silva speculationis 思索の森
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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>
no.379 2019/06/08
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------文献探索シリーズ------------------------
一神教にとっての預言とは(その14)
ユダヤ系神学者・哲学者であるイブン・カムーナ(13世紀)の預言者
論から、預言者モーセを扱った第二章を見ています。7つの異論を挙
げて反論を試みているカムーナですが、今回はいよいよその末尾、7
つめの異論です。
それは次のようなものです。「現実問題として法が廃止されることは
ありうる。しかしながらトーラーの多くの箇所に、そのような廃止は
なされないことが記されている。このことは、トーラーの内容的信憑
性を損ねるのではないのか」。なるほどこれは、法と現実的状況との
齟齬について考え方を問いただしているということですね。
異論側はさらに各論的に、法の廃止にかかわる事例として5つの疑問
点を挙げています。(1) トーラーには葬儀に関わった人の清めに、ア
ーロンの家系につながる聖職者の灰が必要とあるが、実際にはすでに
時代に合わず、その必要はないとされている。(2) 判例はモーセなど
の決定権をもつ人々の伝承に連なるとされるが、その多様性・矛盾を
みれば、伝承そのものが問い直されなければならないか、もしくは競
合するいずれかの法が破棄されているものと考えられる。
(3) 歴史的事象を記念する催しとして断食などが義務化されているが、
新たな教えを加えることをトーラーが禁じていることに矛盾するので
はないか。ゆえにその禁止自体が事実上廃止されていると考えらえる
のではないか。(4) イスラエルの民の王は妻帯も多すぎず、金銀も多
すぎないようにせよとあるが、ダビデやソロモンはそれぞれ妻や金銀
を多くもっていた。(5) 割礼を生後8日とし、サバト(土曜)の安息
を謳うトーラーだが、生後8日目が安息日にあたる場合、いずれかが
廃止されなくはならなくなるのではないか。
こうした批判に対して、カムーナは個別に次のような反論を対置しま
す。まずは(1)の清めについてですが、ヘブライ語の「穢れ」には三
つの意味があるとして、(a)戒律への不服従、(b)糞尿のような汚物、
(c)しかるべき不純物に触れたと思われる場合を挙げています。遺体
に触れるなどは上の(c)に相当し、そのような場合はしかるべき清め
を経なくては聖なる遺物などには触れられないとされています((b)
のような場合なら水で洗い落とせば済みます)。一方で清めを経てい
ない不純な状態であっても、(b)のような汚物に触るのでなければ祈
りはできるし、トーラーを持ち歩くことも許されているといいます。
このように、清めにまつわる規則は細かな「穢れ」の意味論的分類を
抜きにしては語れず、上のような異論が出てくるのは、そうした分類
を知らないからにすぎない、とカムーナは反駁します。
次に(2)の判例についての異論に対しては、そもそもすべてのユダヤ
民族の判例が伝承に由来しているわけではないと反論しています。も
ちろん文献や伝承に直接根ざしているものもあるわけですが、それ以
外に、文献や伝承を基礎としつつも、そこから思弁や類似によって導
かれた判例もあるというのです。で、法令同士の齟齬などは、そうし
た推論的に導かれたものの間でのみ見られるのだ、としています。ゆ
えにトーラーそのものの権威や信憑性はゆらがない、と。
続く(3)はどうでしょうか。新しい教えを付加することをトーラーが
禁じているのはその通りだとしつつも、トーラーはモーセに連なる預
言者たちに従うようにとも命じているとし、そうした預言者たち(当
然ながら賢者です)は、トーラーが命じることを恒久的に無効化する
ようなことはそもそも禁じられている、とされます。彼らは、状況に
よって求められる民の利益のために、恒久的ではないかたちでそうし
た命令の一時的無効化を命じることはありうるとされますが、それは
あくまで仮の措置であって、原則としてはトーラーの規則は守られる、
というわけです。
(4)については、ダビデやソロモンはそもそも預言者ではなく、無謬
性があるとも考えられてはいない、とカムーナは反論しています。そ
の一方で、ダビデの妻の数は定められた数を下回っているし、ソロモ
ンが金銀をため込んだのもあくまで民のためであり、私腹を肥やした
わけではない、とも明言しています。(5)の割礼とサバトについては、
割礼の義務のほうが優先されると説いています。安息日において、割
礼は唯一の例外をなしているにすぎないのだから、規則が廃止されて
いるというわけではない、というのですね。
こうしてみると、カムーナが示すソリューションは、いつもながら分
析的かつ現実志向的だと評することができそうですね。解釈の衝突・
競合をあげつらう異論に対して、カムーナ側はそれらが表面的な解釈
でしかなく、異論が引き合いに出すのが仮の衝突・競合であることを
言い募っていきます。体系の根本は揺るがず、その枝葉の部分だけが
多少とも揺れる場合があるというのが、カムーナの基本的なスタンス
なのでしょう。法あるいは社会規則というものが共同体を統制するた
めのものである以上、それは基本原則として揺らいではならず、一方
で個別の問題に対応できるよう柔軟でなくてはなりません。これを法
の原則的な不変性と末端における運用とにどう割り振るか、カムーナ
は考え続けているように見えます。
さて、以上で異論へのカムーナの応答は終わりです。カムーナはこの
章を閉じるにあたり、キリスト教とイスラム教によるモーセの伝承の
扱いを取り上げています。それぞれがどこをどう切り取っているかを
示すためです。次回はこの第2章の末尾を取り上げましょう。
(続く)
------文献講読シリーズ------------------------
ダンテの俗語論(その14)
ダンテ『俗語論』から第1巻を読んでいます。今回は11章です。さっ
そく見ていきましょう。なお、今回以降、本文に方言などの言葉がと
きおり登場してきます。そうした方言部分はとりわけ意味が取れない
ので、伊訳・独訳を参考に方言っぽく訳出してみたいとは思いますが、
とうてい正確とは言えないと思いますので、あくまで参考程度にご覧
ください。
*
XI 1. Quam multis varietatibus latio dissonante vulgari,
decentiorem atque illustrem Ytalie venemur loquelam; et ut
nostre venationi pervium callem habere possimus, perplexos
frutices atque sentes prius eiciamus de silva.
11章 1. 俗語においては様々な違いにより不協和がもたらされている
が、私はイタリア語で最も品のある卓越した言葉を探そうと思う。ま
た、私たちの探求が見通しのよい通路となるよう、まずは入り組んだ
茂みや藪を、森から除いていこう。
2. Sicut ergo Romani se cunctis preponendos existimant, in
hac eradicatione sive discerptione non inmerito eos aliis
preponamus, protestantes eosdem in nulla vulgaris eloquentie
ratione fore tangendos. Dicimus igitur Romanorum non vulgare,
sed potius tristiloquium, ytalorum vulgarium omnium esse
turpissimum; nec mirum, cum etiam morum habituumque
deformitate pre cunctis videantur fetere. Dicunt enim:
Messure, quinto dici?
2. ローマ人たちは自分たちが他より高く評価されると考えているこ
とから、俗語の雄弁術のいかなる理論においても彼らに言及すること
はないと明言して、他より先に彼らに対して削除もしくは根扱ぎを施
すのもよいであろう。ローマ人の言葉は俗語というよりは卑猥な隠語
であって、イタリアのあらゆる俗語のうちで最も醜悪なものだと私は
言おう。このことは驚くに当たらない。なぜなら彼らはすべてのイタ
リア人よりも、品行および態度のいびつさで際立っていると思われる
からだ。彼らはこう言うのである。「あんた様、なんですと?」
3. Post hos incolas Anconitane Marchie decerpamus, qui
Chignamente scate, sciate locuntur: cum quibus et Spoletanos
abicimus.
4. Nec pretereundum est quod in improperium istarum trium
gentium cantiones quamplures invente sunt: inter quas unam
vidimus recte atque perfecte ligatam, quam quidam Florentinus
nomine Castra posuerat; incipiebat etenim
Una fermana scopai da Cascioli,
cita cita se 'n gÏa 'n grande aina.
5. Post quos Mediolanenses atque Pergameos eorumque finitimos
eruncemus, in quorum etiam improperium quendam cecinisse
recolimus
Enter l'ora del vesper,
ciÚ fu del mes d'occhiover.
3. 次に今度はマルカ・アンコニターナの住人を脇にどけておこう。
彼らは「ご機嫌はどんなだい」と言う。彼らとともに、スポレートの
人々も退けておこう。
4,さらに、それら三つの住人においては、嘲りから多数の歌が作られ
ていることも見過ごしてはならないだろう。そのうちの一つは、正し
く規則に準じているもので、カストラという名のフィレンツェ人が作
ったとされる。それは次のように始まる。
「カシオリ近くにいたフェルマナの女
急いで急いで、足早に行ってしまった」
5. 続いて今度はミラノとベルガモ、さらにその近隣の人々も除いて
おこう。彼らを嘲る不適切な歌を、誰かが書いていたのを思い出す。
「宵の口のこと、
それは10月のことだった」
6. Post hos Aquilegienses et Ystrianos cribremus, qui Ces fas
tu? crudeliter accentuando eructuant. Cumque hiis montaninas
omnes et rusticanas loquelas eicimus, que semper mediastinis
civibus accentus enormitate dissonare videntur, ut
Casentinenses et Fractenses.
7. Sardos etiam, qui non Latii sunt sed Latiis associandi
videntur, eiciamus, quoniam soli sine proprio vulgari esse
videntur, gramaticam tanquam simie homines imitantes: nam
domus nova et dominus meus locuntur.
6. 続いてアクイレイアとイストリアの人々もふるいにかけてしまお
う。彼らは「何やっとんの?」と、粗野なアクセントで言い放つ。彼
らと同様、山岳部や農村部の言葉もすべて退けよう。カセンティーノ
やフラッタの住民のように、彼らのアクセントは、都市中心部のアク
セントから大きく隔たっているのが普通だ。
7. サルディーニャの人々は、イタリア人ではなく、イタリアの属州
の人々と思われるが、それも遠ざけよう。なぜなら、彼らだけの固有
の言葉はなく、サルが人間をまねるように文法をまねている、と思わ
れるからだ。彼らは(ラテン語を流用して)「新しい家、わが主」と
言うのである。
*
今回の第11章から、ダンテは最も優れたイタリア方言を探し出すとい
う課題に乗り出します。この章ではその手始めとして、候補になりそ
うにない各地の言葉を峻別する作業を行っています。退けられる諸方
言の特徴がどんなものなのかが重要ポイントになりそうですが、それ
らはちょっとわかりにくいところです。
まず最初に取り上げられるのがローマ方言です。隠語でしかないとま
で言われる醜悪な言葉とは何でしょうか。独訳注、伊訳注ともに、ダ
ンテが2人称の用法について問題視していたことを指摘しています。
相手に対して「tu」(あんた)を使い、相手が皇帝や教皇であって
も「Tu messor(おんた様?)」として済ませているのが粗野である、
というのですね。現代語なら丁寧語のLeiに相当するものを、用いな
い点が問題とされているのでしょう。
マルカ・アンコニターナ(ナポリ近く)方言の事例(Chignamente
scate, sciate)については、意味は不確かであると独訳注は述べ、
ご機嫌伺いの言葉であるとの解釈を示しています。さしあたりここは
それに従っておきましょう。4節に出てくるフィレンツェ人作の歌と
いうのは、田舎の淫らな歌の例だとされています。規則に準じている
というのは、詩形として整っているということなのだと思われます。
たとえば次のミラノとベルガモについての戯れ歌は、伊訳注によれば
形式的としてアレクサンドラン(12音節綴り)もしくは二重7音節綴
りの可能性があるとのことです。これなどはまさに「規則に準じてい
る」のでしょうけれど、一方で内容的には取るに足らず、諧謔的です
らあります。独訳注、伊訳注ともに触れていますが、ダンテがとくに
粗野だと評価しているのは、語尾音消失の現象なのだとか。mesaでは
なくmes、vesperaではなくvesperになっていることですね。
サルディーニャ方言について、ダンテのコメントはとても辛辣ですが、
ダンテが問題視するのはラテン語の流用のようで、それを猿真似と称
しているのですね。ラテン語をまねることがそれ自体で肯定的でない
というのは少し意外な感じもしますが、伊訳注によれば、ここではサ
ルディーニャが、ほかの方言よりもラテン語に近いという印象を与え
ようとしている、とダンテが受け止めていたのだろうということです。
。作為的になされているというのが問題なのですね。
こうしてみると、各方言はいろいろと面白いものであることもわかり
ます。さしあたり、この話はまだまだ続きます。
(続く)
*本マガジンは隔週の発行です。次号は06月22日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
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