silva speculationis 思索の森
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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>
no.419 2021/03/13
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------文献探索シリーズ------------------------
神々は黄昏るか(世界神の誕生)(その37)
フェスチュジエール『コスモスの神』(『ヘルメス・トリスメギストス
の啓示』第2巻)から、ストア派について論じた箇所を中心に見ていく
連載です。前回までは偽アリストテレス『世界について』を扱った14章
を見ました。そこでは『世界について』が、当時の共通財のようになっ
た教義と、当時の知識層が抱いていたであろう宗教感情を反映した手引
書だったことが示されていました。
今回からは、この『コスモスの神』の最終部(第5部)にあたる、アレ
クサンドリアのフィロン(前1世紀から後1世紀に活躍したユダヤ人学者)
)についての整理を見ていきます。この最終部は、それまでよりもペー
ジ数も少なく、また記述の仕方もこれまでと少し違っており、引用を列
挙していく書き方になっていて、作業途中のコメンタリーのような印象
を与えます。フェスチュジエール本人が書いているように、フィロンに
関する研究は膨大な数に及んでいて、包括的な議論をするのは難しいと
いうことなのかもしれません。フィロンはあくまで、世界神についての
これまでの議論を締めくくる人物として扱われています。
それでも、締めくくり・集大成としてフィロンが選ばれているのはある
意味で示唆的です。フィロンはキリストとほぼ同時代を生きた人物で、
旧約聖書を比喩的・寓意的に解釈してみせたことで知られています。
『ティマイオス』などをもとに、プラトンの哲学と旧約聖書には親和性
があると説き、それが後世のキリスト教思想にも影響を及ぼしたとされ
ています。実際その教義は、プラトン思想とストア派が結びついたもの
であり、さらには矛盾しない範囲でアリストテレス思想も取り込んでい
て、折衷主義のある種の到達点という感じもします。
フェスチュジエールはフィロンを、時代をひたすらに反映した人物、一
方でオリジナルな部分が顕著ではない人物と捉えています。フィロンは
同時代の学問的伝統にどっぷり浸かっており、かつては独創性だと考え
られてきた議論内容も、実は当時の常套句にすぎなかったのではないか、
というのですね。それはたとえばフィロンが描き出すコスモロジーなど
に顕著ですが、神秘主義的な傾向においてもしかりで、フィロンには神
学的・教義的な新奇さはあまり見いだせないとされます。
一例として、神と場所の関係性の議論があります。神はあまりに偉大す
ぎ、大きすぎるので、いかなる場所にも収まることはできない、という
ものです。これは同時代のヘルメス主義にも見られる議論なのですね。
また、フィロンはこのテーゼをひっくり返して、神があらゆるものを包
摂するならば、神こそがすべての場をなすのではないか、というテーゼ
を掲げます。しかしながらこれも、実は当時のアレクサンドリアにおけ
る、ヘルメス主義の文献に見られるといい、そうした解釈が人口に膾炙
していた可能性は否めないようなのです(ヘルメス文書の著者たちがフ
ィロンを読んでいた、というような影響関係はないとのこと)。
もう一つフィロンが挙げている神秘主義的テーマに、魂の中にある神の
「種子」という考え方があります。神のみが、魂の母体を開けて徳の種
子を植え付けることができ、そこに宿った子がすぐれた行為をなす、と
いう考え方です。なにやら異様な教義という感じがしなくもないですが、
フェスチュジエールによれば、これもまた、神と魂の婚礼という長い伝
統の、重要な一段階をなしているといいます。
フェスチュジエールの指摘によれば、その典拠には、神秘主義的なイニ
シエーションの寓意としての「聖なる婚礼」や、神とイスラエルの民の
寓意的婚礼の追憶があるといいますが、同じく重要な影響をもたらして
いるのが、プラトンの『饗宴』ではないかといいます。絶対的な美に向
かって昇華していくテーマはそれ自体がイニシエーション的ですし、そ
の最終形として「魂は真の美と結合することで本物の徳を生み出す」と
いう教義もまた、文字通りの胚胎のテーマに連なります。
で、これもまたヘルメス主義の文献の中に見いだすことができるという
のですね。かくしてフィロンは、一部の人々のあいだに広がっていた教
義を、たくみに取り込んで表現しなおしていた可能性がある、というこ
とになります。ここから、フェスチュジエールの上述の評価(資料的な
価値という意味からすると、それは必ずしも否定的なだけの評価ではな
いのですが)となるわけですが、一方でフェスチュジエールは、フィロ
ンの個性をかたちづくっている要素もないわけではないとし、いくつか
の深遠な傾向も見いだせる、と擁護してもいます。
では、フィロンの個性の最たるものとは何でしょうか。フェスチュジエ
ールは挙げるのは、なによりもまずその賢慮への愛、すなわち哲学と聖
書への深い愛着です。なるほど、魂の上昇の教義などは、確かにプラト
ン主義からの借り物なのかもしれませんが、知への誠実な渇望こそは、
まさに他に代えがたいフィロン本人の個性であり、そうした誠実さは、
著作の各巻の序論など、随所に挿入される個人史的な心情の吐露に、は
っきりと描き出されている次第なのですね。
たとえ借り物の思想であっても、それはフィロンの内面において血肉化
しているのでしょう。同時代の紋切り型の教義をしたためつつも、そこ
に内面的で真摯かつ誠実な受容・渇望を寄せていることこそ、フィロン
を他と一線を画する書き手にしている、そこに嘘偽りはない、というわ
けです。折衷主義というと、どこか斜に構えるかのような冷めたスタン
スを思わせますが、フィロンの場合は、同時代的な思想潮流にただ乗っ
かっていたのではなく、それを内面化し、真摯な信として抱いていたの
かもしれませんね。同時代な信の、ある種の理想的な姿が、そこに見て
とれるのかもしれません。
(続く)
------文献講読シリーズ------------------------
古代の「香り」(その32)
テオフラストス『植物原因論』から、香りについて論じた第6巻を見て
います。今回は18章の残り部分となる9節から12節です。さっそく見て
いきましょう。原文はいつもどおり、次のURLをご参照ください。
https://www.medieviste.org/?page_id=9984
*
18.9 土壌と大気からは、それぞれ乾燥と温暖さがもたらされる。両者
のいずれもが熟成にかかわる。前者は熟成を促し、後者は過度の水分が
浸透しないようにするのである。ここにおいてもミルテは、野生の種の
ほうが栽培されているものより、また日なたにあるもののほうが日陰の
ものより香りがよく、とくに南を向いているものがそうである。香りが
よいものはいずれも、養分は少なく、熟成の成分が潤沢である。ゆえに
それらは、背丈が伸びるのではなく低木のままとなる。葉を多くつけ、
分岐点が多くなるため枝も多くつける。また、暑さによって熟成は進み、
いたるところで分割を繰り返していく。逆に日陰にあるものは、一方向
にのみ伸びていき、そのためひたすら背丈が高くなり、葉はさほど連ね
ず、とくにスキアトス産のものなど、杖を作るのに向くのである。
18.10 けれどもこれは、芳香のするすべての植物に共通することかもし
れない。ではなぜほかの植物では芳香がしないのか説明しなくてはなら
ないだろう。その原因はすべて露に求めるべきであろう。露が大量であ
る場合、花に浸透し、もとより水分を多く含む植物はいっそう多くの水
分を含むことになる。一方、混合しにくく乾燥した部位では、浸透は度
合いが小さく弱々しい。ゆえに水分量が一定であるなら、ミルテはその
量をうまく管理するのである。ミルテについて述べた説明に、その証左
がある。つまり、その実が小さいのは、先端部から十分な水分を受け取
らないからであるように思われるのである。このように、ミルテについ
ては、こうした事象を通じて原因を探るよう努める必要があるだろう。
18.11 寒冷地で芳香を放つ植物については、土に蓄えられた熱が原因で
あると考えなくてはならない。どのような場所でも熱が熟成をなすが、
直接に(太陽の)熱が降り注ぐ場合もあれば、秋の果物の熟成に見られ
るように、閉じ込められた熱による場合もあるからである。後者で生じ
ていることはどれもほぼ同じで、熱が置き換えを余儀なくされ、そのた
め地中へと移り、そこで熟成がなされるのである。土は泥状だったりね
っとりしていたり、ねばついたりしてもいけない。水分や粘り気が多い
と、熱は同様の働きをなさないからだ。土は、大気中の冷気を受けては
ならず、また土に含まれる熱を保護し、保持できるのでなければならな
い。
18.12 同じ理由から、アヤメはマケドニアのものよりもイリュリアのも
ののほうが高品質である。トラキアのほか、より寒冷で熟成が進まない
地域では、アヤメはまったく香らない。土地がねっとりしていて水分も
多く、冬の寒さはきわめて厳しいからである。一方、温暖で土地が痩せ
ている場所では、香りが立たない理由は空気が温和だからだ。(熱の)
置き換えがさほどうまくいかないためである。芳香部位が地上に出てい
る植物の場合のように、いずれの場合においても土壌と気候から考察す
べきである。それらは熟成に向けて協働する力なのだから。以上でここ
での検討は十分であるとしよう。
*
18章の最後尾では、土壌と空気が香りにもたらす作用について論じてい
ます。9節では、すでに出てきた議論のさながらまとめであるかのよう
に、乾燥と熱、そして養分が比較的少ないことなどが、香り成分の熟成
の条件であるとしています。末尾に出てくる、杖を作るのに適した日陰
のミルテの話は、やや唐突な感じもします。しかしながら仏訳註による
と、杖は当時からすでに、老人が歩行に用いる実用的な道具であるとと
もに、ある種のエレガンスをも示す粋なアイテムとなっていたのだとか。
杖のもととなる様々な素材について、『植物誌』の数ヵ所で言及されて
いるようです。ちなみにスキアトスは、東岸沖の北スポラデス諸島の島
です。
10節めでは、芳香がしない植物(ミルテ?)はなぜそうなのかと問い、
理由として露の存在を挙げています。テオフラストスは、植物の部位に
よって、水分が浸透しやすい部位(ここでは花)と、そうでない乾燥し
た部位とを、たくみに対照させています。後者はおそらく葉などを言っ
ているのだと思われます。仏訳註では、テオフラストスが挙げている
「実の小ささ」なども、地中海の植物が暑さに対して持つ防衛機能の1
つだと記されています。何度も言うように、こうしたあたり、テオフラ
ストスはまさに慧眼の持ち主なのですね。
11節めでは、寒冷地で植物が芳香を出すのは、地中にこもった熱による
熟成のせいであると説明しています。植物の内部に累積した熱が、熟成
成分ともども地中(の部位)へと移動し温存されて、植物のさらなる熟
成(根の部分)に用いられるということのようです。熱による熟成につ
いては『植物原因論』の第2巻8章に、その問題を扱った箇所があります。
そこでは、「熱こそが唯一の(熟成の)原因なのだが、置き換え
(antiperistasis)のせいで見えなくなっている」と記されています。
第1巻12章、13章などでも「置き換え」と訳出したこの語が使われてお
り、これは要するに、暑さから寒さへと季節が変わるなどして、熱の代
わりに冷たさが植物を支配するというようなことだろうと思われます。
12節ではアヤメの話が出てきました。ここでのアヤメはジャーマンアイ
リス(ドイツアヤメ)という種のようです。仏訳註によると、その地下
茎を輪切りにして3年ほど乾燥させると、スミレのような香りがするの
だとか。アヤメは全体に痩せた土地を好む植物だとされますが、マケド
ニアは肥沃な土地といわれ、ソラマメの収穫の一部を埋めて肥料にした
りしていたといいます(『植物誌』第8巻9章)。イリュリアはバルカン
半島西部にあった古代の王国とのことです。
この『植物原因論』第6巻も、あと2つの章を残すのみとなりました。最
後までもう一息です。それではまた次回。
(続く)
*本マガジンは隔週の発行です。次号は3月27日の予定です。
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(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)
http://www.medieviste.org/?page_id=46
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