silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.418 2021/02/27

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その36)


フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス

の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を中心に見ていく

連載です。現在は偽アリストテレス『世界について』を扱った14章を見

ています。


前回は、フェスチュジエールによる『世界について』の内容のまとめを、

さらに凝縮したかたちで紹介しました。神についての記述が中心となる

後半において、その神は船頭や馬車の御者、合唱隊のリーダー、都市国

家の立法者、野営地の将軍などに例えられていました。さらには法その

ものにも重ね合わせられています。みずからは動くことなく、あらゆる

動植物の誕生や成長を司る存在(不動の動者ですね)、それが神だとい

うわけです。


『世界について』の末尾は、神の一性とその名の多様性についての章に

なっています。その主旨は、神の諸々の名はその形容辞に由来するとい

うことです。たとえば気象的な現象(いかづち、雷鳴)や豊作など、自

然現象に関わるものが筆頭に挙げられます。しかしながら、やがて社会

生活に関わる事象や、より抽象的な概念が幅を利かせてくるようになり

ます。「浄化」、「友愛」、「寛容」などですね。こうして、偶然によ

るものも含めたあらゆる事象から、神を表すそれぞれの呼称が導き出さ

れてくるわけです。そうしたすべてを司っているからです。


フェスチュジエールは、そこで引用されているオルフェウス教の詩句に

注目します。「ゼウスはあらゆる存在の始まり、中間、そして終わりで

ある……」というふうに、ゼウスの功績を列挙する賛歌なのですが、こ

こに、伝統的宗教に属する一連の呼称から哲学・抽象概念に属する新た

な呼称への移行が、如実に現れているというのです。伝統的な神々は、

神でありながらもパルカ(運命の3女神)に首を垂れていました。しか

しゼウスは、その運命の3女神が体現する、必然や宿命・運命をも自家

薬籠中のものとしてしまいます。



フェスチュジエールの考察は、続いて『世界について』の教義内容の俯

瞰的な検討に入ります。まず、同書がアリストテレスとストア派の影響

を受けているとする、フェスチュジエールの時代からすでにあった学術

的な指摘を取り上げています。『世界について』は、基本的にはアリス

トテレスに従っているものの、そこに矛盾しない範囲で、ストア派的要

素が付け加えられている書だと評価できます。その意味でも、同書は折

衷主義的な著作だと言うことができそうです。


しかしながらフェスチュジエールは、『世界について』が時代を反映し

た作品なのは、なにもその折衷主義的な性格ばかりではない、と考えて

います。ほかにあと3つ、同書が帝政ローマの最初の2世紀に、神学的文

献として重要な地位を占めるに至った要素があるとしています。それは

(1)地上世界から乖離した神の卓越した権威、(2) 神の一性、(3) 神

の名の複数性の、それぞれに関するやや異色のスタンスです。


これまでも出てきたように、世界神となったヘレニズム期の「神」は、

地上世界のゴタゴタから遠く離れなくてはならないとされ、はるかな高

みに住まうことになりました。一方でその存在は地上世界にあまねく広

がり、あらゆる存在に宿り、偶発事をも含むすべての事象を司るとされ

ました。この二つの側面は矛盾してはいません。分有というかたちで裾

野に広がりながら、その頂点はいっそう高くそびえることになるわけで

すね。人間にとってその神は、もはや願いごとを訴える相手ではなく、

個々人の内奥に宿る魂の集合的な存在となります。遠くの高みに置かれ

た神、それでいて個々人の中にもある存在に対して、人々が抱く宗教感

情も、いっそう豊かで複雑で深いものになっていきます。


ところがフェスチュジエールによると、『世界について』は、この一方

の側面、つまり高みに引き上げられた神という側面のみを強調し、いわ

ばグノーシス主義の前触れのようになっているというのです。少なくと

もそうした傾向が見られる、と。神の天界と地上世界を、善悪のごとく

にラディカルに対立したものと見なすのが、グノーシス派の基本的な考

え方です。『世界について』においては、ストア派の汎神論的な世界観

がまだ根強いため、そうした二元論はまだ弱いままではあるのですが、

その萌芽は見てとれるように思われる、というわけです。これが上の

(1)の論点です。


ストア派の影響は、さらに(2)や(3)においても顕著です。神が一つ

であるとの教義は、まさしくストア派に由来します。彼らは、神は本質

的に一者なのだが、その機能において様々な側面をもっており、それら

機能ごとに人は別の神の名を当てている、と考えるのですね。地上の神

ケレス(デメテル)や海の神ネプトゥヌス(ポセイドン)など、様々な

名の神々は、実は地上世界にあまねく広がったユピテル(ゼウス)にほ

かならない、というわけです。こうした話は、たとえばウァロ(前1世

紀のローマの著作家)などが記しているのですね。


フェスチュジエールによると、この神の多様な呼称は、大きく2種類の

折衷主義をもたらしました。1つは、アレクサンドロス以降、長きにわ

たって取り込んだ他民族の神々を、ギリシアの神々と習合させようとす

る傾向に拍車がかかったことです。例として挙げられるのがイシスです。

各地に多彩な形象で広がっていたイシスは、ギリシアの伝統の女神たち

と混成することによって、汎神的なイシスとなったのですね。同じくサ

ラピス(アレクサンドリアの守護神)も、ヘリオス、ゼウス、プルート

ンと融合して、単一の神(ゼウス・サラピス)になりました。


もう1つは、とくにストア派の陣営内で、思想的な折衷主義が台頭した

ことです。つまり、どの呼称も単一の神を指すのだとすると、逆に神は

どんな名で呼ばれることも可能になります。多数の呼称ならぬ汎・呼称

の存在となったわけです。その考え方をさらに突き詰めると、神はあま

りに絶対的な存在で、単一の呼称など受け付けない、ということにもな

りえます。これはまさしくヘルメス主義の立場であると、フェスチュジ

エールは指摘しています。


もちろん、だからといって『世界について』とヘルメス主義とが直接的

な関係で結ばれていたということではありません。フェスチュジエール

によれば、紀元1世紀から2世紀にかけて、そうした教義は一種の共通財

のようになっていたのだとか。そんなわけでこの『世界について』は、

まさに当時(1、2世紀ごろ)の思想状況、宗教感情を反映した、一般的

教義への導入の書であったらしいのです。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その31)


テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て

います。今回は18章の中間の部分です。香りをめぐる環境と植物との関

係について、具体例を引きながら話が展開しています。さっそく見てい

きましょう。原文はいつもどおり、次のURLをご参照ください。

https://www.medieviste.org/?page_id=9984



18.3 一部の地域で、そのことは個別の種に明確に見て取れる。エジプ

トでは、花も冠状の植物もいわば最悪の状態にあるが、それは空気が霧

になりやすく、露ができやすいからである。そのような地域では、芳香

はまったく生じない。熟成がなされないためである。芳香はむしろ乾燥

の度合いが強い場所で多く生じる。そのような場所では熟成が進むから

だ。たとえばキュレネの植物には、まさにそうした理由で芳香が生じて

いる。とくにバラやサフランがそうである。その地は土壌が軽微で、乾

いており、暑すぎもしない。空気は混じりけがなく、湿ってもいない。

芳香にとっては、そのような養分が最適なのである。バラやサフランは

わずかな養分のみを必要とし、そのためほかの種よりも香りが立つ。


18.4 だが、さらに驚くべきは、エジプトにおけるミルテである。ほか

の場所のミルテは無香だが、その地のミルテはほかを凌駕するほどの芳

香を放つのだ。乾燥や熱はほかのミルテも同程度、もしくはそれ以上あ

ったりするし、嗅覚にかかわる性質も同様だったりする。けれども、キ

プロスやロードス、クニドスなどのよその土地に移植すると、そのよう

な潜在性をあらわにする種もあるのである。エジプトのミルテと同じと

はいかず、葉が広くなり(エジプトのミルテは葉が細い)、香りもかけ

離れたものになるのだが。


18,5 しかしながら、多くの場合その原因は場所にある。それこそが、

そのミルテにほかのミルテに比して驚くべき特徴をなしているのである。

実が小さい種、白ではなく黒の種であることも、芳香とは矛盾しない。

(大きさと色の)いずれも乾燥によって生じるからである。雨が降らな

いことを、実が小さいことの原因と見なす向きもあるが、それは実が水

を必要としていると推測しているからである。実際には、水分が多いこ

とは大して助けにならない。


18.6 こうした現象、あるいはなんらかの場所おいて、ほかの種にはな

い固有の潜在力が発現するようなその他の現象には、より個別的な説明

が必要になるだろう。多くの不規則な現象は土地によって引き起こされ

るとする一般的な説明がたとえ真であっても、個々(の植物)に内在す

る潜在力や差異でそれを補完する必要がある。キリキアのザクロでも、

同じようなことが生じているものと思われる。そちら(ザクロ)では風

味において、こちら(ミルテ)では香りにおいて、潜在力や個性が見ら

れるのである。


18.7 また(キリキアのザクロについて)川が近傍にあることと、その

川の性質が原因であると見る向きもあろう。ザクロは水分を好み、水が

豊富であれば酸味が甘味に変化すると言われる。川が近くをあふれんば

かりに流れていれば、そのような質的・量的な変化がもたらされること

は別に変な話ではない。けれどもここでは、芳香をもたらす(エジプト

のミルテに)固有の個別原因を突き止めるよう尽力すべきだろう。ミル

テの種にとっての一般的・個別的な性質、さらに土壌や空気の性質など、

芳香をもたらす様々な原因を集めてみると、そのような個別原因がわか

るだろうと思われる。


18.8 ミルテという植物は全体的に乾燥しており、(エジプトのミルテ

は)ほかの種よりも乾燥の度合いが強い。葉が細いことや、実が小さい

こと、実の色がそのことを表している。それらの特徴はどれも乾燥を示

すものだからだ。乾燥した植物は水分が少なく、その少なさによって熟

成が進む。そうした熟成による芳香は(人間の)臭覚には向いているが、

ミルテの香りそのものは甘いものではないし、風味がよいわけでもない。

以上が、その植物そのものからの要因である。



前回は冒頭部分を見ましたが、この18章は全体として、暑い地域などの

環境要因と芳香の関係性について問うています。環境への植物の適応は、

地域ごと、種別ごとに異なるというのが、テオフラストスの考え方なの

でした。今回の3節めでは、適応性の観点から、エジプトで植物が芳香

を出しにくいのは、空気中の水分が多いからだ、としています。芳香に

は乾燥が必要だといい、キュレネ(現リビアの都市)はまさにそういう

状態で、バラやサフランの香りが強いとしています。


毎回思うことですが、節の分け方はなかなか独特です。意味の大きな括

りで分けているというよりは、むしろ話に新たな要素が付け加わるなど

の、話題に変化が生じる局面の前後で区切っている感じがしますね。


そんなわけで、4節めからは、エジプトのミルテの話になっています。

テオフラストスの記述では、エジプトは芳香と無縁だとされていますが

(『植物誌』のほうにもそういう記述があります)、ミルテだけは例外

の扱いです。この説明部分はちょっと意味が取りにくいのですが、仏訳

註では、「エジプトのミルテの体内に見られるような乾燥や熱は、他所

のミルテにもときおり見られるし、嗅覚に関係するほかの性質もまた見

いだされる。そうした同じような条件であっても、ほかの土地に植え替

えると、なんらかの性質が発現する場合がある」というように解釈して

います。


というわけで、5節めになりますが、そうした性質の発現の原因は場所、

つまり環境にあると推定しているのですね。再び仏訳註によれば、ミル

テには実に多くの変種があり、形や色、葉のつきかた、背丈、実の色な

ど、様々なバリエーションがあるようです。テオフラストスが指摘して

いる葉の細さ・太さや、実の大小と色(アイボリーのように白っぽいも

の、プラムのように黒っぽいものということのようです)などは、古代

人のあいだでもよく知られていた特徴だったようです。


6節めでは、今度はキリキア(トルコ南部)のザクロに言及しています。

このザクロの話は、テオフラストスの著作に何度も出てくるもののよう

ですが、ここでは話の中心はミルテなので、ザクロについては副次的に

語られているにすぎません。6節末尾に出てくる、場所を表す副詞「そ

ちら(ecei)」と「こちら(entautha)」を、仏訳ではザクロとミルテ

との対比と捉えています。メインの話題はミルテであることから、その

解釈は妥当だろうと考えられます。


7節ではいきなり川の話が出てきますが、これも仏訳註によると、『植

物誌』第2巻に説明があり、ザクロの生育場所として「キリキアのソレ

ス地方、ピナロス川の一帯」が挙げられているようです。アレクサンド

ロス大王がペルシアのダレイオス3世を破ったイッソスの戦い(前333年)

の舞台となった地域、とのことです。


次回は18章の残り部分です。それではまた。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は3月13日の予定です。


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