silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.409 2020/10/10

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その27)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を見ています。前

回は、前2世紀の折衷主義の広がりについて論じた第12章4節をみました。

そこでは、3つめの要因として、懐疑主義の諸派の台頭が挙げられてい

ました。彼らが推奨する諸学説への判断保留の姿勢は、一方でそれら諸

学説のある種の混淆を促し、結果的に細部のニュアンスの違いを捨象し

た折衷的な学説を生み出すことになったというわけでした。


フェスチュジエールはその背景に、次第に複雑化する文明があったと推

察しています。文明の複雑化にともなって、なんらかの教養を身に着け

た人間がより多く必要とされるようになり、そうした将来の行政官たち

の道徳・宗教教育は、さしあたり社会的に認められた「一般常識」の範

囲でよしとされるようになったというわけです。つまり教科書で拾い上

げることのできる程度の知識でよい、と。フェスチュジエールはそれを、

精神的な「コイネー(共通語)」と称しています。


こうして、前4世紀から3世紀にかけて育まれた、自然学への回帰と、あ

らゆるものを縦横無尽に論じる精妙な批判精神は、前2世紀以降、折衷

主義的な教条主義に置き換わっていきました。前の世紀までの思想的構

築物は衰退し、その基礎的な部分、のちの世にも活用できると判断され

た学説のみが、もとの文脈から切り離されて受け継がれていった、とい

う次第ですね。このような流れで12章は締めくくられます。


そして13章からは、そうした折衷主義的な教条主義がどのようなものだ

ったのかを、キケロの著書や『世界について』、フィロンの文献などを

めぐりながら探っていくという作業に入ります。



13章は表題が「世界宗教についてのキケロの証言」となっています。世

界宗教(世界神への信仰)について、キケロがどういう立場を取ってい

たのかは、やはり気になるところです。キケロは上で触れた折衷主義の

典型例とされます。みずからアカデメイア派を宣言しており、同学派へ

の方法論的な帰依は、若いころから晩年まで、一貫している印象がある

かもしれません。そこでいう「アカデメイア派」は、懐疑主義を前面に

出した新アカデメイア派でもあります。とするならば、神・世界・霊魂

についての教説に関して、キケロはやはりひたすら懐疑的な姿勢を取り

続けているのでしょうか。そもそも当時の新アカデメイア派が、神ない

し神的なものについての体系を提示していたのかという問題もあります

……。


新アカデメイア派は、懐疑的な姿勢を貫く一方で、同意に値しうるもの

でありさえすれば教義の体系に取り込むという、ある意味節操のない側

面もあったようですが、キケロのように幅広い知識を誇り、才気にあふ

れた文人にとっては、方法論的な懐疑・留保の姿勢も含めて、新アカデ

メイアの教えは自身の心性・精神的な構えに見事にマッチするものだっ

たようです。


かくしてキケロは、ローマの人々に、古代ギリシアから引き継がれた伝

統の知恵を、新たなかたちで伝えることに成功します。革新的な知識人

でありながら、古くからの知恵を伝え広める。しかもどれかの教義に積

極的に加担することなしに……。これがまさしく、知識人としてのキケ

ロのスタンスでした。そうした姿勢は、実利的なものを求める当時のロ

ーマの人々への受けもよかったようです。キケロの折衷主義はそんなわ

けで、ときに言われるような凡庸な知性の産物ではなく、実はきわめて

しなやかな、開かれた知性の現れだった、とフェスチュジエールは評価

しています。


キケロはそうした姿勢ゆえにか、理論的な著作に関する限り、神にまつ

わる問題について、自身の立場をはっきりとは示していないようです。

たとえば著書『善と悪の究極について』などが、そのことを如実に表し

ているといいます。神にまつわる言説の証拠、あるいは単一の神こそが

唯一無二の真理なのかどうかという問題について、キケロはどこか明言

を避けているかのようだ、というのですね。それは結局、そうした問題

には確たる決着がつかないからです。とはいえ、これはあくまで神をめ

ぐる哲学的見解の話であって、ローマで当時実践されていた信仰につい

ての見識はまた別であったと思われます。古代においては、神にまつわ

る哲学的ディスクールと、実際の信仰とは、別種の領域に属するものと

捉えられていました。哲学者の弁神論に反論したからといって、その反

論者が無神論であるとは限らないというわけです。


では、キケロの宗教観とはどんなものだったのでしょうか。フェスチュ

ジエールによれば、教説をひたすら提示しては留保の姿勢を示している

のは哲学的な著作に顕著なのですが、ほかにキケロにはもう一つの系列

として、古来からの文献を駆使しつつ、また自身の経験なども振り返り

ながら、主に国家にまつわる各種の問題に確たる考えを示そうとする一

連の著作があるといいます。


この後者には、例として『国家論』『法律』などがあります。フェスチ

ュジエールはこうまとめています。「理論的・個人的な問題に関してな

ら、疑いを差しはさむ自由を保ち続けるキケロだが、国家にかかわるよ

うな問題を論じる際には、なんらかの主張を繰り出し、一定の教条主義

を唱える必要があることを認識していた」と。とはいえその際にキケロ

が前面に押し出す教義は、やはりどこか折衷主義的なもので、プラトン、

アリストテレス、ゼノンのそれぞれの学派に共通する教説にもとづいて

いる、といいます。神や普遍的理性といったテーマは、まさに国家に結

びついた大きな問題なのでした。


というわけで、13章ではキケロのこの2つの側面、2つのイメージ(懐疑

的な姿勢を貫くキケロと、国家にまつわる問題で主張を繰り出すキケロ)

を、フェスチュジエールは詳しく検討していくことになります。私たち

もその議論を追っていきたいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その22)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は第13章です。この章は短いので一気に見てしまいましょ

う。味わいや香りと同じように、薬草の薬効成分などもそれぞれの部位

で異なっていることを説明しています。原文はいつもどおり、次のURL

をご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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13.1 食用となる実については、説明が容易なのは明らかである。そう

した実はあたかも自然によって篩にかけられたかのように純粋で混じり

けがなく、ゆえにより多くの動物によりよく適したものとなるのである。

しかし薬草や、なんらかの効能があるもの全般については、考察を深め

る必要がある。そのような植物の場合でも、すべての部位に同じ効能、

同等の効能があるわけでもない。まずは根からしてそうであり、葉や小

枝や実など、あらゆる上位部分もそうである。程度の差による違いだと

いう議論も確からしいが、むしろ全般に、任意の部位は他の部位の効能

を発揮することができない。たとえば根の効能は種子や茎にはなかった

り、葉の効能は実や根にはなかったりする。そちらの違いにこそ、よほ

ど驚かされるだろう。


13.2 その原因もまた、先述したことをもとに検討しなくてはならない。

それぞれの部位は個別の成分や性質からなり、そのため効能にも違いが

生じるのである。ゆえに溶解や分離が可能な部位もあれば、できない部

位もある。よりよくできる部位もあれば、それほどでもない部位もある。

ゆえに(部位によって)熱を加えて熟成を進めたり、冷やして乾燥させ

たり、その他のことができたりする。他との違いが実において最も顕著

であるのは、故なきことではない。実やその他の部位と、根とでは、全

体の性質がまったく異なり、まったく熟成しない部位もあれば、完熟す

る部位もある。概して植物は多彩な部分からなり、だからこそ味わいも

効能も異なってくるのである。


13.3 こうしたことは、野生の植物にも栽培されている植物にも見て取

れる。根は苦く乳白色の樹液をもつ植物が、実のほうは甘かったりする。

まるで熟成しない成分から、熟成がなされたかのようである。薬用の植

物についても同じことが生じることを受け入れなくてはならない。よっ

て、根にはなんらかの効能が強く見られ、他の部位には別の効能がある

というのも不合理ではない。また同一種であっても、根によっては効能

が違ったり、タネやその他の部位においてもそれぞれ効能が違ったりす

ることもある。それぞれの場所の気候によって、効能に大きな違いが生

じるのである。ゆえに小麦その他の実では、栄養分の違いせいで重さの

大小が異なる場合がある。


13.4 またそのために、たとえ遠く離れていない場所であっても、場所

ごとに薬草の効き目には違いがある。たとえば、パルナッソスのクリス

マスローズに対するオエタのクリスマスローズがそうである。前者は効

力が強すぎて、利用に向いていない。実についても、効力は同じような

原因から生じている。その場所の気候の厳しさや栄養の豊富さによって

実の重さは増す。鉱物的な成分が多くなるからである。たとえばボイオ

ティアの植物がそうである。薬効のある植物も、同様の原因に依ってい

る。


13.5 実に見られるように、場所ごとに適した効能というものがある。

場所によっては、薬効が十全に育まれなかったりするからだ。クリスマ

スローズや、根に薬効がある植物は多くの場所に棲息するが、なかには

薬効が弱いもの、まったくないものもある。このことからも、植物には

なんらかの寒冷な気候と十分な通気、そして適切な栄養分が必要だと思

われる。多くの薬草は山岳部に、また標高が極めて高い山塊に棲息する

ことが見て取れる。この問題については以上で十分であるとしよう。


**


味わいや香りがそうであるように、薬効もまた、部位ごとに固有である

というのが、ここでの基本的認識になっています。味わいや香りの話と

同様に、薬効についてもまた、「部位ごとに違っているように感じられ

るのは程度の差があるからだ」という議論を一応は受け止めつつ、それ

でもなお「部位ごとにまったく効能が違う場合がある」ことを強く前面

に押し出している感じですね(1節め)。


次いで、植物のそれぞれの部位が他の部位に対して異質であることを論

じているのが2節めです。一見すると一様であるかのように考えられも

する植物の各部位が、実際には部位ごとに相当異なっているのだ、とい

うのですね。テオフラストスはこういうところ、なかなか細かく見てい

る印象を受けます。


3節めになると、今度は同じ部位でも個体によって効能に差があること

を指摘し、それを棲息場所の気候と絡めています。小麦などは、栄養分

の違いで重かったり軽かったりすると記されていますが、この箇所は、

英訳では「消化されにくい」「消化されやすい」と解釈しています。実

の詰まり具合ということかもしれません。仏訳註によれば、ボイオティ

ア出身のオリュンピア競技参加者は、アテネで食する小麦の量が地元の

小麦の量の2倍必要になるという話が、『植物誌』のほうに出てくるの

だとか。ボイオティアの小麦はそれだけ密なのだということでしょうか。

ボイオティアの作物の話は、この章の4節めにも出ています。


4節めと5節めには、薬草の薬効成分が熟成するには、寒冷な厳しい気候

と、栄養分の豊富さが必要だということが示されています。例として挙

げられているのがクリスマスローズ(ヘルボルス)です。クリスマスロ

ーズは古代から根や葉が薬草として使われていたといいます。『植物誌』

でも、9巻の第10章では章をあげてクリスマスローズについて取り上げ

ているのですね。パルナッソス地方のものよりオエタ山(テッサリア地

方)のものがよい、という評価も興味深いです。総じて薬草が山岳地帯

に多いということも、気候の条件に合うからだと示唆されています。自

然環境についての目配せもテオフラストスの特徴の1つだと言われるの

は、こういう記述があるからでしょうね。


次回は14章に入ります。お楽しみに。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は10月24日の予定です。


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