silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.403 2020/06/27

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その21)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を見ています。前

回は11章の前半を見ました。クレアンテスによる『ゼウス賛歌』につい

てでした。今回は同章の後半です。クレアンテスが賛歌を捧げた当のゼ

ウスですが、このゼウスがどのような神として表されていたのかを、フ

ェスチュジエールは問うています。当時「神」というものがどういう観

念だったのか、それがどのような宗教的雰囲気を醸していたのかを考察

しようというわけです。


まず指摘されているのは、前3世紀においては、ゼウスはもはやオリュ

ンポスの神々の単なる一員ではなく、近現代の人々が「神」と称するよ

うなものとして広く崇められていたらしい、ということです。そうした

観念にも萌芽があり、前5世紀の悲劇詩人エウリピデスがすでに、「決

して踏み込めない謎」としての神秘の神ゼウスについて歌っているのだ

とか。


それをもとに、フェスチュジエールはギリシアの神の特徴を3つ指摘し

ています。(1)全知全能であること。すでにホメロスの時代に、ゼウス

は神々の中で最も力のある神とされていました。(2)信仰にもとづき証

される、契約への忠実さ。すなわち神こそが、法により認められる正義

の象徴・保証であるということです。(3)神がコスモス(宇宙)の秩序

の原理をなしていること。これは哲学史的にはイオニア学派によって唱

えられ、エウリピデスの時代(前5世紀)に広まった考え方だといいま

す。プラトンの『ティマイオス』がその一つの到達点だとされます。フ

ェスチュジエールによると、こうした3つの特徴は、いずれもクレアン

テスの『ゼウス賛歌』に流れ込んでいるといいます。


ストア派は地上の都市国家よりも、むしろ理念的な「世界都市」を志向

していました。それを支配する神もまた、コスモス(世界全体)の神と

いう性格付けになっていました。そもそも世界を司るのは正義であると

され、その世界の一部分である都市国家にもその同じ正義が体現すると

され、こうしてコスモスと地上世界とは重ね合わせられていたのでした。

エウリピデスが人間的事象に関して真として歌い上げていたことは、す

でにして世界全体についても真とされていたのでした。


しかしながら、クレアンテスの賛歌がそれまでにない新しいものだった

のは、そうした神についての諸観念が、まさしく「祈り」を導いていた

ことだった、とフェスチュジエールは言います。


祈りといっても、それは地上世界で個人が願うことを神に祈るというも

のではありません。それはより深い観想を伴う、ある種の決意表明のよ

うなものだったと思われます。つまり、人間は徳を実践するため、神の

諸概念を自己の魂の内奥に見いだすのでなくてはならない、というので

す。


ヘレニズム期の神と人との関係は、友愛の関係ではありません。神と人

とが一対一で対峙するような関係でもありません。神は基本的に世界全

体を司り、人間はその世界全体のほんの一部分でしかないとされました。

前にも見ましたが、前4世紀末に当時のギリシアの人々は、都市国家の

敗走などを経て、自分たち人間の定義をも、「都市国家に住む者」から

「コスモスに住まう者」へとシフトせざるを得ませんでした。かくして

人間は全体の一部、重要なのは全体であるとされるようになり、その

「全体」も都市国家のそれではなく、宇宙そのものとなったのでした。

さらにはその宇宙そのものも、身体(物質)と魂から成る一つの「生き

物」として想像されていました。すすんで神に従う生き物ですね。人間

の行動もまた、人間がいかほどその生き物に似ているかによって善悪が

判断されるようになった、という次第です。


その結果、どうなるでしょうか。神の側からすれば、全体の秩序を保持

することこそが善なのであり、個々の人間について考慮することはなく

なります。個々の人間がたとえ秩序の乱れをもたらそうとも、コスモス

の基本的な善性が阻害されることはありません。悪しき者(秩序の乱れ)

もまた善(秩序)に差し戻される以外になく、すべては全体の調和へと

解消されていく、と。詩人クレアンテスが賛歌において歌っていたのは、

まさにそういうことなのでした。


クレアンテスの『ゼウス賛歌』の最後に置かれた祈りとは、人間の心の

闇が払拭され、神の意図を理解できるようになり、世界そのものを範と

した秩序立った行動を取れることを願う、ということにほかなりません。

もはや個人にかかわる願いや望みではなく、コスモス的な秩序の尊重が

祈りの内実をなすのですね。フェスチュジエールは、ストア派が唱えた

こうした思想を、「合意」(consentement)の思想と呼んでいます。自

分たちの手によるものではない完成済みの世界にすでにあり、人間に与

えられた役割といえば、コスモスの秩序として現れる神の計画を知り、

理解することでしかない……。秩序と合致すること、それが究極の目標

となるのですね。


このような秩序の考え方は、純粋な学知や理論に関心がある人々には、

新たな知的考察の対象をもたらしました。一方で純粋な学知や行動への

関心よりも、観想的・宗教的志向をもつような人々には、祈りの向かう

先、あるいは神との合一の契機をもたらすことになったようです。ある

意味それは、都市国家のエリート層への全方位的な誘い(知的志向、情

動志向のいずれをも巻き込むという意味で)となったのでしょう。クレ

アンテスも後者に属する一人でした。もちろん彼の場合も、その世界観

を形作ったのは、知的・抽象的な思想の伝統だったでしょう。けれども

彼のような人々は、知的な思考対象の観想を通じ、自身の中にロゴスの

一部を見いだし、それを神の恩寵として祈りの対象にしていったのでし

ょう。


当初、史的経緯がもたらした悲観的な心理と、前の時代へのノスタルジ

ーを糧としていた「世界神」の思想はやがて、世代交代が進むにつれて、

壮大なビジョンをもった楽観的な展望を示すものとなり、「世界」に開

かれた広範な活動の場を人々にもたらしていったようです。前3世紀の

前半には、ヘレニズム文化は本格的な開花期を迎え、ストア派が描き出

した宗教も、穏やかな楽観主義の息吹となったのでした。「世界は賢慮

と正義を備えたロゴスによって支配され、その限りで善なのであり、そ

れは世界を構成する人間その他すべてを貫いているのだ」と……。


続いてフェスチュジエールは、ストア派に萌芽が見られるとされる「恩

寵」概念について、改めて取り上げています。それはまた次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その16)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は第10章の後半です。前半に引き続き、塩辛さについての

問題を論じています。さっそく見ていきましょう。原文はいつもどおり、

次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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10.6 全体として見ると、ヒヨコマメは葉や枝に塩辛さがあり、それは

洗い流されてからもなお、それらの器官ばかりか実においても、味覚に

しっかりと感じられるほどである。その風味は、実を舌に乗せたまま噛

まずにいると、味覚において明らかになる。塩辛さは内部ではなく外被

にあるからだ。そしてその外被こそが、虫食いから守っているのである。

塩気は、植物本体でも同じ役割を担っている。


10.7 いずれの場合も、それは外部にあり、いわばすぐれた防御をなし

ている。植物が緑である限り、先に述べたように塩気は茎や鞘の部分に

あるが、乾燥してくると外被の部分にも、内部から湧き出てくるかのよ

うに塩辛さが生じる。塩気が異質なものとして外に排出されているのは

理にかなっている。キュウリの外皮の苦みや、カリアの地において一部

の梨に見られるという異例な塩辛い白粉もそうであり、洗い落とさずに

は食することができないほどだという。そうした現象は数多く見られる

ことから、決して異常なものではない。次のような事例もここで述べた

ものとそう違わない。どんぐりは先端部分に苦みがあるし、ムスカリの

球根は王冠と呼ばれる部分がそうであるし、ニンニクは分球の広がりの

部分に刺激性の味わいがある。ただし、これらはなんらかの類似性があ

るものとして示したにすぎない。


10.8 それはもとからあるなんらかの性質であるように思われるが、そ

のことは次のことからも明らかである。ヒヨコマメは、それが蒔かれ育

つ場所では、土壌に塩分がなくても、いたるところで塩気を帯びるのだ。

塩分を含んだ場所で育つ植物が、なにがしかの塩気を帯びるのは異例な

ことではない。たとえばそれは、海岸地方のスベリヒユに顕著である。

一方でキャベツのように、そうした場所で風味や質が良くなる植物もあ

る。植物が含み持つ辛さや苦さを塩辛さが呑み込んでしまい、また余剰

の水分を取り去ることで、キャベツは分割しやすくもなる。塩分は水分

を吸い上げるからである。


10.9 このこと(分割のしやすさ)は、生の状態のキャベツでも見られ

る。地面に落ちたときに、ものによっては「砕ける」と言われるからだ。

そのようなキャベツを、その状態で火を通すと、当然のように味わいは

甘く穏やかになる。調理の際に炭酸ソーダを入れる人々は、そうした効

果を意図し、短い時間で行おうとしているのである。一方、自然は長い

年月をかけてごくわずかずつ、そのような性質をもたらしてきた。ゆえ

に、キャベツは一部の場所では夏至の頃、盛夏の時期に、または夏を通

じて、最良の状態になるというのも不可思議なことではない。エレトリ

アなどがそうである。その時期には塩分の働きが最も活発で支配的であ

り、また量も多くなり、一方で水分量は最小になるからである。


10.10 エジプトや同様の地域すべてにおいて、キャベツが良質であるの

も当然である。とはいえ、これについては長く議論してきたので、これ

でよしとしよう。塩気は根から吸い上げられるか、太陽の熱で上昇する

かだが、いずれの場合でも塩気が土から動かないものではないだろう。

まさにそれが、私たちの最初の論点であった。だがそれについても、以

上の議論で十分であろう。


**


前回の最後のところで、ヒヨコマメに塩気(と解釈される白い粉状のも

の)があるのは、それなりの役割があるからだということが指摘されて

いました。6節めでは、それが塩気であることは味覚的に確かだとした

うえで、塩気が実を、あるいは植物本体(pephucotos:生きた植物)を、

虫食いにならない(acopos)ように守っているのだと述べています。


7節では、塩気やほかの苦さなどが、異質なものとして外に排出されて

いることが述べられています。キュウリや一部の梨、どんぐり、ムスカ

リ、ニンニクなどが列挙されています。仏訳註は、キュウリとどんぐり

の苦さについて、アリストテレスに帰されたりもした著者不詳の『問題

集』に言及されていることを指摘しています。カリアはアナトリア半島

南西部(トルコ東部)の古い地名ですが、再び仏訳註によれば、ここで

言及されている梨は特定できていないとのことです。gelgithosは

gelgidosであろうとされます。もとのかたちはgelgisで、ニンニクなど

の一辺、分球を指します。


8節では、前回も出てきたスベリヒユのほか、キャベツについての言及

があります。ここはちょっと問題があります。Loeb版のテキストでは、

塩気のある土壌でキャベツが良質になるという説明で、eumeristos(分

割しやすい)という語が使われていますが、希仏対訳版のテキストでは

ここがameristos(分割されない・割れない)になっています。良質の

キャベツは割りやすいものなのでしょうか、それとも割れにくいものな

のでしょうか?


この箇所の仏訳註は、ある研究者らの見解として、キャベツは水分が多

いとむしろ割れやすくなるとしているほか、古典期のギリシア語の散文

においては、meristos(分割可能な)よりもameristos(分割できない)

のほうが「優れている」と価値づけされていた、とも指摘しています。

ただ、ここではLoeb版の本文に即しているので、一応eumeristosという

ことで訳出しています。


この問題は続く9節にも影響しています。キャベツが落下したときのこ

とを記している箇所で、thrauesthaiという中動態の動詞を、Loebの英

訳は再帰的に「砕ける」としているのに対し、仏訳はなんらかの物体を

破壊すると解釈しています。私たちはここもLoeb版に準拠しています。


炭酸ソーダを入れるという記述は、このテキストでは調理の際に入れる

というふうに読めますが、仏訳註によると、キャベツを柔らかくするた

めエジプトでは灌漑の際に水に炭酸ソーダを投入するという話が、同じ

『植物原因論』の2巻にあるようです。10節の冒頭にエジプトについて

言及されているのは、そうした事実があるからかもしれません。ちなみ

にエレトリアは、アテネのあるアッティカ地方の北側に位置する、エヴ

ィア島の都市国家でした。


10章は以上です。次回からは11章に入ります。お楽しみに。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は07月11日の予定です。


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