silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.396 2020/03/07

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その14)


フェスチュジエールの大著『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』から、第2

巻『コスモスの神』の一部を見ています。前回は6章4節の途中までを見ました。

そこでは、「世界神」の成立の前提として、「ギリシア人も蛮族も基本的には

変わらない」という認識が共有される必要があること、そしてアレクサンドロ

ス(大王)のそうした基本的な見識が、教育係だったアリストテレス(初期)

の伝統重視の立場とは隔たっていたことなどが指摘されていました。今回はそ

の続きです。


後世のキケロによれば、アリストテレスの弟子だったテオフラストス(下の『

植物原因論』でおなじみの著者です!)は、世界を統治するものとして、神的

な知性、天空、星辰などを挙げているといいます。アリストテレスの教義に原

則従いつつも、テオフラストスの場合には星辰の神的な性質を重んじる立場が

読み取れるようで、ポルフュリオスが伝えるテオフラストスの『敬虔について』

の一断章では、太古の地表の民が天空の諸神を崇めていたことが記されている

といいます。そうした神々には、毎年収穫される植物の葉と根が供えられ、、

それ以外の部分は燃やし、その火もまた(神々に最も近い元素として)捧げて

いたとされています。


動物と人間は類縁関係にあると見なしていたテオフラストスは、動物の供犠を

不敬であるとして斥けていたようです。「類縁関係」とは普通、同じ両親、同

じ先祖をもつ人々の関係を言いますが、さらにそれを敷衍するかたちで、同じ

場所の住民、同じコミュニティの所属関係にまで拡大されます。万人が皆兄弟

である(類縁関係にある)と言われるときには、もっぱらこの最後の意味にお

いて類縁関係が用いられているわけですね。動物もまた、人間に類するなにが

しかの繊細さや類似性が見られる以上、そうした類縁関係が拡大適用されると

見なされることになります。アリストテレスは蛮族とギリシア人との共通性を

認めようとはしませんでしたが、テオフラストスでは両者の類縁性が認められ

ており、まさにこれは、アレクサンドロスの意図する「人々の連帯」と通底す

る見識だったことがわかります。


このような見識の変化は、また別の論者たちにも見られる、とフェスチュジエ

ールは指摘します。そこでまず挙げられているのは、アレクサルコスです。前

305年からマケドニアを率いたカッサンドロス王の弟で、アトス山近くの半島に

ウラノポリスという、世界の縮図となるべき町を築いた人物です。その町の4ド

ラクマ銀貨には、地球に坐するアフロディーテの姿が描かれていて、それがす

べての人間を結ぶ博愛のシンボルになっていたといいます。アレクサルコスは

みずからコスモポリタニズム(世界市民思想)を抱き、隣町のカッサンドレイ

アの長官に宛てた書状でも、自分を「兄弟たちの長」と名乗っているのだとか。


すべての人間を、同じ神のもとで生まれた兄弟と見るこの考え方は、この当時

としては新しいものでした。前回見たアレクサンドロス大王や、アレクサルコ

スと親交のあったテオフラストスのほか、やはり哲学者だったメッセネのエウ

ヘメロスにも共通していたといいます。エウヘメロスは、神話に出てくる神と

いうのは、実は死後に神格化された人間たちにほかならないと考えた哲学者で

す。最初の神とされるウラノス(「天」を表します)は、パンカイアという島

の最初の王だったとされ、その地の山の頂から天空を仰ぎ、天上の神々に初め

て供犠を行ったことでその名がついた、とエウヘメロスは述べているのですね。

孫にあたるゼウスもまた3代目の王で、「天の支柱」と呼ばれる山へと赴き、ウ

ラノスを讃える神殿を建造し最初の供犠をささげた者だとされています。


フェスチュジエールはこうした動きに、2つの特徴が見て取れると指摘します。

1つは、伝統的な都市の守護神への合理的かつ懐疑的な態度、もう1つは天もし

くは星辰を真の神々と見なす態度です。エウヘメロスは、当時出てきていたこ

うした信仰と、みずからが唱える理論を結びつけ、地上世界の最初の王とされ

るウラノスの神格化、そして天空の神、永遠の神との同化を論じていた、とい

うわけです。かくして、「天」は地上世界を治める王とされ、人間もまた天に

より統治されるとされたほか、天に特有の元素「エーテル」などの諸要素がそ

こに象徴的に結びつくことにもなったといいます。


プラトンが『ティマイオス』や『法律』で示唆し、アカデメイア内部で生まれ

ることになった「世界宗教」は、地元の神をもはや信じなくなっていたギリシ

アのエリート層に、瞑想する賢者となって崇めることのできる対象をもたらし

た、とフェスチュジエールはまとめています。その「世界宗教」は、征服され

た側のギリシアばかりか、征服した側のマケドニアにも受け入れられるもので

した。東方のその地では、ギリシア人と多民族が融合し、「コスモスの神」は

あらゆる人々が祈りを捧げられる共通の神ともなったのだ、と。


「世界宗教」の観念は、ストア派に帰せられることが多く、少なくともストア

派が普及に一役買っていたことが知られていますが、実はストア派が成立する

以前に誕生していた、というのがここでのフェスチュジエールの議論です。前4

世紀末の30年間に、フェスチュジエールは人類の思想史における重要な転換点

を見出しています。そしてまた、その転換点についてさらに考察するための手

がかりが、再びプラトンその人の周辺にあったことを指摘しています。こうし

て改めて取り上げられるのが、世界宗教についての最初期の論考でもあった『

エピノミス』と『哲学について』です。とうわけで、いよいよその2つの書に

ついての考察に入っていくのですが、そのあたりはまた次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その9)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて扱った第6巻を読んでいます。

今回は6章の後半部分です。さっそく見ていきましょう。原文はいつも通り、次

のURLをご参照ください。https://www.medieviste.org/?page_id=9984



**


6.6 一方で、果実は全体として植物そのものの風味をあらわにする。果実の存

在は植物によってもたらされているのだから、それは必然的なのかもしれない。

熟成していない果実では、そうした風味がいっそう強く、熟するにつれてその

風味は弱まる。(果汁の)分泌が純化していくからである。一部の果物では、

風味はそのようにして成立する。また、最初は味がなく水っぽいものもある。

たとえば小麦や大麦、その他類似の穀物類がそうで、最終的な風味は最初の状

態から直接もたらされ、それ以上の変化を被ることがない。甘さも最初からさ

ほど変わらず、しがたってそれ以上の変化は必要がない。


6.7 ゆえに風味の形成は2種類あり、それぞれがしかるべき基本的な自然本性に

もとづいているように思われる。1つは未成熟な風味が何度も変化して完成にい

たるプロセス、もう1つは、無味で特徴のない風味の場合の、基本的な自然本性

による単一の生成・変化のプロセスである。2つのプロセスのうち、こう言って

よければ1つ(後者)は一季生の植物に多く見られ、もう1つ(前者)は木々に

多く見られる。木々の果実には多くの成熟が必要だからである。


6.8 だがおそらくは、(2種類のプロセスに)先の定義を与えるほうが正しいだ

ろう。一季生の植物と木々を区別するのではなく、植物の構成全体で区別する

のである。どんな植物であれ、変化は構成に応じて生じるからである。アーモ

ンドの実は最初、緑色のうちは水分を多く含んでいるが、乾燥してくると油っ

ぽくなる。ほかのクルミの類も同様である。それらは鞘が渋く、アーモンドの

場合のようにときに酸味が強いこともあり、残留成分、土に類する成分がすべ

てそこに分泌されているかのようである。


6.9 実際、自然はここで、なんらかの混成状態の風味から、熟成によって単一

の風味を切り出しているように見える。それはほかの(生成の)場合とは逆で

あるようにも思える。ほかの場合は混成から生成がなされるのに対して、ここ

での場合には、もとの状態の一部から、あるいはもとの状態そのものから、除

去や分離によってもたらされているからだ。この場合のもとの状態とは甘さで

あり、言ってみれば、それは熟成が生じるもとである。


6.10 しかしながら、その問題にはまた別様の研究も必要だろう。身体が元素の

混合から成るように、すべての風味が苦みと甘さの混合から成るとすれば、上

の説は成り立たないことになろう。さらにまた、別の問題として、それらの混

合から何も生じないのだとすれば、風味は別の何かから生じることになる。そ

のような自然本性はもとの状態には含まれないからである。「もとの状態」と

いう言葉が多義的でなく、幾通りもの解釈がない限りでの話だが、これまで一

連の同様の概念で表してきたように、ここではまさにそれに該当すると思われ

る。けれども、これはまた別の話であろう。



**


前回見た6章の前半では、熟成をキーワードとして、風味や香りの形成について

述べていたのでした。変化の様相を簡潔に記しているという感じでしたね。今

回の部分では、さらに追加的な記述が加えられています。6節めでは、果実が植

物に固有の風味を体現することが記されています。熟成を繰り返して最終的な

風味に達するものもあれば、最初の状態からそれほど違わずに最終形に達する

ものもあるというわけで、後者の例としては穀物の実が挙げられています。


それらの違いを、7節めでは木々と一年草とに振り分けていますが、8節になる

と、その振り分けはどちらかというと誤った区分かもしれないと保留を付けて

います。「先の定義」と述べているのは、植物がそれぞれの自然本性で分かれ、

風味もそれに応じて様々であるという、6章3節あたりの記述を指しているので

はないかと思われます。ここではそのことを「植物の構成全体で区別」と言い

換えています。


一方、9節めと10節めは、少なからず問題含みです。アーモンドなどの実は、多

様な味わいを削ぎ落していって最終的な風味を獲得するようだ、と9節では述べ

ていて、ほかの植物の場合、つまり様々な味わいが徐々に混じり合っていくよ

うなプロセスとは逆であるように思える、としています。初期状態から減算す

るのか加算するのかの違いということですね。そのことを強調するためでしょ

うか、「もとの状態の一部から、あるいはもとの状態そのものから」とここで

訳出した部分を、Loeb版の英訳では、「ほかの場合は初期の風味(複数)が源

泉(複数)、ここでの場合では初期状態の風味(単数)が結果(単数)となる」

という感じで訳しています。ちなみにここでの訳出については、仏訳のほうを

参考にさせていただきました。とはいえ、どちらを選択すべきか、ちょっと悩

ましいところです。


10節めは、さらに別様の仮説が述べられている箇所です。ここにも問題点があ

ります。同じく仏訳に準ずるたかたちで「上の説は成り立たない(caceino 

atopon)」と訳出した箇所ですが、英訳では、「成り立たない」のはその後に

続く文節の内容であると解釈し、「すべての風味が苦みと甘さの混合から生じ

るとの説は成り立たない」のように訳しています。


そうすると、その後の解釈も変わってきます。英訳では、「その2つから何も生

じないという説も同様であり、その2つがほかから生じるのである。なぜならそ

れは初期の事物の自然本性ではないからだ」のようになっています。大きな違

いは、仏訳は風味一般を主語と考えているのに対して、英訳はこので言われて

いる2つの風味(苦さと甘さ)を主語に立てていることです。これまたどう解釈

するのがよいのか判断に迷うところですが、全体的な流れから、ここでは仏訳

寄りの訳にしてみました。ほかの言語での訳文もそのうち参照してみたいと思

っています。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は03月21日の予定です。


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