恥ずかしさが顔に上ってこようとも、また精神がひるもうとも、

急いでそこを駆け抜けなくてはなるまい。


2. O semper natura nostra prona peccatis! O ab initio et 

nunquam desinens nequitatrix! Num fuerat satis ad tui 

correptionem quod, per primam prevaricationem eluminata, 

delitiarum exulabas a patria? Num satis quod, per universalem 

familie tue luxuriem et trucitatem, unica riservata domo, 

quicquid tui iuris erat cataclismo perierat, et [que] commiseras 

tu animalia celi terreque iam luerant? Quippe satis extiterat. Sed, 

sicut proverbialiter dici solet ‘Non ante tertium equitabis’, misera 

miserum venire maluisti ad equum.


2. おお、われらが本性はつねに罪へと傾いているのか。おお、始めか

ら愚行をなし、決して止むことがないのか。最初の不正によって光を失

い、祖国に暮らす喜びを失ったことを正すだけで、あなたの種族[人

間]の叱責には十分なのではなかったのか?すべての同族の奢侈と無慈

悲さゆえに、ある一家のみを残し、人間の支配下にあったすべてのもの

を洪水で滅ぼし、かくして天上と地上の生き物に償わせることで、十分

なのではなかったのか?それはそれで十分ではあったのだろう。だが、

格言に「三たび乗らねば馬には乗れぬ(三度目の幸運)」と言われるよ

うに、この上なく痛ましい馬に、人は三たび乗ろうとしたのである。


3. Ecce, lector, quod vel oblitus homo vel vilipendens disciplinas 

priores, et avertens oculos a vibicibus que remanserant, tertio 

insurrexit ad verbera, per superbam stultitiam presumendo.


3. このように、読者よ、人間は以前の教訓を忘れやすかったり顧みな

かったりするのであり、残る古傷から目をそらし、傲慢ゆえの愚行に出

て三度めの叱責をうけることになったのである。


4. Presumpsit ergo in corde suo incurabilis homo, sub 

persuasione gigantis Nembroth, arte sua non solum superare 

naturam, sed etiam ipsum naturantem, qui Deus est, et cepit 

edificare turrim in Sennaar, que postea dicta est Babel, hoc est 

‘confusio’, per quam celum sperabat ascendere, intendens 

inscius non equare, sed suum superare Factorem.


4. したがって人間は不治であり、巨人ニムロドにそそのかされ、自然

の技法ばかりか、その自然をしつらえたもの、すなわち神をも越えられ

ると心中で思い、センナールに塔を建造し始めたのだ。それが後にバベ

ル、すなわち「混乱」と呼ばれた塔である。これを建てることで人間は

天にまで登ろうとし、創造主に肩を並べるばかりか、それを越えようと

まで考えたのだ。


5. O sine mensura clementia celestis imperii! Quis patrum tot 

sustineret insultus a filio? Sed exurgens non hostili scutica sed 

paterna et alias verberibus assueta, rebellantem filium pia 

correctione nec non memorabili castigavit.


5. おお、天の王国の果てなき慈悲深さよ!子からのこれほどの侮辱を

受け止める親がほかにいるであろうか?それでも神は、敵を打つムチで

はなく父のムチをもって立ち上がり、すでに懲罰に慣れているかのよう

に、反抗的な子を、記憶にとどまる神聖なる訓戒をもって罰したのであ

る。


6. Siquidem pene totum humanum genus ad opus iniquitatis 

coierat: pars imperabant, pars architectabantur, pars muros 

moliebantur, pars amussibus regulabant, pars trullis linebant, 

pars scindere rupes, pars mari, pars terra vehere intendebant, 

partesque diverse diversis aliis operibus indulgebant; cum 

celitus tanta confusione percussi sunt ut, qui omnes una 

eademque loquela deserviebant ad opus, ab opere multis 

diversificati loquelis desinerent et nunquam ad idem 

commertium convenirent.


6. ほぼすべての人類がその不当な仕事に集結した。命じる者もいれ

ば、設計する者、壁を作る者、物差しで測る者、コテで漆喰を塗る者、

石を切り出す者、海上を運ぶ者、陸路を運ぶ者もいたし、さらにほかの

様々な仕事に専念する者もいた。だがそれも、天からかような混乱が降

ってくるまでのことだった。彼らは皆、作業のために一つの同じ言葉を

用いていたが、様々な言葉に分かれたために作業から離れることにな

り、同じ仕事に戻ってくることはなかった。//



この第7章は8節までありますが、今回は6節までとします。「バベルの

塔という人類の不名誉についてざっと述べておかなくてはならない」と

する第1節に続き、第2節でダンテは、楽園追放とノアの洪水に続く第

三の罪と罰を、悪行を性(さが)とする人間があえて選んだのだと述べ

ています。原文はレトリカルな表現が詩人らしさを感じさせます。


第2節の最初に出てくるnequitatrixというのはダンテの造語のようで、

nequeo(決してできない)と人物を表す接尾辞atorの女性形をつなげ

たかたちかと思われます。「(別様には)決してできない者」のような

意味かと推測されます。同じく第2節の最後のほうで出てくる格言は、

いかにも「三度目の正直」という感じですが、さしあたり出典などは不

明です。


第4節に出てくるニムロド(ニムロッド)は、聖書解釈の派生本におい

ては「神への反逆者」を意味するとされ、バベルの塔の建造立案者でも

あったとされてもいます。センナールはスーダンにある町です。


罪に向かうのはさながら人間の性(さが)だというわけですが、第5節

には、一方の神もまた手慣れたもので、記憶にとどまるような教訓を与

えて罰したのだとされます。その中身が第6節です。同じ建造計画に向

けて様々な作業をしていた人々は、同一の言語を使うがゆえにそうした

仕事についていたとされ、言語が混乱してからは、再びその計画に戻っ

てくることはできなかったというのですね。各種の仕事を支える意思疎

通の重要さと、それを言語が支えているという認識が、ここには表され

ていると見てよいでしょう。


このバベルの塔に関するダンテの解釈はこの後に続いていきます。それ

はまた次回に。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は03月23日の予定です。


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