silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.412 2020/11/21

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その30)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)を、ストア派(古代からヘレニズム期にかけて)につ

いて論じた箇所を中心に見ていく連載です。現在はキケロを扱った13章

を見ています。前回は、キケロ本人の宗教観が垣間見れる文書というこ

とで、フェスチュジエールはキケロの政治演説を取り上げていました。

今回見る箇所(13章3節)からは、いよいよキケロが自身の主張を書き

綴ったとされる政治論の著書を見ていくことになります。


取り上げられるのは『国家について』(De re publica)と『法律につ

いて』(De legibus)です(以下、それぞれ『国家論』『法律論』とし

ます)。この2つの著書を貫いている大きなテーマは、法とは何か、と

いうことです。まずは『国家論』からですが、フェスチュジエールは最

初に著書の全体構成について触れています。ざっとまとめておきましょ

う。


まず序文で、賢者は国の事象に関わるべきか、という問いへのキケロ自

身の応答が記されます。続いて調停役が指名され、3日間に及ぶ対話が

幕を開けます。1日目(1-2巻)は、国家体制の種別から始まります。平

時の3種類の体制には、王政、貴族政、民主政があり、それらが循環す

るとされます。けれども各体制は、それぞれ僭主政、寡頭政、衆愚政へ

と堕落する危険もあり、それら3つを混合した4つめの政体こそが理想で

はないかと説かれます。それはとりもなおさず、共和政ローマの政体 

なのですね。哲人政治の理想にも言及されます。いずれもプラトンの

『国家』などを下敷きとした内容です。


2日目(3-4巻)の対話は、文明の起源についての議論のほか、観想的な

知恵よりも政治的(実践的)知恵のほうが上位に来るという話が展開し

ます。力でねじ伏せる政治は不正義として斥けられたりしています。さ

らに民衆の教育についての話もあり、プラトンやアリストテレスに準拠

した議論が続きます。3日目(5-6巻)は、国民の幸福を目的とする理想

の指導者という話から始まり、国民の忘恩、為政者への報酬としての永

続性などの話が続き、最後に有名なスキピオ(対話者の1人です)の夢

が語られて、全体が締めくくられます。


この『国家論』では、法や正義についての議論に関連して、宗教的なも

のが問題になります。フェスチュジエールは例として、3巻で自然法に

ついて語られている箇所を取り上げます。自然法は不動かつ永劫の法で

あり、人間すべてに共通とされます。そして民族を超越したその法を司

るのは、神にほかならないという議論です。これはもう1つの『法律論』

の第1巻、および第2巻4章で展開される議論に直接的につながる論点で

す。


ここからフェスチュジエールは『法律論』のほうへと目を転じます。ち

なみに同書では、キケロ自身も登場人物として対話に参加します。1巻

の対話はまず法の起源から始まり、法とはそもそも、自然に埋め込まれ

た至高の理性であるとされます。それが人間精神によって展開されて法

になる、というのですね。法の起源は自然にあるとされ、自然は神の摂

理によって司られているのだから、自然法は神の摂理、神の知性に等し

い、と。で、人間は特権的存在で、いわば法を介して同じ知恵を分かち

合っているとされます。


人間と神は、三重に結びついているとされます。1つはその法を共有す

る特権的存在として、2つめには姿形の類似性や知性の共有を通じて、3

つめには共通の徳の実践を通じてです。そんなわけですから、人間と神

との結びつきは実に密なるものなのだ、と高らかに謳いあげられていま

す。だからこそ、自然のすべては人間に役立つように配置されていると

され、人間が生み出す技芸なども、必然的に自然を模したものになるの

だ、と。人間の身体も、精神の活動に見合ったものになっている、と

(直立歩行や表情の豊かさなど、他の動物にない特徴はいずれもそうし

た特権性の現れであると見なされます)。


このように、人間は神との垂直方向の繋がりをもっているとされますが、

さらに重要な点として、水平方向の繋がり、つまり人間同士の繋がりが

あります。人間は正義のために生まれ、その正義は臆見にではなく自然

そのものに立脚していて、民族や出自に関係なく、いずれも同じ知性、

同じ感覚機能を備えており、その具体的な活用や実践・発現に違いがあ

ろうとも、等しく徳への性向を持っているというのです。


こうして、人間は自然の法を内包している存在だということが改めて強

調されます。以上が『法律論』第1巻の前半部分の内容になります。こ

の後、いったんは至上の善、倫理の逸脱などの話になり、賢慮・知恵へ

の賛辞でもって巻が締めくくられます。ですが自然法の話は、第2巻の4

章で再び取り上げられます。今度は普遍的理性(つまりは神そのもの)

としての、法の宗教的側面が議論に上ります。法の基礎づけを求めれば、

神にまで遡及しなければならないというのですね。


法というのは人知によらない、世界を司る原理と見なされています。つ

まり、法は至高の知性と同一であると見なされるのですね。とすると、

世界を司る自然法と、人知により敷かれた国家の法とのあいだには、大

きな違いがあることになります。作中でそう述べているのは、なにを隠

そう登場人物としてのキケロ自身です。ここに、キケロの直接的な宗教

観が現れているのだろうと、フェスチュジエールは見ているようです。

このあたりの話は次回も続きます。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その25)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は15章です。この章は短いので一気に見ていきましょう。

原文はいつもどおり、次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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15.1 だが、どのような香りが持続するのか、また乾燥した場合にどの

ような香りがいっそう醸されるのか、その他同種の問題ともども、先に

述べたことに照らして検討しなければならない。ここで取り上げていな

い問題についても、理解が容易になるだろうからだ。部分においてでは

なく全体で香る植物の場合、先に述べたように、なぜ花が芳香ではない

のか、あるいは応分の芳香ではないのかと問うことができる。よい香り

のしないほかの植物の場合でも、(芳香の)性質はあるがゆえに、その

部位が最もよい香りがするはずだからである。


15.2 そうなる理由は、花が咲くというのはなんらかの熟成であり、熟

成した部位は変化を被っているからだと思われる。そのため、本体その

ものは無臭の植物でも、樹液が熟成すると、熟成は変化をもたらすがゆ

えに、なんらかの芳香のする花をつけたりするのである。もとからよい

香りをもつ植物は、そうした変化によって必然的に香りも変化し、花は

さほど香らなくなったりする。その変化は、最初にあった香りと力がな

にがしかの衰えを示すかのようである。その植物が香ると言われるのは

その最初の香りゆえである。これが本当に生じていることなのかは検討

の余地がある。なんらかの思い込みが加えられていたりもするからだ。


15.3 同じ植物の、熟成していないものに対して、完全に成長し熟成に

いたったものにおいては、火や太陽の作用を受けるとき、風味に生じて

いるのと同じようなことが、香りについても生じているように思われる。

そこで生じる変化では、あるものはよりよい状態に、あるものは劣った

状態に転じる。熱は(熟成していないものの)熟成と(熟成しているも

のは自然状態からの)逸脱をもたらす。完熟の状態では、変化は必然的

に劣化へと転じるからである。そのことはここでも生じているように思

われる。香りの純粋さが後退するため、香りの劣化が生じるのである。

また開花期には、乾燥している植物にも水分がいきわたる。


15.4 花なしでは生殖がなされない植物では、その際にも(香りの)減

衰が生じうる。水分がない場合、果実をなすために(花に)甘味が生じ

る。果実はすべて甘さの成分から生じるからであり、ゆえに多くの花は

甘味をもつ。これもまた理に適っていることだが、純粋な酸味が薄まっ

て甘味が増したようになることで、香りは削がれ弱々しくなるのである。

以上がそうした現象の原因の一端であると思われる。


**


今回の箇所では、花の香りと植物全体の香りの関係性を再び問うていま

す。最初の節では、これまでの言及内容(香りもまた何らかの成分が熱

によって熟成されて生じるものであり、水分が多いか少ないかによって

熟成の度合いが異なってくるという、これまで出てきた説が大枠になっ

ています)に照らして、ほかの問題をも扱うとの姿勢を示したのち、テ

オフラストスはこの章の具体的なトピックに入っていきます。全体とし

て香りをもつ植物は、なぜ花がそれほど香らないのか、という疑問です。


これについては2節めから回答が示されています。花をつけるのもまた1

種の熟成のかたちであり、熟成とはすなわち変化のことである、という

のが基本的な考え方です。変化の文脈でなら、香らない植物は熟成によ

って香る花をつけることもありうるし、香る植物も花が香らなくなった

りしうることも、容易に理解できるのではないか、ということでしょう。

アリストテレスもそうですが、テオフラストスも変化という側面にこだ

わる人であるようです。


2節めの後半にexanthe_sisという単語が出てきます。これは文字通りに

は開花期を脱すること、それによって花が散ること(落花)を意味しま

すが、ここでは「衰え」と意訳しているのですが、こうした意訳は古く

から行われてきたようで、仏訳註では、むしろ本来の脱開花期・落花の

イメージを残すように訳語を工夫すべきだと主張しています。これは考

えどころで、適切な訳語が見当たらない気もしますが、いかがでしょう

か。2節の末尾の部分は、もともと香りのある植物は熟成なしでも香っ

ているので、熟成をもちだす説明が真実かどうかについては、慎重に扱

う必要がある、と留保しているように読めます。


3節めでは、風味や香りに対する熱の作用の両義性について言及されて

います。熟成をもたらしもするし、本来の状態からの逸脱をもたらしも

するというわけですね。これは時系列的に連結されて、熟成が完成に至

った後に劣化に転じるという話にもなっています。


3節め、4節めの主要な議論は、もとから香りをもつ植物において、花が

香らなくなることの説明です。1つには熟成が進み過ぎて香りが劣化す

ること、2つめには、花が咲く頃に水分が多く蓄えられるために、香り

の成分が薄まること、そして3つめには、酸味などの別の成分が減衰す

ることで、甘味が相対的に優位になるとき、結果的に香り(の成分)も

弱まること、が挙げられています。


いきなり甘さ・甘味の話が出てきて面食らう向きもあるかもしれません

が、再び仏訳註によれば、実は師匠のアリストテレスにおいてすでに、

「甘味は栄養摂取や生殖の真の基礎」であるとされているようです(

『感覚論』など)。テオフラストスもそれに準拠しているわけですね。

甘味を生物の基本的原理と見なしているあたり、アリストテレスの慧眼

を改めて感じさせます。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は12月05日の予定です。


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