silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.384 2019/09/14

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(その2)


前回から、フランスの哲学研究者であるフェスチュジエール(1898 

- 1982)が著した『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』(1944 - 

1954)という大著から、第2巻『コスモスの神』の一部(ストア派関

連部分)を取り上げています。前回は、同書の第4章の冒頭部分を見

ました。世界を秩序付ける神という、ストア派の教義にも取り込まれ

た観念が、クセノフォンの『メモラビリア』以降に広まったらしいこ

とが示されていました。今回はその続きです。(ちなみに『メモラビ

リア』は、古典サイトPerseusでギリシア語版と英語版を読むことが

できます。次のカタログのページでXenophonを参照してください。

http://www.perseus.tufts.edu/hopper/collection?collection=Pers

eus:collection:Greco-Roman)


前回の参照箇所(『メモラビリア』I巻4章)の続きになりますが、同

じ章の9節では、ソクラテスが人間の魂の不可視性と神の不可視性と

を、類比的に重ね合わせていることが示されています。同じくクセノ

フォンの『キュロスの教育』8巻7章17節、同7章20節にも、不可視な

がら魂は存在しているとの見解が見られるといい、さらにはプラトン

の対話編『法律』第10巻898d-eにも魂の不可視性への言及があると紹

介されています。神の不可視性と魂の不可視性を重ねる議論は、クセ

ノフォンの『メモラビリア』の他の部分にも散見されるようです。


フェスチュジエールは、クセノフォンとプラトンの共通の出典として、

ここでもアポロニウスのディオゲネスを挙げているウィリー・タイラ

ー(フェスチュジエールと同年代のスイスの古典学者)の説に触れて

います。その上で、ヘルメス文書への道を開くものとして、偽アリス

トテレスの『世界について』と、キケロの『トゥスクルム荘対談集』

からそれぞれ一節を挙げて、それらとヘルメス文書の記述との相似性

を示しています。詳細は省きますが、いずれも、感覚的には不可視の

神を思惟できるのは知性のみであるとの見解を示している箇所です。


続いてフェスチュジエールは、『メモラビリア』I巻4章の11節から14

節に注目します。ここはソクラテスが、人間が他の動物よりも身体的・

霊的(魂的)に優れていることを説いている箇所です。身体的にとい

うのは、直立歩行ができること、それによって手が使えるようになっ

たことを指します。12節では言語の使用、13節では霊的な面での優位

性として、神を称える知性が挙げられ、14節では動物に対して人間は

神のごとくある、ということが示されます。


こうした一連の議論の締めくくりとして17節があります。魂が身体を

導くのは、全体を思惟する神が世界のすべてを意のままに導いている

のと同様である、とそこでは結論づけられます。これは先の8節の繰

り返しでもあります。この17節についても同様に、アポロニウスのデ

ィオゲネスが出典であるというタイラー説を、フェスチュジエールは

強く支持しています。その上で、再びヘルメス文書でのその議論の扱

い方との比較を行ってもいます。


実は『メモラビリア』にはもう一つ、こうした神と人間との相似を示

した箇所があります。IV巻の第3章です。このIV巻の多くの部分は、

ソクラテスと若きエウテュデモスとの対話が占めていて、天の恩寵に

ついての議論が展開します。神が不可視だからといってその非在を信

じてはならない(13節、14節)といった話など、I巻4章の議論が繰り

返されたりもしています。


フェスチュジエールは、『メモラビリア』のこうした箇所に、「神は

被造物をもって顕現する」という考え方の最初期の表明を見てとって

います。さらにまた、キュニコス派やストア派がソクラテスという人

物像を自制と屹立の理想像としていたことから、当時この『メモラビ

リア』は、多くの人々に読まれたのだろうと推測しています。


もう一つの留意点としてフェスチュジエールが指摘するのは、クセノ

フォンの著作の時点では、神についての観念はまだ、神秘主義的なも

のではいっさいないということです。そこで観想されている世界は、

まだ抽象的なものにすぎず、たとえば美の概念のようなものは見当た

らないといいます。万物は人間の「功利」(役立ち)のためにあるか

のようであり、神もコスモスの神というよりは都市の守護神でしかあ

りません。ソクラテスは「神の恩寵にどう報いればよいのか」という

対話相手からの質問を受けて、都市の慣習に従えというデルフォイの

神の応答を引き合いに出しています(『メモラビリア』IV巻3章16節)

。つまり、各都市で行われてきた伝統的な供犠を実践せよ、という示

唆です。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その19)


『俗語論』第1巻も終盤に差し掛かってきました。今回は第16章を見

ていきます。高貴な俗語についてのダンテの考え方が明確にわかる箇

所です。



XVI 1. Postquam venati saltus et pascua sumus Ytalie, nec 

pantheram quam sequimur adinvenimus, ut ipsam reperire 

possimus rationabilius investigemus de illa ut, solerti 

studio, redolentem ubique et necubi apparentem nostris 

penitus irretiamus tenticulis. 

2. Resumentes igitur venabula nostra, dicimus quod in omni 

genere rerum unum esse oportet quo generis illius omnia 

comparentur et ponderentur, et a quo omnium aliorum mensuram 

accipiamus: sicut in numero cuncta mensurantur uno, et plura 

vel pauciora dicuntur secundum quod distant ab uno vel ei 

propinquant, et sicut in coloribus omnes albo mensurantur; 

nam visibiles magis et minus dicuntur secundum quod accedunt 

vel recedunt ab albo. Et quemadmodum de hiis dicimus que 

quantitatem et qualitatem ostendunt, de predicamentorum 

quolibet, etiam de substantia, posse dici putamus: scilicet 

ut unumquodque mensurabile sit, secundum quod in genere est, 

illo quod simplicissimum est in ipso genere. 


16章 1. 私たちはイタリアの森や草地を探索してきたが、私たちが追

っていた豹は見いださずじまいである。そんなわけで、私はより理性

的な探求でそれを見いだしたいと思う。巧妙なやり方で、どこにでも

ありそうなのにどこにもないようなその動物の匂いの痕跡を、私たち

の臭覚で捉えらられるように。

2. よって、私たちは狩りの道具を再び手に取り、次のように言おう。

あらゆる種類の事物には、ほかのすべてと比較し評価できるような、

どれか一つの個物が必要になる。たとえば数においてなら、すべての

数は1に対して評価され、また1から遠いか近いかで、多い少ないが言

われる。色においてなら、すべては白を基準に評価され、白に近いか

遠いかで明るさが判断される。量や質を特徴として示すものについて

私たちがどう評価するかは、どのようなものであれなんらかの属性、

さらには実体によると思われる。つまりなんであっても、それがなん

らかの類に属するものである限り、その類における最も端的なものと

の比較で評価できるのである。


3. Quapropter in actionibus nostris, quantumcunque dividantur 

in species, hoc signum inveniri oportet quo et ipse 

mensurentur. Nam, in quantum simpliciter ut homines agimus, 

virtutem habemus (ut generaliter illam intelligamus); nam 

secundum ipsam bonum et malum hominem iudicamus; in quantum 

ut homines cives agimus, habemus legem, secundum quam dicitur 

civis bonus et malus; in quantum ut homines latini agimus, 

quedam habemus simplicissima signa et morum et habituum et 

locutionis, quibus latine actiones ponderantur et 

mensurantur. 

4. Que quidem nobilissima sunt earum que Latinorum sunt 

actiones, hec nullius civitatis Ytalie propria sunt, et in 

omnibus comunia sunt: inter que nunc potest illud discerni 

vulgare quod superius venabamur, quod in qualibet redolet 

civitate nec cubat in ulla. 


3. それゆえ、私たちの行動においても、異なる種へと分割できるか

ぎり、それらを評価する基準となるものを見いだす必要がある。とこ

ろで私たちが純粋に人間として行動する限り、私たちは徳(一般的な

意味での)を有する。それをもとに、私たちは各人の善し悪しを評価

する。一方、市民として行動する場合、私たちは法をもち、それにし

たがって市民の善し悪しを言い募る。イタリア人として行動する場合、

私たちはそのことを表す端的な表象や風習、しきたり、そして言葉を

もつ。それらによって、イタリア人の行動が吟味されたり評価された

りする。

4.だが、イタリア人の行動において最も高貴なものは、イタリアのい

ずれの都市にも固有のものではなく、それらすべてに共通のものであ

る。私たちがこれまで求めてきた方言も、そうしたもののうちの一つ

なのだろう。どの都市にも匂いを残しながら、どこにも見当たらない

ものなのである。


5. Potest tamen magis in una quam in alia redolere, sicut 

simplicissima substantiarum, que Deus est, in homine magis 

redolet quam in bruto, in animali quam in planta, in hac quam 

in minera, in hac quam in elemento, in igne quam in terra; et 

simplicissima quantitas, quod est unum, in impari numero 

redolet magis quam in pari; et simplicissimus color, qui 

albus est, magis in citrino quam in viride redolet. 

6. Itaque, adepti quod querebamus, dicimus illustre, 

cardinale, aulicum et curiale vulgare in Latio quod omnis 

latie civitatis est et nullius esse videtur, et quo 

municipalia vulgaria omnia Latinorum mensurantur et 

ponderantur et comparantur. 


5. とはいえ、それはある都市において他の都市より強く匂うことも

ありうる。この上なく端的な実体である神の趣きが、野獣よりも人間

に、植物よりも動物に、鉱物よりも植物に、元素よりも鉱物に、土よ

りも火に強く感じられるように。また最も端的な数量である1が、偶

数よりも奇数に強く感じられるように。さらに最も端的な色である白

が、緑よりも黄に強く感じられるように。

6. かくして、私たちが求めていたものは得られたのだ。すなわち高

貴でもあり、基本的でもあり、イタリアの君主や宮廷にふさわしい俗

語である。それはあらゆるイタリアの都市にあるとともに、どの都市

のものでもないと考えられる。それはまた、イタリアすべての都市の

方言を評価し、吟味し、比較する基準となるものでもある。



前回、各地の比較から相対的にボローニャ方言を高く評価するという

結論にいたったわけですが、ダンテはここでそれを原理的な面から捉

えなおし、演繹的に説明しなおそうとしています。最初の節では、豹

を狩るという比喩を用いています。伊訳注によれば、豹は匂いを発す

る動物とされていたようで、その出典となったのはアリストテレスに

よる動物誌の記述だということです。


2節めでは、同類のものの中で比較や評価をするためには、その類の

内部に基準となる種が必要になると説いています。数字ならば基準は

1だし、色ならば白だというのですね。それはどういうものなのかと

いえば、その同じ類における最も端的な属性、あるいは最も端的な実

体、アリストテレス的にいえば原理をなすもの、ということのようで

す。再び伊訳注によれば、アリストテレス思想の中世の継承者だった

トマス・アクィナスは、「あらゆる類には、最も完成されたもの、そ

の類に属する他のすべてを評価する基準になるものが存在する」と述

べているといいます(『対異教徒大全』)。独訳注では、数字の基準

の話がトマスの『命題集注解』に、また色の基準の話が『対異教徒大

全』あることが示されています。


人の行動・行為についても、ダンテは同じ構図で考えています。評価

を下すには「類における判断基準となる種」が必要だ、ということで

す。3節めでは、端的な人間(理性的動物)、市民(政治的動物)、

そしてイタリア人(言語的動物)という分類を挙げ、それぞれ徳、法、

慣習的なものが判断基準をなすと述べています。当然ながら言語もこ

の3番めに関係するわけですが、4節めに記されているように、それら

慣習的なものにおいては、基準ないし原理は、直接的には示されえな

いものになってきます。つまりそれは全体に拡散していながら、明確

な形ではどこにも見いだせないものだというわけです。いきおい、基

準は抽象的なもの、さらには形而上学的なものとなっています。


その意味で、イタリアの宮廷に相応しい俗語も、そのままのかたちで

は現実に存在しないもの、ということになります。伊訳注によれば、

ダンテの研究者たちはここでのダンテの議論に、ダンテの言語に対す

る直観、あるいは言語的な現実についての認識が表れているとして評

価しているようです。完全なもの、最も端的なものというのは地上に

は直接的に存在しないけれども、あらゆる不完全なもののうちに断片

的に見いだされるもの、潜在的に備わっているものなのだ、というわ

けですね。そうしたものの一つとして言語はあり、こういってよけれ

ば、それは神あるいは神的なものにも重ねられています。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は09月28日の予定です。


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