silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.391 2019/12/21

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*お知らせ

もう年の瀬ですね。今年も本メルマガをお読みいただき、誠にありがとうござ

いました。本メルマガは例年通り、年末年始はお休みとさせていただきたいと

思います。年明けの次号は1月11日の発行を予定しています。来年もどうぞよろ

しくお願いいたします。皆様、よいお年をお迎えください。



------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(その9)


フェスチュジエール『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』の第2巻『コスモス

の神』から、世界神に関する議論をプラトンからストア派まで追っていこうと

いうシリーズです。前回はプラトンの後期対話篇における実定的な悪の問題を

論じた箇所(第5章の一部)を見てみました。今回はその続きで、そうした悪が

あるのであれば、世界における人間の救済はどうなるのかという問題について

です。そのあたりをプラトンがどう扱っていたのか見ていきましょう。


世界はそもそも目に見えるものだけとは限りません。プラトンにとって重要だ

ったのは、感覚的な事象を肉体の眼で見るのではなく、その背後に控えている

存在、目に見えない知性について観想することにあったといいます。いくつか

の対話篇に、そのことを示す箇所があるようですが、フェスチュジエールが挙

げているのは主に『ティマイオス』第三部の結論部分(90a2 - 90d7)と第一部

の結論部分(46e8 - 47c4)です(詳細は割愛します)。


フェスチュジエールの解説をまとめてみましょう。観想とはこの場合、一者(

神)に向かって上昇することだとされます。それはつまり、肉体的な眼で見る

もの、あるいは感覚で感じることをすべて捨象し、ひたすら知性と一体化する

こと、つまりはおのれの中にある知性を世界の知性に合一させるべく、内省を

推し進めることだというのですね。いわば個々の知性の純化です。知性は弁証

法を通じて、一者の中にあるような、知解対象すべてについての概要的な直観

へと接近していくのだといいます。


そうした知性の純化をもたらす最良の方法とされるのが、数をめぐる学知を学

ぶことだといいます。このあたりはピュタゴラス主義的ですね。その学には算

術と幾何、さらには運動についての学知が含まれます。この3番目のものは、規

則的な運動を扱うもの、つまりは天文学を指しています。ということは、天文

学は「魂の眼」を純化し活性化する方法をなしているということになります

(『国家』第7巻、527d)。もちろんこうした数の学は、あくまで予備的な手段

にすぎず、本来的には弁証法こそが真の方法とされ、それによってイデア同士

の関係や階層性が認識できるようになるとされます。少なくとも中期対話篇ま

ではそうでした。


ところが後期対話篇になると少し位置づけが変わってきます。感覚的なもの(

天空の星の観察)に結びついているという意味では、天文学は相変わらず予備

教育にすぎませんが、『ティマイオス』においては、それは予備教育の最終段

階であり、規則的な星の運動を眼にすることで、時間概念の認識や、自然の探

求へと道を開くものであるとされています。自然の探求とはすなわち「哲学」

(自然学)にほかなりません。同じく後期対話篇の『法律』でも、天文学はそ

のように扱われています。


フェスチュジエールはさらに、『ティマイオス』での天文学が、単なる予備教

育を超えて、原理としての神に直接向かう方途と見なされるようになった可能

性をも指摘しています。前回や前々回で見たように、プラトンの思想的な進展

として、知性をもった世界霊魂を世界の原理として導入するようになったわけ

ですが、それにともなって感覚的な事象である星の運行の位置づけも変わった

というのですね。世界霊魂に呼応するかたちで、人間の魂もまた規則的な運動

を原理としているとされ、天文学はそのことを思い出すための重要な契機と考

えらえるようになった、とフェスチュジエールは論じています。


それはまた、到達すべきゴールそのものも、絶対的な一者そのものではなく、

世界を司る知性へと移り変わったことをも表している、とフェスチュジエール

は言います。こうしてコスモス(秩序立った世界)の観想は、よりいっそう「

宗教的な」意味合いをまとうことにもなったというのです。


賢者となることはすなわち、天空を眺め、天空に思いを馳せることでもあり、

それはとりもなおさず、自己の内奥へとひたすら潜航していくことでもあり、

その先に永劫的な安らぎを味わうことでもある、というわけです。それこそが

究極の至福にほかならないというのです。このような観想こそ、まさに救済の

道だといいます。人よ、賢者たれ、と。しかしながらこれは、今風に言うなら

とても個人主義的・エリート主義的な救済の道です。


後世の新プラトン主義は確かにそうしたエリート主義的な孤高の道を選び取っ

てきたように思われます。ですが、その上でなお、それとは別の道の可能性も、

プラトンの思想の中に萌芽としてあった……そうフェスチュジエールは再び主

張します。別の道とは、いわゆるグノーシス派的な考え方です。グノーシスの

世界観では、世界はあくまで物質すなわち悪であり、一方で世界には神がいて、

世界は神に参与しているとされます。ある意味、細やかなニュアンスを捨象し、

多少なりとも単純化された、いくぶんなりとも敷居の低い入口を示したのが、

グノーシス派なのかもしれません。ここでは立ち入りませんが、新プラトン主

義においても、たとえばプロティノスにそうした考え方が見いだせるといいま

す。プロティノスは両者の折衷的な立場を取っていたと位置づけられています。

いずれにしても、こうして新プラトン主義とグノーシス派の2つの潮流が、ヘレ

ニズム期の神秘思想の大きな流れをかたちづくることになった、とフェスチュ

ジエールは捉えているようです。



以上、第2巻『コスモスの神』の第1部第5章のごく大まかなアウトラインだけを

まとめてみました。言うまでもないことかもしれませんが、実際にはフェスチ

ュジエールの議論はきめ細かいもので、原典の読み込みとその言い換えを通じ

て、微に入り細に入り様々な側面を挙げてアプローチしていくスタイルです(

そんなわけで、この第5章だけで60ページくらいあります)。そうした細部の検

討こそが本来は面白い部分だと思うのですが、ここではとにかく先に進み、全

体像をまとめることを主眼とします。そのため細かい議論はすべて割愛してい

ますので、悪しからず。


さて、ここまではプラトンの思想における「世界神」(正確には世界霊魂です

が)の確立について追ってきましたが、年明けとなる次回からは、いよいよス

トア派のほうへと接近していくことになりそうです。引き続きお付き合いいた

だけますよう、お願い申し上げます。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その4)


テオフラストスの『植物原因論』から、「香り・匂い」の問題を扱った第6巻を

読んでいます。今回は第3章ですね。まだ味わい(風味)と匂いがどのように成

立するかという話が続いています。ではさっそく見ていきましょう。原文はこ

ちらに挙げてあります(→http://www.medieviste.org/?page_id=9984)。


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3.1 味わいも匂いもなんらかの混合によるものであり、そのことは次のことか

らも明らかである。いかなる成分も、混合されなければ、単独で味わいも匂い

も有することはないと思われる。それは空気や火や水がそうであるのと同様だ。

水はそれだけでは無味である。ゆえに古来の人々は、水はそれが流れる土の味

がすると言ったのである。海の水や、硝酸や腐敗成分、酸を含む水なども、な

んらかの成分が混合したものであり、ときに臭いをともなうこともある。海水

が最たるものである。土および石も、そうした混合がなければ無味である。


3.2 とはいえ、土や石にはほかよりも多くの味わいがあったりする。塩辛さや、

灰の場合のように苦さなどもあれば、粘土のように甘さを感じさせるものもあ

る。土の元素が混合することで味わいが生じるのだとしたら、このことは不条

理ではない。また、鉱物やある種の石には、味わいのほかに匂いもある。そう

したすべては、なんらかの混合や変質によって味わいを有し、また匂いを有し

ているように思われる。灰は燃焼によって変質したものであるが、火によって

燃やされたものにはなんらかの味わいが生じる。あるものは端的な味わいを、

またあるものは水と混合して味わいをなす。自然(の性質)とはまさにそうし

たものだ。すでに述べたことだが、ここでもまた述べておこう。


3.3 また、味わいには三つの区分があり――植物と動物には、組成にもとづく

なんらかの匂いと味わいがあり、匂いと味わいには、意図的に混合において準

備されるものと、自然発生的な変化のものがあり、腐敗におけるのと同様に、

より良いものもあれば、より悪しきものもある――、それらすべてについて述

べることは一般的にすぎ、また概して雑然とするだろう。よってまずは自然な

味わいについて述べるべきであろう。あらゆるものにおいて最初に来るのは自

然のものであるからだ。それらは単純な成分であったり、すべて無機物のもの

だったり、さらには植物や果実に見られるものだったりする。植物は、動物に

先行するものであり、また、これまで述べてきたことともども、わたしたちの

検討の対象をなすものだからである。


3.4 土において生じる液体の風味――その最も顕著なものを挙げるなら、たと

えば酸味があるが――、植物に生じるものと同じなんらかの原因、あるいは類

似の必然的な原因によって顕著となる風味は、純粋な風味と数量的にも同じで

はないし、質的に似ているわけでもない。それは同じ調合、類似の調合がなさ

れていないせいで混濁しており、純粋な風味には比肩できない。他方、果実の

風味は多彩でひとつとして同じではなく、土から生じる風味になどまったく似

ていない(たとえば渋みや辛み、その他である)。


3.5 風味はほかの成分との混合、混成によって生じるが、それらの生成自体は

いずれも同一であると言うのでもないかぎりはそうである。風味は無限にある

のかもしれない。なぜなら混合の比率は無限だからだ。さらに成分の大小によ

る差異もそうであり、ゆえに同種の味わいも多岐にわたる(たとえばえぐみ、

油っぽさ、苦み、甘さなど)。ゆえにメネストールなどの古来の自然学者たち

は、味わいは無限にあると考えたのだ。植物の液体成分の混合と腐敗の種類の

数だけ、味わいもまた様々なのだ、と。とはいえ、味わいの区分について唱え、

そこから混合にもとづく区別をしようとした人々のほうが正しい。いずれにし

ても塩辛さは土に由来する成分に属する。それはいかなる果実にも見いだせな

いが、一方で葉や茎、さやなどには見いだせる。こうした現象の原因について

は後述する。


**


1節めでは冒頭に、enapomeixi(enapomixi)という動詞が出てきます。en + 

apo + mixei(mignumi)と分解できる動詞です。仏語訳の訳注に明記されてい

ますが、希仏辞書のBaillyには見出し語として載っていませんが、希英辞書の

LSJには入っており、「intermixture(混合)」という訳語が当てられています。

ただ、そちらの辞書でも用例はこのテオフラストスだけのようで、具体的なニ

ュアンスなどは不明です。この章は味わいが混合によるものであることを示す

箇所なので、この動詞はとても重要なタームだと思われるだけに、なにやらも

どかしいところです。こうしたもどかしさは、とくに古典語では随所で感じま

すね。


同じく仏訳注によれば、「古来の人々は云々」という部分はアリストテレス『

感覚について』からの引用のようです。テオフラストスは何げないところにア

リストテレスからの引用を挿入しているようなので、余裕があればアリストテ

レスのテキストにも目配せしていくべきところですが、ここではなによりまず、

ひたすらテオフラストスのテキストの訳出に集中したいと思います。


3節めの「三つの区分」は、ここでは素直に、動物と植物での区分、意図的に作

られるものか自然発生的なものかの区分、良いものと悪いものの区分を指して

いると解釈しましたが、Loebの英訳はもう少し複雑に、階層をなすかたちで区

分を捉えているようです。これも少し落ち着かないところではあります。いず

れにせよ、この節では一挙に記述の範囲を狭め、植物の話にもっていこうとし

ていますね。ようやく本筋のほうへと向かっていく感じです。


4節めでは、土と水が混じってできる風味が植物、とくに果実に生じる風味とは

全然違うことが強調されています。そういえば上の2節めには、灰が土の一種で

あるかのように記されています。灰は土に準じるものとして考えられているよ

うですが、それはつまり、見た目での印象、そして印象としての類似性が重視

されていることを示唆していると思われます。


5節めでは、「風味は無限だと考えることもできるが、やはり区分(分類)を考

え、区別を図ることが重要だ」と説いています。素朴なアプローチではありま

すが、まさに分析の基本の基本ということろでしょうか。途中で出てくるメネ

ストールは、仏訳注によればテオフラストスの植物論に何度か出てくる名前の

ようで、南イタリアのシバリス出身の植物学者だということです。冷・暖の対

立でもって(それはピュタゴラス派の理論なのだそうですが)植物の成長を説

明づけようとした人物とされています。


年内は以上となりますが、年明け後も引き続き読んでいきます。どうぞお楽し

みに。

(続く)



*本マガジンは原則隔週の発行ですが、年末年始はお休みとし、次号は01月11

日の予定です。


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