silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.402 2020/06/13

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その20)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を見ています。前

回は10章の末尾部分をまとめました。これまでは、紀元前4世紀の思想

状況について、プラトンやアリストテレス、そしてストア派を通じて、

都市国家のある種の衰退にともなう世界神の創設、そして万人をその神

のもとに平等と見なすコスモポリタニズムが登場してくる情勢を見てき

ましたが、続く11章からはその後のストア派についての話になっていき

ます。


11章は章題が「世界宗教」になっています。まずはその前半で、フェス

チュジエールはクレアンテスによる「ゼウス賛歌」を分析しています。

クレアンテスは前3世紀のストア派の哲学者ですね。フェスチュジエー

ルによると、ストア派の哲学体系は、派に属する論者ごとに色合いが異

なり、ゼノンが厳密に道徳的だったとすれば、クリュシッポスは知的・

弁証法的、そしてクレアンテスは宗教的・神秘主義的だったといいます。


クレアンテスは元は拳闘士だったそうです。ゼノンに弟子入りしてから

は、苦行も厭わない文字通りの武闘派だったようですが、一方では深い

観想を得意とし、詩人でもあったとされます。クレアンテスは学ぶのが

遅いほうだったといいますが、かえって他の弟子たちよりもいっそう物

事について深く考えるようになった、とのこと。そんなクレアンテスが

残した詩の一つに、ゼウス賛歌というテキストがあります。文字通りゼ

ウスを讃える詩です。ここではテキストそのものは割愛しますが、フェ

スチュジエールはこれを重要視し、形式や表現などの面でも評価してい

るようです。


ギリシアにおける賛歌というのは基本的に祈祷文、つまり神々に捧げる

祈りの言葉なのでした。伝統として、あらかじめ神々の存在が前提とさ

れていて、神の側は祈りに対して同意を与えると考えられていました。

そのため、そうした賛歌は、まずは加護の祈り(invocation:基本的に

は神の功績の偉大さを讃える句)から始まります。祈りを通じて神の力

がいや増し、人間に対するその善意もまた強められるようにする、とい

うのがその役割でした。また賛歌の締めくくりには、文字通りの祈祷

(priere:求める事柄の訴え)が置かれます。ホメロス賛歌やオルフェ

ウス教の祈祷文などは、まさにこれら加護の祈りと末尾の祈祷だけでで

きていたと言っても過言ではなかったとされます。


やや時代が下ってくると(クレアンテスの賛歌もそうですが)、加護の

祈りと末尾の祈祷の間に、説話のかたちを取った中間部が差しはさまれ

るようになります。ときにはそれが全体の多くの部分を占めることもあ

ります。なかば脱線であるかのように、哲学的考察が長々と続いたりす

ることもあったとか。


クレアンテスの賛歌では、この中間部で、ゼウスが宇宙全体を支配して

いることを讃えつつ、悪意ある者の犯罪だけはそれに当てはまらないと

し、ではそうした犯罪とゼウスの全能とはどうつながるのか、どう両立

するのかという問題が示唆されます。もっとも、哲学的考察であるとは

いえ、決して斬新なものではなく、すべては善に吸収されるというのが

話の流れです。神の摂理に逆らう者は、おのれの(悪しき)望みとは逆

のことが得られるのみで(神の寛大さゆえに、です)、ただ不幸になる

だけだとされます。


フェスチュジエールによると、この賛歌が注目に値するのは次の論点が

盛り込まれていることにあります。つまり、人が神に祈りを捧げること

ができるのは、神およびその秩序を認識する能力(gno_me_)を、神が

あらかじめ人に与えているからなのだということです。クレアンテスに

おいては、人間と神とは一般的な交換の関係、つまり「神がしかじかの

ものをくれるから、私は祈りを捧げる」といった関係から、「たとえ神

が何もくれなくとも、私は自分の中に充溢する光ゆえに、祈らずにはい

られないのだ」という、新しい関係性へとシフトしているというのです

ね。フェスチュジエールはその新しい関係性を、グノーシス(神秘的直

観)にもとづく関係と称し、そこにいわゆる「恩寵」概念の発端を見て

とっています。


このような考え方は、ストア派の中でも、クレアンテスのような深い宗

教的な観想なくしては生じえなかっただろうといいます。神との密接な

関係性に入るには、単に神的な存在と人間とが独特なかたちでつながっ

ているだけでは十分ではなく、神が絶えずその光でもって人間を照らし、

人間がおのれの魂を正しく用いるようにするのでなければならない、と

いうわけです。それは一般的な哲学修行を経ただけの賢者には、ほとん

ど理解にいたらなかった観点だというのですね。


以上が11章の前半の大まかな内容です。後半部分では、ゼウスへのこう

した信仰について、さらなる分析が展開していきます。それはまた次回

に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その15)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は第10章の前半です。塩辛さがなぜ植物に見られないのか

という問題を論じています。原文はいつもどおり、次のURLをご参照く

ださい。https://www.medieviste.org/?page_id=9984


**


10.1 味わいは多数あることから、苦みやえぐみ、酸味など、なぜほか

のすべての味わいは植物や果実に生じるのに、塩辛さはないのかと訝る

向きもあるだろう。どの植物もみずからのうちにその味わいをもつほど

にはならず、なんらかの塩辛さが外部の器官に生じるのみである。たと

えば、それ自体は甘いヒヨコマメがそうである。その理由は、塩辛さが

栄養をもたらさず、生殖にも与らないからだ。その証拠に、すでに述べ

たように、塩気のある場所にはどんな植物も育たない。なぜなら塩辛さ

は、植物を食い尽くし、その力を奪い、よって身体形成を妨げるからで

ある。


10.2 ほかの生物に対して不毛の原因となるものは、それ自体で発生の

原因となることはない。魚やそのほかの水生動物などと同様に、海に生

息する植物は、甘さなど(塩辛さ以外の)ほかの味わいをもつことで、

発生し身体形成できるのである。それが一般的な発生の原因である。発

生のもととなるものは変化しうるものでなくてはならない。ところが塩

辛さは分解することも変化することもない。ゆえにそこからは何も発生

しないし、みずからの手段で何かが生じることもない。


10.3 全体として、それぞれの事象、およびその帰結からは、次のこと

が見てとれるように思われる。太陽と植物内部の熱は、最も軽微で最も

栄養のある成分を引き寄せるが、塩辛さは重く、栄養分を伴わない成分

(分解しないので変化もない)であるがゆえに、根によって吸収されず

に取り残され、植物の組成に組み込まれない。また、植物は排泄物を生

成しないので、栄養にならないものを引き寄せたり、吸収したりはでき

ない。そのためにはなんらかの排泄方法がなければならないからだ。さ

らに次のような理由もある。塩辛さの成分は太陽によってもほとんど蒸

発せず、残留する。身体上の広く大きなあらゆる部分において、水分に

よって運ばれても、互いにつながったり張り付いたりすることがないか

らである。それは、その成分に凸凹がまったくなく、角張っていたり湾

曲していたりするからかもしれない。植物との混成が生じないのはこの

せいであるのかどうか、検討を要するところである。


10.4 上に掲げた問題に対しては、一般論として述べたことに関連して、

なぜ塩辛さは植物に、あるいはその表面に生じることがあるのか、それ

は何に由来するのかを検討しなくてはならないだろう。もし塩辛さが植

物の内部に見いだされるのなら、それが栄養分に固有のものとして、も

しくはその植物の性質に内在していることは明らかである。もし外部か

ら表面に生じるのであれば、植物に固有のものである可能性は減じる一

方、今度はそれがどこから、何によって生じるのかが問題となる。それ

は必然的に、空気からのもの、または(土から)立ち上る蒸気からのも

の、あるいは根によって吸収され一種の排泄物として噴き出すもののい

ずれかとなるだろう。塩水、あるいは塩辛さは全般に、表面に残存する。


10.5 後者の説に従うなら、根が吸い上げることは明らかである。前者

であるなら、なぜ塩分がヒヨコマメやスベリヒユ、その他の類似の植物

にのみ見られるのか説明がつかない。バラの木など、病気の場合に塩気

を示すものについては原因が異なる。だがヒヨコマメについては、塩分

は植物に固有の、役立つ成分であるように思われる。花が咲き、やがて

実が成るころに雨で洗われると、その植物は壊死してしまい、失われる。

それを防ぐために、自然は、(その植物にとって)異質ではないそうし

た成分をもたらしているかのようである。


**


なぜ植物には塩辛さがないのか、という問題に、テオフラストスはここ

で、塩辛い成分(塩分)は栄養にもならず、繁殖にも与しないため、植

物は取り込めないと答えています。一般に、塩辛さがあったとしても、

それは外部の器官の表面に付着しているだけだ、というのですね。


1節めでは、そうした付着の例としてヒヨコマメが挙げられていますが、

仏訳註によれば、それは塩分ではないとのことです。ヒヨコマメが分泌

するシュウ酸が日光の作用で白くなったもの(これは苦いらしいのです

が)を、食塩に似ていることから当時の人々が誤認したのではないか、

ということです。


2節めから3節めにかけては、(1)塩辛さは分解しないし変化もしない

ので、養分に転じることもなく、植物の身体に貢献することはないとさ

れています。また(2)塩分は重く、変化しないので、根から吸収もさ

れないとされ、また一方では、植物には排泄の仕組みもないので、無用

なものはもともと吸収されないようになっている、と説明されています。

例外はヒヨコマメなどの限られた植物、ということになります。


もう一つ、(3)塩分は形状からして張り付いたりすることがない(表

面が滑らかないし角張っているので、かみ合うことがない)ので、身体

と混成しない、という仮説も紹介されています。図形を問題にしている

ことから、これはデモクリトスによる説明なのでしょう。前に出てきた

ように、テオフラストスはデモクリトスの図形による説明には、一貫し

て留保の姿勢を保っています。


4節めでは、一般論に加えて、ヒヨコマメなどになぜ塩分が見られるの

か(塩を吹いているように見えるのか)を、仮説を分けて論じています。

空気もしくは蒸気(土から昇る)によるのか、それとも根から吸い上げ

られて表面に排出されるのかの2つの可能性があるとしています。そし

て5節めで、前者の可能性が否定されます。「それならほかの植物に見

いだされないのはおかしいことになるではないか」というわけです。


5節めでは、ヒヨコマメに加えてスベリヒユも言及されています。スベ

リヒユは様々な場所に生息する食用の草です。再び仏訳註によれば、海

岸近くに生えるスベリヒユもヒヨコマメ同様に、白い分泌物を出すため、

塩が噴き出したように見えるようです。本文でその後に言及されている

バラの木の場合、白い粉のようなものがついていれば、うどんこ病など

の可能性があるらしいのですが、ヒヨコマメやスベリヒユでは、白い粉

がふいているように見えるのは健康体なのだとか。テオフラストスは、

花が咲くころの雨によってヒヨコマメが壊死してしまうのを防ぐため、

自然が塩分(実はシュウ酸ですが)を取れるようにしているのだとし、

目的論的な説明も加えていますね。なかなか興味深いところです。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は06月27日の予定です。


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