silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.411 2020/11/07

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その29)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を見ています。前

回は、キケロの『神々の本性について』の序文と、対話篇の登場人物コ

ッタの人物像を中心に、キケロの宗教観へのアプローチを試みている箇

所(第13章2節から)でした。今回はその続きで、対話篇の登場人物コ

ッタについてのさらなる考察をめぐらした部分ですが、このあたりはど

うやらこれまでの議論の重複も見られるやや散漫な印象です。なので、

ごく簡単にまとめるだけにしたいと思います。


当時のローマ市民に浸透していた宗教と、古来から受け継がれた哲学的

な教えとの合致を模索するというのが、コッタが体現している基本的な

姿勢なのでした。しかしそういう姿勢であるがゆえに、懐疑論的なまな

ざしも生じないわけにはいきません。神々が存在しローマを守護してい

るという信仰は揺るぎないもので、それはローマが偉大であることの証

とも見なされていました。とするならば、神々の存在やその恩寵につい

ての「合理的な論証」に関しては、諸説の検討を深めるほどいっそう混

迷も度合いも深まり、慎重な姿勢を取らざるをえなくなっていきます。


作中のコッタが示す基本的な考え方は、このようにローマ市民の伝統的

な宗教観がベースになっており、それをそのまま維持した上で、ごく限

定的な哲学上の宗教的見解を問題にしているのでした。つまり、最終的

な判断の基準は哲学のうちにではなく、むしろ俗世間的な信仰心のうち

に見いだされるというわけです。それはそのままキケロのスタンスなの

ではないか、と推察されます。


ではキケロにおいて、そうした見識が直接的に語られる文章はあるので

しょうか。フェスチュジエールは、キケロが追放後の前56年に行った演

説『予言者の返答について』を挙げています。


当時、ローマは内政的・周辺的な政情不安が続いていて、ローマ市民ら

が予言者に伺いを立てると、「聖地が荒らされていて、神々が怒ってい

る」との回答が寄せられたのでした。キケロと対立する政治家のクロデ

ィウスは、それをキケロ1人のことだと解釈し、キケロが自宅を再建し

ようとしているのがその聖地(キケロが追放されているあいだに、自由

の女神を祭っていたのですね)であると糾弾したのです。これに対して

キケロは、その演説でもって反論します。


キケロはその演説で、まずは自分の領地の所有が正当なものであること

を主張し、次いでローマの出来事と予言について考察します。演説の核

心部分となる予言者の返答についての考察に入る直前、キケロは議論の

ために、あえて自身の宗教観を開示しているといいます。


そこでは、信仰心・宗教こそ、ローマが他国(スペイン、ガロワ、イタ

リア、カルタゴ、ギリシアなど)に対して優位をなすものであり、神々

によって統べられていると認識するその知恵こそが、他の諸民族に勝る

美徳なのだとされているようです。古来からの哲学の書物を数多く読ん

できたはずのキケロですが、ここでの基本的な立脚点は、ローマの伝統

的な信仰心にほかなりません。まさにそれは、上のコッタの立場に見事

に重なっている、とも言えます。伝統的宗教の擁護に立脚する限り、そ

れと哲学的議論としての慎重論は、二面性・二重性として解消されるこ

となく、存続していくしかないようなのです……。



この後、フェスチュジエールは『神々の本性について』の全体を微に入

り細に入り検討していきます。それ自体は実に興味深いものではありま

すが、かなり細かい議論になるので、ここでは割愛します。ただ、フェ

スチュジエールの分析で一つ重要な点を挙げておきたいと思います。そ

れは、キケロが導入しているとされる「概念的な拡張」です。


たとえばストア派が出自とされる「共感(sumpatheia)」概念がありま

す。ストア派などでは、それは天体と潮汐の関係、あるいは動植物の成

長との関係など、一部の自然学的連関として捉えらえていたものですが、

キケロの著書においては、その連関は自然に存する全存在へと拡張され、

地上世界のあらゆる存在がすべて相互に影響を及ぼし合っているという

ふうに捉えられているというのですね。


結果的に、コズミックな宗教もまた、その領域を広げることになったと

いいます。ストア派の始祖ゼノンの時代から、世界を統べる存在として

考えられてきた神(宇宙神)は、キケロの著書においては、恩寵として

の自然そのものと同一視され、自然そのもののなかに、判断や洞察をな

す力があると認識されることになります。言ってみれば、地上世界のあ

らゆる細部に神が宿ると見なされるようになった、というのです。世界

はすべてが神的なものであり、神はいたるところに遍在する、と。


フェスチュジエールによれば、これはちょうど、天上世界にのみ関心を

示しているアカデメイア派をアリストテレスが批判し、地上世界の細部

にも驚嘆し尊ぶべきことが多々見いだせると主張していたことを彷彿と

させます。キケロが示している共感の概念の拡張は、こうして世界宗教

そのものの拡張をも導き、宗教的関心の領域は地上世界そのものにまで

広がっていった、というのですね。


フェスチュジエールが言うように、キケロは確かに、そうした概念の拡

張をさらに深めて宗教的感情を豊かにすることには貢献していないよう

に思われます。しかしそれに続く、たとえば詩人のウェルギリウスなど

は、魂をめぐる観想のテーマとして神の遍在を取り上げるなど、そのあ

たりを深掘りしていきます。ウェルギリウスの『農耕詩』に見られる神

の顕在への感情は、まさにそうした一種の宗教観の変転を物語っている、

とフェスチュジエールは高らかに言い放ちます。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その24)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回はこの第6巻の重要部分の1つ、第14章の後半です。原文

はいつもどおり、次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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14.8 それらの植物は、風通しがよく乾燥した場所では、全体的にも部

分的にも香りが増し、芳香の度合いも増す。水分が少なくなり、残りの

成分がよりよく熟成するからだ。一言で言うなら、乾燥は香りにいっそ

う適しており、あらゆる植物が乾燥へと向かう。その証拠に、暑い地域

ではより多くの植物が芳香を放ち、しかも香りが強い。明らかに熟成が

進んでいるからである。いくつかの植物は、瑞々しいうちは香らないも

のの、乾燥すると香りを発するようになる。アシやイグサがそうである。

また、ほかの植物でも、乾燥すると香りが増すものがある。アヤメやシ

ナガワハギがそうで、この後者はワインを振りかけるとさらに香るよう

になる。


14.9 すべての植物においてそうなのではなく、一部には逆のものもあ

り、区別が必要である。その区別は容易である。まずは香りがあまり感

じられない種類がある。とくに花の場合がいっそうそうである。瑞々し

く新鮮な花は芳香がするが、時間が経つと、蒸発のせいで香りは弱くな

る。次に、香りが強い種類もある。鉱物成分が多く、鉱物成分になんら

かの液体成分の力が混じっているものなどである。その場合、乾燥しあ

る程度まで老いていくと、つんとくる匂いがするようになる。マルメロ

や冠状の植物などがそれにあたり、ヨモギに顕著だが、マヨラナやサフ

ランもそうである。


14.10 これは、水分が蒸発し、栄養分の流れが滞ると、自身のいずれか

の部位で熟成が進むからで、ゆえに(その部位が)植物本体から分離す

るといっそうの芳香を醸すようになる。リンゴその他がそうである。草

木にも、若いうちは水分が多いせいで香らないが、乾燥すると香るよう

になるものもある。コロハなどがそうだ。ワインの場合でも、最良の状

態になり香りがするのは、水分が分離したときである。こうした植物は

いずれも、時間が経ってくるといっそう芳香を放つようになる。


14.11 一方、香りが弱い植物では、香りの蒸発も早い。スミレなどがそ

うである。白い種類は老いてくると刺激臭が増し、不快な匂いになる。

バラが乾燥しても最後まで芳香を保つのと対照的だ。ただしそちらも、

瑞々しいうちは離れていても香るのに、老いたものはそうはならない。

その原因は、内部の熱が失われ、発散もなされなくなり、要は硬化して

くるからである。香水を作る場合、必要に応じて一定の段階まで乾燥さ

せ、純粋な香りが保たれるようにする。シナガワハギの場合には、さら

に長い期間、香りが維持される。


14.12 とはいうものの、芳香をもつ植物においても、あまりに乾燥する

と香りが変質し、刺激臭を含み粗野になるものもある。ワインのほか風

味全般においても粗野で強烈なものはあるが、匂いについても同様であ

り、栽培されている植物に対して野生の同種の植物がそうだったりする。

タフティドタイムやベルガモットミント、食用のものではとりわけヘン

ルーダがそうである。野生のものは粗野で甘い感じのない香りがし、栽

培された植物にはわずかながらでもなんらかの甘い感じと心地よさがあ

る。「甘さ」はこのように風味にも、匂いにもある。ほかの名称の風味

も同様で、それぞれ(同一名の風味と匂い)の性質にもそれほどの違い

はないかのようだ。


**


14章は香りの諸相について直接的に取り上げた箇所です。前回見た前半

では、風味と匂いの成分は近いもので、いずれも水分が多いと薄まって

しまい、逆に乾燥した状態ならば強く作用する、としていました。今回

の8節めも、そうした話を具体例とともに再び記しています。仏訳註に

も出典などはないのですが、乾燥したシナガワハギにワインを振りかけ

るといっそう香りが立つという話などは単純に面白いですね。


乾燥すると芳香を放つ植物がある一方で、乾燥すると匂いが変質してし

まう植物もあるとして、区分を設けなくてはならないとしているのが9

節めです。大きくは2つに分けています。あまり香らない種類と、香り

が強い種類ですね。それぞれの特徴の記述は10節、11節にまで及んでい

ます。前者は成分が蒸発しやすく、時間が経つ(つまり乾燥する)と、

香りは弱くなっていくと述べています。後者は香りがさらに強くなって

いくけれども、ある閾域を超えると不快なものになったりする、と記さ

れています。


同じく11節では、前者(あまり香らない種類)でも、やがて不快な香り

になるものもあると述べています。12節では、さらなる一般論として、

乾燥によって芳香をもつ植物も、乾燥しすぎると粗野な匂いに転じたり

する、としています。同一の種類でも、野生のもののほうが、栽培され

ているものより匂いがきつかったりするというのも、興味深い指摘かも

しれません。栽培するものは、なんらかの改良・工夫が施されるからな

のでしょう。


末尾では、それに関連して、匂いにも「甘さ」に該当するようなものが

あると述べ、それ以外の風味の区別にも、それぞれに対応するような個

別の匂いがあることを示唆しています。テオフラストスは6巻の最初か

ら、匂いに近いものとしての風味についてあれこれ記してきたわけです

が、それがここでいっそう生かされているような印象ですね。匂いの感

覚的な区分の話は、続く15章にも引き継がれます。それはまた次回に。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は11月21日の予定です。


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