silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.417 2021/02/13

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その35)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を中心に見ていく

連載です。現在は偽アリストテレス『世界について』を扱った14章を見

ています。


前回は『世界について』の文芸ジャンル的な位置づけについての箇所で

した。とくに文体的見地からの議論を見ました。今度からは内容的な検

討です。『世界について』は大きく2つの部分から成ります。地上世界

の諸現象について記述した部分、そして神学的思弁の部分です。


最初の記述的部分についてフェスチュジエールは、その全体の構成はと

てもシンプルだと紹介しています。同書は序章で、すべての学問のうち

で哲学のみが、地上世界を超えて天空という聖なる場所を観想すること

を可能にする、と高らかに宣言します。次いで、世界というものが天上

と地上から成り、それが諸々の事物を含む全体であると定義し、次いで

地上を中心とした世界全体の秩序を、天上から地上へと垂直的に各部に

ついての記述をめぐらしていきます。まずはエーテル界、次いで空気の

領域、それから大地と海です。


ここでフェスチュジエールは、記述の順番に不規則な点があることに注

意を促します。それは「気象学」の位置づけです。本来ならば気象学は、

天文学(2章)と地理学(3章)とのあいだに来そうなものです。ところ

が実際には、それは「大地に、もしくは大地の周囲に生じる現象」とし

て、4章に置かれています。なぜそういうことになっているかといえば、

どうやらそれはアリストテレスの真正の書とされる『気象論』の核心部

分に関係しているようなのです。


アリストテレスの『気象論』は、気象学プロパーな現象(大気現象)の

ほか、河川や源泉などについての考察、地震や海洋の変動など、扱う現

象の範囲が実に多岐にわたっています。しかしながらフェスチュジエー

ルによると、その考察はつねにある考え方に貫かれているといいます。

つまり、一連の現象はすべて、大地から立ち上る乾いた、もしくは湿っ

た発散物・気息(プネウマ)によるものだということです。『気象学』

の全体を貫くのは、いわばプネウマの教義だというのですね。


そしてこの同じ原理は、『世界について』の根底をもなしているようだ

といいます。そんなわけで、『気象学』がそうであるように、『世界に

ついて』の気象学的な諸現象の記述は、地理学の後に、大地からの発散

による現象として描かれることになるのですね。フェスチュジエールは、

逸名著者の意図は世界を記述することそのものよりも、むしろその一体

性、全体を貫く法、そして世界そのものが不滅であることを示すことに

あったとし(それは同書の後半部分の中身になります)、そのことが4

章の末尾にまとめられていると指摘します。つまり、生成・消滅の偶発

的事象があろうとも、世界の全体は維持されていく、と結ばれているの

です。


続いてその流れから後半部分が始まります。そこではまず、世界の統一

性・均衡について述べられ(5章)、次いで世界を維持しケアする神の

観念を取り上げ(6章)、その名の多様性に反して神は一者であること

が論じられます(7章)。哲学的・神学的に、考察は神へと移っていく

ことになるのですね。


5章はいわば世界の礼賛です。世界が礼賛に値するのは、異質で相反し

さえする元素から成るものでありながら、自然によって調和・均衡が保

たれ、世界は一体性を保持できるからです。まるでそれは職人・アーテ

ィストの技のようである、とされます。また、そのような調和をなす世

界は、最上の美、最上の力、最上の秩序などをも体現している、とも言

われます。世界の中に生じる不規則な偶発事でさえ、全体のアレンジメ

ントとは矛盾しないのだ、と逸名著者は記します。


こうして考察は神そのものへと一挙に向かいます。それが6章で、比喩

や事例、引用などがちりばめられたレトリック全開の文章になります。

フェスチュジエールはこの章は重要であるとして、その本文が取り上げ

るテーマを列挙していきます。最初に出てくるテーマは神の遍在です。

すべての事象は神から出来する以上、世界に存在するすべては神に満た

されている、とされます。とはいえ、神は個々の事物に「実体的に」あ

るのではなく、あくまで「潜在的・力能的に」あるのだと言われます。

つまり神の力があらゆる事物に及んでいるということですね。その力は

遠隔的に作用しているのであって、天上界の頂(神のいる場)から離れ

れば、それだけ影響力は弱まり、かくして地上世界には無秩序も生じう

ることになります。


とはいえ、地上世界はその力から完全に逃れているわけではありません。

遠隔的な作用を言い表す比喩として言及されるのは、軍の司令官であっ

たり、都市国家の統治者、さらには宮殿の内奥に鎮座し、官吏を通じて

帝国を統治する大王などのイメージです。ほかにも、神の行為がきわめ

て簡潔であること(機械を操作する技術者、あるいは人形使いのイメー

ジ)、それが様々な個々の反応をもたらすこと、そうした多様性が一体

となって調和をなしていることなどが言及されていきます。


7章についてはまた次回に取り上げたいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その30)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は区切り方の関係で、17章の残り部分と18章の冒頭を続け

て見ていくことにします。原文はいつもどおり、次のURLをご参照くだ

さい。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984



17.10 そのこともまた芳香に貢献するが、それは、あらかじめなんらか

の性質が自然に備わっている場合である。それこそが芳香の出発点、第

一の基礎であるからだ。木々もすべてが芳香というわけではない。成分

の配合が一様ではないからである。動物から発せられる香りは、私たち

にとってははっきりしたものではないが、それは私たちの嗅覚がきわめ

て貧弱だからである。ほかの動物は、遠くの匂いを感じとることもでき

るし、近くであればいっそう正確にかぎ分けることができる。これ(鋭

い臭覚)により、ほかの動物にとって、あるものは芳香であったり、あ

るものは不快であったりするのだろう。私たちの場合でも、ほかより良

い香りもあれば、誰もが避けたくなるような匂いもある。


17.11 だが、上に述べたような異例なこともある。私たちにとってはひ

どい匂い、もしくは無臭であっても、ほかの動物にとっては芳香となる

ことがあるのである。おそらくそれは本当に異例なことではないのだろ

う。それに類することが、ほかのこと、たとえば食料においても生じう

ることを私たちは目にする。食料の場合、その原因はおもに成分の配合

にある。成分の配合は一様ではないからだ。すでに述べたことだが、デ

モクリトスの図式では、事物のかたちは定まっているとされるので、そ

こからは一定の作用や感覚しか生じないはずとなる。本件については以

上でよしとしよう。


17.12 少し前に述べたことを、ここで再び取り上げよう。つまり、芳香

や旨味には、なんらかの土壌や空気の性質、さらには(土中の)栄養分

が必要になるということである。栄養分は多すぎても少なすぎてもいけ

ないし、(植物の)基礎的な性質にとって異質であってもならない。量

が多ければ熟成を妨げるし、足りなければ素材となる成分がもたらされ

ない。適合したものでなければ(植物の)自然に即した熟成がなされな

い。そのことはとりわけ、土壌、空気、太陽の熱がどうであるかに左右

される。栄養分や熟成がしかるべきものになるのは、それらによるから

である。果実や風味が異なれば、必要とされる条件も別の異なったもの

になる。


17.13 ここで述べたことの正しさは、様々な事象から明らかである。場

所が違えば、芳香や風味も異なるし、実をつけるかつけないかも異なっ

てくる。成長するかどうかも同様で、この点についても同じ原因による。

そうした原因をなすものとは、空気の混成状態や、土壌に由来する栄養

分をおいてほかにない。まさにそれが、成長を阻害したり促したりする

のであり、また熟成や風味をもたらしたりするのである。さらに、香り

や風味は多様であることからして、単一の空気の状態、あるいは単一の

栄養分がすべての植物に有用なのではなく、それぞれ個々の性質に適し

たものがあるのである。


18,1 そこから次のような疑問が解消する。暑い地域にはより多くの芳

香があるというのに、すべての植物の芳香が暑い気候で生じるのではな

いのはなぜか、また、シリアのアシやイグサのように、ほかの場所では

無臭であるものが、そうした地域では芳香をなすのはなぜか、ほかの場

所で芳香を放つものが、そうした場所で必ずしもいっそうの芳香を出す

わけではなく、一部の報告によればむしろ減じているのはなぜか。論理

的には、そうした植物はいっそうの芳香を出すのでなければならないだ

ろう。そうした事象は、先に述べた原因によるものだからである。けれ

ども、空気の状態や栄養分が例外的である場合、植物の様相も異なり、

別様の環境に別様のかたちで適応するのである。


18.2  ゆえにシリアでは、アシもイグサも狭い範囲の場所にある。また、

バルサムを産出する植物や、芳香を醸すほかの植物も同様である。そう

した場所は、本来の産出場所や、ほかの同様の産出場所の芳香に比べる

と、ほぼ同程度、もしくはやや劣る成分配合になっている。果実につい

ても同様である。すべてに同じ質の、あるいは同量の暑さが必要なので

はなく、いっそうの暑さを必要とするものもあれば、より少ない暑さ、

あるいは弱い暑さを必要とするものもある。熱で調理するなど、人為的

に熱を加える場合がいずれもそうであるように。



前回の17章9節では、なぜ動物には(人間にとっての)芳香をもつもの

がないのか、との問いを掲げていました。その中で豹(パンサー)は、

ほかの動物にとって芳香を放つ動物とされていました。この話は5章2節

にすでに出てきているのですが、そこではテオフラストスは、パンサー

が人間に感知できない匂いを醸しているという話は伝聞にすぎないこと

をほのめかし、やや批判的に取り上げていました。人間の嗅覚が貧弱だ

という説についても同じように批判的だったように思われます。


しかしながら、その後の各章の話の流れでは、発する匂いも生物ごとに

違うし、動物の種類が違えば、何を芳香とするかも違ってくるという、

多様性の観点が強調されるようになっていました。そんなわけで、パン

サーの話も、また人間の嗅覚の話も、この17章では、むしろ通説として

そのまま取り上げている感じになっています。11節冒頭の「上に述べた

ような異例なこと」とはまさにそのパンサーの話を指していると思われ

ます。


面白いのは、ここでも再び、デモクリトスが唱える説が批判的に捉え返

されている点です。香りや風味の成分が幾何学的形状で表されるとする

説ですね。この6巻の最初のほうに出てきて、これまでも「それでは恣

意的にすぎる」といった批判が加えてられてきたわけですが、ここでま

たダメ押しのように再度退けられています。成分の配合によって、香り

や味わいは多様なものとなるのが普通なのに、デモクリトス説では、図

式によって決まっていることから、作用や感覚は一定にしかならない、

よってその説は現実に即していないのだ、というのがその主旨ですね。


12節、13節は、章全体のまとめのような感じで、すでに述べてきたこと

を再度取り上げています。要は植物の香りや風味にとって、土壌(に含

まれる栄養分)と空気が重要で、栄養分は過多でも過少でもない適量が

必要だということです。その条件は、植物の生育そのものや、果実の有

無にも影響するとしています。


続く18章の冒頭は、前章を受けて、熱をめぐる問題を取り上げています。

暑い場所ならばいっそう芳香がするというわけではないのは、植物の種

類によって、適正とされる熱量・土壌成分は異なっているからだという

わけですね。文中に出てくる「シリアのアシ」について、仏訳註は、そ

れが具体的にどういう種を指すのかは間接的にしかわからないとし、テ

オフラストスが香りのするショウブと混同している可能性を示唆してい

ます。イグサについても、半砂漠地域に生息するものと、同名異種でギ

リシアに広く見られるものとを取り違えている可能性があるのだとか。

バルサム(メッカバルサム)は油を含んだ香りのする樹脂です。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は2月27日の予定です。


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