silva speculationis       思索の森

==============================

<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.392 2020/01/11

==============================


*あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。


------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その10)


フランスの哲学研究者フェスチュジエールの主著『ヘルメス・トリスメギスト

スの啓示』から、第2巻『コスモスの神』を部分的に要約しています。今回から

はいよいよストア派を中心に扱った第2部(第6章から第8章)に入ります。さっ

そく見ていきましょう。第2部は全体の表題が「プラトンからストア派へ」で、

第6章の表題は「時代精神(esprit du temps)」となっています。フェスチュ

ジエールはこの章で、まず、プラトンが生きた時代以降に成功を収めるように

なる、世界神を信仰の対象とする宗教について、そうした成功の心理的条件と

は何だったのかを探るところから始めています。


この第2部で中心的に扱われる参照テキストは、プラトンの対話篇『エピノミス』

(『哲学者』)と、アリストテレス対話篇『哲学について』です。前者は『法

律』に続く短編で、古来から真作かどうかが疑われてきた作品です。真作なら

ばプラトン最晩年の作、偽作であるならば弟子の手によるものとも考えられて

います。後者はアリストテレス初期の対話篇ですが、まとまったかたちで残っ

ているものではないようで、個人的にも未見です。


とにかく重要なポイントは、プラトンが没した後の思想状況の流れです。当時

は知解対象としてのイデアの教義がわきに置かれてしまい、現実世界はもはや、

観想の果てに到達する世界(叡智界)の像ではなくなり、現実世界そのものが

観想の到達点と見なされた、とフェスチュジエールは指摘しています。前回ま

でで見たように、プラトンの時代からすでに、コスモスはみずから運動するも

のとして、魂(世界霊魂)を有すると考えられるようになったのでした。です

が、ここへきて、もはや自走する天空と神的な魂とのあいだには、叡智界と感

性界のようなラディカルな違いはまったくなくなった、というのですね。


その背景には何があったのでしょうか。一つには、アリストテレスがイデア論

を批判しようとしたという哲学的な理由もありました。ですがその一方で、宗

教的な理由もあったのではないか、というのがフェスチュジエールの主張です。

その解説を次に簡単にまとめておきましょう。まず、ギリシアのコスモス信

仰(秩序立った世界とそれを統べる神への信仰)は、宗教的な信仰対象が定め

にくくなった頃合いに登場しているようです。


都市の守護神を奉じる民衆の宗教(市民宗教)から、哲学的な宗教(哲学的考

察)が乖離する状況は早くから見られていました。市民の宗教は、もともと道

徳的なものではありませんでした。時代を下るごとに、都市の神々は多少とも

道徳的な価値を獲得していくわけですが、それはあくまで社会正義的なもの(

契約の保証など)で、個人の道徳に関わるものではありませんでした。ところ

が哲学の側は、そうした都市の神々を対象に据えて、道徳的な議論を含めて考

察をめぐらそうとします。


哲学は「世界そのもの」の問題に関心を寄せ、世界の起源やその運動、法則な

どを探ろうとします。最初は世界に見られる現象の多様性を、物質的原因(水、

空気、火)に関連づけて解釈していました。原子のような微細な物質を原因と

する説も登場しましたが、一方では秩序をもたらす単一の原因に結びつける議

論(アナクサゴラスの「ヌース」論)も出てきます。そのような単一の原因は、

すぐさま最高神に結びつけられるようになります。かくしてそうした見方が、

一般市民の宗教とある種の対立関係に置かれることになりました。紀元前5世紀

の後半以降に、ソフィストたちの影響のもとでアテナイで生じたのはまさにそ

ういう状況でした。伝統的な宗教的観念はすべて問い直され、たとえば都市の

法すら、知識人たちはそれを単なる地域の約束事にすぎないと見なすようにな

ります。法を司る神々も、特定の集団が作り上げたものにすぎないと見なされ

ました。


こうした変化は、前5世紀末のアテナイの政治的危機(スパルタの侵攻、三十人

政権の恐怖政治など)と時を同じくしており、ソクラテスの死は、社会変化の

象徴にもなりました。プラトンのイデア論も、ある意味、失われた正義を取り

戻すための方途としての知、真の正義を求めるための世界観だったと位置づけ

ることができます。それ自体は宗教的な考察から出たものではなかったわけで

すが、イデア論の体系から導かれることになる、世界の秩序を司る「善・一つ」

の根源的原因は、ほどなく神と同一視されることになります。プラトンの思想

にも後期にかけて大きな変化、宗教的なシフトがあったことは、前回まで見て

きた通りです。


しかしながらプラトンのこの宗教的な企図は、時間を要する学問的修行を伴う

ものでした。これではなかなか人心に広がりを得ることはできません。エリー

ト層にとっては、もはや伝統的な神々への帰依に戻るわけにもいかず、かとい

ってこの原理としての神を奉じるための苦行も容易ではありませんし、無神論

に走るわけにもいきません。ではオルタナティブはどこに見いだせばよいので

しょうか。その端緒が、上に挙げた『エピノミス』や『哲学について』にある、

とフェスチュジエールは見ています。そこで示されるのは、まさに哲学的宗教

と呼べるものであった、と。


プラトンの死後ほどなくして、その哲学的宗教は存在感を高めたばかりか、大

衆的な神をも従えていくようになりました。それを担ったのがストア派でした。

繰り返しになりますが、プラトンの死後、イデア論はいったん廃れ、目に見え

る世界は普遍的な「存在」の一部と見なされるようになり、かくして世界宗教、

コスモスの神の信仰は、賢者の宗教であることをやめ、市民社会全体へと拡散

していくことになったというのです。これがヘレニズム期(前4世紀後半から前

1世紀後半まで)の大きな流れだというわけですね。


以上、第6章の第1節をごく大まかに要約してみました。次にフェスチュジエー

ルは、そのヘレニズム期の歴史的状況を振り返っています。それはまた次回に

見ていくことにします。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その5)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて扱った第6巻を読んでいます。

今回は第4章の前半を見ていきましょう。原文はいつも通り、次のURLを参照し

てください(https://www.medieviste.org/?page_id=9984)。


**


4.1 風味の種類は、匂いや色と同様に、7つに分かれる。これは塩辛さが苦さと

別物ではないとする場合であり、グレーが黒と別ではないとした場合と同様で

ある。辛さと苦さを分ける場合、苦さは8つめとなる。甘さ、脂っこさ、苦さ、

酸っぱさ、辛さ、酸味、渋みがあり、さらに8つめとして塩辛さが加えられる。

一部の人々は、ワインの風味を加えるべきだと考える。なぜなら、多くの実に

含まれているし、そのような風味はなにがしかの場所の土に由来するものだか

らである。さらに、ミルクの味を甘味に含めるように(場合によってはその風

味は甘さの一種に含めることができる)、ワインの風味をほかの風味に割り当

てるのは容易ではない。その自然な特性によって、ワインの風味は個別のもの

となっており、甘さや渋み、酸っぱさに近い。


4.2 とはいうものの、このことは他の見識に対して違いをなすものではないか

もしれない。7の数字は最も適切で自然なものだろう。風味のうち、あるものは

基本的なものとして、またあるものは欠如として言い表すべきだろうか。甘さ

や脂っこさ、さらにほかの風味は、発生や栄養摂取のもとになるものであるが

ゆえに、基本的なものと見なし、ほかのものは欠如と見なすべきだろうか。あ

るいはすべてを自然なものと捉えるべきだろうか。自然を最良のものへと位置

付けなくてはならないとするなら、基本的なものにのみ位置づけるべきであろ

う。いきおい、栄養摂取や発生の真の基礎もそのようなものとなる。というの

も、こう言ってよければ、基本的なもの以外を通じてなされる栄養の摂取も発

生もないからである。だが、自然を多数の種類へと位置づけなくてはならない

とするなら、基本的なもの以外のほうがいっそう、あるいは基本的なもの以外

も同等に、自然に合致するだろう。基本的とされる部分に属するものは少数で

あるからだ。


4.3 人間と対比されるほかの生き物についても、類似の問題が生じる。つまり

それらの生き物は自然によって人間と対比されるのか、欠如によってなのか、

という問題である。というのも、一部の動物はなんらかの個別性をもっている

し、植物も同様だからだ。欠如がなんらかの不完全性や不十分さを意味するな

ら、そうした(個別性をもつ)動物は発生や同種の生育を果たす以上、それら

の動物は他の動物よりもはるかに生命力が強いのであるから、欠如によって存

在しているのではないだろう。植物においては、完全な果実が成らない種もあ

り、たとえば果実の苦みが本来より少なくなるようなことがある――ヤグルマ

ギクやニガヨモギ、その他同種の植物の場合である。その場合、自然が逆向き

になっているかのようで、結果的に甘さが苦さの不足もしくは不完全な成熟か

らもたらされる。


4.4 というのも、自然はつねにそれを支えるものに同化しようとするからであ

る。このことは動物でも植物でも同様に生じる。摂取した食物がすべてにとっ

ての栄養となるのは、摂取した食物を生き物が完全に支配するときだからだ。

一部の植物は腐食したものを摂取したりもする――腐食物を苗代に再生する動

物も同様である――が、そうであるなら、摂取する食物の種類は、その生き物

が自然に即していることや、生き物本来の形成を証する十分な根拠とはならな

いだろう。むしろ(食物と生き物との)結びつきに応じて、生き物の種別分け

はなされるのである。



**


1節めでは、話がいったん戻るかのように、再び風味の種類を取り上げています。

塩辛さ(しょっぱさ)と苦さを同種に見る場合が7種類、塩辛さを別項目として

立てる場合には8種類だというのですね。塩辛さと苦さが同類だとする見解は、

すでにアリストテレスが『感覚について』で記しているようで、そこでは色が7

つに分かれるのと同様に、味も7つに分かれるとされています(仏訳注より)。

ほかに、ワインの風味を1項目として付加するという考え方もあるというわけで

すが、ワインの風味というと、甘さ、渋み、酸っぱさなどを含み持つ、とても

複雑なものになってしまいます。分類はなかなか難しいところです。


そのためか2節めになると、テオフラストスは「7つも8つも別に大差はない」と

言い放っています。7や8は伝統的に重要な数とされていました。7は素数ですが、

秘数術的にも重要な数字で、ピュタゴラス学派では完全に隔絶した存在、すな

わちモナドに類似した数であるとされていました(ホッパー『中世における数

のシンボリズム』p.58などを参照)。7つの惑星(古代においては惑星は7つと

されていたわけですね)、7つの母音、ローマの7つの丘などなど、7で分類され

るものは多々あります。8も2の3乗の「立法数」として完全な数と見なされてい

たのですが、やはり7のほうが座りがよいとされていたのかもしれません。


2節めでは、より重要な問題として、分類される個々のものは、それがもつ個別

性(特殊性)で仕訳けられるのがよいのか、それとも特徴の欠如を通じて(な

いものを数え上げて)仕訳けられるほうがよいのか、とテオフラストスは問う

ています。これはたとえば「甘さ」の分類の場合、実際に感じられるものとし

ての特徴で「甘さ」に分類するのか、渋みその他の特徴がない、他の特性が薄

いというような、別要素の不十分さをもって「甘さ」に分類するのかというこ

とでしょう。実体として分けるのか、差異でもって分けるのかということでも

あり、それは伝統的に、西欧での事象の定義の二大区分を形作っています。た

とえば否定神学などが、後者にあたるわけですね。


3節めでは、そうした肯定的定義と否定的定義の問題が、生物そのものの分類に

ついても当てはまることを指摘しています。テオフラストスは基本的な立場と

して、肯定的定義を擁護しているようなのですが、植物については反例になり

そうな現象があることを、ここで取り上げています。本来苦い実なのに、そう

ならずに甘みのある実をつけるものや、4節めに出てくる、腐食したものを栄養

として生育する植物などですね。この後者については、食物の種類だけを見て

定義するのではなく、「結びつき」でもって定義すべきだと述べているものと

思われます。


ここで「結びつき」と訳しているのはmixisで、Loeb版の英訳ではmixture(混

成・混合)と訳出しています。Les belles lettres版の仏訳ではtemperament(

気質・構成)と訳しています。仏訳注には、「混合」と訳した場合には曖昧さ

が出てしまうので、それをできるだけ低めるために、個体を特徴づける生理学

的・心理学的特徴の全体を第一義とするtemperamentを用いるほうがよい、と記

されていますが、個人的には、ここは食物の話をしているのだから、食物と生

き物との結びつきを指しているのでは、との印象をもっています。そこであえ

て「結びつき」と訳してみたのですが、いかがでしょうか。こういうところ、

訳出作業はなかなか難しいですね。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は01月25日の予定です。


------------------------------------------------------

(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)

http://www.medieviste.org/?page_id=46

↑講読のご登録・解除はこちらから

------------------------------------------------------