silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.383 2019/08/31

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------文献探索シリーズ------------------------

ストア派と神(その1)


夏休みはいかがお過ごしでしたでしょうか。このメルマガもぼちぼち

と再開します。今回からはフェスチュジエールというフランスの哲学

者・文献学者による大著『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』から、

最も大きな部分を占める第2巻『コスモスの神』を眺めていきたいと

思います。とはいえ、これもまたかなり長大なものなので、2巻をま

るごと詳しく見るわけにはいきません。そこでここではポイントをス

トア派に絞り、ストア派関連の論考部分を中心に見ていきたいと思い

ます。


ストア派関連に絞るのは、少し前に個人的にプルタルコスによるスト

ア派批判(モラリア、第70論文など)を読んでみたからです。プルタ

ルコスを信じるならば、ストア派の神学観はかなり特異で、たとえば

一部の神は不生不滅だが、一部の神は生成消滅の対象になっているよ

うなのです。プルタルコスは様々なストア的論点をあげつらい、諸文

書のあいだでの食い違いなどを指摘してみせていますが、もとより基

本的に批判的なスタンスを取っていて、ストア派の教義をどれほど正

確にとらえているのかは不明です。そこで示されている、不敬的・涜

神的なストア派像が仮に正しかったとして、ストア派がどのような神

を想定していたか、それがどれほど特異なものであったか、といった

問題ははっきりとはしてきません。そのあたりに少しでも光があたる

か、せめて少しでもヒントになるようなものがないだろうか、という

のが、今回この研究書に挑んでみようという個人的なモチベーション

になっています。


今回は初回ですので、フェスチュジエールや同書について簡単に紹介

しておきましょう。アンドレ=ジャン・フェスチュジエール(

1898-1982)はフランスの哲学者・文献学者で、ドミニコ会士でもあ

りました。新プラトン主義、とくにプロクロスの研究を専門とし、ヘ

ルメス文書の編纂でも有名でした。そうした分野では第一人者とされ

た知の巨人です。


『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』は1944年から1954年まで10年

にわたって書かれた、4巻本のシリーズです。古典語などの老舗レ・

ベル・レットル社から出ていました。2006年には1冊にまとめた合本

が出ています(ここで参照するのもそれです)。著者4、50代の、研

究者として脂ののったころの著作ですね。各巻のタイトルは、第1

巻「占星術とオカルト科学」(1944)、第2巻「コスモスの神」(

1949)、第3巻「魂の教義」(1953)、第4巻「未知の神とグノーシス」

(1954)と、それぞれそそられるタイトルが並んでいます。フェスチ

ュジエールは、同書に先立って手掛けていた膨大なヘルメス文書の編

纂作業をもとに、その体系化および思想史的な位置づけを明確にしよ

うと、同書の執筆を目したようです。


ここで見ていくのは第2巻ですが、これは「世界を司る神」という観

念についての古代の教義を、時代に沿ってまとめていくというもので

す。ヘルメス文書に関する話は最初の序論(1章から3章)に集約され

ているほか、ところどころで言及されていますが、主に扱っているの

はプラトン神学やストア派などです。全体は5部に分かれ、第1部は「

ソクラテスの系譜:クセノフォンとプラトン」(4章から5章)、第2

部は「プラトンからストア派へ」(6章から8章)、第3部が「古代ス

トア派」(9章から11章)、第4部「折衷論的教条主義」(12章から14

章)、第5部「フィロン」(15章から17章)となっています。ここで

は第1部から第3部までを主に見ていくことにします。



以上簡単に、著者と文献についての概要に触れましたので、さっそく

第1部の冒頭、第4章から見ていくことにしましょう。言及するページ

数は合本版の通し番号になります。著者フェスチュジエールはまず、

コスモス(宇宙)全体を支配する神という観念が、古代ギリシアにお

いていつごろからあったのかという問題を取り上げます。同著者が最

初に指摘するのは、アナクサゴラスがアテネに滞在した前5世紀の時

点で、世界を秩序付ける神という観念はまだはっきりとは確立されて

いなかったようだということです(p.549)。しかしながらこの観念

はその後すぐに具体化し流布したようだといいます。クセノフォン

の『ソクラテスの思い出(メモラビリア)』の1巻4章、および4巻3章

などから、そうした神の観念が新しくもなく、むしろありふれたもの

であるという印象を受ける、というのです。


残存する文献が限定されているという保留つきながら、この『メモラ

ビリア』をこそ、同著者は「秩序付けの神」について言及した嚆矢で

あると見なしています。また『メモラビリア』の上記の箇所は、スト

ア派に影響を及ぼした点でも重要であると述べています。ここから議

論は、その1章4節の内容の検討へと入っていきます。


文献の参照箇所の詳細については、紙面的な都合からここでは大きく

扱うことはできませんが(本当はそういうディテールこそがこの大著

の醍醐味だと思うのですけれど)、概略的にはさらっていきたいと思

います。『メモラビリア』1巻4章では、ソクラテスが対話相手の若き

アリストデモスに、神の存在についての証拠として、まずは目的論的

な議論(4節から7節)、次いでコスモロジー的な議論(8節)を提示

します。


コスモロジー的な議論というのは、次のようなものです。人間の身体

は世界と同じ4つの元素から構成されている。人間はごく小さな存在

にすぎないが、世界はより大きな、壮麗なものである。ところで人間

には、その身体以外に魂をもち、それによって他の生物よりも優れた

存在になっている。とするならば、より壮麗な世界には、より壮麗な

魂がなければならない。すなわちそれが、世界を司る魂、世界を秩序

立てる神である……。ミクロコスモスとマクロコスモスの照応を、秩

序立てをする神の存在の論拠としているわけですね。


この議論は他の箇所にも見られるといい、同じ『メモラビリア』1巻

の17章では、心が身体を導くように、世界の知性もまた万物を支配し

ている、とされます)、プラトンの『フィレボス』28cでも取り上げ

られ、より精緻なかたちで語られています。フェスチュジエールによ

れば、タイラーという研究者は、このコスモロジー的な神の存在の論

拠がアポロニアのディオゲネス(前460年ごろ)にまで遡るとしてい

るそうです。一方でこれはクセノフォンやプラトンのほかに、アリス

トテレスにも見られるといいます。「人間の魂は世界霊魂(全体の霊

魂)に由来しているにちがいない」という考え方は、ストア派の教義

にもなったといい、そしてそれはヘルメス文書にも、論証不要の真理

として取り入れられているのですね。


……という感じで、今回は『コスモスの神』第4章の冒頭部分をまと

めてみました。今後しばらく、このようなかたちで読み進めていきた

いと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その18)


ダンテの『俗語論』第1巻から、今回は15章を見ていきます。イタリ

ア俗語のチャンピオンはどの方言になるのでしょうか。



XV 1. Illud autem quod de ytala silva residet percontari 

conemur expedientes. 

2. Dicimus ergo quod forte non male opinantur qui Bononienses 

asserunt pulcriori locutione loquentes, cum ab Ymolensibus, 

Ferrarensibus et Mutinensibus circunstantibus aliquid proprio 

vulgari asciscunt, sicut facere quoslibet a finitimis suis 

conicimus, ut Sordellus de Mantua sua ostendit, Cremone, 

Brixie atque Verone confini: qui, tantus eloquentie vir 

existens, non solum in poetando sed quomodocunque loquendo 

patrium vulgare descruit. 


1. では今度は、イタリアの森に残っているものについて検討し、結

論を出すことを試みよう。

2. というわけで、私はこう述べよう。ボローニャ人がより美しい言

葉を話していると主張する人々は、おそらく間違ってはいない。ボロ

ーニャの人々は、イモーラやフェラーラ、モデナなど周囲にいる人々

から、それらに固有の言葉の特徴を取り込んでいるからである。誰も

が近隣の人々からそうしたことを行っているのであり、クレモナ、ブ

レッシャ、ヴェローナに隣接するマントヴァについて、ソルデッロが

示している通りである。このかくも雄弁な人物は、詩作のときばかり

でなく、どんな話をするときでも、地元の俗語を使わないこととした。


3. Accipiunt enim prefati cives ab Ymolensibus lenitatem 

atque mollitiem, a Ferrarensibus vero et Mutinensibus 

aliqualem garrulitatem que proprie Lombardorum est: hanc ex 

commixtione advenarum Longobardorum terrigenis credimus 

remansisse. 

4. Et hec est causa quare Ferrarensium, Mutinensium vel 

Regianorum nullum invenimus poetasse: nam proprie garrulitati 

assuefacti nullo modo possunt ad vulgare aulicum sine quadam 

acerbitate venire. Quod multo magis de Parmensibus est 

putandum, qui monto pro ‘multo’ dicunt. 

5. Si ergo Bononienses utrinque accipiunt, ut dictum est, 

rationabile videtur esse quod eorum locutio per conmixtionem 

oppositorum ut dictum est ad laudabilem suavitatem remaneat 

temperata: quod procul dubio nostro iudicio sic esse 

censemus. 


3. 上に述べたボローニャの市民は、イモーラの人々から穏やかさや

繊細さを取り込み、フェラーラやモデナの人々からは、ロンバルディ

アの特徴である騒々しい性格を取り込んでいる。その性格は外国のラ

ンゴバルト人と土着の人々との混交により生じ、残ったものと思われ

る。

4. さらにそれゆえ、フェラーラやモデナ、レッジョの人々は誰も詩

作をしないことがわかる。自分たちの騒々しい性格に慣れているせい

で、典雅な俗語に触れるのは苦痛をともなうのである。同じ評価はパ

ルマの人々にいっそう当てはまる。彼らは「multo」(多く)と言う

べきところで「monto」と言う。

5. したがって、先に述べたように、ボローニャの人々が両サイドの

言葉を取り込んでいるのならば、彼らの言葉が、上に述べた対立する

双方の混合によって緩和され、賞賛に値する甘美さを醸していると考

えることは理に適っていると思われる。このことは、私の判断として、

疑いえないことだと思う。


6. Itaque si preponentes eos in vulgari sermone sola 

municipalia Latinorum vulgaria comparando considerant, 

allubescentes concordamus cum illis; si vero simpliciter 

vulgare bononiense preferendum existimant, dissentientes 

discordamus ab eis. Non etenim est quod aulicum et illustre 

vocamus: quoniam, si fuisset, maximus Guido Guinizelli, Guido 

Ghisilerius, Fabrutius et Honestus et alii poetantes Bononie 

nunquam a proprio divertissent: qui doctores fuerunt 

illustres et vulgarium discretione repleti. Maximus Guido: 

Madonna, lo fino amore ch'a vui porto; 

Guido Ghisilerius: 

Donna, lo fermo core; 

Fabrutius: 

Lo meo lontano gire; 

Honestus: 

Pi˜ non actendo il tuo soccorso, Amore. 

Que quidem verba prorsus a mediastinis Bononie sunt diversa. 


6. そんなわけで、イタリアの都市で話されている言葉のみを比較し、

、その言葉を選び出す人々には、私は喜んで賛同しよう。しかしなが

ら、ボローニャ方言が最も優れていると人々が端的に考えるのであれ

ば、私は即座に異を唱えよう。というのは、それは典雅で煌々たると

称しうるような言葉ではないからだ。もしそのような言葉であったな

ら、偉大なるグイド・グイニッツェーリ、あるいはグイド・ジズリエ

リ、ファブルッツォ、オネスト、その他多くのボローニャの詩人たち

は、その言葉を決して手放すことがなかっただろう。彼らは優れた教

養人であり、方言の識別も十分にできる人々だった。偉大なるグイド

は「Madonna, lo fino amore ch'a vui porto」(ご婦人よ、真の愛

を私はあなたに)と書いている、グイド・ジスリエリは「Donna, lo 

fermo core」(忠実なる心の婦人よ)と。ファブルッツォ「Lo meo 

lotano gire」(わがはるか遠くの道行き)。オネスト「Piu non 

attendo il tuo soccorso, Amore」(恋人よ、もう助けはいらぬ)。

ボローニャの街中で普段聞かれる言葉は、これらとはかけ離れている。


7. Cumque de residuis in extremis Ytalie civitatibus neminem 

dubitare pendamus (et si quis dubitat, illum nulla nostra 

solutione dignamur), parum restat in nostra discussione 

dicendum. Quare, cribellum cupientes deponere, ut residentiam 

cito visamus, dicimus Tridentum atque Taurinum nec non 

Alexandriam civitates metis Ytalie in tantum sedere 

propinquas quod puras nequeunt habere loquelas; ita quod si 

etiam quod turpissimum habent vulgare, haberent pulcerrimum, 

propter aliorum commixtionem esse vere latium negaremus. 

Quare, si latium illustre venamur, quod venamur in illis 

inveniri non potest. 


7. イタリアの最果てにある残りの都市については、誰もまったく疑

念などもつことはないだろう(もし誰か疑念をもつ者がいたとしても、

あえて回答を寄せるに足る疑念ではなかろうと思う)。この件につい

て、ここでの議論に付け加えることはほとんど残っていない。という

のも、残りの都市を手早く精査すべく、ふるいをかけることを望んで

も、トレントとトリノ、さらにはアレッサンドリアなどは、イタリア

の国境にあまりに近い位置にあり、純粋な方言をもつことができない

からである。彼らには実に醜悪な言葉があるのだが、もしこの上なく

美しい言葉があったとしても、ほかの言葉との混合ゆえに、私はそれ

が真にイタリア語であるとは認めなかっただろう。このように、煌々

たるイタリア語を探し出そうとしても、求めるものはそれらの都市に

は見いだせないのである。



ダンテの方言めぐりもいよいよ終局を迎えています。今回の箇所では

ボローニャ表現を取り上げ、これが周囲との混合によって比較的上品

な言葉になっていることを、ダンテは高く評価しているようです。こ

うした言葉の混合は、ダンテが重視するテーマなのでした。


2節めに出てくるソルデッロは、伊訳注によれば、13世紀初頭に活躍

したエステの宮廷人です。後にプロヴァンス地方に移り住み、その地

で1273年に亡くなったとのことです。とりわけプロヴァンス時代に詩

作に取り組み、イタリアの方言でも詩を書いていたようですね。この

節にあるように、詩作だけでなく会話でもイタリア方言を使わなくな

ったとすると、では使っていたのはプロヴァンス語なのか、という素

朴な疑問も生じますが、そのあたりは不明のようです。


3節めのlenitasはポジティブな意味での穏やかさで、mollitiaはやや

ネガティブな意味合いの弱さを言う、と伊訳注にはあります。また、

garrulitasはがやがやとうるさいことを言うようです。


6節の記述からは、ボローニャ方言に対するダンテの評価があくまで

比較上の優位によるものであって、端的に(つまり絶対的に)高く評

価しているわけではないことをうかがわせます。詩人として名が挙げ

られているグイド・グイニッツェーリは、いわゆる清新体の創始者と

され、ダンテが師とあおぐ13世紀の人物です。続くグイド・ジズリエ

リは作品が失われてしまっているのだそうで、記録上は同時代のボロ

ーニャに同名の者が2人いて、どちらを指すのか微妙にわからないよ

うです。ファブルッツォは両替商で政治家でもあった人物。オネスト

は、前に出てきたチノ・ダ・ピストイアという著名な詩人・法学者と

書簡のやりとりが残っているのだとか。


7節めはほかの辺境部の都市についてですが、ここでもまた他言語と

の混合ゆえに、それらを高貴なイタリア語とは認められないだろうと

ダンテは述べています。illustrisという形容詞が何度か出てきます

が、ここでは実際には見いだせない理想的なものについて語っている

ので、「名高い」と言う訳語では少しずれると思われます。そのため

今回は煌々たるという訳語を当ててみました。これまでの訳出分も若

干修正が必要になるかもしれません。謹んでお詫び申し上げます。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は09月14日の予定です。


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