silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.394 2020/02/08

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その12)


フェスチュジエールの大著『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』から、第2

巻『コスモスの神』の第6章を見ています。この章では、世界神の信仰がどのよ

うに発展していったかを、社会心理的な側面から考察しています。前回の第2節

では、アテナイにおいてはその史的な衰退の歴史が、そうした信仰を呼び覚ま

す契機になったのではないかという仮説が提示されていました。今回は第3節で

す。そこでは哲学的な生、つまり「純理的生」をめぐって、4世紀後半の時代を

振り返っています。


アカデメイアで学んでいた若きアリストテレスは、プラトンのイデア論に少な

からず惹かれていたといいます。断片的にしか現存していない初期の著書『エ

ウデモス』『プロトレプティコス』(哲学への勧奨)(*)を引き合いに、フ

ェスチュジエールはそこに、ある種の悲観主義的態度を見て取っています。イ

デアの世界は非の打ちどころのない世界であるのに、人間を取り巻く感覚的世

界は欺瞞と貧しさに彩られ、おぞましいものでしかない、というわけですね。


そうした現実世界の貧しさを迎え撃つために、人は観想しなければならない…

…幾人かの哲学者たちはそう説きました。ピュタゴラスは「天空を想え」と諭

し、アナクサゴラスもまた、人が生を賜ったのは、天空、そして星々を観想す

るためであると答えたといいます。悲劇作家のエウリピデスも、「賢者」の肖

像として、天空のみに関心を抱き、世俗の恥ずべき行いなどには関心を寄せな

い者として描いてみせたのですね。前5世紀の時点で、すでに知恵者(天空を観

想する)と政治家(地上世界の物事にこだわり続ける)という対照的な二つの

生き方の対比は、明確になっていたといいます。


前にも出てきましたが、プラトンの場合は少し違っていて、自身の究極の目標

として都市国家の改革を目していました。賢人王の理想を掲げ、賢者が再び洞

窟(現実世界)に戻ることを奨励するわけですね。それはつまり、観想と政務

との二つの生を結びつけることでもありました。一方、もともと小都市スタゲ

イロスの出身だったアリストテレスは、政治には関心を寄せられず、ひたすら

哲学を目指していたようです。地方出身者だったアリストテレスは、当時のア

テナイで要職につくことなど、とうてい適うことではなかったのでしょう。


アリストテレスの『プロトレプティコス』はキプロス王テミソンに宛てた書簡

のかたちで書かれたものですが、イアンブリコスなどによる引用で断章が残っ

ているのみです。しかしながらフェスチュジエールは、そこに哲学を勧める大

きな2つの議論を読み解きます。まず1つは、哲学に励まなくてはならない理由

として、それなくしては政治的生・実務的生を正しくまっとうすることができ

ないからだという議論です。これはプラトン的と言ってもよいかもしれません。


もう1つは、哲学をなさなくてはならない理由として、知恵と学知を備えた生こ

そ、人が自分自身のために選び取らなくてはならない生だからだ、という議論

です。地上での身体につながれた魂は、いわば囚人のごとき生でしかなく、唯

一それをくぐりぬけることができるのは、知性・思惟のみであり、それこそが

探求に値するものなのだ、というわけです。ここには、上で触れたアリストテ

レス的な悲観論、天空への観想へと誘う厭世観のようなものが表れています。


では、賢者たるものの観想の対象とは何でしょうか。『プロトレプティコス』

には、次のように記されているのだとか。ピュタゴラスの言葉(「人は賢者と

して生き、学ぶために存在している」)を受けて、アリストテレスは「知るべ

き対象が世界もしくは何か別の自然なのかどうかは、後で検証しよう」と述べ

ているのですね。その「後述」箇所は現存してはいないようなのですが、フェ

スチュジエールの考え(これはイアンブリコスの引用とそのコメンタリーを参

照して導いています)では、アリストテレスが目していた観想の対象は、プラ

トンの『ソピステス』にあるように、「存在の全体」に及んだであろうとして

います。


ピュタゴラスやアナクサゴラスが「天空を想え」と勧めいたことも、アリスト

テレスの断章において称揚されているといい、それからすると、知解対象の秩

序の像であった「天空」も、観想の対象にもちろん含まれていただろうと推測

されるわけですね。そこには『ティマイオス』の影響なども見られるのではな

いか、とフェスチュジエールはいいます(もっともこれは、イアンブリコスが

新プラトン主義陣営の論者だからという側面もあるかとは思いますが……)。


いずれにしても、『プロトレプティコス』でのアリストテレスの主眼は、哲学

的な生、観想的な生を推奨することにありました。それによって、都市国家が

荒廃した当時、生きるための新たな理由をアリストテレスは見いだし、さらに

は広めようとしたのでしょう。フェスチュジエールは、国家に裏切られるよう

なときに、偉大な精神の持ち主が隠棲生活と研究に没頭することは、今なお(

フェスチュジエールの執筆当時ですから1940年代後半ごろです)ありえるし、

それはアリストテレスから続く伝統に連なるものなのだと述べています(どこ

かこれは、フェスチュジエール自身の想いも反映していそうに思えます)。そ

してまた、そうした伝統こそ、ヘルメス文書に著されるような、コスモスにつ

いての神秘思想の出どころでもあったのだ、と記しています。


ただ、客観的に見て、そうした心理的な布置をもってしても、世界神との合一

という究極の目的をなぜ目指すようになったのかを説明づけるには不十分だと

思われます。哲学的な観想にはしかるべき学知が必要とされ、それが神に向か

わせるとされるわけですが、その意味でこれは一つの宗教だったとも考えられ

ます。学知の理解、学究生活の価値づけなどは、近現代のものとは当然違って

いました。どのような差異があったのかをも視野に入れつつ、古代の学究の営

みが、いかにコスモス(秩序的世界)を信仰する宗教に結びついていたかを見

定める必要がある、とフェスチュジエールは説いています。


そんなわけで、続く第6章4節は、そうした宗教的生活の側面から、世界神の台

頭を眺めることになるようです。

(続く)


*このタイトルの訳は、藤井義夫「アリストテレスの『プロトレプティコス』

(哲学への勧奨)について」(1950)という論考から借用させていただきまし

た。PDFが次のURLからダウンロードできます。

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/4566



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その7)


テオフラストスの『植物原因論』から、匂い・香りを取り上げた第6巻を読んで

います。今回は第5章の残り部分です。さっそく見ていきましょう。いつも通り、

原文は次のURLを適宜参照してください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984



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5.3 不条理だとされること、すなわちいっそう確かな嗅覚をもったほかの動物

が、芳香を感じ取れない、心動かされないということは、実は不条理ではない。

動物は鋭敏に感じ取るが、そうした香りは(動物の)自然本性に適うものでは

なく、むしろ反するものなのかもしれない。ハゲワシについてそのように言わ

れるし、また、油に苛まれるすべての昆虫は、その匂いを逃れようとする。ほ

かの動物も、ほかの匂いに同じような反応を示す。だがそうすると、油っぽさ

は甘味の一部であるという上に掲げた原理に対して、理屈に合わないようにも

思われる――小型のアリのように、一部の動物は甘味が大の好物である。種に

適した風味は、度を超さない限り、その種にとって有害とはならないものだ。


5.4 だが、その(油の話の)原因は刺激臭に見いださなくてはならないだろう。

マヨラナやその他類似の植物も同様で、いずれの昆虫もそうした匂いを避ける

からである。動物がそうした匂いを感知しないとの文言については、一部の自

然学者が行っているように、匂いを伝える器官を原因とするのでもないなら、

私たちからすると明らかなこととは言えない。匂いはその動物に適しているか

そうでないかのいずれかだろうからだ。ゆえに自然学者たちは動物を大きさで

区別し、小さいものはしかじかのものを、大きいものはしかじかのものを好ん

で感知すると言う。だが、彼らが行う区別は十分でもないし、適切なものでも

ないだろう。知覚がなされるかどうかが決まるのは、器官や感覚においてでは

なく、むしろ能力や性向においてであるからであり、快・不快もそれに依存す

るのである。


5.5 そのことは人間にも当てはまる。同じ匂いが誰にとっても心地よいわけで

はない。ただし悪臭やつんとくる臭いの場合はむしろ(誰にとっても)そうで、

共通して嫌われる臭いもある。地の裂け目や空洞から噴き出すものなどがそれ

にあたり、近づく者には致命的となる。そうした臭いは呼吸する動物にのみ影

響するが、風味の場合と同様に、次のことも明らかである。それぞれの動物種

に適する匂いがあり、食料と無関係な芳香を心地よいと感じる動物はごく少数

か、まったくいないか、である。そのような芳香を利点と見なす動物がいるか

どうかは、いっそう不明瞭である。ただ、この話もまた目下の主題からすると

行き過ぎでもあるので、話をもとに戻そう。


5.6 それぞれの風味や香りにも、動物の場合と同様に、なんらかの自然本性が

あり、それがそれぞれの動物種の性質や組み合わせに適合するのだろう。とは

いえ、一般的かつ広範に言うなら、甘みおよびそれに類する各種の香りは、ほ

かよりも栄養価が高く、いっそう自然に合致することを意味する。ただし、そ

うした類似に反する――あるいは即していない――事例が生じることもある。

風味は、それが甘さであれば誰もが気に入るが、匂いではそのような香りはな

い。私たちの感覚器官が無力であるせいで、私たちには感じ取れない、という

のでもないかぎり、(誰もが気に入るような)類別をなす香りはないのである。

さらにまた、甘味について述べたことが端的に正しくない可能性もある。この

問題については、さしあたり以上の議論で十分としておこう。



**


前回見た第5章の1節めと2節めでは、それまで扱われていた風味と同様に、匂い

についても、動物ごとに快・不快を感じるものが異なること、あるいは人間に

だけは、芳香そのものを求める性向があることなどが述べられていました。さ

らに、人間はほかの動物よりも劣った臭覚をもっているという説にも触れ、そ

の信憑性は定かではない、としていました。


3節めでは、人間が感じるような芳香を動物が感じないとしても、それは動物の

種によって適した匂いが異なるのだから不条理ではない、としています。油っ

ぽさ(liparos)は甘味の一部として分類されるというのはアリストテレスの文

言ですが、甘味を好む昆虫などが油の匂いを忌避するのは理屈に合わないとい

う話も出ています。これについては4節めで、その場合の忌諱は刺激臭が問題な

のだろうと推測しています。


「小型のアリ」と訳出したのはknipes(knips)という語です(訳語は仏訳にも

とづいています)。仏訳注によれば、アリストテレスの『感覚について』(

444b12 - 13)に、甘さに引き寄せられる昆虫の例として「knipesと呼ばれる小

さなアリの一種」との記述があるとのことです。実際にどのような昆虫なのか

については、たとえばバイイの希仏辞書には「不詳」(mal identifie)と記さ

れていたりします。リドル・スコットの希英辞書では、小さなアリという訳語

も掲載されていますが、第一義には「イチジクを食う小動物」と記されていま

す。


4節めでポイントとなるのは、動物にとって匂いが適切なものかどうかは、単に

感覚器官の大小や、感覚そのものの鋭敏さなどで決まるのではなく、その動物

の自然本性、つまり能力や性向で決まるのだという考え方です。肝心なのは身

体ではなく、それを司る魂(現代ならば脳とでも言うところでしょう)だとい

うことですね。このあたりも、とてもアリストテレス的な感じがしますね。


5節め、6節めも重要なポイントがあります。5節めでは、悪臭は誰もが忌み嫌

う(事例として挙げられているのは、おそらく火口付近の硫黄臭などでしょう)

ものがあるとしていますが、甘味に類するものについてはその限りではないと

述べています。6節めでは、香りにも自然本性というものがあるのではないかと

述べていますが、一方で甘さを思わせる香りについて、類別をなすような香り

の「類」はない、とも分析しています。匂いの分類には限界がある(匂いに分

類はそぐわない、むずかしい)ということを、テオフラストスはきっちり見て

取っているのでしょう。


続く6章からは、植物の話に入っていくようです。それはまた次回に。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は02月22日の予定です。


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