silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.416 2021/01/30

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その34)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を中心に見ていく

連載です。現在は偽アリストテレス文書『世界について』を扱った14章

を見ています。


前回は、『世界について』の年代特定問題と、その文献的(ジャンル的)

位置づけについての議論を見ました。今回もその続きです。ここでは、

紀元1世紀ごろの天文学の概説書、ゲミノスの『天文学序説』やクレオ

メデスの『天体の回転運動について』との比較がなされています。クレ

オメデスの場合、太陽や月が地上世界に及ぼす影響についての記述など

は、『世界について』の内容とかなり似通っているといいます。フェス

チュジエールは、その意味で『世界について』も概説書の範疇に属する

ように思われるとしつつ、一方で『世界について』には大きくことなる

部分があることも指摘しています。それは神学的な言説です。


クレオメデスはストア派の自然学者・哲学者なので、世界は神々によっ

て最良の配置がなされているとか、世界は神的なものだ、といった言及

がないわけではないようですが、『世界について』のような、世界を統

べるとともに支える唯一神についての考察には至らないといいます。彼

の天文学本はあくまで自然学の書なのであって、『世界について』のよ

うないかにも神学書的な記述へと展開していくようなことはない、とい

うわけです。


文体的な面での比較はどうでしょうか。ここでもクレオメデスとの比較

がなされています(ゲミノスの概説書は数学の書の伝統にしたがって、

ほとんど特徴のない、文体的には無味乾燥なものだということでいった

ん脇に置かれています)。クレオメデスの場合は、概説書であるにもか

かわらずレトリックがそれなりに多用されているようで、比較のしがい

があるのですね。


細かな点の比較は割愛しますが、フェスチュジエールの指摘から大まか

な特徴だけを概観しておくと、クレオメデスの文章は、簡潔な中にも配

慮の行き届いた工夫(繰り返される単語の置き換えや、目的語をわかり

やすくもってくるなど)があり、概説書の単調さを脱しているようです。

また、いかにもストア派の著者らしく、エピクロス派を批判する段にな

ると、各段にテンションが上がり、単に相手側の教義ばかりか、単語の

選択や文体にまで批判が及んでいるといいます。そこから翻って、クレ

オメデスが自身のレトリックをも、十分に意識していたらしいことが窺

えます。


一般に簡素な文体で攻勢されていると考えられている概説書でも、著者

が異論・敵対者への批判を展開するような場合には、それを大きく逸脱

し、文体的に凝ったものも十分ありうるということがわかります。そし

て同じようなスタンスが、『世界について』にも見いだせるのではない

か、とフェスチュジエールは述べています。


『世界について』は、最初に自然学的な概説が記され、続いてその理論

的な説明、次いで神学的な説明へと進んでいきます。注目されるのは、

こうしたそれぞれのパートごとに文体が多少とも異なるのかどうかです。

普通に考えて、最初の概説パートは淡々と進み、後半の理論パート、神

学パートは文彩を加えたレトリカルな表現が多用されることになりそう

です。しかしながら『世界について』の場合、概説部分ですらすでにし

てレトリカルで、凝った表現がいたるところに見いだされるというので

す。


『世界について』の内容が自然学の「概説」にすぎないことは、その逸

名著者も何度か繰り返し主張しているところのようです。しかしながら、

個々の表現や文を見ると、ふんだんにレトリックを盛り込んでいるので

すね。フェスチュジエールはこう考えます。「同書は世間一般向けに記

された概説書ながら、同時代のある種の流行にもとづき、コスモスにつ

いての探求を神の高みにまで向かわせようとしている。すなわちそれは、

科学的知見を神学的な説教に転じようとした著作である」……と。


この後、『世界について』をめぐるフェスチュジエールの考察は、いよ

いよその内容のほうへと入っていきます。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その29)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。前回から17章を見ており、今回はその続きです。17章はいろい

ろな要素が詰め込まれている感じで、前回の箇所では季節や気候と香り

との関係について触れていましたが、今回もいろいろと話が飛んで面白

いです(多少散漫な印象もありますが)。原文はいつもどおり、次の

URLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984



17.6 だが、(暑さが)一部の植物の香りを維持することもある。乾燥

した部分において生じうる香りを、作ることができたりもする。そこで

生じるのは混じり気がない香りだからである。一方で、(暑さにより)

多くの香りは損なわれる。果実の香りの場合、果汁が多く、なんらかの

成分が混じる必要がある。ただし十分に熟成していないものは芳香をも

たらさない。全体として、混合がなんらかの均衡のもとでなされ、乾い

た成分に特有の性質が香りに感じられるようでなければならない。とい

うのもそれ(乾燥成分)が、一部もしくは全体の香りをもたらすからで

ある。そのことは、次のような状況で雨が降る場合に、大地からも即座

に感じられる。つまり、夏季において土がすっかり熱せられると、熱に

よって雨水が熱せられ、匂いが立つのである。


17.7 熱はほかでも同じような作用をなす。虹について、それがかかる

場所では、木々と土地とが香りを放つようになると言われるが、それも

同じような話である。あらゆる場合にそうなるわけではなく、割と最近

に木々が燃やされた場合に限られる。虹のせいで燃えるのではなく、な

んらかの偶然で燃えるのである。虹は雨が降る場所にかかるからだ。木

が燃やされると、混合によって蒸気と香りとが作られる。もちろん雨水

は多量にはなく、複数の水滴がある程度で、木の熱や乾燥に見合うだけ

の量である。木はあらかじめしかるべき条件を満たしていなくてはなら

ない。どんな条件のどんな木でも(香りが)生じるわけではないからだ。


17.8 ほかの場合でもそうだが、全体として燃焼と燃やされた成分の混

合は、それが均衡のとれた作用であるならば、芳香さらには匂い全般を

生み出す。香料も燃やされると芳香を出す。ただしそれは燃焼が穏やか

な場合であり、燃え盛った場合ではない。適度な燃焼こそが香りをもた

らすのであり、後者の場合には香りを損なってしまう。


17.9 それに近い問い、ある意味同一の問いとして次のようなものがあ

る。木々や低木の類は全体として芳香を放つものが多いのに、なぜ動物

には(豹など他の動物に対して香ると言われるものを除き)、そのよう

なものがいないのだろうか。前者(木々)は熱く乾いた性質をもち、発

散物はより揮発性が高く純粋である。後者(動物)は水分が多く不純物

も多く含まれる。ゆえに、そのような(不純物の多い)発散物となる。

栄養分も一般的に、前者では単純なものであり、残滓もなく、後者では

多様で、残滓の多いものとなる。



6節の前半は前の5節からの続きで、暑さと香りの関係についての補足に

なっています。後半では果実の香りに触れ、一般論として水分のほかに

なんらかの乾燥成分が香りを作る上で必須だとしていますね。別の例と

して雨が降る場合の土の匂いを挙げています。仏訳註には、この箇所は

テオフラストスが実体験をもとに記している感じが生き生きと感じられ

る、みたいなことが指摘されています。確かにそんな気もします。


熱の話はさらに7節めでも続いています。「虹が立つ場所は木や場所が

香る」みたいな定型句がもしかしたらあったのかもしれません。虹のせ

いで燃えるわけではないとことわっているあたり、虹という現象が当時、

ある種の不可思議さをもって受け止められていたことが伺えます。


ちなみに、テオフラストスが師事したアリストテレスは、虹を「光が水

滴に反射したもの」と喝破していました(『気象論』)。なかなかの慧

眼です。ただし、そこで光というのは太陽光ではなく、人間の眼から照

射される光でした(この視線の光という考え方はプラトンにも見られま

す)。このあたりを含む詳しい話は、飯田隆『虹と空の存在論』(ぷね

うま舎、2019)が参考になります。


8節めでは、燃焼というか、燃えた成分の混合が匂いをもたらすと述べ

ています。ここでもまた、キーワードとなるのはsummetros(均衡の取

れた)という形容詞でしょう。極端ではない、中間的なバランスという

意味で、アリストテレスの中庸思想に通じる論点ですね。均衡・中庸の

思想に、自然学の見識が関与していることはほぼ間違いないように思わ

れます。


ちょっと脱線になりますが、昨年、山内得立『ロゴスとレンマ』の仏訳

版(Tokuryu Yamauchi, "Logos et lemme - Pensee occidentale, 

pensee orientale", CNRS Editions, 2020)が出ました。早速取り寄せ

て目を通しているのですが(インド思想、仏教への言及などがなかなか

手ごわくて、個人的にはあまり消化できていません)、これに、そもそ

もなぜ中庸を倫理学的に称揚しうるのかをアリストテレス自身は説明し

ていない、と批判している部分がありました。


アリストテレスは倫理の問題を、存在論から導いている(つまり、ある

かないかだけで中間的なものがない)がゆえに、中間的なものの価値に

ついて説明に至らないのだというのが批判の主旨で、これがもし東洋的

な論理学から導かれていたなら、中間的なものの考察がもっと豊かにな

されていただろう、というのです。それはつまり、肯定か否定かしかな

い排中律ではなく、容中律、つまり肯定と否定のほかに「肯定でも否定

でもないもの」および「肯定でも否定でもあるもの」を含んだ、いわゆ

る四句分別(テトラレンマ)から考察する、ということです。『ロゴス

とレンマ』では、実はテトラレンマの3番目(「肯定でも否定でもない」

)こそが、ロゴスの体系全体を支えているとしています。中間的なもの

の価値は、まさにそこから導かれるというわけなのですね。


とはいうものの、西欧の哲学も歴史的に、「まずは論理学ありき」とい

うものではなかったはずで、むしろ始原をなしていたのは自然学だった

ように思われます。「ある、ない」の存在論が確立する手前には自然学

的な考察があり、自然が極端に走らずに、つねに中間領域を擁していて、

ある・なしではなく、生成と消滅というかたちで漸次的に事物をかたち

づくっているという理解・発想は、西欧哲学の上流にもあったことが知

られています。純化された存在論、純化されてロゴスに特化した論理学

とは別筋で、そうした理解・発想は引き継がれていたのでしょう。パル

メニデスからプラトンへの純化のベクトルに対して、ヘラクレイトス

(反対物同士の合一、流転する世界観などを説いていたとされます)か

らデモクリトスへの混成・多様化のベクトルもありました。そちらの線

に、最近改めて注目したい気がしています。


だいぶ横道にそれましたが、テオフラストスの本文にもどると、9節め

は植物と動物の香りの違いを取り上げています。純粋か不純かという対

立図式になっていますが、もちろんこれもそうすっきりとは分かれない

わけで、テオフラストスはこの後の10節以降でも、この問題を引き続き

取り上げていくようです。それはまた次回に。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は2月13日の予定です。


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