silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.414 2020/12/19

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*年末のご挨拶

今年も本メルマガをお読みいただき、誠にありがとうございます。今年

は世間的なコロナ禍もあって、様々な変化があった一年でした。そんな

中でも、どうにかメルマガを続けてこられたのは、ひとえに読者の皆様

のおかげです。改めてお礼申し上げます。


さて、年末年始は例年お休みをいただいております。そのため次号は、

年明けの1月16日を予定しております。ご承知おきください。来年が皆

様にとって善き1年となることを祈念しつつ、引き続きよろしくお願い

申し上げます。



------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その32)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を中心に見ていく

連載です。現在はキケロを扱った13章を見ています。


前回の第3節では、ローマ的ストア主義がどう成立したのかについて概

要が述べられていました。帝政ローマにおいて、ストア派は実際に執政

官たちの階級の教育を担っていたとされ、彼らへの道徳教育、宗教教育

を提供していたようです。このあたりについて、ローマの高官らによる

公式の文書には記載はないようなのですが、フェスチュジエールは、そ

れでもなお当時の雰囲気、ストア派の教義の影響力などは、現存する当

時の文書からうかがえると述べています。拠りどころとなる原理への市

民の渇望と、ストア派が説く宇宙論・神論とが、類まれなる幸福な出会

いを果たしたのだ、とフェスチュジエールは記しています。


さて、今回は続く4節です。そこでは『国家論』末尾の「スキピオの夢」

を取り上げています。「スキピオの夢」が用いているテーマは、魂の上

昇と天界の美の発見、そしてその観想への沈潜という、ヘレニズム時代

に重要とされた主題の数々だといいます。魂の上昇のテーマには、大き

く2つの側面、つまり生きている間に観想や夢想を通じて魂が上昇し、

天界を垣間見ることができるという面と、死後に魂が肉体を決定的に離

れるも、魂の不死性がそこで担保されるという二面性があるとされます。

「スキピオの夢」はこの前者を前面に出しているわけですが、実は両方

のテーマを入り組ませてもいる、とされています。


フェスチュジエールがとくに注目しているのは、不死の魂の記述に込め

られたキケロのささやかな独自性です。「スキピオの夢」では、不死の

魂は天界の中でも「銀河」(orbis lacteus:乳の輪)、つまり恒星天

に位置づけられているといいます。これはポントスのヘラクレイデス

(前4世紀)によってピュタゴラス派の教義とされた考え方とのことで

すが、ギリシアから受け継がれてローマでも広く知られていたようです。

そのような伝統に従いつつ、祖国ローマに献身した偉大なローマの政治

家たちの魂に魂の不死の叙述があてがわれているところに、キケロのオ

リジナルな部分が見いだせる、と指摘されています。


そしてまた、夢と不死のテーマに加えて、キケロは3番目の要素を加え

ているといいます。それはコスモスの大きさ・偉大さと、地上世界の小

ささとの対比です。ここから、地上世界の事象、とりわけ現世での名声

などが、虚栄にすぎないことが観想されていきます。天界での不死性に

比べれば、そんなものはあまりに矮小で、取るに足らない。したがって

そこに拘泥している謂れはない、というわけです。コスモスへの観想が、

道徳的な考え方へと転じるのですね。フェスチュジエールによると、こ

の道徳的な要素も、実はキケロの時代には結構ありふれたものだったと

いいます。


一般に魂の上昇のテーマには、いくつかの活用法が見られます。まず人

間精神の力を示すために使われます。次にコスモスについて詳述するす

るためにも使われます。さらにそれは、究極の知解対象、あるいは神の

本質をめぐる観想の枠組みとして使われたりもします。しかしながらな

によりも重要とされたのは、コスモスについての観想を道徳的な教訓へ

と転じさせることです。天界の偉大な対象を見いださせ、翻って地上世

界へのこだわりを捨てるよう導くというわけですね。


こうした発想の源は、まずはプラトンやアリストテレスにまで、あるい

はそれ以前の哲学にまで遡れるようです。プラトンの『パイドン』やア

リストテレスの『気象論』などは、確かに天界と地上世界の偉大さ・大

きさの対比に言及してはいます。しかしながら、それら古代ギリシアの

テキストだけでもって、コスモロジーから道徳への転換が、広く流布し

たわけでもなさそうです。そうした道徳論が目立ってくるのは、前1世

紀ごろからだろう、とフェスチュジエールは言います。そのころから、

様々な著者がそうしたテーマを取り上げるようになってくるのですね。

ではそれを広めたのは誰なのでしょうか。


コスモロジーに絡めた道徳論の媒介役となったものとして、フェスチュ

ジエールがまず指摘しているのは、天文学の教科書・入門書です。ゲミ

ノス(前1世紀ごろのギリシアの天文学者)のものや、クレオメデス

(生年没年不詳のギリシアの天文学者)による著書(後2世紀までに書

かれたとされます)などです。この後者は出典としてポセイドニオス

(前1世紀から後1世紀の半ばごろに活躍したストア派の学頭です)を挙

げていたりします。


しかしながら、こうした天文学者による天空と地上世界の対比(主に大

きさの対比です)も、文学的なレトリック(つまり道徳的な議論)には

なっていないといいます。では誰がその橋渡しをしたのでしょうか。フ

ェスチュジエールによると、実はそれは簡単には特定できないといいま

す。様々な著者がそのテーマをどう活用していたか見ることができるだ

けなのだ、と。フェスチュジエールが挙げるのは、キケロのほか、偽ア

リストテレス文書の『世界について』、セネカ、カッシウス・マクシム

ス・ティリウス、ルキアノスなどです。


具体的な引用や内容は割愛しますが、フェスチュジエールによれば、そ

れらから考えるに、「スキピオの夢」は定型句のモザイクにすぎないの

ではないかといいます。ただし、キケロ固有の独自性がないわけではな

く、それは先にも指摘されていた「ローマ的なカラー」、つまり祖国愛

の称揚です。ですが、仮にそうだとすると、天界もしくは世界全体に比

べ人間世界の栄光など空しいものだとする教説を、キケロは軽んじてい

ることになりはしないでしょうか。


そうではないようだ、とフェスチュジエールは言います。キケロが『国

家論』や『法律論』を著したのは、政治的な失策を経て政界からの引退

してからでした。そのためか、その記述には、メランコリックなトーン

が全体を貫いているといいます。地上世界での栄光を讃える表現はあく

まで定型句にとどめ(いわば当時の世相にも目配りをしながら)、天空

における不死の魂を賞賛することに価値を与えようとしていたのではな

いか、というのです。


フェスチュジエールはこの13章の最後で、「スキピオの夢」には、当時

のローマの世界神信仰に見られたであろう進展が、3点示されていると

指摘しています。それは(1)神の遍在についての感性が豊かになった

こと、(2)世界神への信仰が政治学の領域を併合したこと、そして

(3) 終末論における世界宗教の進展です。キケロはそれほど独自性を振

りかざしていないがために、かえってそのテキストからはそうした変化

が読み取れ、その意味で世界宗教の研究にとってはとても有益なのだ、

とフェスチュジエールは述べています。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その27)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は16章の後半部分です。前回に引き続き、植物において芳

香と味わいとが一致しないことについて、説明を模索しています。原文

はいつもどおり、次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984


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16.6 さらに、芳香とともに生じるのが、ワインの澱の沈殿に見られる

ような、水分と鉱物成分のある種の分離であり、さらに水分の蒸発も加

わる。結果的に芳香は、成分の細やかさ、分離、蒸発などの全体によっ

て生じているといえる。ワインを入れた水差しも、澱に隣接する部分は

さほど匂わない。このことは、濾過されたワインがより早く熟成するこ

との原因にもなっている。(蘆花により)成分は細やかになり、また直

に混じりけのないものにもなるからである。さらに次のような確証もあ

る。(土壌が)細やかで、太陽に照らされ、風通しもよい場所では、ワ

インはいっそう香りが立つようになる。しかも老成したワインのほうが、

若いワインよりもそうなるのである。さらにまた、香りが豊富で強いワ

インは、味においては柔らかさに欠ける。香りがよく、強いからといっ

て、口当たりがよいとは限らないようだ。


16.7 そのことは、香水や香料、冠状その他の芳香植物についても窺え

る。アーモンドがそうであるように、いずれの成分もそれ自体としては

苦く、不快な味わいである。山岳地帯のワインも、ときに芳香をもつも

のもあるが、味わいはきつく美味でなかったりする。こうしたすべての

事象から、香りを作るものが(味わいを作るものとは)別物だというこ

とは明らかである。混合が適正な割合でなされるならば、両者の混合は

最良の喜びをもたらすだろう。味わいにおける楽しみはまさに格別であ

ろう。いくつかの野生の種について、私たちは先に、刺激的な匂いやき

つさが不快であると述べた。ジャコウソウやヨモギ、ヘンルーダなどが

そうだが、(樹液に)もとからある水分と(香りや味わいの成分が)混

じると、より優しく心地よいものになる。混合は樹液が豊富になるとき

からなされる。(香りと味わいの成分の)いずれかが優勢になる場合、

私たちは少なくなるほうを求めがちだ。この種の味わい、つまり香りと

味覚における心地よさは、いわば同時に味わうものだからだ。


16.8 一方で、口当たりのよさや甘さが樹液にあるのだとすれば、香り

もまた樹液から発するのであるから、それぞれがどのような性質のもの

で、どのように含まれているのかについて、先に述べたように、一般論

としての確定を試みなければならないだろう。これは明らかに、最初か

らの難問であった問い、すなわち、なにゆえに野生の植物の実はより芳

香が強いのかという問題からつながっているように思われる。未成熟の

樹液、もしくは不十分な樹液において、その樹液が苦かったり、辛かっ

たり、渋かったり、荒々しかったり、その他の不快感を伴うものであっ

ても、芳香がより強くなることも、この問題が関係しているように思わ

れる。そのことは非合理ではない。そのような樹液からはなんらかの発

散が生じているのであり、うまく混合されるならば、臭覚にとって適正

なものになるし、過度に混合されると、不快できついものになるだろう。

そのような種類の匂いになるのは、なんらかの性質がないからというの

ではなく、別様の性質をもつからだと考えられ、ときにそれは極端な匂

いをもたらす場合がある。それゆえに、すでに述べたように、甘さがな

く味のよくない植物こそ、芳香を発するのである。それぞれの香りの強

さは、明らかにそれを支える性質に依存している。


**


6節めはまず、前回の末尾のワインの話を受けて始まっています。当時

のワインについてのテオフラストスの知識は、それなりに実地を踏まえ

たものだということを仏訳註が述べています。e_the_ticos(濾した、

濾過した)という語を用いて、ワインの品質的な区分に言及しているこ

とから、そのことが推察されるというのですね。


テオフラストスは前回見た箇所で、ワインにおける芳香と味わいとが一

致しないことを指摘していました。澱、つまり水分から鉱物的な成分が

分離する現象は、香りと同時期に生じているとし、そうした鉱物的な成

分を取り除いた濾過ずみのワインのほうが、熟成(味わいの)が早いこ

とを指摘しています。


7節になると、そうした事例は香水や香料などにも見られるとして、そ

こから、すでに出てきた帰結を再度導いています。それが、香りをもた

らす成分は、味わいの成分とは別物だという仮説です。この7節の後半

部分は、仏訳註によると原本が一部破損しているようで、少し意味がわ

かにくくなっています。


そんなわけで、ここでの訳出も暫定的なものにすぎませんが、とりあえ

ず、味わいと香りとが適正に混じり合っているならば、(嗅ぐだけでな

く)味わう場合にはことさらに格別な喜びを与える、というふうに読め

ます。また、末尾のあたりは、味わいと香りのどちらかが強い場合、人

は足りないほうを強く求めてしまう(もっと香ればよいのにとか、もっ

とおいしければよいのにとか)というふうに読めます。これはなかなか

鋭い指摘のように思えますね。


8節めは、味わいと香りの不一致についてのこれまでの話を、再び一般

論へと練り上げようとしています。すでに一般論への言及はときおり出

ていますので、改めて取り上げているのはやや冗長な感じもしますが、

このように行きつ戻りつする感じも、テオフラストスの文体的な特徴な

のかもしれません。いずれにしてもその問題の射程は長く、野生の種で

香りが強い理由や、未成熟の樹液からの香りが強くなる理由にも関係し

ている、というのがテオフラストスの見立てですね。


個別事象と一般論との往還は、次の17章でも続いていくようです。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行ですが、年末年始はお休みを挟むため、次号

は1月16日の予定です。


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