silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.408 2020/09/26

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その26)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を取り上げていま

す。現在見ているのは、前2世紀ごろを扱った12章「折衷主義の誕生」

です。前回は、折衷主義がもたらされた2つめの要因として、ドクソグ

ラフィー(各派の断片的な教義内容のリスト)の活用が盛んになったこ

とに注目した第3節でした。今回は第4節で、3つめの要因、すなわち懐

疑派と呼ばれる人々が台頭したことを振り返っている箇所です。


フェスチュジエールはまず、前回も出てきたキケロの『ルクルス』(

『アカデメイア第2巻』)のドクソグラフィーを取り上げています。新

アカデメイア派のクリトマコス、その弟子にあたるラリッサのフィロン

によるものとされる一連の抜粋です。フェスチュジエールはここに、懐

疑主義が成立するプロセスを見て取っています。ドクソグラフィーとし

て集められた教義は、どれも個別に揺るぎないものとされた教説なので

すが、一堂に集められることで、互いに矛盾が生じることが明らかにな

ってしまいます。


たとえばストア派を拠り所とするならば、世界とは一つの賢慮であり、

その世界を作り上げた知性によって統治されているけれど、いつか焼き

尽くされるときがくる、という教説が真理として断言されます。しかし

他方には、世界には始まりも終わりもないとするアリストテレスの教説

もあります。世界が作られたものだとしても、それが神によるのではな

く、自然の作用の積み重ねによるのだという考え方もありえます。では、

互いに矛盾するこれらの教説のうち、確信をもって選べるのはどれなの

でしょうか。


すると、「いや、突き詰めれば、世界の始まりや終わりなどの「秘めら

れた事象」は、決して明らかになることはなく、人知が及ぶところでは

ないのではないか。むしろそれぞれに疑いを差しはさみ、判断を保留す

るほうが、より慎重な姿勢ということになるのではないか?」という考

え方も出てきます。もはや賢慮の名に値する姿勢とは、ひたすら留保に

つとめ、知らないことは知らないままとする自由を手にすることなので

はないか……と。


これこそが、前2世紀に台頭する懐疑主義の考え方です。それはドクソ

グラフィーから導かれた、あるいはそれと表裏一体になった、新しい思

想的潮流だったようです。『ルクルス』に示されている新アカデメイア

派のモデル(カルネアデス以降の)とは、まさにそうした判断停止を導

くためのものだったのですね。


続いてフェスチュジエールは、キケロのほかの著書におけるドクソグラ

フィーも再考します。究極の善をめぐる対話篇『善と悪の究極について』

では、体裁としては様々な教説を批判対象として取り上げた後、アリス

トテレスの思想、つまりペリパトス派の教説が説明される段取りになっ

ています。しかしながら著者のキケロはそこで、典拠と明記されている

カルネアデス(アカデメイア派の学頭です)が、どれかの教説に与して

いるわけではないこと、なんら自分の立場を表明していないことを指摘

しているのだとか。そんなわけで、どうやらこの『善と悪の究極につい

て』のドクソグラフィーも、判断停止のほうへと向かっていくようなの

です。


『神々の本性について』のドクソグラフィーはどうでしょうか。一見し

たところ、エピクロス派の哲学を開示することが目的のように見える同

書ですが、フェスチュジエールはここでも、ほかの各派の議論は、最初

から批判的に斥けられるためにまとめられているかのようだと指摘しま

す。フェスチュジエールは、カルネアデスが間接的な典拠とされる『ル

クルス』のドクソグラフィーと、この『神々の本性について』のドクソ

グラフィーを比較して、この後者もやはりカルネアデスを典拠としてい

るらしいと述べています。


二つの書は目的も異なるので、リストの長さなどはもちろん異なります

が、取り上げられる哲学者の順序など、明白な類縁性が見られるようで

す。それぞれの哲学者(学派)の取り上げ方にも、やはり同じ考え方、

同じ効果を目していることが見て取れる、とフェスチュジエールは主張

します。この『神々の本性について』も、『ルクルス』と同じく、新ア

カデメイア派のモデルにもとづいていることが類推される、と。


残るは『トゥスクルム荘対談集』の、魂についての教説をめぐるドクソ

グラフィーです。魂は不滅であるとか、魂は身体とともに滅ぶとか、様

々な教説が示されますが、キケロにとって重要なのは、いずれにしても

人は死を恐れることはない、という認識を導くことでした。とはいうも

のの、キケロはそこでも、アカデメイア派の懐疑主義が主張する留保の

姿勢を重く見ています。ドクソグラフィーのもとをたどれば、これまた

新アカデメイア派にたどり着くようなのです。


このように、キケロの著書が取り上げるドクソグラフィーは、いずれも

新アカデメイア派の文献に遡るようで、古代の懐疑派として知られ、前

2世紀のアカデメイア派の学頭でもあったカルネアデスが、大きな存在

として浮かび上がってきます。諸説を順に取り上げてはひたすら否定し

ていくというやり方は、まさにそうした懐疑主義を導くメソッドにほか

なりません。と同時にそのやり方は、諸派それぞれの特徴をそぎ落とし、

表面的に似たような部分を一緒くたにまとめ上げ、結局諸派に大差はな

いものとして扱う傾向をも生み出していきました。こうして生じたもの

こそ、各教義の独自の部分をないがしろにした、一種の「折衷主義」に

ほかなりません。


それは当のアカデメイア派の内外で生じています。アカデメイア派内部

では、教義としての折衷主義を確立したのはアンティオコス(キケロの

師匠です)だとされています。アンティオコスは、アカデメイア派をペ

リパトス派と合致させようとし、さらには融和的になったストア派の教

説をも取り込もうとしたことが知られています。フェスチュジエールは、

このような精神性・姿勢の変化こそが、前1世紀に、哲学的な体系から

完全に独立した宗教的教義を成立させた大きな要因であると見ています。

そのあたりはまた次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その21)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は第12章の後半部分です。部位による風味や香りの違いに

ついての考察が続きます。さっそく見ていきましょう。原文はいつもど

おり、次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984



12.7 樹木や穀物の場合、ほぼその逆となる。それらでは、実は有用だ

が葉はそうではない。先の野菜の例では葉のみが有用とされ、ほかの部

位については薬用として評価される。それゆえ、その点に関して、次の

ことを妨げる要因は一つもない。つまりシナノキその他の一部の樹木の

場合、実は食べられないが葉は甘く食することができるのである。(実

は)混じりけがなく純粋な性質をもつからだ(食するのに適さないのは、

極度に乾燥し木質成分が多かったり、渋みや苦みが強く匂いもきつかっ

たり、あるいはほかの欠点があったりするためである)。一方、葉のほ

うは、より水分が多く、混じりけもあったりし、なんらかの均衡を保っ

ている。


12.8 シルフィウムやほかの苦みのある植物については、水分があるお

かげで、葉はよい味がするし、実も柔らかいうちはそうである。そのバ

ランスが良いのは、苦みが水分と混ざりあい、なんらかの味わいを作り

出しているからである。しかし乾燥すると、苦みが強くなり、種子はい

っそうそうなっていく。


12.9 総じて多くの木々はそうなっている。つまり瑞々しい状態なら食

べられる植物は、水分に成分が入り混じるためになんらかの味わいをも

つが、乾燥して成分の混合がなくなると、食べることができなくなって

しまうのである。ブドウの若芽がそうであるし、木々の枝についてもそ

うである。それ以外にも、トゲに覆われた植物や、ヒゲレンリソウやソ

ラマメといったマメ科植物など、なんらかの甘さがあるものは端的にそ

うである。このことは、風味それ自体としては渋みや辛さ、苦さが強い、

ほぼすべての植物に共通している。というのも、植物の自然本性ゆえに

水分に混じると、よりよい、いっそう甘い味わいが生じるからである。

たとえばミルテやザクロがそうである。


12.10 一部の樹木と低木全般において、内的な性質が純粋であるために、

混じりけのない実をつける同じ自然本性が見られるような場合でも、葉

などそれ以外の部分には混合が見られたりもする。その場合でもなお、

先に述べたように、葉が食するに適し、実が適しなくなることを妨げる

ものはない。それらに見られるのと同様のことが、根が食用になる植物

にも言える。葉が乾燥しトゲがあって食べられない場合でも、茎は食す

ることができ、根は美味であったりもする。


12.11 逆に、ほかの部位は食に適し美味でもあるのに、根は木質だった

り苦みがあったりし、不快な味か、味がしないせいで、食べられないも

のもある。また、動物の側の自然本性による、小さくはない違いもある。

私たちにとっては味がない部位も、その身体的能力や消化機能ゆえに、

ほかの動物にとっては味わい深いこともあるのだ。部位ごとの味わいや、

動物ごとの能力に応じて、それぞれに適したものがあるのである。


12.12 柔らかい植物を好む動物もいれば、乾燥した植物を好むものもい

るからだ。逆の場合もある。柔らかいうちは食に適さないのに、乾燥す

ると食べられる部位もある。太陽によって熟成が進み、苦みが取り除か

れるからである。ゴマやカキネガラシがそうで、若芽だと苦くてまずい

ために、どの動物も触れようとしないが、乾燥すると多くの動物が食べ

るようになる。実もまた美味となる。部位ごとの違いの原因は以上であ

る。



前回の12章前半では、植物のそれぞれの部位に固有の成分があって、そ

れが食に適しているかどうか、芳香を発するかどうかのおおもとの原因

になっているという話が中心でした。今回の後半部分では、とくに木々

に共通の特徴がまとめられていますね。一般に木の場合には、実(果実)

を食することが多く、葉は食に向かないとされることが多いわけですが、

テオフラストスは前回の末尾にあたる6節めで、味覚的に快適な混合が

葉に生じたり、不快な混合が実に生じることを妨げるものなどない、と

断言していました。


7節では、野菜では葉が食に適していて、多くの場合に実はそうではな

いのに対して、木々の場合にはその逆になっていることを再度述べ。そ

の上で、シナノキなど、葉が食用になるものもあると指摘しています。

8節めにも、また9節めにも示されているとおり、基本的に、味のおおも

ととなる成分は純粋なままではきつすぎ、水分と混ざることで食に適し

たものになる、とされています。食用になるものは、水分との混合によ

って味わいのバランスが保たれているものだ、というわけですね。


9節には、前回の末尾で触れた、英訳と仏訳の違いが再度出ています。

「ほぼすべての植物に共通している」という部分が最たるもので、英訳

ではこれを「ほぼすべての部位」というふうに取っています。今回、こ

の箇所の訳出は仏訳に沿っていますが(いろいろな植物の話を出してい

るので、そのほうが多少とも自然な感じがします)、文脈的にどちらが

よいか、やや判断の分かれるところかもしれません。訳出に際してはそ

の都度、文脈を考慮しながら決めていくことにします。


各節の冒頭部分が節の区切りと少しずれている印象ですが、11節と12節

では、食する主体(動物)の側の自然本性の違いで、食される植物の部

位が異なることが言及されています。11節に出てくるischusと

catergasiaは、それぞれ「(身体の)強さ」「(消化の)処理(能力)」

ということです。アリストテレスの動物論に、これらの語が出てくるよ

うで、テオフラストスもそれを踏襲しているだろうという話ですね。


今回は短めのコメントで失礼します。次回は13章を見ていきます。お楽

しみに。

(続く)



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