silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.407 2020/09/12

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その25)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を見ています。前

々回から、前2世紀以降を扱った第12章に入りました。同章では、折衷

主義が台頭した背景について考察しています。前回はその最初の要因と

して、入門書・概説書の普及について論じた第2節を眺めてみました。

今回は2つめの要因、すなわちドクソグラフィー(学説誌)について取

り上げた第3節です。


ここでドクソグラフィーというのは、一言で言うなら諸説をテーマごと

にまとめた引用のリストのようなものです。簡単に参照でき、所定のテ

ーマについて一通りの学説を展望することができます。多くは教育用に

編まれた抜粋集のかたちで伝わりました。ある意味寄せ集めにすぎない

引用の束なので、学ぶのに便利な半面、どこか表面的な知識をなぞるだ

けになりがちだったかもしれません。ドクソグラフィーの活用や記述で

著名な人物に、前1世紀のローマの文人、キケロがいます。ギリシアに

おいて成立したその形式を、キケロは巧みに取り込んで文筆活動に役立

てました。そんなわけでフェスチュジエールは、12章の第3節でキケロ

による記述を追っています。


まず取り上げられているのは、『ルクルス』別名『アカデミカ第二巻』

です。そこでは、新アカデメイア派が推奨する立場、つまり諸学派に対

する「留保」「判断停止」の姿勢が正しいものなのかどうかを検証する

ために、自然学、倫理学、弁証法について、キケロは様々な哲学者の見

解をたどっていきます。古くからあった多彩な見解がすべて正しいとい

うのはありえないことから、キケロは、いったん判断を留保するのが最

も懸命な構え方であるとの結論を導く、という流れですね。その過程で

開陳される諸説は、さながら哲学史の教科書のようです。


次に取り上げられるのは、『善と悪の究極について』(De finibus)で

す。究極の善を求めるためにキケロが向かう先は、「カルネアデスの区

分」(Carneadia divisio)だといいます。カルネアデスによって大別さ

れた諸説の列挙を、キケロは再録しているようです。詳しいことは省略

しますが、大まかには、倫理の基礎づけとして(A)「究極の目的にい

たることにおく」(B)「究極の目的に到達せずともそれに向けて尽力

することにおく」の2つの立場が分かれます。Aはさらに、求める対象

によって下位区分されます((a)快楽そのもの、(b)苦しみの欠如、(c)

自然本性に即すること)。加えて、これらのほかにも傍系として、3つ

ほど別筋の見解が取り上げられます。


続いて『トゥスクルム荘対談集』の第1巻も紹介されています。キケロ

は、死は悪ではないという古典的テーゼを展開するために、様々な論者

の見解を駆使しています。さらにまた、『神々の本性について』(De 

natura deorum)では、タレスからバビロンのディオゲネスまで、27人

もの歴代の哲学者らが示した、神の本性にまつわる見解がまとめられて

います。


これらの著作で顕著なのは、キケロがそうしたドクソグラフィーを自前

でまとめているのではなく、すでに存在していたアンソロジーから借用

しているらしいということです。『ルクルス』の出典となっているのは、

新アカデメイア派の誰かが編纂した書とされていますが、人物の特定に

ついては研究者の意見が分かれるようです。そしてその人物はほぼ確実

に、テオフラストスの『自然学者学説集』(Phusicai doxai)を参照し

ていただろうとのこと。なるほど間接的にではありますが、キケロとテ

オフラストスはこうしてつながるのですね。


『トゥスクルム荘対談集』での霊魂論にまつわるドクソグラフィーも、

同じく借用されたものだろうとされます。出典であろうと言われている

のが、『哲学学説誌』(Placita)というアンソロジーです。この名で

呼ばれる書は複数あり、代表的なのは偽プルタルコスによるものと、ス

トバイオスによるものですが、それらの大元になっているアエティオス

の書もあったとされています。キケロがこれを直接参照していたかどう

かは、やはりわからないようです(キケロと同時代の哲学者アイネシデ

モスからの孫引きという説もあります)。『悪と善の究極について』に

は、上で出てきた「カルネアデスの区分」が出典だと明記されているよ

うです。これはキケロの師匠アンティオコスもよく用いていた区分なの

ですね。


このように、前1世紀のとくに後半には、テオフラストスの書もしくは

その抜粋をベースにしたテーマ別のアンソロジー本が出ていることはほ

ぼ確かなようです。そのことから、当時すでにオリジナルの著書は読ま

れなくなり、哲学的教養はいわば二次文献にもとづくようになったと推

察できるわけですね。キケロと同時代のウァロなどもそのことを記して

いるのだとか。


しかしそういう事態になると、教説の切れ味はおのずと鈍くなっていく

しかなさそうです。もともと哲学の教説というのは、それぞれの諸派の

体系、、さらには創始者の人となりがあってのものです。そうした体系

や人物を背景とする以外に、その教説の十全な意味を理解することは適

わないとされます。プラトンの正義の問題やエピクロスの快楽の問題、

ゼノンの倫理の問題など、いずれもそういうものです。背景もしくは文

脈から切り離されてしまえば、教説は単なるアフォリズム(格言)でし

かなくなり、その本来の豊かさ・影響力も失われてしまいます。


教説がリストとしてまとめられてしまうことは、いわばそうした背景・

文脈の捨象がいっそう進むことを意味します。ゆがめられたかたちで伝

えられることもあったでしょう。アンソロジーにまとめられてしまうと、

教説同士がぶつかり合うことにもなり、どこか一貫しない、不確定な議

論にしか見えなくなったりもするでしょう。ドクソグラフィーの普及が

招いたのは、まさにそのような事態なのでした。そしてさらに追い打ち

をかけたのが、新アカデメイア派や当時台頭していた懐疑派がドクソグ

ラフィーを活用するその仕方だったようなのです。それについては次回

に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その20)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は第12章の前半部分です。この章では、なぜ上方の部位と

根とで、味わいや香りに偏りが生じているのかについて、さらに考察を

めぐらしています。さっそく見ていきましょう。原文はいつもどおり、

次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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12.1 植物によってそうした潜在力が根にあったり、茎にあったりする

が、そのことについても、少し前に述べた原因をあてはめなくてはなら

ない。つまり、そこに十分な水分があるか、あるいは水分が少なく、同

じように乾燥しているかである。植物によって、その本質は次のどちら

かにいっそう傾く。成長や大きさ、つまり上方へといっそう傾くか、あ

るいは根のほうにいっそう傾くかである。キュウリやペポカボチャ、そ

の他の植物は、上部がより大きく発達するが、根は小さい。ツルボやタ

マネギ、その他のいわゆる球根をもつものは、上部がやせ細っていて弱

いが、根は大きく肉付きもよい。


12.2 辛さやそれに類する性質をもつ植物では、その性質は根において

生じていることが多い。タマネギ、ニンニク、ツルボなどがそうである。

そのことは理に適っている。根では自然の成長の働きが活発で、それに

ともなって潜在力も高まっているからだ。薬草の類ではとりわけそうで

ある。それらの根には上部よりも多くの薬効成分があり、その潜在力も

いっそう大きいからだ。その原因は2つあることが見て取れる。つまり

水分が多すぎないこと、そして乾燥しすぎないことである。水分が過剰

だと熟成がなされないし、乾燥していると成分を熟成に回すことができ

ない。それぞれの植物の熟成は、すでに述べたように、植物に固有の性

質と能力に応じてなされるのである。


12.3 味わいや香り、また端的にそうした潜在力が、あるものでは上部

に、また別のものでは対照的に下部にあることは、すでに述べたことを

もとに検討しなくてはならないだろう。どの植物でもすべて同じ上部に

味わいや香りがあるわけではない理由も、先に述べた原因からそう離れ

てはいないだろう。端的に言うならば、(同種の植物の)各々の部位の

味わいや香りには類似が見られ、ただ程度の差があるのみなのだ。


12.4 程度の違いは、香りと味わいの凝集がいっそう強い植物において

顕著である。たとえばモミの木やマツの木、イトスギ、イタリアカラカ

サマツ、栽培された木ならイチジクなどだ。水分を最も多く含む植物の

場合は同様ではないが、そうした種での違いは、ある部位では味わいが

あったり、他の部位では味がないか、もしくは不快な味わいであったり、

ある部位では香りがあったり、他では香りがなかったりすることによる。

また、上部においても器官によって香りや味わいに違いがある場合もあ

り、たとえばブドウでは葉と実がそうである。概して葉と実は、異なる

ことが多い。


12.5 その理由は、一方は熟成がなされず、もう一方は熟成が済んでし

まっているからであろう。あるいはおそらく、各々の熟成が同じ成分に

よるのではなく、一方はなんらかの純粋で不純物のない成分、もう一方

は残留物に由来する成分によるからだろう。新芽や枝など、全体の総量

をなす部分は、より粗く粘り気のある成分からなり、それぞれの固有の

性質によって、動物の場合と同様に、生成物も異なり、最終的な形も雑

多なものとなる。だがこれもまたおそらくは逆かもしれない。最終的な

形は各部位に固有のもので、成分もまた異なるのかもしれない。端的に

言うなら、すべての部位において、基底の性質に応じてすべて異なるの

かもしれない。


12.6 そうした性質の違いは、味わいの有無、香りの有無にも関係し、

私たちの感覚にも関係する。それゆえに、(私たちの感覚は)部位の違

いを認識するのである。というのも、ときに味覚にとって適する混合が

葉に生じたり、あるいは味覚に適さない、強い渋みや酸味などの刺激の

ある味、苦さやその他の味が果実に生じたりすることを、妨げるものな

どないからである。そのことは野菜においても明らかである。葉は感覚

に適して快適な味なのに、種子は辛みが強かったり苦みがあったりし、

全体として私たちの味覚にとっては刺激が強すぎたりする。


**


12章では、根と茎、つまり下部と上部の対比の問題を取り上げています。

どちらの器官にも風味や香り、あるいは薬効成分がある、というのはま

れで、上部に集中していたり、下部に集中していたりするわけですね。

その理由は何なのか、というのがここでのテオフラストスの問いです。

2節めにあるように、テオフラストスはここでもまた、水分量こそが鍵

だと考えているようです。


とはいえ、事態はもっと錯綜しています。3節から4節にあるように、上

部と下部の香りや風味が同種で、程度が違うだけの植物もあれば、上部

と下部が風味や香りにおいてバラバラだったりする植物もあり、また同

じ上部でも、葉と実で香りが違うといったことももちろんありえます。


そのあたりをテオフラストスがどう考えているのかは興味深いところで

す。一つには、同種の成分の純度が上部と下部で違うだけという考え方

もありえます。4節にあるように、マツの木などは根の部分の匂いと、

上部の匂いが似ており、いかにもそんな印象を与えますね。


一方、上部と下部で匂いが似ていないものもあり、上部同士でも葉と実

ではだいぶ違うという場合もありえます。その場合には、同一成分の純

度の差というよりは、そもそも成分自体が異なっていると考えるほうが

よい、ということをテオフラストスはここで述べているのだろうと思わ

れます。


6節からはまた別の話になっていくようなので、これについては次回に

コメントしたいと思います。余談ですがこの章については(も?)、参

考にしている英訳と仏訳に、細かな解釈上の違いが見られるように思わ

れます。詳しいことは省きますが、英訳は全体として上部・下部の部位

の違いについて論じていることをクリアカットに前面に出しています。

一方の仏訳は、大まかには同じ方向性でありながらも、部位の差と読め

る部分を植物の種による違いとするような解釈になっていたりします。

さしあたり今回は英訳寄りの解釈のほうが座りがよい気がするので、そ

ちらを採用していますが、あるいはそのあたり、今後の検討課題になる

かもしれません。


とりあえず、訳出は先に進めたいと思います。次回は12章の後半です。

お楽しみに。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は09月26日の予定です。


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