silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.405 2020/07/25

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*夏休みのお知らせ

いつも本メルマガをお読みいただき、誠にありがとうございます。本メ

ルマガは原則隔週での配信ですが、今年も例年通り、7月下旬から8月に

かけて夏休みをいただきたいと思います。そのため、次号(406号)は、

8月29日の発行を予定しております。よろしくお願いいたします。皆様、

どうかよい夏、安全な夏をお過ごしください。



------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その23)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を見ています。昨

年の夏に4章めから読み始めたこのシリーズですが、前回で11章まで終

了しました。今回からは12章「折衷主義の起源」に入ります。この12章

は第4部「折衷的教条主義」の導入部分となる章です。いちおうこの文

献探索シリーズでは、第4部までをもってストア派についての話に区切

りをつけたいと思っています。もう少しお付き合いくださいますようお

願いいたします。


ここまでのフェスチュジエールの議論は、世界神というものを通じて、

前4世紀から前3世紀にかけての、古代ギリシアにおける宗教と学知との

密接な結びつきを示すというものでした。世界を秩序として見るという、

プラトンやアリストテレス、そしてストア派の自然学的見識をめぐり、

それらの宗教的見地が、神学を導くと同時に、ある種の倫理学をも導い

ていったことを見てきました。つまり自然は、コスモス全体を司る原理

によって統治されており、それこそがロゴスであり、世界神そのもので

もあった、ということでした。


前2世紀になると、ストア派はいったん表舞台から後退するように思わ

れます。しかしそれから150年の後、キケロやフィロンの時代(前1世紀

後半)になると、同派は再び存在感を増し、世界神の信仰、すなわち世

界宗教も再浮上します。もちろんその間も、学知と宗教との関わりは保

たれ続け、おもに教養人の間で受け継がれていったようです。逆に言う

と、その学知や信仰に、真に大衆的な広がりはなかったようにも見えま

す。


再浮上してからの世界神への信仰は、フェスチュジエールによると、内

実に大きな変化が生じていたようです。プラトンの門下やストア派の門

下といった、特定の哲学体系に依存しその流派内で実践されるものでは

なくなっていた、というのですね。「そうした教えは一種の共通財産に

なった」とフェスチュジエールは記しています。言葉を変えていえば、

要は世俗化したということでしょう。


しかしながら、前1世紀後半以降はキリスト教の隆盛の時代となり、世

界神への信仰は「異教」の世界として扱われるようになっていきます。

もちろん世界神を奉じる側からすれば、世界の秩序やその原理はゆるぎ

ない原理であるとされるがゆえに、キリスト教のような「無神論」(と

彼らは見なしていたのですね)に与するわけにはいきません。こうして

培われた相互の敵対関係を通じて、ヘレニズムの宗教は、個別の流派を

超えて結束し、一貫して相手を拒否することになったようなのです。対

立は立場の硬化をもたらし、相手側への攻撃も熾烈なものになっていっ

たという次第です。


「世俗化」の原因はどこにあったのでしょうか。それを知るには前200

年から前50年の精神史を見なければならない、とフェスチュジエールは

言いますが、同時に、その150年間は、古代史において最も不分明な時

代の1つでもあると述べています。その上でフェスチュジエールは、キ

ケロなどの時代において登場した新たな現象として、宗教的教条主義が、

哲学的な折衷主義に結びついたことを指摘しています。世俗化の問題は、

その折衷主義がどこから来たのかという問題と切り離せないのではない

か、というわけですね。


世俗化そのものはどういうかたちでうかがい知ることができるのでしょ

うか。フェスチュジエールは、3つの現象からそのことが知れるとして

います。1つめは、数多くの「入門書」、あるいは教科書の類が登場し

たことです。そうしたものが出回ると、確かに人々(ここでは教養人た

ちということですが)にとっての「とっつきの良さ」は増します。です

が、一方で彼らはそれをもって良しとするようになり、もとの原典は読

まれなくなってしまいます。これは今の時代でも十分に言えることかも

しれません。


2つめの現象も1つめに関連しますが、哲学の学説誌(ドクソグラフィ

ー)の編纂が進み、手軽にアンソロジーを読むことができるようになっ

たことが挙げられています。これもまた、古代の著作家を直接読む代わ

りに、そうしたアンソロジーで良しとする風潮も生まれていったようで

す。とくにソクラテス以前の哲学者の自然学の教説が、そのようなかた

ちで流布することになったといいます。


このように入門書・教科書が普及し、比較的手軽なアンソロジーが編ま

れたことで、教養人の間にはどういう変化が生じたのでしょうか。それ

らの流通が促進するのは、ある種の常套句、あるいは教科書的な見識の

広がりです。ある意味安直な、紋切り型で平凡な見識が広まっていく、

というわけです。すると当然ながら、もとの様々な教義がもっていた鋭

さ・多様性は削がれていき、それぞれのオリジナリティは薄らぎ、本来

は区別されるべき教義同士が相互に混合したりしていきます。


ここに、フェスチュジエールは3つめの現象を加えます。それが新アカ

デメイア派や懐疑派の台頭です。彼らは上に挙げたドクソグラフィーを

駆使する人々だったようで、それをもとに、細やかなニュアンスなどを

捨象して、諸派と自分たちとの対立ばかりを単純化して強調し、諸派に

背を向けさせるよう仕向けていったようなのです。とりわけこの懐疑派

はやっかいだとされます。他派の批判に長けた指導的立場の論者たちこ

そ巧みな物言いや細かな目配せをしていたとされますが、そういう感覚

に疎い一般聴衆の間には、結局なにがしかの折衷主義、あるいは曖昧な

教条主義が拡散することになった、とフェスチュジエールは言うのです。

そのあたりのプロセスは、おそらく複雑なものだったろうと推測されま

す(そのうち改めて取り上げたいと思います)。いずれにしても、これ

もまた、現代にも通じる思想状況だと言えるかもしれません。


というわけで、以上の3つの要素をフェスチュジエールは挙げています

が、12章の冒頭部分では、このように概説的に列挙しているだけです。

で、それぞれの現象の中身を詳しく見ていくというのが、12章の残り部

分の大きな流れになるようです。そのあたりは、夏休み明けの本シリー

ズで改めて取り上げていくことにしたいと思います。どうぞお楽しみに。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その18)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は第11章の中盤です。前回の最後の部分を受けて、根につ

いての考察がさらに続いています。さっそく見ていきましょう。原文は

いつもどおり、次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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11.6 また松などの脂分をふくむ木にも、そのことは見て取れる。先述

したように、根(の働き)によって全体が樹脂の多いものになっている。

原因は動物の場合とまったく同じで、つねに温められ熟成が進むことで

成分がいっそう純化し、定着して集積し、凝縮してある種の脂分となる

のである。一方、上部に送られる残りの成分は、地上に出ている部分の

栄養となるが、樹脂を通っていくのではなく、どこか別の経路をたどっ

ていく。すでに述べたように、全体が樹脂に覆われてしまうと、木は窒

息してしまう。息が通貨する経路がまったくなくなって死滅するのであ

る。


11.7 このことは脂身に覆われた動物でも生じうる。脂の厚みで経路が

圧迫され、吸った息が目的の場所に到達できなくなるのである。油成分

がなく脂っぽさがない植物(あるいは脂が少なく肉付きもよくない植物)

は、厚みが増すこともない。逆に脂分の多い植物は熱が過多となって厚

みを増す。


11.8 これに少し似ているが、木材の木目の細やかさの問題もある。木

目が細かいのはつねに上の部分よりも根本に近い部分であり、上の部分

でも同じく下側が、木目がより細かく、したがってより密集し厚みがあ

る。そうなるのは、栄養分がいっそう長くとどまり凝縮するからである。

一般に、それによって基礎部分の厚みが増す。一方、上方に送られる栄

養分は発芽と背丈の増進に用いられる。このように、基礎部分にとどま

りそこに閉じ込められる栄養分によって、木材の密度や木目の細かさが

生じるのだが、上方に送られる栄養分はつねにより遠くへと運ばれてい

く。ゆえに若い木には木目の細やかさはない。栄養分が背丈の増進に用

いられるからだが、背丈が伸びなくなると木目が生じる。動物でも同じ

ようなことが見られる。


11.9 なぜ若い木には、脂もピッチも樹脂もないのかの理由も、これと

同じか、もしくはこれに近い原因による。若い木の場合、栄養はすべて

成長と実を成らせるために用いられ、最後になって脂がのり、実をつけ

るための水分をすべて(つまりかなりの量を)それに当てるのである。

その際の脂は、自然な残滓としてもたらされるからだ。成長への力が減

じ、根の力、および木全体の力が強くなるからである。この現象をここ

で取り上げたのは、原因が近いものだからである。


11.10 一部の植物の根に、ほかの部分にはない良い味わいや甘さ、良い

香りがあるのは、上に述べた原因による。また、草木や野菜類、低木の

類など、より小さい植物にも、根に甘さをもつのに、地上部分には同様

の甘さがないものが明らかにある。例を挙げるなら、ギョウギシバ、カ

ヤツリグサ、フダンソウ、セロリ、トウキなど、池や流れる川などの近

くに生息し、食用でもある植物である。多くの場合、根は甘く食用に適

しているし、茎もそうであるが、葉は適していない。


11.11 これらの植物において、そうなっている原因は2種類ある。1つは

葉に湿り気が多く水分量が多いことであり、ビートや池の岸辺に生息す

るものがそうである。それらは水分を多く含み、細いため、栄養分の熟

成がなされず、ゆえに心地よいほどの明確な味わいをもたないが、根や

茎では熟成がなされる。もう1つの原因は、逆に上部が乾燥しているこ

とである。ギョウギシバやアシの類が全般にそうである。それらは上部

が乾燥していても、下部は水分を多く含んでいる。味の成分は乾燥して

いる場合や水分が過度である場合には生じない。ゆえにギョウギシバや

バルバリーナッツ、その他類似の植物は、根に甘さを有するが、上部は

乾燥していて心地よくもなく、味がないかのようである。セロリやトウ

キも同様である。それらの根は肉付きもよく、味も良い。しかし葉はか

なり乾燥しており、そのため苦みが強い。ほかの種についても同様であ

る。


**


まず6節と7節は、松などの脂分の多い植物について説明されています。

ここでは「先述の」とか「すでに延べたように」などのこれ以前の言及

が示唆されていますが、英訳注、仏訳註によれば、『植物誌』の第3巻

と『植物原因論』の第5巻に、松などの脂分を含む植物についての記述

があるようです。


いずれにしても、ここでの重要なポイントは、以前からの繰り返しにな

りますが、熱によって熟成が進み、もとの成分(栄養分)から脂が生じ

ていくという考え方でしょう。しかもそれは滓として生じていくとされ

ます。


8節と9節は、本筋から少し離れた木目のきめの細かさについてです。こ

れは9節末尾に示されているように、原因が近い現象なのでひとくくり

に取り上げたということのようです。テオフラストスのここでの説明で

は、栄養分が植物本体に長くとどまって熟成が進むと、幹が太く、また

木目も細かくなるとされています。一方で、脂を含む木に、そうした脂

ができるのも、同様の理由からだとされているわけですね。


8節に出てくるapolueinは、英訳と仏訳で解釈が違って(というか校注

が違って)います。辞書ではapolueinは「取り除く」「洗い落す」とな

っていて、Loeb版の英訳はそれを採用していますが、Les Belles 

Lettres版の仏訳では、別の校注者によるcataluein(ここでは「おろす」

、「配置する」)を採用しています。いちおうここでは、意味の通りが

良いので仏訳に近い「とどまる」という訳語を採用してみました(原文

はLoeb版のままです)。


また仏訳は、9節に出てくるte_s carpogoniasの部分を、時間を表す独

立的用法の属格として「実ができるころには水分をすべて……」と解釈

していますが、これは少し曖昧な気もしましたので、ここでは採用して

いません。


10節と11節は、一部の植物で、根に甘さがあるのに地上部分(とくに葉)

に甘さがない理由について記しています。例としていくつかの植物が挙

げられていますが、仏訳でmaceron(トウキ)となっている

hipposelinosは、リドル&スコットの希英辞書ではムラサキハナウド

(alexanders)となっています。どちらもセリ科の植物とのことですが、

やはり厳密には違うようで、訳語としてどちらがよいかは釈然としませ

ん。トウキはいくつかの種を広くカバーしている名称のようなので、さ

しあたりそちらにしておきました。植物の世界もやはり相当奥深いもの

がありますね。


夏休み明けの次回は、11章の残り部分を見ていきます。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行ですが、次号は08月29日の予定です。


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