silva speculationis 思索の森
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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>
no.410 2020/10/24
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------文献探索シリーズ------------------------
神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その28)
フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス
の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を見ています。前
回は13章「世界宗教についてのキケロの証言」の第1節を見ました。そ
こでは、徹底した懐疑主義を標榜するキケロと、国家にかかわる事象を
教義的に主張するキケロという、相反する二つのキケロ像があることが
指摘されていました。これをもとに、当時の社会的変化に即して隆盛と
なった世界宗教を、キケロがどう捉え理解していたのかを探るというの
が、同章のその先の流れになっています。
というわけで、早速第2節を見てみましょう。ここでは、キケロによる
対話篇『神々の本性について』を再び取り上げ、そこに見られる世界宗
教観をまとめるという趣向になっています。まず取り上げられるのが、
同書の序文です。キケロは、神々の本性に関する哲学者らの説明は、最
も難解かつ最も不明瞭な議論だとしつつも、一方で人間の魂についてよ
りよく知るために役立つ問いかけでもある、と述べています。
とはいうものの哲学諸派の主張は、神々の存在自体は「もっともらしい」
としてあえて問いに付さないものの、神々の形状、居場所、現実世界へ
の関与などについては百家争鳴の状態にありました。たとえばエピクロ
ス派は、神々が世界や人間のことに関心を寄せてはいないと考えますが、
すると、信仰や宗教というもののそもそもの意味がなくなってしまいま
す。供犠や礼拝といった行為も、神が何も顧みないのであれば、むなし
い営為でしかありません。そうしたことは、ひいては人間社会の礎でも
ある善意や正義までも無化してしまいます。
一方のストア派は、世界が神々によって統治されているという立場を崩
さず、神々は人間のことを想い、人間の有用性のためにすべてを秩序立
てているとさえ考えていました。これについても、カルネアデスが強い
反意を示すなどし、では真理はどこにあるのか、という問題が突きつけ
られていました。キケロはそうした状況を踏まえて、自身がなぜ哲学を
指向したのかについて述べます。その上で、アカデメイア派(新アカデ
メイア派)の姿勢がいかに賞賛しうるものであるかを示していきます。
すでに何度も出てきたように、あらかじめ決めつけることをせず、あら
ゆる議論を検討しようとする姿勢です。
新アカデメイア派は基本的に、あらゆる領域に真理はあまりに不分明に
混在していて、真理をはっきりと区別する指標すらなかなか得られない
と考えていました。逆に言えば、様々な教説には一定数、同意に値する
論点があることになり、立証はされないまでも、賢者の生活を正す上で
好ましいものにもなりうるというのですね。フェスチュジエールによれ
ば、キケロの意図は、神の本性についての哲学的な見解を見直しながら、
宗教や信仰についてどう考えるべきか認識・掌握することを、各人に呼
びかけることにあったようです。
キケロはあつかう主題の重大さを十分に意識していた、とフェスチュジ
エールは言います。神々への信仰を取り去ってしまえば、もはや善意も、
正義も、市民社会もなくなってしまいます。信仰と正義に根ざす社会こ
そは、キケロが最も重視していたものなのでした。キケロは、まるでこ
の序文を受けるかのように、コッタという人物を対話篇に登場させます。
その人物を通じて、エピクロス派の考え方を徹底的に斥けようとするの
ですが、その際にもこの上なく誠実な対応を見せています。
コッタはまさにキケロの化身なのですが、神々の存在やその摂理につい
て疑問を差しはさむことはありません。ローマ人が日常的に実践してい
る宗教そのものも、議論の対象にすることはありません。問題なのはあ
くまで、神々をめぐる哲学者たちの見識なのです。神の存在や摂理その
ものを否定するなら、その見識はとうてい認められません。市民社会の
否定につながるからです。
一方で、神の摂理を説く別の賢者たちの見解も、確固たる根拠がなけれ
ばならないとキケロは考えます。教説をただ説くだけでは不十分ではな
い、ということですね。論拠を示し、批判する側を説得しなければ、意
味がありません。逆にそうした議論ができるのであれば、批判すること
も決して無駄ではない、とキケロは考えます。議論しあう人々が相互に
精神を奮い立たせ、真理の探究へと互いを向かわせるからです。
そんなわけでコッタは、序文に並んでキケロの考え方を体現する人物像
です。作中では、この人物はアカデメイア派の雄弁家であるとともに、
代表的な市民であり、神祇官でもあるという設定です。では、その宗教
的立場とは具体的にどんなものなのでしょうか。フェスチュジエールの
見るところによれば、コッタは神祇官として、神々の存在や信仰、祖先
から引き継がれた祭式などを一瞬たりとも手放すことがありません。彼
がそうする根拠は伝統にあり、そうである以上、ローマ市民の宗教を斥
けることなど決してありません。祭式が長く受け継がれてきたその事実
こそが、市民の宗教を肯定する十分な根拠になる、というのですね。
しかし一方では、その人物はローマ社会の知識人として、ギリシアの知
恵をも取り込み、横溢な批判精神をみなぎらせてもいます。哲学の徒と
して、祖先から受け継いだ信仰と、古来からの賢者たちの教えとをなん
とか一致させようとする……その二面性、二重性は、そのままキケロの
スタンスに重ねられます。
……というわけで、フェスチュジエールはこのコッタの人物像について、
さらに詳しく見ていこうとします。そのあたりはまた次回に。
(続く)
------文献講読シリーズ------------------------
古代の「香り」(その23)
テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て
います。今回は第14章の前半部分です。香りについてのある意味核心的
な説明に入っていく章です。原文はいつもどおり、次のURLをご参照く
ださい。https://www.medieviste.org/?page_id=9984
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14.1 香りに関しても、それが各部位に生じることから、原因は(味わ
いと)同じか、もしくは近いものだと考えなくてはならない。植物によ
っては、熟成がもっぱら花においてなされるものもあれば、果実でもな
されるもの、葉や若枝でも生じるものもある。水分が多い部位、ゆえに
味わいがないかのような部位、あるいは酸味が強い部位で熟成が進む植
物は、香りは花に生じる。バラやサフランなどがそうである。一方、良
い味わいをもたないものは、香りにおいてもなにがしかの重苦しさを醸
す。スイセンやユリ、それらに近い植物などである。
14.2 なかには、芳香はまったくなく、臭覚にとっての重苦しさをもつ
ものもある。香りが味わいから生じており、味わいから独立しているわ
けではないことは明らかである。一般に、水分と混じった成分は無味で
あり、香りもないからだ。無臭には、次の2つの理由があると言ってよ
いだろう。1つは、液状の味わいの成分が多いこと、もう1つは水分量そ
のものが多いことである。前者の場合は(成分と水分は)混合してはお
らず、後者の場合は水分が大量で成分が埋もれてしまう。そのためある
意味、後者の場合でも成分は水と混合していないかのようである。とは
いえ、香りの成分はなんらかのかたちで混合してはいる。栄養分が豊富
で、かつ雑然としている場所では(沼地がそうであるように)、植物は
それらに近い匂い、重苦しくて湿っぽい匂いとなる。
14.3 そのような混合や均衡は根に生じることもあるし、若枝や葉、あ
るいは実で生じることもあるが、最も多いのは花においてである。(植
物の)各区分において、花が芳香であることは理に適っている。それゆ
え木々の場合、小さな花ほど芳香であり、それ以外ではさほど芳香でな
かったりする。鉱物的な成分や水分が多量に含まれるからである。そう
でないような場合については、ほかの理由を探らなくてはならない。以
上は一般論であり、単純化した議論である。それぞれの部位について、
ここで述べた均衡について吟味する必要があり、最も多くの熟成が見ら
れる花について論じることは不合理ではないだろう。そこでこそ最初の、
軽度の熟成が行われるのであり、水分が少なくなると同時に変化も生じ
るのだから。
14.4 花が実に転じるときには、水分が増すことから、樹液の性質上そ
れほど匂わない植物は、もはや香りを維持できない。ワインの風味をも
つ実においては、芳香がそのまま残ったりもする。リンゴやナシ、セイ
ヨウカリンなどだ。酸味によって旨味が増すような実でも芳香が残るこ
とがある。ビャクシン、テレビンノキなどである。まだ油っぽい実でも
そういう場合がある。ヨーロッパモミ、マツ、アレッポマツ、ローリエ
などだ。
14.5 甘い果実については、まったく、あるいは少数を除き、そうでは
ないと言えそうである。甘いリンゴは、リンゴのうちで最も香りがしな
いし、甘味が強いほど香りは少ない――とはいえ、樹液にはワイン風味
が含まれているのだが。香りがしない原因は、甘い樹液には厚みと鉱物
的な成分が多すぎるからだ。果皮に混じっている場合にはさらにそうで
ある。香りは、より繊細で乾燥した風味に属し、よりたやすく発散しう
る部位に見いだされる。このことについては後で詳しく述べよう。
14.6 一方で、芳香はこれら主だった各区分に見られる。刺激臭や油っ
ぽさが見られる木や低木の茂みでは、葉や若枝に芳香があったりする。
上に述べた芳香のする実をもつものも、おそらくそれに含まれる。ワイ
ン風味をもつ実でも、芳香がすることがある。ミルテの実がそうで、芳
香を放つし、木そのものも良い香りがする。そのほかにも、刺激臭や油
っぽさ、ワイン風味などの味わいが実にあるものは、木に芳香があった
りする。
14.7 ヨウシュイブキジャコウソウやベルガモットミントその他のクラ
ウン状の植物、またヘンルーダ、セロリ、ミントなどの野菜についても
同様で、乾いた苦みや渋みの性質をもつことが顕著である。ただしそう
した性質は、実にではなく、同じく水分を含むほかの部位に見られる。
それらの植物、あるいはほかの植物のすべてに、はっきりとした芳香の
成分が見いだせる。それが乾いた風味の成分と混じり合うと、なんらか
の作用があらわになる。
**
今回の箇所から、ある意味中心的な部分、つまり香りそのものが正面か
ら取り上げられる部分に入っていきます。この14章ではまず、1節から2
節にかけて、香りもまた各部位において発現が異なっていること、そし
てそれが風味と同じ原因か、近い原因によって生じているとの推論が示
されます。その論拠として、水分に混じった成分は無味になり、かつ無
臭にもなることが引き合いに出されています。テオフラストスは水分と
成分の均衡の度合いに、風味や芳香のバリエーションの根拠を見いだし
ているのですね。
3節めでは、花が芳香であることの説明がなされています。花は小さい
ので、香りの成分と水分量が少なく、両者が均衡しやすいということな
のでしょう。一般論と断った上で、花について論じることは正当だと述
べています。
4節になると、花が実に転じる際には水分が増すために、あまり香らな
い植物では芳香が維持されないとしています。ただし例外的な実もある
として、3種類の実(ワイン風味的な実、酸味のある実、油っぽい実)
が挙げられています。そのような実をつける植物では、芳香が維持され
るというのですね。面白いのは5節めで、甘味をもつ果実は、少数を除
いて、香りが維持されないとしています。ワイン風味が含まれていても、
甘い実の場合は関係ない、というのです。ここから、香りは乾燥した成
分によるもので、水分が多いと薄まってしまう、とテオフラストスは推
察しているようです。
その一方で、6節めになると、実などのいずれかの部位に刺激臭や油っ
ぽさがある場合には、別の部位に芳香があることが指摘されています。
これもある意味、一般論ではあるわけですが、7節めにもその話は続い
ており、逆にどこかの部位に芳香がある植物は、別の部位に刺激臭、油
っぽさ、ワイン風味(酸味)があったりするということが記されていま
す。
最後の部分は少しわかりにくいですが、芳香の成分と風味の成分とは別
もので(ともに乾いた成分です)、両者の混在・混合が植物ごとの違い
(芳香が残ったり、残らなかったりするなど)のもとになっている、と
おそらくは言いたいのでしょう。この推察はまだ話として続くようです。
次回はこの章の後半部分を見ていきます。
(続く)
*本マガジンは隔週の発行です。次号は11月07日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
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