silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.387 2019/10/26

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(その5)


フランスの哲学研究者フェスチュジエールが著した『ヘルメス・トリスメギス

トスの啓示』第2巻から、ストア派関連部分を見ています。まだストア派そのも

のの話ではなく、前段階にあたるプラトンについてです。前回の箇所では、プ

ラトンの対話篇における『ティマイオス』の位置づけについて議論されていま

した。今回はその続きです。現実の都市国家の基礎を築くには、人間について

の理解が必要とされ、人間についての理解を得るには、世界についての理解が

必要とされていました。ですが世界について理解するためには、様々な現象を

貫きその背後に控えた秩序、現実的な安定した秩序が、学問的な認識の対象と

して示されなくてはなりません。つまりは、現象を支える(数学的な)法則を

見いだすことです。


とするならば、まず第1に、感覚的な世界で最も顕著なもの、すなわち運動につ

いても、その運動を知的に理解できるようにする原理・法則を見いだせなくて

はなりません。そのためには、第2点として、運動の原理が難なく適用できるよ

うな運動を少なくとも一つは見つけなくてはなりません。フェスチュジエール

はこの後者に着目します。この問題は、思考によって捉えにくい動的なものに、

なんらかの理解可能性を導きいれるにはどうしたらよいか、というふうに言い

換えられます。それは、不動の原理・法則と、変化しつづける現実とをつなぐ

には、両者のあいだにどのような中間領域を見いだせばよいのか、と問うこと

にほかなりません。


プラトンは『パイドン』(中期の対話編ですね)のころすでに、現象の真の原

因と、現象が帰結するための不可欠な条件との区別を意識していました(99b)。

真の原因とは、いわば最良のかたちで事物を宇宙に存在せしめる「知性」のこ

とです。それは完全さ、秀逸さを目して事物を存在せしめるものです。事物が

しかじかの姿・かたちで配置されるのは、完全さを目的とするそのような知性

が原因(目的因)になっているからだ、というわけです。しかしながらプラト

ンはそこで、目的達成のためには副実的な要因(知性を現実とつなぐもの)も

また不可欠であるということに気づいていたとされます。


しかしながら『パイドン』でのプラトンは、まだ目的因と副次的要因の関係性

について十分に確立できずにいた、とフェスチュジエールは考えます。そうで

きなかったのは、プラトンが抱いていた霊魂観のせいだとされます。人間の魂

は、その認識対象であるイデアに従属し、イデアが恒久的なものである限りに

おいて、魂もまた永続的なものだ、というのがその霊魂観です。すると、身体

のなかの魂とはいわば「囚われの身」ということになり、身体につながれたま

まであることはある意味言語道断な状況だ、ということにもなります。このよ

うに思い描くなら、叡智界(イデアの世界)と感覚的世界とのあいだには中間

領域などないことになり、知性が感覚に影響を与えるなどのことは、謎として

封じられてしまうしかありません。


目的因と副次的原因の関係性に解決策が示されるのは、プラトンが魂に運動の

原理を認めるときからだ、とフェスチュジエールは言います。老いるにつれて

プラトンは、イデア的な理想の世界をもとに都市国家の規範を定めるだけでは

不十分だと考えるようになり、変化に富んだ現実世界そのものを考慮するよう

になっていきます。こうしてプラトンも、不動のものと動的なもの、非在と存

在、真理と臆見などの、関係性をめぐる古くからの問題系を再び見いだすこと

になります。運動に説明原理をもたらす必要が生じてきた、というわけです。


プラトンは魂にそのような説明原理を求めるようになりました。魂はイデアに

関係し秩序を認識するものとされていましたが、一方では身体に結びついてい

ることから、その運動の原理にもなっていなければならない、というのですね。

かくして『パイドン』以降、運動の原理としての新たな定義が魂に適用される

ようになります。運動の原理であるなら、魂は存在し始めることも、存在し終

えることもないはずで、その定義は従来からの魂の不死の議論を深める、新た

な証左にもなりました。


すると、運動にあふれた世界そのものもまた、魂によって動かされていなけれ

ばならないことになります。こうして世界霊魂が説明原理として引き合いに出

されるようになります。さらに、世界の運動が秩序立っていることも同時に説

明できるようになります。魂のなかにある知性がイデアを観想すること、そし

て魂を構成する実体の少なくとも一つの部分はイデアと同質であることが、そ

の説明になるわけです。


みずから運動し、しかも秩序立った運動をする……この二重の性格において魂

は、不動の叡智界と可変の感覚世界との中間に位置する、必要不可欠なものと

見なされます。イデアと現実世界とを存在論的に関連づける原理、つまりは知

性にとっての副次的要因となるのですね。それゆえにまた、知性は存在のカテ

ゴリーのなかに確たる位置づけを得ることにもなります。後期対話編の初っ端

を飾る『ソピステス』では、運動は生命に、生命は魂に、魂は知性に包摂され

るとされ(248 e 7-8、249 a)、『ティマイオス』でもその関係性が踏襲され、

さらにそこに世界の身体が加えられます。『ソピステス』で「存在の総体」(

to pantelo_s on)と称されていたものが、世界の身体に相当するとフェスチュ

ジエールはコメントしています。

(続く)



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ダンテの俗語論(その22)


今回はいよいよこの『俗語論』第1巻の最終回です。さっそく見ていきましょう。



XIX 1. Hoc autem vulgare quod illustre, cardinale, aulicum et curiale 

ostensum est, dicimus esse illud quod vulgare latium appellatur. Nam 

sicut quoddam vulgare est invenire quod proprium est Cremone, sic 

quoddam est invenire quod proprium est Lombardie; et sicut est 

invenire aliquod quod sit proprium Lombardie, [sic] est invenire 

aliquod quod sit totius sinistre Ytalie proprium; et sicut omnia hec 

est invenire, sic et illud quod totius Ytalie est. Et sicut illud 

cremonense ac illud lombardum et tertium semilatium dicitur, sic 

istud, quod totius Ytalie est, latium vulgare vocatur. Hoc enim usi 

sunt doctores illustres qui lingua vulgari poetati sunt in Ytalia, ut 

Siculi, Apuli, Tusci, Romandioli, Lombardi et utriusque Marchie viri. 


19章 1. このように、この俗語が輝かしく、枢要で、宮廷的でもあり、法廷的

であることが示されたが、それこそがイタリア語と称されるのだと私は言おう。

ある俗語にはクレモナ固有の特徴が見て取れるように、ある俗語にはロンバル

ディア固有の特徴が見て取れるだろう。ある俗語にロンバルディア固有の特徴

が見られるように、イタリアの左半分に固有の特徴も見いだせるだろう。すべ

ての俗語にそのようなものが見て取れるように、イタリア全体に固有の特徴と

いうのも見て取れるだろう。最初の俗語がクレモナ語と呼ばれ、次のものがロ

ンバルディア語と呼ばれ、3番目が準イタリア語と呼ばれるのなら、最後のもの

はイタリア全体のものなのだから、イタリア語と称されるだろう。それは、シ

チリア、アプリア、トスカーナ、ローマ、ロンバルディア、マルケなどの様々

な人々、イタリアでの俗語による詩を記した名高い著者たちが用いる言葉であ

る。


2. Et quia intentio nostra, ut polliciti sumus in principio huius 

operis, est doctrinam de vulgari eloquentia tradere, ab ipso tanquam 

ab excellentissimo incipientes, quos putamus ipso dignos uti, et 

propter quid, et quomodo, nec non ubi, et quando, et ad quos ipsum 

dirigendum sit, in inmediatis libris tractabimus. 

3. Quibus illuminatis, inferiora vulgaria illuminare curabimus, 

gradatim descendentes ad illud quod unius solius familie proprium est. 


2. 本書の冒頭で約束したとおり、私の意図するところは、まずは最も秀逸な俗

語から始めて、その俗語での雄弁術を伝えることにあるのだから、続く次巻で

は、その俗語は誰によって、何のために、どのように、いかなる場所で、いつ、

どのような聴衆に向けて使われるのが相応しいかを論じようと思う。

3. それらの点について明らかにしたうえで、私は下位の俗語についても光を当

ててみたいと思う。一つのファミリーに固有の特徴へと到達すべく、裾野へと

徐々に下りていきたいと考えている。



第1巻の締めくくりにあたる19章は、まさに全体的なまとめになっています。1

節めは、それが共通の性質をもつ理想形の言語であることを改めて述べていま

す。さらに2節と3節では、続く2巻以降において論じる諸点を先取り的に示して

います。現実には、この『俗語論』は2巻のなかばで中断しているわけですが、

構想としては、より包括的な言葉の議論を目論んでいたことがわかります。


ここで私たちも、現在残っている『俗語論』第2巻の内容をざっと要約しておき

たいと思います。第1巻が理想の俗語を求めてイタリアの方言めぐりをしたとす

れば、第2巻は詩の基本をめぐっていく感じです。理想の俗語に相応しいものと

してカンツォーネ形式を取り上げ、その様々な側面を理論づけようとしていま

す。第2巻は14章で中断されていますが、各巻の中身をざっくり(本当にざっく

りすぎて恐縮ですが)紹介しておきましょう。


まずダンテは、理想的な俗語と現実の俗語との関係性をどう考えるべきか考察

します(1章)。ダンテの基本的な姿勢は次のようなものです。高貴なものと劣

るものとを混ぜる際に、両者の区別がつくようなかたちにしかならないのなら、

混ぜないほうがよい(2章)。つまり理想形は理想形として現実の俗語とは別に

しておくほうがよいというわけです。理想形の俗語は、あくまで教養人、ある

いはなんらかのエリートたち(詩人たち)のためのものとして温存しておくべ

きだとダンテは考えています(3章)。


ではその宮廷的な俗語は、どのような形式に適しているのでしょうか。ダンテ

によれば、それはバッラータ(バラード)でもソネットでもなく、カンツォー

ネにこそ相応しいとされます(4章)。扱う主題も、喜劇よりも悲劇に相応しい、

と。ここでのカンツォーネとは、定型の詩節から成る複雑な叙情詩の形式を指

しています。11音節から3音節までの各種の詩行から成り、そこには厳密な規則

が課せられていたようです(5章)。ダンテはこれを詩句の構造(6章)、規則

性(7章)、諧調(8章)などをもとに解説していきます。続いてダンテは、カ

ンツォーネの基本単位をなすスタンツァ(詩節)について言及し(9章)、その

技術的側面の数々を取り上げて説明していきます(10から14章)。これまで見

てきたように、本来ならその細かな記述こそが面白いのですが、ここでは取り

上げることはしません。


それぞれの章には、例によって具体的な試作例や、ダンテの政治思想的なもの、

理性を重んじるスタンスなどなど、これまで1巻で示されていた諸特徴が再び見

いだせます。カンツォーネだけでなく、バッラータやソネット形式についても

深く掘り下げることが予告されていますが、残念ながらそれは文章になってい

ません。詩についての理論はこのように未完のままですが、それでも詩につい

てダンテが理知的に理論を掘り下げようとしていたことはよくわかります。こ

れまでも見てきたように、理想に裏打ちされつつシビアに現実を見る姿勢は、

とても近代的なスタンスと言えそうです。



以上、とりあえずダンテの『俗語論』1巻を一通り見てみました。いかがでした

でしょうか。『俗語論』の前に眺めていた『水陸論』もそうですが、ダンテは

古い伝統と新しい考え方の境目をなすかのようで興味深いです。また機会があ

れば、ほかのテキストも見てみたいところです。もちろんこの『俗語論』第2巻

も。


さて、この文献講読シリーズでは、次回からまたまったく異なるものを取り上

げていきたいと思います。それは、テオフラストスの『植物原因論』から第6巻、

香り・匂いについての巻です。古代ギリシアにおいて香りや匂いがどのように

受け止められ解釈されていたかが綴られています。またお付き合いいだければ

幸いです。どうぞお楽しみに。



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