silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.395 2020/02/22

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その13)


フェスチュジエール『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』から、第2巻『コス

モスの神』第6章を見ています。前回の第3節では、「世界への信仰」を促す契

機の1つとして、前4世紀ごろにおける哲学的生の変化を見ました。続く第4節で

は、「世界宗教」(世界への信仰)のエッセンスのほうへと考察を向けていま

す。この節はいくぶん長いので、2回に分けて眺めてみることにします。


この節でキーとなるのはもちろん「世界宗教(普遍宗教)」です。つまりあら

ゆる民族に適用可能な宗教ということですが、当然ながらそれは、ギリシア世

界が他民族を蛮族として蔑まなくなってはじめて成立することができます。そ

のような教義としての世界宗教は、前4世紀末にゼノンのもとで登場しました。

一方で、その先輩格となるアリストテレスは、そうした考えを必ずしも抱いて

はいなかったようです。しかしながら、アリストテレスが教育係を務めたアレ

クサンドロス大王は、そうした宗教観を政治的原則としていたらしいことが複

数の文献に示されているといいます。


アレクサンドロスの早すぎる死によって中断された征服の企図が、人々の精神

になんらかの痕跡を残し、かくして多民族から成るコミュニティ、ひいては世

界宗教という発想が、ある種の哲学的叡智として形作られたのではないか……。

これが、フェスチュジエールがここで検証しようとしている仮説です。そのた

めにフェスチュジエールは、まずはアリストテレスの思想がそうした思想の母

体になっているのかどうかを確認します。


具体的に取り上げているのは、『政治学』H巻(8巻)の1から12章です。同書の

執筆年代は、正確には特定されていないものの、一般的に、アリストテレスが

アテナイを去ってアソスに行った頃ではないかとされています。つまり、後の

大王アレクサンドロスの教育係になる前の一時期です。同書のH巻においてアリ

ストテレスが展開する議論は主として倫理学的なものです。まず人間の幸福に

は、外部の幸福(財による幸福)、身体の幸福、魂の幸福があるとし、そのう

ち魂の幸福こそが最も優れたものである、と断じます。そして徳と賢慮という

ものは、そうした魂の幸福のためにこそあると説きます。同じように、都市国

家の幸福にもよい条件がそろっていなければならないとし、それをもたらすの

が徳と賢慮であると論じます。個人の幸福も都市の幸福も、同じ原理から成っ

ているというわけです。


幸福な都市国家とは、そこに住まう人々が幸福に生きる都市のことだというわ

けですが、では、そこでの人々は、観想的生を送るのがよいのでしょうか。そ

れとも市政に積極的に参加するのがよいのでしょうか。先の『プロトレプティ

コス』では、観想的生にこそ重点が置かれていました。『政治学』でも、人

々(自由人)の生活としては観想的な生が推奨されてはいるようなのですが、

問題はより複雑化しています。というのも、国制を考えるとき、そこには互い

に相いれない大きな二つの側面があるからです。一つは、隣国との関係におい

て強権を振るおうとする専制的な帝国としての側面、もう一つは国内に住む人

々の幸福をもたらそうとする平和的な国家の側面です。対外的な姿と内的な姿、

と言ってもよさそうです。


アリストテレスの議論では、こうした国制の二面性に、民族の出自(ギリシア

人か蛮族か)をめぐる原理的な思考が加わり、ある種の差別的な見識(ギリシ

ア人は生得的に支配者で、蛮族は生得的に被支配者たるべき人々だ、などと断

定されてしまっています)となって、ギリシア人同士ならば諍いがあっても平

和的な対話による合意を目指すのがよいが、蛮族に対しては力でもってねじ伏

せるのがよい、などと、なかなか物騒な議論が展開していきます。自然本性と

いう原理を持ち出すことで、まずは第一の側面、つまり蛮族への強権的な支配

を正当化しようとします。蛮族の土地にもいわばギリシアの植民地を作るとい

うような、拡張主義も見られるようです。


一方、第二の平和国家の側面についても、奴隷制の維持を前提としていて、そ

こにもまた生来説、つまり奴隷(蛮族)はなるべくしてなった者たちだという

考え方が原理として擁護されていました。奴隷は土地を耕したりする基本的労

働の担い手とされ、ギリシア人は自由人として、エリート層の観想的生、もし

くは市政に関わる活動的生を営むことができたわけです。ギリシア人には敬意

をもって、蛮族には強権的に接するという、相手に応じた対応の使い分けも当

然のように示唆されていました。これこそが、アリストテレスがアレクサンド

ロスに吹き込もうとした基本的な考え方だったのではないか、というのですね。

実際これは、プルタルコスが記している、アリストテレスからアレクサンドロ

スへの助言(エラトステネスが出典です)に見られる考え方なのだとか。


しかしながらこうした蛮族の蔑視は、当時としてもことさらに新しいものでは

なく、すでにしてギリシアの伝統となっていた考え方です。そんな中、アレク

サンドロスが革新的だったのは、まさしくそうした考え方に与しなかったこと

なのですね。少なくともエラトステネスはそう述べているといいます。これは

もしかすると、アリストテレスとの関係の悪化が影響しているのかもしれませ

ん。アレクサンドロスの遠征に同行したアリストテレスの甥カリステネスの共

謀を機に、大王と教育係の関係は悪化したとされています。


いずれにしても、アレクサンドロスには世界市民的な民族の集合という発想が

如実に見られ、アリストテレスとは、明らかに路線が違っています(もちろん

部分的には、なんらかの影響関係というのもあったかもしれませんが、それは

また別の話でしょう)。ちなみにアレクサンドロスがあらゆる人々を単一の民

としてまとめようと意図していたことは、プルタルコスの文章によって伝えら

れています。『アレクサンドロスの運または徳について』と『アレクサンドロ

ス大王伝』です。


そこで示されているのは、あらゆる人間は父としての同じ神をもつがゆえに、

みな兄弟である、という考え方です。フェスチュジエールも警告するように、

もちろんここで後世のキリスト教的なものを読み込んではなりません。ストア

派の創始者ゼノンも後に同様の世界市民的な発想を打ち出しているわけですが、

それすらもここで読み込むわけにはいきません。アレクサンドロスが没したの

は前323年で、ゼノンがアテナイに学派を創設するのは311年でした。両者の影

響関係ということを云々するのには多少とも無理がありそうです。とはいえプ

ルタルコスは、ゼノンのそうした理論に、アレクサンドロスがある種の実現形

をもたらした、ということを記しているのですね。


では、アレクサンドロスの考えていた神とは何なのでしょうか。それこそがま

さに「世界神」またはコスモスの神である、とフェスチュジエールは推測して

います。アレクサンドロスの時代には、都市国家の守護神と、哲学者たちにと

っての世界神しか神はありませんでしたが、異なる人々を結集させることがで

きるとすれば、それは後者の世界神をおいてほかにない、というわけです。で

は、その世界神はどのような神だったのでしょうか。そのあたりが、この後の

話の中心となりそうです。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その8)


テオフラストス『植物原因論』から、香りの問題を扱った第6巻を読んでいます。

今回は第6章の前半になります。いつも通り、原文は次のURLに挙げておきます

ので、適宜ご覧ください。https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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6.1 植物、さらに言えば風味をもつすべてのものが、なぜ各々そうした味わい、

つまり、甘さや苦さ、油っぽさなどをもつのかは、まずはそのそもそもの形成

過程に見いださなくてはならないだろう。それについて、たとえばデモクリト

スなど、図形を用いて風味を区別している論者たちは、一部の原因について説

明できていると考えているし、論者の誰もが、それぞれの原因について個別に

説明を示すことができるとしている。一方、熟成の有無でもって甘さや苦さ、

その他の風味を分ける論者たちは、少し前に私たちが述べたことと齟齬をきた

してしまうようにも思われる。つまり、あらかじめなにがしかの熟成があるこ

とは、すべての植物や動物に等しく当てはまるように見えるのである。


6.2 だが、彼らに対しては次のことも述べておかなくてはならないだろう。甘

味、あるいは単純に食べ物の風味、匂いや芳香は、なんらかの熟成と処理によ

って生じるのであり、しかもそうした芳香は、類として捉えた場合、ほかより

も優れた熟成によるのである。そのことは、同類の香りにおいて明らかであり、

優れた熟成によるものは、熟成を伴わないものよりも、味わいもよく香りもよ

い。ただし味わいと香りは、それぞれに固有の熟成の作用によって形成される。

この点については後述するので、そこでいっそう明らかになるだろう。


6.3 ほかに先んじて取り上げるべきことがある。それは植物の本質をなす共通

の性質である。というのも、風味の生成途上においては、熟成にともなってす

べてが、別の風味からまた別の風味へと変化するからである。簡単に言うなら、

欠如の状態からかたちある状態へ、たとえば苦みや渋みから甘味や油っぽさへ、

あるいは同種のほかの味わいへと変化しうるのだ。植物のそれぞれにおいて自

然本性が分かれるように、ある植物においては風味の数が増し、またあるもの

においては風味の数が減っていく。オリーブ油が渋くなっていくように、苦さ

から変わるものもあるし、梨などのように――というのも酸味は最初渋みだっ

たものだからだが――渋みから変わるものもある。またブドウのように、最初

に渋みから酸味へと変わり、続いて酸味から甘味へと変わるものもある。


6.4 一般的に言って、ワインの風味が概してそうであるように、ブドウの風味

は実に大きな変化を被る。最初は水っぽくなり、次いで渋みが増し、酸味とな

って、その後に甘さを増す。桑の実もそうであり、渋みから酸味へ、次いで酸

味から甘味へと転じる。これはほかの同種の果実でも生じることである。酸味

はワイン風味での甘さにきわめて近いからである。ゆえに、赤くなった桑の実

はより成熟状態に近いものだが、白いものよりも酸味が強いことに当惑する人

々は、誤って当惑しているのである。なぜなら、赤くなってはじめて桑の実は

固有の風味になるのであり、白いうちは渋みのせいで固有の風味からいっそう

遠く、一般的な風味でしかないからだ。それゆえ、その段階では桑の実はいっ

そう乾燥しており、赤くなると果汁も増し、風味も増すのである。


6.5 一般に、すべての果皮は最初乾燥しているものの、やがて潤いを得て果汁

がもたらされる。樹液が流れ、ますます水分が浸透し、果実はいっそう大きく

なっていく。だからこそ、多くの果実は最初渋みがあるのも、乾燥しているこ

とを思えば当然である。水分が最も少ない果汁は、イチジクに見られるように、

粘り気のある乳液のような果汁だと思われる。ゆえにそれは一種の物質のよう

でもあり、欠乏状態にあるそうした果汁が熟成へと転じるものもあるし、その

ままの果汁が本質や最終形となるものもある。本来的に冷たく渋みや酸味のあ

る果汁も多いが、それらは最初から、ほかよりも水分が少ないのである。



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第6章は香りの形成について扱っています。最初の節では、前にも出てきたデモ

クリトスなどの図形による説明に触れた後(その説明は恣意的ではないかとし

て、テオフラストスは批判していたのでした)、pepsis(この語は発酵や熟れ

ることなどの意味があり、ここではいちおう仮に「熟成」としてみました)を

もとに説明づける説を取り上げています。本文はpepsisの内実そのものに立ち

入っていないので、説明に(訳語にも)やや曖昧さが残ります。


「少し前に私たちが述べたこと」というのは、4章4節の「自然はつねにそれを

支えるものに同化しようとする」というあたりのことのようです(仏訳注にも

とづきます)。つまり、熟成の有無で風味が異なることと、固有の風味をもっ

た食物との関連で動物の区分が生じるという話のあいだに、一見矛盾が生じる

ように思える、というわけですね。ですが、そうではないとテオフラストスは

述べていきます。


1節めの最後では、動物も植物も熟成に与ることを指摘し、2節めになると、優

れた熟成こそが芳香をもたらすという話に続いて、風味と香りのそれぞれに固

有の熟成がある、という話を取り上げています。3節めでは、熟成は風味の変化

をともない、それぞれの植物に固有の変化があることが指摘されています。熟

成によって風味は、植物種がもつ本来の風味になるというのですね。ですから、

熟成の結果、本来の風味をもつにいたった食物との関連で、それを食する動物

が区分されるという4章4節の話と、この章で示された、熟成に応じて風味が変

わることは、基本的には矛盾していません。前者は時間的な変化を考慮してい

ない関係の構造(空間的)の話、後者は時間的な変化に伴う話、というふうに

捉えることができるでしょう。


4節になると、桑の実を例として、ブドウの類が熟成段階によって風味に大きな

変化が生じることを述べています。このあたり、観察にもとづく記述という感

じで、観察眼の確かさを思わせます。もっとも、文献的な典拠もあるのかもし

れませんが……。


5節めでは、乾燥と熟成の関係に触れています。乾燥は水分の欠如状態で、果実

は一般にそこから水分で潤う状態へと変化していくわけですが、一部には水分

が少ない状態のまま最終形(種に固有の状態、つまりは本質ということです)

になるものもある、とまとめています。乾燥している状態は。いわば成分が凝

縮した状態なので、渋みや酸味が強く出るということにも触れています。


次回は6章の後半を見ていきます。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は03月07日の予定です。


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