silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.399 2020/04/18

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*お知らせ

社会的混乱が続いていますが、こんな大変なときでも本メルマガをお読

みいただき、ありがとうございます。本メルマガは原則隔週の発行です

が、例年、4月下旬からの連休はお休みをいただいております。今年も

例年同様とさせていただきたく、ご一報申し上げます。次号は連休明け

の5月9日を予定しています。ご理解のほど、よろしくお願いいたします。



------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その17)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派の道徳論について記した第10章を見て

います。前回の箇所では、ストア派の道徳論がコスモロジーから導出さ

れていることが示されていました。今回はその続きの部分、ストア派の

道徳論の諸テーマを扱った箇所をまとめていきたいと思います。


まず、これは確認になりますが、個々の存在に宿っているとされる神の

ロゴスは、人間においては知性として発現します。そのためストア派に

とって真の賢者とは、「知る」者だとされます。ストア派の説く道徳は、

そんなわけで基本的に知性主義的なものとなります。


神のロゴス(理性、法則)はさらに、必然が支配する世界秩序をも表し

ます。フェスチュジエールによれば、ギリシアにおいては矛盾する同士

だったゼウスと運命(の女神)との対立は、ここにおいて解消されるに

至ったとされます。ストア派からすると、運命とは神のロゴスにほかな

らず、賢者であるならば、その運命をも洞察・知解できるはずだという

のですね。もちろん人間である限り、見通す限界はあるわけですが、そ

れでもすべてが秩序のもとにある、あるいは一貫性を保っているという

確信によって、その者は安らぐことができることになります。


秩序を理解した賢者は、その秩序にある種の愛をもって奉じることにな

ります。知性が突きつけてくるそのような対象は、まさに完璧なものに

ほかならないからです。世界を構成する諸対象は、世界にとっても、ま

たそこに住まう個々の存在にとっても完璧なものであるがゆえに、スト

ア派では「自然に即して生きよ」という教えが、同派の主要な教義とし

て唱えられることになります。なにしろそれは、神のロゴスに合致して

生きることにほかならないのですから。人間の自然本性も、全体の自然

の一部をなしているのですから、自然に即して生きるとは、自分自身の

自然本性に即して生きる、そして全体としては普遍的な自然に即して生

きることを意味します。


ストア派がそこから導き出す徳の概念も、個人の理性と意志を、普遍的

な理性と意志に合致させようとすることにあるとされます。つまりそれ

は、合致を求める魂の性向、あるいは姿勢ということになります。した

がって徳は一つで不可分なもの、と解釈されます。ストア派以前の哲学

諸家のように、「徳は複数あって、一部は自然本性に結びついているが、

一部は経験を通じて獲得される」というような考え方を、ストア派は端

から持ち合わせていません。


ところがここからは、「ストア派の逆説」も導かれてしまいます。徳が

一つであるならば、人は徳を有するか有さないかのいずれかになり、結

果的に、徳をもつ善なる人と、徳をもたない悪しき人に分かれてしまい

ます。その類別は恒常的なものとなって(ひとたび徳を有するならば、

徳を有さないという状況は考えられなくなるわけです)、固定されてし

まいます。有徳の者はひたすら有徳で、そうでない者はそのまま取り残

されてしまう、と。


ゼノンの求める道徳は(古代の道徳がいずれもそうであったように)、

至高の善をひたすら目指すものです。繰り返しになりますが、至高の善

とは、神の理性や意志にひたすら付き従うことを意味します。それを目

指したが最後、そこからの逸脱はありえないとされ、その至高の善にた

どり着ければ、人はそこで平穏に、安寧に暮らすことができるようにな

るのですね。しかしながら、すると善を追い求める以外のことはまった

く重要とは考えられなくなります。善以外のことはすなわち悪であり、

賢者にとってはもはや顧みるにも値しない些末なことでしかなくなりま

す。


万人に開かれた世界市民的な宗教観をもちながら、一方でエリート主義

的で閉じた、硬直した道徳論を展開できてしまうところが、まさしくス

トア派の逆説的なところです。ストア派の道徳論を突き詰めると、そこ

には、ひたすら自己充足的で、外部をシャットアウトした超絶的な生が

肯定されてしまうのです。賢者はその中で、ある種の「諦念」をもって

不活性な生へと陥ってしまう可能性が大です。


しかしながら、そうした静寂主義的な方向に向かうかに見える思想を唱

えつつも、ゼノンは一方で教育の重要性を強調し、家族をもつことの意

義を説き、公務から遠ざかるようなこともしませんでした。社会生活が

実践的に称揚されていくかのようです。フェスチュジエールによると、

エピクロス派とはそこが違うところだとされます。


実際にストア派は、ヘレニズム期の歴代の統治者たちに多大な影響を及

ぼすことになりました。ゼノンはカルタゴの王アンティゴノスに影響を

与えましたし、スファイロスはプトレマイオス2世やスパルタのアギス4

世、クレオメネス3世などから高く評価されていたといいます。ストア

派の教義が説くような賢者が、単なる瞑想者や運命論者などではなかっ

たことが、そうした実績に示されている、とフェスチュジエールは述べ

ています。現実世界の実に多彩な営みに参入し、神の法に則るよう意志

の是正を求め続け、そればかりか状況に即した適切な対応をも考慮でき

るような者。それこそが、ストア派にとっての真の賢者ではなかったか、

と。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その12)


テオフラストス『植物原因論』から、匂いの問題を論じた第6巻を読ん

でいます。今回見ていくのは第8章の前半です。ワインに続き、今度は

オリーブが話題の中心です。オリーブの油はどのようにしてできるのか、

という問題が取り上げられていきます。原文はいつも通り、次のURLで

ご覧ください。https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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8.1 オリーブに生じることは、それが本当であるならば、独特である。

アークトゥルス(大角星)が昇った後、オリーブは夏に蓄えた量以上の

油を増やさず、また実の核の部分が硬くなり、果汁を油に転じさせるこ

とができなくなる、とされる。結果的に、自然本性の偶発的な影響を

(油の生成の)区切りとするのであれば、核の部分を基準に見なければ

ならないし、季節で区切るのであれば、(上述の)星の沈みを基準にし

なければならない。おそらく両者(油への変化の終了と核の部分の硬化)

は同じ原因で生じている。(核の硬化は)熟成によるものであり、油へ

の変化はいっそうの熱による。


8.2 一部の人々はこれに、真実らしさと感覚的な面から異を唱えている。

真実らしさでは、オリーブが雨季に栄養を蓄えないなどありないとし、

感覚的には、経験から次のことは明らかだからだとしている。つまり若

い実を圧搾して取れる油は少なく、最も多くの油をもたらすのは、遅く

なってから収穫されたもの、冷気により完熟し最適な状態になったもの

なのだというのだ。十分に成熟が進み、また冷やされたことで、水分が

失われ、残りの部分の熟成がよりよく進むからである。以上が反論の論

旨である。


8.3 水分とそれ以外の部分のせいで、(油が)いっそう蓄えられている

ように見えることは、ありうると思われる。オリーブが黒ずむ前に油を

含み持つことは明らかであり、その油はより純粋でクリアなものでもあ

る。白い油は、未成熟の質の低い実から取ったものだからだ。若い実を

絞った油には多少の苦みが混じることも、不思議なことではない。苦み

は、さらに後になって成熟が進めば消えてしまう。苦みは油の多さ・少

なさを測る指標ではなく、花托など周囲のものからも風味が影響を受け

ることの証なのである。若い実からも(油が)取れることから、(油の

生成が)果皮の熟成を待たずになされることは明らかである。そのため、

生成物が生じるもとの物質を、オリーブはあらかじめ含み持っているこ

とを挙げて、(油の増分が)潜在的に含まれるのか実際に含まれている

のかを見分けることはできない。


8.4 端的なものであれ、微量のものであれ、本当に(油の)増加がある

なら、その原因は何で、どのように生じるのだろうか。(8.1と8.2の)

二つの仮説はいずれも実情に即していない。一方は他方よりもそうであ

る。まず第一点として、果汁の熟成は、果皮を食に適するようにする熟

成と同じではない。果皮も味わいに適したものにならなければならない

が、それは土の成分の変化による。ときにそれは分解と称される。オリ

ーブの実は木についたままで分解するとされる。第二点として、オリー

ブの油は果汁が変質したものにほかならない。これはいっそう実現が難

しいプロセスであり、それだけに、土の成分や水分と果汁が混じらない

うちに、いっそうの熱を直接加えられるとしても不思議ではない。


**


第1節では、オリーブの油が一定の時期から増えなくなり、また核の部

分が硬くなることを述べて、その原因が熱による熟成にあるとの説を唱

えています。しかしこれは必ずしもテオフラストスが賛同するものでは

ありません。


文中に出てくるアークトゥルス(大角星)は、牛飼座の主星(一番明る

い星)で、麦を刈り入れるころ(5月)に頭上に上ることから、日本で

は麦星などとも呼ばれているそうです。仏語註によると、ここでの「ア

ークトゥルスが昇るころ」とは、9月半ばごろの季節を指すようです。

後のほうで出てくる「星の沈む」頃合い(星とはもちろんアークトゥル

スのことです)というのは、古代の暦では10月末から11月初めごろを言

うとのことです。つまり、オリーブが熟するのは9月末から10月末にか

けてということになります。


第2節は、仮説に対する異論を挙げています。油の生成がある時期で止

まってしまうのは本当らしくないし、感覚的(経験的)にも、遅い収穫

の実のほうが取れる油も多いということが語られています。leucosは

「白い」という意味ですが、ここでは若い実(緑の実)のことを指して

いますね。


第3節からは、上の2つの節での話をも踏まえての、テオフラストスによ

るコメントとなります。まず感覚的(経験的)な議論(遅い収穫の実が

油が多い、つまり油は微増しているという説)に対しては、そのように

見えることは当然ありうると述べています。若い実からももちろん油は

取れので、ここから、油をもたらすもとの物質を、オリーブはあらかじ

め含み持っていることが導かれそうですが、だからといって現実に油が

増えているのか、潜在的に含み持っているだけなのかを見分けるのは不

可能だとコメントしています。つまり実際のところはわからない、。


aggeionという語は、入れ物、容器のような意味ですが、ここでは花托

と訳出しています。花托というのは被子植物において、花の付け根にあ

たる、茎が厚くなった部分を指す専門用語のようで、果実に育つところ

に相当するようです。オリーブも被子植物なので、この用語を用いるこ

とができるだろうと推測していますが、この訳語で本当によいかどうか

は今一つ不明確です。


第4節では、まず、先に挙げられている「二つの仮説」を、どちらも実

情にそぐわないとして退けています。仏語註によると、二つの仮説とは、

第1節と第2節で示された説、つまり(1)9月半ばでオリーブの油は増え

なくなる、(2)秋の雨季にこそ油は蓄えられる、の二つを指します。

「一方は他方よりもそうである(実情に即していない)」と言うときの

一方とは、上の(1)の議論のようです。


テオフラストスは続いて、油が遅い時期になっても増える(端的に増え

るか、些細な量が増えるかはさておき)という主張に、二つの論点から

コメントしています。一つは、果皮の熟成と果汁の熟成が別プロセスで

あるという点、もう一つは、油は果汁が変化したものだという点です。

テオフラストスはここで、遅い時期における油の微増を認めつつも、油

の生成の原因を熱だとし、夏の間の果汁の変化を重く見ています。果皮

の変化、核の硬化のプロセスは、果汁の変化とは別のプロセスだと推測

しているのも興味深いところです。


次回は第8章の後半部分を見ていきます。さらなるコメントが続きます。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行ですが、連休につき、次号は05月09日の予定

です。


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