silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.404 2020/07/11

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その22)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を見ています。前

回は11章の後半、ゼウス神の性格付けについて論じている箇所でした。

この章はもう少しだけ続いていますので、今回はそこから見ていきまし

ょう。


前回の最後のところでフェスチュジエールは、前3世紀ごろにはかつて

の絶大な都市国家へのノスタルジーも薄らぎ、世界神の思想もしくは信

仰は、楽観的な展望を獲得するようになったと述べていました。世界は

賢慮と正義にあふれた一つの「理性」によって統べられているがゆえに

善なのであり、その「理性」は人間をふくむ地上のすべてを貫いている、

というこの考え方は、神がもたらす「恩寵」の教説と考えることができ

ます。恩寵の思想はもともと、プラトンの『ティマイオス』で示された

ものでもありました。


フェスチュジエールによると、ストア派の場合、恩寵の思想は必ずしも

彼らの教義体系の前提から自然に導かれたわけではないようだ、といい

ます。ストア派が唱える基本的な教義の一つに、あらゆるものが火もし

くは息吹によって貫かれているという原理があります。その火=息吹は、

全体をまとめあげ、部分を全体に結合させるものです。すべての事物は

そこに帰着し、事物に生じる差異とは、そうした火=息吹の結合の強さ

の違いにほかならないと説明されます。


したがって世界のすべての存在は、相互に結びついているとされ、人間

や世界に生じる出来事も、相互に結びついた諸原因の結果であるとみな

されます。こうして世界全体が一つの連鎖をなしていることになり、個

別の些細な偶発事ですら全体にしかっりと結びつくのですね。これがス

トア派が唱える運命論です。


しかしながら、このような世界観は恩寵の概念とは相反します。あらか

じめすべてが運命論的に決定づけられているとするなら、人は絶望的な

までに不自由であることになります。単にそのような主張だけであった

なら、ストア派が当時のギリシアで人気を博することもなかったでしょ

うし、人はむしろそうした希望のない思想を糾弾していただろうと思わ

れます。


で、実際はそうはなりませんでした。ストア派はそうした運命論と同程

度の強度でもって、恩寵論をも説いていたのです。火=息吹で結合した

世界は、がんじがらめのように見えますが、実は「ロゴス」によって、

善に向けて統制されているのだと説かれます。クレアンテスの賛歌にあ

ったように、悪しき事象すら善のもとに解消されることになるのだ、と。

運命と恩寵とがここでは重ね合わせられ、同一視すらされています。こ

うした同一視を、ストア派の始祖ゼノンみずからが説いていたといいま

す。


運命論への対応には、もう一つ別の方途もありえました。グノーシス派

の考え方です。そこでは、運命によって定められている世界は、善では

ない神が作った悪しきものとされました。そしてその悪しき神の上位に、

世界から独立したもう一つの善なる神が君臨しており、その神は世界か

ら人間を自由にしようと、みずからの善性、すなわち愛を示すのだとい

うのです。ストア派はそうした二元論を斥け、神の善性、世界の善性を

強く前面に押し出しました。そうすることで、グノーシス的な神秘主義

とそれが導く狭いエリート主義を回避したと言えるかもしれません。



11章の末尾では、そのようなストア派の力点を示す実例として、フェス

チュジエールはストア派の詩人アラトス(前3世紀)の作品『現象』を

取り上げています。この詩作品は星座に関するギリシア神話を記したも

ので、まとまった記述としてはおそらく最古のものとされています。


ポイントだけを押さえておくと、アラトスの『現象』は、前半が星座そ

のものの記述、後半がそれぞれの星座に対応する気象的な予測、あるい

は意味の解釈となっていて、ある意味実利的・教育的な詩句となってい

ます。冒頭のプロローグ部分からすでに、徴<しるし>として役立つ星

の配置は神によってなされたものだということが謳われています。そし

てそのことは詩作の随所で言及されているようです。


アラトスが準拠しているのは、前半の記述はクニドスのエウドクソス

(前4世紀の天文学者)、後半はペリパトス派の逸名著者による『徴に

ついて』だといいます。ただ、それらのどこか平坦で味気ない散文の内

容を、アラトスは技巧を凝らした韻文で、情緒的に描き出しているとい

います。そしてまた、宗教的な観点からも2つの革新的な特徴があるの

だとか。1つは星についての美的な感覚が示されている点、もう1つは、

神の恩寵への感性が謳われている点です。


恒星が織りなすかたちは、ある種の美的な意識をもって受け止められて

いるのですね。そしてそれは、やがて天体への神秘思想を育むことにも

なっていきます。神の恩寵への感性も、そうした情緒性と無関係ではあ

りえません。人間が役立てることのできるようにと、神は天体の配置に

よって、すべてではないにせよ、一部の徴を分け与えている……それは

まさしく恩寵以外の何物でもない、というわけですね。


以上11章のアウトラインをまとめてみました。前3世紀のギリシアの宗

教観が、多少とも浮かび上がってきたでしょうか。次回からは続く12章

に入っていきます。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その17)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回から第11章です。11章は少々長いので、前・中・後編に分

けることにします。今回は前編部分です。さっそく見ていきましょう。

原文はいつもどおり、次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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11,1 風味の特性として定義を試みるべき点がある。それぞれの種類の

風味では、乾燥成分と液体成分のどちらがより優勢であるか、である。

酸味はえぐみと同様に、液体成分のほうに属するように思えるし、辛さ

は乾燥成分に属するように思われる。甘さもそうである(とはいえ嵩が

増すと液体は甘さを増す)。苦さは(……欠損)。しかしおそらく違い

はないだろう。すべての風味はそれら両方から生じている。ただしこれ

は、両方ともむしろ同じ物質の特性でないならばの話である。


11.2 その場合、すべての風味は出自を同じくし、先に述べたように、

すべて乾燥した物質に存在していることになる。一方、私たちが乾燥成

分から分離して得る風味もある。ブドウの風味やオリーブの風味などだ。

それはつまり、私たちがそこに利用価値を見いだすからである。いくつ

か(乾燥物に)水を注いで得られる風味もある。木の実の類やイチジク

の風味がそうである。また、本来の性質を変化させ、発酵させて液に変

え、飲料にするものもある。大麦や小麦から酒を造る人々がそうしてい

るし、エジプトにおいてビールと称されるものがそうである。そうした

酒類は、自然に由来する起源と力をもっているが、生成物はむしろ人為

的であり工夫によるものである。しかるに、賢慮と技術によって生じた

生成物についてはそれぞれ別個に考察しなければならない。一方、自然

な風味の性質と生成過程は、これまでに述べてきたことをもとに考察し

なければならない。


11.3 以上のことを踏まえ、またそこから推察するに、なぜ風味や匂い

はすべての植物において同じ部位になく、上部にあったり、下部や根の

周囲にあったりするのかと問うこともできるだろう。また、上部にある

場合でも同じところにあるのではなく、果皮にあったり、葉にあったり、

花にあったり、小枝にあったりする。しかも味よりも匂いの場合がいっ

そう不規則であり、ときには樹皮にあったりもする。全体的に良い香り

がする植物では、すでに述べたように、花の香りは最も少なかったりす

る。たとえばジャコウソウ、ベルガモット・ハッカ、カラミンサなどが

そうである。


11.4 香りのしないほかの植物において最も香りのする部位が、香りの

良い植物においても最も香りを放っていると考えるのは当然であろう。

ある種の植物において、花が心地よい香りを発しているのに、ほかの部

分は全体として匂いを発していないことも意外である。たとえばスミレ

やバラがそうだ。最初に述べた問題もある。すなわち、味や香りの良さ

が根に見いだされる植物である。味と香りのいずれも熟成によって生じ

るが、栄養が豊富でつねに刷新される場所、ほかの部位へと栄養の配分

がなされる場所で、動物の内臓がそうであるのと同様に、良い味や香り

をもたらす熟成にいたるというのは、きわめて合理性に乏しい。


11.5 この問題や同種の問題については、何度も述べてきた原則を踏ま

えなくてはならない。つまりそれら(味わいや香り)は熟成によって生

じるということである。さらに、続いて最初に示した問題の最後のもの

に取り組まなくてはならない。すなわち「根はどの植物においても、植

物の内臓のようであるか」である。内臓におけるように、根においても

栄養分が変化することを理由として、この仮説を立てることができるな

らばの話だが。いずれにしても明らかなのは、根には排泄物がなく、そ

の一方で熟成にいたる作用があるということである。そのようなわけで、

味わいや香りがあっても不思議ではない。根はそのような混合をなして

いるからだ。動物の内臓には排泄物があるものの、同じように水分もあ

り、ある種の味わいや熟成も生じている。ゆえにそうした変化は明らか

に生じうる。


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8章と10章で油っぽさと塩辛さが考察されていましたが、この11章では

残りの風味(と香り)の問題をまとめて取り扱っている印象です。1節

めでは、風味のそれぞれが乾燥したもの(乾燥成分)、液状のもの(液

体成分)のどちらに多く存するかが問われています。節の末尾では、風

味や香りは両方の成分から生じているとしています。それが同一の物質

でないならば、との但し書きが添えられていますね。


2節めの冒頭は、その但し書き部分を受けて、主要な風味はもともと乾

燥成分によるという仮説を記しています。仏訳註でも指摘されています

が、少し前に見た7章の最初のほうに、風味のすべてに共通する物質は

液体だ、という記述があり、また、熱によって水分が失われると土の成

分が残留して味わいが純化する、という説明もありました。このことか

ら、風味のおおもとには乾燥成分があるということが推察できます。こ

の11章の仮説は、そのことを指しているものと思われます。


その上で、乾燥成分から切り離された風味も人間は利用するとして、ブ

ドウやオリーブの風味を挙げています。さらには水を注ぐと滲み出てく

る風味(木の実やイチジク)、発酵させて得られる風味などが列挙され

ていますね。zuthosは私たちが言うところのビールです。


3節めは、なぜ芳香を放つ部分や味わいの良い部分が一定の部位にない

のか、という問いを発しています。続く4節めでも、局所的にのみ香り

が放出されることについて問うています。4節めに出てくるionは、一般

的にはスミレの意味ですが、仏訳註によると、「白い」という形容詞が

ついてion to leuconだとギリ―フラワー(カーネーション、ナデシコ、

ニオイアラセイトウなどを指す)の意味になるのだとか。仏訳はそちら

を採用しています(その是非は不明なので、ここでは字義通りにスミレ

にしました)。


4節めの終わりのあたりから5節めにかけて、動物の内臓と植物の根との

類似性を示唆する話が出てきますが、仏訳註によれば、人間は逆さまの

植物であるという比喩が、まずはプラトンの『ティマイオス』にあり、

次いでアリストテレスが『動物部分論』でそれを動物全般に敷衍してい

るといいます。前者では根は脳に相当するとされ、後者では口を含む頭

に相当するとされています。テオフラストスのここでの記述はそれをさ

らに転じさせ、根が動物の消化器官に相当するのテーゼとして検討して

います。


これも仏訳註によりますが、古代ギリシアにおいては、神々への供犠と

して動物の内臓を皮下脂肪といっしょに焼いていました。神にとっては

それが芳香だと考えられていたからです。5節めに「動物の内臓にも芳

香がある」とされているのは、どうやらそのことを踏まえてのことのよ

うです。


次回は11章の中盤部分を見ていきます。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は07月25日の予定です。


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