silva speculationis 思索の森
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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>
no.397 2020/03/21
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------文献探索シリーズ------------------------
神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その15)
フェスチュジエールの『ヘルメス・トリスメギストスの啓示』から、第2巻『コ
スモスの神』の一部を見ています。前回まで第2部第6章を見ていました。続く
第2部の第7章では『法律』の続きとなるプラトン最晩年の作、もしくは弟子に
よる作とされる対話篇『エピノミス』、また第8章ではアリストテレス初期の対
話篇『哲学について』を取り上げて論じていますが、これらはすでに概要につ
いて言及もありましたし、また本文は少し煩雑な細部にこだわった議論になる
ので、唐突ではありますが、ここではあえて割愛したいと思います。予定を変
え、今回からストア派を扱った第3部を見ていくことにします。
第3部「古代ストア派」には、第9章から第11章までの3つの章が含まれていて、
それぞれ「ゼノン」「道徳体系」「世界宗教」という章題が付いています。今
回はまずこの第9章「ゼノン」から始めましょう。ゼノンとはもちろん、ストア
派の創始者とされるキティオンのゼノンのことです。では、以下、この章の要
約です。
前回までに見たように、前4世紀末には、社会情勢の変化にともない人々の不安
が高まっていました。その中で思想においても新しい学派が生まれていきまし
た。たとえばエピクロス(あるいはピュロンもですが)は、そうした不安に対
応すべく、次のように説いていました。人間社会を逃れて小さな庭園で隠棲生
活を送り、友愛や魂の彫琢の喜びにふけることのみを望めば十分なのだ、と。
ですがそれでは、社会生活のある基本的な欲求が満たされません。つまり、行
動の欲求、高貴な務めを企て、大義に身を呈する欲求です。
アテナイ人にとって、それまでそうした愛情と献身の対象となっていたのは都
市国家そのものでした。その自由国家が、国外の勢力の支配下に置かれてしま
うと、都市の統治の意味合いも変わってきます。理想の対象はほかのどこかに
見いださなくてはなりません。それは何でありうるか、と問うた人々の一人が、
ほかならぬゼノンだったのです。
ゼノンは、プラトンにおいて明らかではなかった点を考えることになります。
ギリシア人にはもともと社会集団的な発想が伝統としてあり、都市の成員の一
人が輪を乱すことを倫理的によしとしなかったといいます。いわば「相互交流
の徳」が尊重されていたわけです。プラトンはこの徳をある意味純化し、イデ
アという大義を掲げ、その理想に近づけることこそ賢者の証として、イデアの
観想を推奨します。ですがいかんせん、そこには「体系」というものが欠けて
いました。つまり、現実世界の秩序と個人の幸福を貫く支えを、どこに見いだ
すのかとの問いが、なかなか前面に出てこないのです。
ここで、ストア派と並び称されるエピクロスに目をやると、彼は人間の姿をし
た従来の神々を尊重しつつも、それらが人間に及ぼす影響などは認めずにいま
した。一方で、星々を神格化するような考え方にも反対でした。しかしながら
前にも出てきたように、当時のアテナイ市民たち、とくにエリート階級の人々
は、もはや従来の神々に満足できなくなっていたのでした。一方でアレクサン
ドロス大王とその後継たち(ディアドコイ)によって、都市国家はいわゆる「
古代世界」全体へと拡大され、もはや山や海で囲まれた限定的な領土から成る
小さな町ではなくなっていきました。
ギリシアではもともと、国家の概念に宗教的(地元の神を崇める)共同体とい
う意味合いも含まれていました。そのため、拡張された国家を束ねるためにも、
なんらかの宗教的シンボルが必要となります。ゼノンの功績は、まさにそのよ
うな精神面での拠り所の必要性を理解したことにありました。それがエピクロ
スにはない視点だと、フェスチュジエールは捉えています。ゼノンはまず、拡
張された都市国家に、あらゆる人間、すなわち世界市民から成る「世界都市」
という概念を適用します。都市概念の「入れ替え」です。理想的な政体が描か
れれば、人々の社会的な義務と個人の幸福とを共存させうるようになる、とい
うわけです。
宗教的シンボルの必要性に関しても、ストア派は学術的な宗教を提唱し、応え
ることになります。フェスチュジエールによれば、ゼノンにとっての神とは、
コスモス(世界)のあらゆる存在を貫き、導く、至上の理性(ロゴス)にほか
なりません。人々はその神のおかげで、自身の徳を育み、そして幸福でいられ
るというわけです。しかもその神は、法治国家の全体を支配する「ロゴスとし
ての神」でもありました。私的なものであるばかりか、公的なものでもあった
のですね。
ゼノンが示したこの体系は、オリジナルなものではなかったとフェスチュジエ
ールは指摘しています。ゼノンは前311年にアテネに居を構えます。それ以前、
キュニコス派のクラテスや、アカデメイアを継いだポレモンなどに師事し、前
301年ごろになって弟子を取るようになったとされます。それら諸派から借用し
た概念を、ゼノンは巧みに自前の体系に取り込んでいきました。とはいえ、肝
心なのはいかに一貫した体系を構築し、わかりやすい構成でそれを示すかにあ
りました。その点で、ストア派は他の諸派に勝っていたといいます。
ゼノンは、肝心なことは2つあると理解していました。短期的な行動のルール
を与えること、そして同時にその立脚点となる背景、すなわち世界についての
説明を示すことです。ギリシアの人々が、自分の営為に存在理由があることを
理解し、何らかの大義に仕えることを納得できるようにするというわけです。
しかもその際の説明は、できるかぎり平坦なものでなくてはなりません。それ
を理解することによって、信仰心も強められるものでなくてはなりません。
そうした要請に、ゼノンは巧みに対応したようです。アテナイではあくまで外
国人だったゼノンは、ゆえにアテナイ人が過去の栄光に結びつけて賛美してい
た民主主義をとりたてて拝することもなく、アカデメイア派の伝統と自身の体
系とを結びつけて、宇宙を率いるロゴスの地上世界でのイメージ、すなわち哲
人王の王政こそが理想であると説いたのでした。禁欲的で、笑うことも少なか
ったというゼノンは、一見したところ人に好かれるタイプではなかっただろう
とされます。しかしながら哲学者としてのその功績は高く評価され、亡くなっ
たときには、王がケラミコスの墓地(戦場で名誉の死を遂げた者だけが入れる)
に正式な墓を用意するよう求め、市民もそれを宣言した、とされています。
(続く)
------文献講読シリーズ------------------------
古代の「香り」(その10)
テオフラストスの『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見ています。
今回は7章の前半です。いつも通り、原文は次のURLに揚げておきますので、適
宜ご参照ください。https://www.medieviste.org/?page_id=9984
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7.1 風味の形成は上記のようになされる。特徴を欠いているところから特徴を
もつようになるか、あるいはある風味から正反対の風味に転じるかである。そ
のすべてに共通する物質は液体である。また、変化をもたらす要因としては熱
があり、それは内部のものか、太陽によるものがある。先に述べたように、こ
の太陽による熱は、植物にいっそう固有のものである。味わいの変化や変容は
動物にも見られるものではあっても、内部の熱によるとされる動物とはそこが
違うところである。
7.2 デモクリトスにとって風味がいかに相互に形成されるかは問題含みだろう。
というのも、図形が変化することになるからだ。たとえば不等辺三角形から鋭
角三角形になったり、円筒形になったりするかもしれない。あるいは、渋味、
酸味、甘味など、すべての風味(の図形)が揃っている状態から、初期のもの
が連続的に切り離され、残りが存続したりするかもしれない。あるいは3つめと
して、あるものは出ていき、またあるものは入ってきたりするかもしれない。
不可分のものは影響を受けないのだから、図形の形自体が変わることはありえ
ない。したがって残る可能性は、新規の図形が入ったり、古い図形が出ていっ
たりすることだけだ。だがこれら2つの仮説はいずれも非合理である。なぜなら、
何によってそうした出入りがもたらされ、性質を変えるのかの、補足説明が必
要だからだ。だが(私たちはここまでとしよう)、その議論はさらに多くの点
に関わるだろう。というのも(デモクリトスによれば)、図形の変化が、実体、
性質、量など、あらゆるものの生成をなすからである。
7.3 熱による熟成により、あるものはほかの要素から分離され蒸発し、あるも
のは厚みがまし凝集される。またあるものは薄くなるし、火で熱せられる場合
のように、端的に言うなら変質するものもある。全体的なこととして受け止め
ておくべきは、風味はすべて可能態としてあり、そこに変化がもたらされるこ
とで現実態になるのだということである。風味には、熱が加えられることで、
直接知覚できるようになるものがある。甘さや油っぽさなどだ。この後者の風
味は、一部の植物を搾るとそこから流れ出るが、そのようにして多くの果実か
ら分離することができる。
7.4 ミルテにおけるワイン風味のように、それほど鮮明でない風味もある。油
っぽい風味はいっそうそうである。その成分は、絞った果汁に油膜のように浮
かぶが、ランプで燃やすことで取り除かれる。すべての風味は、果皮から分離
すると混じりけのないものになり、時間が経過するほどいっそうそうなる。と
いうのも、それだけ水分が蒸発し、土の成分が残留するからだ。いずれも果汁
の内部に秘められた熱による作用である。果実を摘んだ後、今度はその果実そ
のものの中で変化が進む。クルミのほか、同じように油っぽい木の実は、ここ
で述べた理由により、時間が経つにつれていっそう油っぽくなる。
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7章では、風味(香りも含めて)の形成・変成についての話が続いています。1
節めでは、熱が重要な働きをしているという話が取り上げられていますね。熱
には身体内部の熱と、外部からもたらされる太陽の熱があるとして、動物の場
合には内部の熱、植物の場合には外部の熱が重要だ、と振り分けています。
仏訳注によると、テオフラストスは植物にも内部の熱はあると考えているよう
なのですが、それは人間には知覚しえないようなものにすぎず、結果的に植物
の場合、太陽の熱こそが重要とされるということのようです。太陽との関係が
植物を特徴づけている(実際は光合成ですが)という認識は、なかなか正鵠を
射ている、と同注では評価しています。
2節めになると、再びデモクリトス批判が展開しています。以前出てきた、風味
を図形で説明づけようとするデモクリトスの恣意的な理論では、風味の形成・
変成は説明できないという主旨ですね。テオフラストスは説明の可能性がさし
あたり3種類あるとしていますね。単純に図形が変形するか、複合的な図形の共
存状態から、一つずつ切り離されていき、残ったものが最終形になるのか、あ
るいは新しい図形が入ってきたり、古い図形が出て行ったりするのかです。具
体的に想像するのが少し難しい気もしますが、1つめについては図形そのもの
が変化するのはありえないとし、残り2つについても、そうした出入り(ある
いは切り離し)を生じさせるものは何か、といった説明が必要になると反論し
ています。
3節めは、風味というものが可能態としてあり、熱による変成が加えられること
で現実態になるのだという考え方が示されています。可能態/現実態というタ
ームもアリストテレス哲学に固有のものですね。不定形のもの、まだ現れてい
ないものに、なんらかの作用でもってかたちが与えられる、特徴が浮上すると
いうのが、ここでの可能態から現実態への変化の意味するところでしょう。
4節では、抽出された果汁の風味は、時間の経過とともに強まっていくことが示
されています。ここで出てくるミルテ(ミルトス)は、ギンバイカともいい、
地中海原産の植物で、その実はリキュールを作るのに使われているそうです。
辞書などによると、古代においては愛と栄光の象徴だったとか。ここでは、ワ
イン風味に言及していますが、それは以前の章でテオフラストスが基本的な味
わいとして区分することを提唱した風味です。
7章後半では、今度は風味の劣化についての話になっていくようです。それはま
た次回に。
(続く)
*本マガジンは隔週の発行です。次号は04月04日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/?page_id=46
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