放言日記「かくのごとく(Telquel)」ログ - 2000年5月〜9月

09/29: ハードディスクレコーディング
パソコンを使っていて、何か本当に感動したことがありますか?感動なんて最近はさっぱりなくなってしまったが、ちょっと前まではそういうことがたびたびあった。その一つが初期の「ハードディスクレコーディング」だ。7年くらい前だったと思うのだが、その昔、どれかの雑誌に「PC98で音楽演奏する試み」みたいな記事が載り、サンプルの圧縮データが付いてきた。当時のNECのPC98はビープ音以外の音源がなかったのだが、そのサンプルデータを解凍してハードディスクに展開し(確か20Mバイトくらいになった)、コマンドラインから再生ツールを立ち上げると、なんと音源のないマシンからベートーベンだったか何だったか(忘れちゃったけど)が流れ出した。こりゃすげえ技術だ、と当時は大いに感激したものだった。もっとも、当時のそのやり方では、ディスクへの負荷がものすごいので、最悪の場合ディスクが飛ぶこともあるという話だった。

最近、Sonyがハードディスクレコーディングの単独機器のCMを打っている。これって当時のあの技術の進化形なのだろうか。「ハードディスクが飛ぶ」なんて話も滅多に聞かなくなったが、それだけハード回りも改良されているということなんだろう。そして古くからの技術が再び脚光を浴びるのだとしたら…。

MIDIのシーケンサソフトを半年くらいまがりなりにも触ってみて思うのは、身体を使わない均質化してしまった音はなんだかつまらないということ。音符を配置したり、波形を編集したりして一度データにしてしまえば、いつ再生してもまったく同じサウンドが流れる。しかも平べったい、冷たい音。生身の人間が演奏する時のような微妙な揺らぎが入ってこない。だから飽きてしまう。結局、MIDIデータって、あくまで音の一要素として使うものなんだなあ、と思う。で、ハードウエアレコーディングはその意味で注目できるような気がする。編集の自由度ではDATをはるかに凌ぎ、ほとんどMIDIと同じような単位で編集が可能になるという。だけど何よりも大事なのは、録音される対象が人間の行う生のパフォーマンスでありえるということだ。ここでもまた、やはり身体に帰っていくべきなんじゃないか…と。


09/27: トロン狂躁曲?
昨晩の「ニュースステーション」で、国産OS「トロン」を取り上げていた。それにしても相変わらずインタビューに答えるのは開発者の坂村教授ばっかり。結局、トロンの普及(産業用のITRONではなく、ビジネス用と称されるBTRONを念頭に置いているんだけど)を妨げている最大の問題は、坂村氏個人にいつまでも帰されてしまうという点にあるんじゃないだろうか、という気がしなくもない。取り巻き(というか実装の関係者ね)が頑張らないといかんぞよ。Linuxなんかはすでにコミュニティそのものや、実際のパッケージを売っている企業がクローズアップされている。トーヴァルズ本人は完全に別格扱い。これが組織が行きつく先の安定形態なはず。とはいえBTRONの実装版である「超漢字」は、まずもって命名がよくない。なんだか「売り」が漢字の多さだけのような印象を与えてしまうじゃないの。個人的にトロンはお試し版しか使ったことがないけれど、あの実身/仮身モデルというのはなかなか面白そうだった。あれこそ売りなんじゃなかったっけ?これって、ファイル(中身)とポインタ(場所)がそのまんま構造体にまとめられたような形(という理解でよいのだろうか?)で、それがシステム全体に及んでいるという風。だからMacなどで言うエイリアス(あるいはUNIXのリンク)が、例えばどっか別のファイル内にも入れ子状に作れる、という感じかな(ちょっと違う気もするが、ま、少し触った程度なのでご愛敬ということで…)。かえすがえすも、Windowsより前にこうしたモデルが普及していたらなあ、と思う。だけどまだ遅くはない。新しいマシンに替えたら(もう3ヵ月くらい言っている気がするが…今買うとWindows MEが付いてくるってのが許せん(笑))、古いマシンに入れておべんきょしようかなあ。
09/22: 不寛容の根っこ
用事で新宿へ。で、帰りの切符を買っていたら、見知らぬ男性が声をかけてきた。わりとこざっぱりした感じの服装をしている。たぶん同年代くらいだろう。「腹が減ったので、100円下さい」彼はそう言った。げ、これって物乞いじゃん、と思った瞬間、考えるより先に体が動いて、私はその場をあわただしく逃げ去った。10年くらい前のパリなら、めずらしくもない光景だが、ついに日本にも出たか、と思っているうちに、釣銭の一部くらいあげてもバチは当たらなったろうにと悔やんだ。またあれだ。自分の底の底に巣食っている不寛容の根っこ。それが時に、不意に表面にまで突き抜けてくる。いくらディスクールを積み重ねて自分に言い聞かせてみても、体に染みついてしまっている不寛容の根が根絶できない。言葉は無力なのか。情けなくてやり切れなくて泣けてくる。

わが敬愛する作家の一人、故・色川武大は、ヤーさまでもホームレスでも、自宅に押し押せてくる人々をそのまま受け入れ大判振舞いをしたものだという。自分にはとてもそんなことはできない。そのまま受け入れる、それは簡単なように見えて実はまったく簡単ではない。ナルコレプシーの幻覚に悩まされていた氏は、エッセイとも小説ともとれない文章の中で、幻覚に出て来る「常連」の亡霊と「馴れ親しんでしまえばよい」と言う。だけれど実生活での幻覚はそんな生優しいものではなかったらしい。壮絶な苦しみをそっくり抱え込んで、一方でくり出してくる文章ではそれを楽しんでみせる。だから氏の文章の背後からはある「凄み」が滲んでくる。人々に対する氏の「歓待」も、あるいはそういう苦しみを伴っていたのかもしれない。思うに、安寧としている学者なんかが言い放つほど「ホスピタリティ」は簡単なことではないだろう。だけれど不寛容は絶対に次の世代に伝えてはならない。

また一からやり直しだ。私の自分自身の根っことの戦いは、まだまだ悲しいほどに甘っちょろいのだろう。


09/18: 神話素…
うーむ、同じ金メダルを取ったのに、柔道の田村と野村の扱いの差は何だったのだろう?野村なんか2大会連覇だっつーのに、一面を飾るのは田村なのだ…。やっぱり、ここには「喪失と回復」っていう神話素というか物語素が介在しているからなんだろうなあ。それゆえ田村は、ある意味で必要以上に神話化されている…と。しかも小市民的に。

こうした神話作用を助長するもの以外の何者でもない番組に「知ってるつもり」がある。そこではひたすら同じような「神話」が再生されるだけ。17日放送分はピアニストのフジ子・ヘミングだったけど、はっきり言ってこの人はそういう小市民的神話を簡単にはねつけてしまう凄みを持っているよね。その好例が、この人が出た回の「徹子の部屋」だ。黒柳が体現する「小市民的語りの枠組」を、この人はやすやすと打ち破ってしまうのだ(笑)。確かこんな風だったと思う。
黒柳「どうやってその苦難を乗り越えられたのですか?」
ヘミング「信仰です」
黒柳「……」
ヘミング「神は私を見捨てないだろうっていう…」
黒柳「……」
(中略)
黒柳「手袋をしてらっしゃるのは指を冷やさないためとかですか?」
ヘミング「ファンがくれたの」
黒柳「……」
ヘミング「私、すぐ無くしちゃうんです」
黒柳「……」
一連の黒柳の絶句は大いに笑わせてくれた。すばらしいぞ、フジ子・ヘミング。その昔、言語学者・文化人類学者の西江雅之が出演した時にまさるとも劣らない名場面だ(フィールド調査が長い同氏の「風呂になんか年に一度入るか入らないかだ」みたいな発言に、黒柳は完全に絶句しのけぞっていたのだった)。黒柳の情けなさは、そのまま小市民的語りの情けなさ、あるいは安易な神話作用の底の浅さだ。敬称略。


09/14: 流れの思考?
森山良子「さとうきび畑」がNHK「みんなのうた」で流れているのを最近知った。こりゃーなつかしい。中学の頃に、音楽の時間か何かでプリント配られて歌わされた(笑)反戦ソング。だけど当時は、歌われている「悲しみ」というよりも、そうした畑の「光景が不意に中断される」という観念(そんなことは歌われていないんだけど)が恐ろしかった。それが強烈に印象として残っている。もっとも、さとうきびの畑が一面に広がっている風景というのは見たことがなく、どうしても田舎のとうもろこし畑が風になびく様を思い浮かべてしまうのだが、こういう情景も少しずつなくなっているんだろうなあ、と思う。なんだか、当時イメージを伴わずに脳裏に抱いたものが、現実世界で少しずつ具体的な形を与えられて展開していくようで、こういう歌を聞くと、なつかしいながらも居心地の悪さのようなものを覚えずにいられない。

話をあえて強引に一般化するなら、目の前で何かが突然中断される(あるいは変化する)という経験があったとしても、それが本当に不意の突発事だったということは、実際にはほとんどないような気がしなくもない。それは久しい以前から準備されていたもの(意図的かどうかに関係なく)だったりする。漸進的な変化、あるいは様々な要因が累積してはじめて現象が現れるのだが、それを回顧的・定点観測的に捉えては「変化」「中断」と言っているにすぎなかったりするんじゃないだろか、そういう場合があまりに多いんじゃないだろか、とつい考えてしまう。世紀末ってことなのか(それ自体は西欧の恣意的な区分にすぎないけれど)、なにかこう、最近「一区切り」的な動きを強調する姿勢が世の中に蔓延しつつあるような気もする。だけど思うのだ。それは短絡思考につながりはしないか、と。本当は、流れの全体に目くばせしていなくてはならないのではないか、と。安全管理の問題しかり、世の中のなしくずし的右傾化しかり、グローバリゼーションしかり。今大事なのは「全体を見る眼」なのかもしれない…。ま、当り前っちゃあ当り前だけど。むずかしいんだけどね。


09/13: ナショナリズムの祭典…
あー憂鬱だ。またあの「ゆるいナショナリズムの祭典」が始まるからか。国が何個メダルを取るかなんて、はっきりいってどうでもよい。選手個人のすぐれた技の数々こそが、メダルの個数の何百倍もの価値があるはずなのに…。今回もパラリンピックの中継などはないらしい…。長野の時には、確かパラリンピックにはスポンサーが付かず、ユニフォームすらそろえられなかったとかいう話だったっけ。やれやれだ。

IOCはオリンピックの映像・画像がネットに流れないよう、すでに圧力をかけはじめていた。Webで見れるFrance 2のニュースは「全部は放映できない」と断り書きをつけているし、選手個人がやっているような各ページでさえも画像が使えず苦渋を嘗めているという。選手への応援サイトもしかり。従来型の利権が絡むがゆえに、中央で管理しようというのは、はっきり言って今や暴挙だ。ネットの可能性の一端を封じ込める以外のなにものでもない。Appleが、機密情報をネット関係者に流した内部の人間を「社員狩り」している話や、あるいはNapstarの音楽配信をめぐる業界の対応と、構図的にはまったく同じ。政治的理由でデータが共有できない…。なんとも頭にくる話だ。


09/07: 「知の欺瞞」
話題の書(?)ソーカル+ブリクモン『「知」の欺瞞』(田崎、大野、堀訳、岩波書店)を読む。いわゆる現代思想(ポストモダン)での科学用語の使われ方がいかに「とんでも」だったかを告発した書ということなのだが、うーん、はっきりいってこんなのある程度わかっていたことじゃん、と思う。問題はそれを放置しておいた人文系の研究者の怠慢ということになるのかしら。まあ、それさえなされていれば、この著者たちも、こんなことにエネルギーを使わず、自分らの研究に没頭できただろうにと思うからね。そういう意味では著者たちも哀れな気がしないでもない。あるいは理系と文系にまたがるゼネラリスト(並大抵のことではないだろうが)の必要性を感じさせる…か?

ドブレもちょい前まで「不完全性の公理」なんてよく使っていたが、これがいわゆる「不確定性原理」と関係ないことは最初からわかっていたこと。「不確定性原理」って、量子力学において位置と運動量などがともに確定している状態がありえないことを言うんだったよね。余談ながら、信号解析技術なんかでも絡んでくる問題(『Cマガジン』98年12月号「特集:Wavelet」を参照)だという。だけどいくらなんでもマクロな集団行動を規定するはずはないでしょ。とはいえ、聖なるもの(人格神でなくても、理念でもなんでもよい)を擁しない人間集団は存在しないことは人類学的に確実である(反例が出ていない)ように見える以上、命名のおかしさがあったとしても、その組織論そのものが無意味であることにはならないはずだ。他の著者たちの議論についても似たような状況にあるんでないかい?ならばこれからでも遅くはない、余計な用語や概念をそぎ落して核心に迫っていけばよいだけのこと。そういう方向で発奮しよう、人文社会系。


09/02: ゲーム酔い問題?
26日に発売されたドラクエ最新版。私はいわゆるTVゲームはやらない(やれない?)人なのだが、この最新版、どうやら主人公キャラの動きに合わせて背景がぐるぐる回りまくるらしい。で、大きなスクリーンでこれを長時間やっていると、乗物酔いに近い状態になることがあるという話だ。これって問題にならんのだろうか?RPGは特にそうだが、ゲームは今やほぼ完全に、ストーリーそのものよりも、むしろそういった没入感の部分で売っている気がする。だけれど、それだけではやがて頭打ち状態を迎えることは必至だ。実際、ゲームの売れ行きにはかげりが見えはじめているというくせに、業界はそれを「携帯などの遊びに時間を取られているからだ」などと見ている節もある。開発そのものも、プレー自体も肥大化してしまった昨今のゲーム。だけれど個人的には、将棋やチェス、バックギャモンのような抽象化されたものの方がはるかに面白い気がする(歳だからかなあ)。これから先、逆方向への振り戻りは起こりうるだろうか?
08/30: CDの耐久年数…
CDの耐久年数は場合によって20年程度かもしれない、という話が一般報道されている。まあ、そこまでひどくはないだろうが、「半永久的」というのも嘘だろう。だいたい、読み込むハードウエアの方がいつまで製造されるか分かったもんじゃないからね。昔のHS(High density, Single sidedだったか)のフロッピーなんか、もう読む機械がないじゃないの(もちろんフォーマットの問題もあるんだけど)。Sonyにいる知合いに以前聞いた話では、1ビット方式で画期的といわれるSACDの一般普及も、4、5年先をメドにしているらしいしね。当面はハイブリッドということになるのかもしれないが、性能差が大きければ、それだけ従来方式は簡単に駆逐されてしまうかもしれないわけだ。

そういえば、この間のダブリン行きはオランダ経由でKLMだったのだが、その機内誌に指揮者アシュケナージのインタビューが掲載されていて、「自分もCDは膨大な数をコレクションしているが、こんなものはたかがデータの塊にすぎん。結局大事なのは生音なのだ」みたいなことを述べていた。うーん、確かにそういう程度に押えておく方がいいのかもしれない…。


08/22: 制御系
近所の本屋をうだうだっと眺めていたら、今月号の『Bit』誌の特集は「ロボット」。立ち読みだけですませてしまったが、なんだかコンピュータ本来の制御端末としての役割が再びクローズアップされてきそうな感じがした。普及したことによって、パソコンはほとんど事務用品化してしまっているが、本来はやっぱり制御のための装置であるはず。今後、あるいは一種の「振り戻り」が起こるんじゃないかという気がしてならない。つまり外部世界との接点の回復だ。人は完全にヴァーチャル化できるほど「軽く」はない。身体とそれが関わる外部世界というものが重くのしかかっている。いずれにしても、これからのプログラミングなりコンピュータアートなりは、外部世界に密接に関わるところに戻っていきそうな気がするし、そうでなければならないだろう。ま、だからといってそれが一様にブサイクなロボットであっては困るが…(ちなみに私はAIBOが嫌いだ。無意味だとも思うし、なんだか人間のおごりのようなものすら感じてしまう)。
08/19: 祈りのかたち
昨日まで久々に『踊る大捜査線』の再放送をやっていた。最近に連なる「はまりドラマ」の元祖(?)。もう4、5年経ってしまったんだなあ、としみじみ感じる。今観ても、これがまたいいんだわさ。映画版はともかく、テレビシリーズ(特に最終話の前の回かな)と年末のスペシャル(最初のやつね)の完成度は高いと思うぞ。作り手のこだわりがすごく伝わってくる気がして。巷では実に安易に癒し系とかそういうキーワードが流行っているみたいだが、サントラで「Love Somebody」の様々なヴァリエーションなんかを聴いていると、「癒しとは祈りと見たり」と改めて思ってしまう。そう、これはもはや一つの祈りではないかという気さえするのだ。一般に低俗(通俗)とされるものの中にすら、なにかこう崇高な形式のようなものがすっと滑り込む瞬間があるように思えるのだが、その正体は祈りではないのか、と。

「われわれはいまだ何に対して敬虔なのか」とレジス・ドブレは問う。一つには、祈ることに対してだ。祈ることそのものには内容はない(あるいは内容は問題にはならない)。なんというか、精神のもっていき方というか、姿勢そのものの方が問題なのだ。そしてそれはいたるところに散らばっている。ドブレが論じるように、それはなんらかの共同体(仲間打ちのグループから大人数の組織まで)が作り上げられる契機の一つだろうし、それ以前に人が互いに意思を疎通させるための契機なのかもしれない(所詮、人を律せるのは、人と、人が作ったものだけだ)。その意味で、ジラールなんかの第三項排除の論理は、被排除項がそれを受け入れる限りにおいて、次元を変えて受け入れられるべきなのかもしれない。「祈りの人類学」っていいかもね(誰か本気で研究している人いるかしらん?)。


08/16: ドリン・ドリン
…って、この表題は何かっつーと、いわば私にとっての個人的な警鐘。もとネタは中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波書店、同時代ライブラリー)の最初の章に出てくる言葉。レーニンが滞在先のカプリ島で少年に釣りを教える。で、彼は「釣り糸がドリン・ドリンしたら、すぐに釣り上げるんだよ」みたいなことを言う。そう、それは魚信、合図だ。誰にでもあるだろうけれど、私の場合、気分がハイからローに転じる時、どうもヘソの裏側あたりの部分が(なんとかチャクラっつーあたりかしらん)、「ドリン・ドリン」となる(ような気がする)。これはまさにそう表現するに足るようなうねりというか通奏低音というか。これが始まったら、ひたすら趣味や自分にとっての楽しみに埋没しないとヤバい。そうしなければ結果は見えているからね。なんか旅行から帰ってから、このドリン・ドリンが始まっている。だけどやるべきことも多くて、なかなか趣味に埋没できないのが困りものだ。

この半年くらいの間で、瑣末なプログラミングなど一部を除いて、コンピュータへの関心が急速に萎えている。まだ新しいマシンを購入していないのも、なんとなく販売店へ足が向かないからかもしれない。ハード的な関心は特にひどく、世間では元気な若者を中心に、モバイルだとかDVD-RAMだとか騒がれているのかもしれないが、数年後にはゴミにしかならないものを焦って買ってどうする、という気がしなくもない。インターネットは、普及したはいいが、ますます商業論理の修羅場と化していて、早くもエントロピー的死を迎えつつあるかのようだし…。あーやだやだ。夏バテ気味の体調も追い打ちをかけて、なんだかスパイラル状に急降下していきそうでウンザリだ。


08/10: ダブリン行
雑誌『ユリイカ』の2月号(青土社)の「特集:アイルランドの詩魂」に触発されたせいもあって、ちょっと完全休養と称して1週間ばかりダブリンを訪れてみた。夏のヴァカンスシーズンまっ盛りで、町は観光客でごった返していた。緯度が高いだけあって、なんだかすでにそこかしこに秋の気配も。とにかく東京の殺人的な暑さとは桁違いだ。やっぱ涼しいのがいいよな〜。

アイルランドはこのところ経済の好況に沸いているという。事業税のタックスヘイブンになっていて、情報産業などのサポートセンターはこぞってアイルランドに進出しているのだそうだ。だけれどその一方で、やはり所得格差の問題が浮上しているような気もする。公式には失業率ほぼゼロパーセントというが、町の目抜き通りでは、物乞いを無理強いされている子どもの姿が目についた。うーむ。

10年くらい前に鶴岡真弓『ケルト - 装飾的思考』(筑摩書房)を読んで以来、ぜひ見たいと思っていた「ケルズの書」「ダロウの書」(10世紀ごろの装飾写本)は、ガラスケースに収められていたが、デジタル画像で見るよりも(つまり勝手に思い描いていたものよりも)はるかに小ぶりで、くすんだ感じ。だから余計に装飾模様が繊細なものに思える。幸い団体の客が少ない時間帯だったらしく、じっくり眺めることができた。なんだかデジタルデータでの再現の限界を目にした気がする。一般向けの小規模な中世博物館をなしている「ダブリーナ」も面白かったが、パネルの解説などは、今や古典と化したアンリ・ピレンヌ『中世都市』(邦訳は佐々木克己訳、創文社)あたりが基になっているような印象を受けた。大陸の各地が小宇宙的に閉ざされた(イスラムの地中海制覇によって)のに対し、ダブリンは頼みの海運によって港として都市機能が発達していったというトーンなのだが、このあたりの事情はもっと詳しく見てみないと。それから、アイルランドの初期教会(7世紀ごろ)の遺跡が残る近郊のグレンダーロッホ(ロック)の日帰りツアーにも参加。現地のガイドはなんだか学芸員のような感じで、いや〜まったく喋るわ喋るわ。おかげで現地でメシを食う時間もなくなった。でも、全体が小規模なシテをなしていた様子がわずかながら窺えた。

噂に聞いていた書店の朗読会には参加できなかったものの、キャロル「鏡の国のアリス」をちょっと表現主義的に舞台化した演劇と、ジョイス「ユリシーズ」のエピソードから着想されたカフェテアトル的上演(パブの2階の狭い部屋だ)を観ることができた。後者は学校を卒業したばかりの若いねーちゃんたちの自主興行で、3人が同一人物の「意識の流れ」を演じわける(笑)という、まあ、ありがちかもしれない演出。でもこういう自主製作的な上演というのは大事にしてほしいものだ(渋谷のジャンジャンが偲ばれるなあ……)。それから書店で目についたのが朗読CD・テープの類。クラシックのレーベルNAXOSがいろいろ出している。こういったものが出回る土壌はうらやましい限りだ。日本でも作家の(文学作品の翻訳家も)朗読会がもっとあってもいいよなあ、としみじみ思ってしまう。あとアイルランドといえばアイリッシュミュージックだが、パブの喧騒には正直言って閉口。伝統音楽センターの話は「古楽蒐集日誌」の方にちょっとだけ書いておいたので、そちらをどうぞ。


07/27: コンコルドが投げかける問題
「怪鳥」の異名を与えられていたコンコルドの事故は、再び危機管理の問題を浮き彫りにせずにはいない。エンジンの故障原因はこれからの調査で明らかになってくるだろうが、それにしても離陸体制に入ってしまってからは(一度浮力がかかってしまうと)制動できないという点はシステム上の問題、少なくとも改良点ではないのだろうか。米軍のAWACSなど(だったか?)の垂直離着陸技術みたいなものでなくとも、二段階での離陸方式はもっと前から検討されてしかるべきだったのでは?コンコルドが速度性能以外の部分、つまり輸送容量や騒音面の問題を棚上げにしたのは事実。ブリュノ・ラトゥールが個人輸送手段としての「アラミス計画」の挫折の中で示していたのとは逆に、こちらは技術的な熱狂に利権がらみの政治が結び付いた結果なのだろう。だが商業的失敗は機体そのものの改良をも放置させてしまうのだ。エンジンだけを取り換えればよいというものではないはずだ。さらに第二点として、こうしたモジュール方式の問題もあるのかもしれない。言うまでもなく、モジュール方式は交換が簡単なように個別に切り離し可能なユニットの寄せ集めで構成するというやり方だが、それは時間の経過という側面を考慮に入れていない場合が多い。つまり改良の進んだ新ユニットを、以前のままの旧ユニットに合わせる際に、全体の整合性をどれほど突き詰めて考えられるかが問題になる。時にはそれはかなりアクロバティックな技術を要求する。だが、おそらくどこかで「総取り換え」を行わなければ全体の整合性はどんどん劣化していくだろう。これは身近なOSとソフトウエアの互換性にも通じる問題だ(あるいはより哲学的に、例えばガブリエル・タルドが科学のモナド化を受けて全体の関連を再び見直そうとするのにも通じている)。そしてシステムの整合性は本来、商業的な成否とは別の次元で扱われなければならないのではないだろうか。商業的なものが整合性の足枷になっているとしたら、それほど恐ろしいことはない。これが今回のコンコルドの事故から学ばれるべき教訓なのではないか。
07/26: 無声映画
このところ映画の話が続いているような気がするのだが、まあご勘弁いただこう。実は無声映画ファンでもあったりする。パリのシネマテークもそうだけど、東京のフィルムセンターやアテネフランセで上映される場合、伴奏がなく完全に「無音」映画なのだが、それはそれでよいとして、その一方では、生伴奏付きで観たいという気持も結構強かったりする。というわけで今日は実に久々にオーケストラ生伴奏付きの上映を観に行く(もしかして、アベル・ガンスの『ナポレオン』以来か?それってすんげー昔じゃん)。作品はヴィーネの『ばらの騎士』(1926年)。うーん、映画ファンというより音楽ファンがほとんどのような印象。それもそのはずで、「東京の夏」音楽祭という枠内での上映で、しかもR.シュトラウスのオリジナルスコア(オーケストラ版)での生演奏なのだという。ところがこの作品、「復元版」だけあって、いよいよこれからクライマックスというところでフィルムは唐突に終っていた。が〜ん。チラシをよーく見ると、確かに「末尾に欠落あり」と表記されている。だけど末尾という以上に大きな欠落なんでないかい?確かに無声映画の復元が大変なことは承知している。その作業には頭が下がる思いだ。シュトロハイムの映画なんかでも(例えば有名どころでは『結婚行進曲』)途中が欠落しているのはよくある話。だけど今回もこれほどとは…。ちなみにヴィーネというと『カリガリ博士』ばかりが有名だけど、実はいろいろ作品はある(当然だが)。うーん、ほとんど見ていない(上映されない)ので、その意味では今回の体験は貴重だった。
07/22: いかれサミット
「沖縄サミット」を「沖縄万博」と言い間違っていたというどこかの総理。だけど蓋を開けてみると、やっぱり万博もどきでしかないなこりゃ(そういえばハノーヴァー万博も閑古鳥が鳴いているそうだが)。すでにイギリスあたりで、そのサミットらしからぬ過剰浪費・過剰演出ぶりに批判の声が上がっているという。さもありなん。あのレセプションなんて何なのだ一体?温泉街のショーではないんですけどねえ。外国の首脳に2000円札くばる意味がどこにあるのだ?

いずれにしても、リベラリズムの論理一色に染まった各国の首脳が集まったって、その論理を確認する以外の話は出てきようがない。とりわけお粗末なのはIT憲章だ。連中のいうITというのはネットでつなぐことでしかなく、なぜネットにつなぐのかというと「国内企業がひたすら金を稼ぐため」。そのくせITは「民主主義の強化」だとか「国際平和」だとかに貢献するものだ、なんてしゃあしゃあと述べている。先進国主導型で金を稼げる世の中にしましょ、そのために政府は支援とかいろいろしましょ、金さへ稼げれば民主主義も平和も自動的に得られてみんなハッピー、というお話だ。本当の問題は、いかに個々のイニシアチブが、そういう資本主義の論理に組み入れられない形で連係を作りうるか、ということだと思うのだが、そういうアンチテーゼを率先して示すべきはずのNGOも、すっかり骨抜きにされてしまっている。NGOセンターなんて実に巧妙なお膳立て、誘導装置に絡め取られてしまってはねえ。G8なんて無視して、世界NGO大会みたいなものでもやった方がはるかに有意義だったろうに。


07/20: WonderWitch
時間がなくて最近まっとうに読んでいないながらも購入し続けている『C Magazine』。おお、8月号の付録CD-ROMにはなんとBeOS Personal Editionが入っているでないの。うーん、早く新規マシンを買わないとなあ。それはともかく、注目すべき記事はなんといってもWonderWitch話。携帯ゲーム機WonderSwanの開発環境だ。これがあればWonderSwanを携帯情報端末にしてしまうことも可能か?迷路プログラムの作例まで載っている。いいなあ、これ。BeOSのプログラミングと合わせて、これもぜひカジりたいぞよ。とにかく新規ハードを調達せねば…。
07/14: 『人狼』
ちょっと今週は一息ついたので、久々にアニメを観に行く。「映画の評論家は2種類しかない。アニメを観る評論家と、アニメを観ない評論家だ」というセリフが、確か押井守の『紅い眼鏡』だったか『ケルベロス』だったかにあったっけ。「評論家」を「ファン」に変えても同じこと。で、その押井守による原作、脚本の『人狼』。フランスなどで先行上映されて評価された作品とのこと。確かになかなか面白かったぞよ(だんだん周りの観客が若い連中ばっかりになってしまって、私なんぞは結構浮いていたかも。まあ、よかよか)。実写だった『紅い…』と『ケルベロス』などに連なる作品(それらも再評価されるべきだよなあ)で、いずれも大学紛争当時の状況が活写されていて見事だ。今回も冒頭の機動隊と衝突するデモ隊の描写など圧巻。「赤ずきん」(作中、ドイツ語の絵本なんかが出てくるのだけど、グリム版ではなくペロー版だよねえ)をモチーフに、なんともいえんメロウなストーリーが展開する。
07/08: 天本英世・賛
知合いがオーガナイザーをやっている(?)関係で、「if映画際」というイベントを観にいく。インディペンデント系の作品をゲリラ的に上映する催しらしい。今回はオーストリア出身のエドガー・ホネトシュレーガーによるフィルムエッセイ『L+R』。アート畑の若手で、世界各地を飛び回っている人なのだとか。作品は日本の分かりにくさというものに、独自のアプローチで迫ったもの(ワシントンのアーカイブで集めたという戦前のニュース映像の断片や、一般人のインタビューなどのコラージュだ)。欧米のジャーナリズム映像によくあるクリシェに対するアンチテーゼとなっていて、いわゆる「オリエンタリズム」的な視線の内破を目論んでいる。そしてそれは一応の成功を遂げているように思えた。

この作品で特筆すべきことは、あの天本英世氏(いまだに仮面ライダーの死神博士のイメージが強すぎる…)がちょっとだけ出演していること。上映後には天本氏本人と評論家の佐藤忠男氏と監督を交えたトークがあったのだが、これが天本氏の独断場と化していた。「日本には言論の自由などない。天皇制がある限り日本人は自立的ない。なぜ作家や詩人がそのことを語らないのか」といった話を熱く語り、他を圧倒していた(上映作品そのものは、きわめて中立的姿勢を示していたものだった。その意味でちょっと監督は可哀想ではあったのだが)。まさにルサンチマンの闘士という感じ。素晴らしいぞ。メッセージそのものも至極まっとうな指摘ではある。それ以上先には進めない聖域が確実に存在するとしたら、安易に妥協する精神が育まれないわけがない。だけれど問題は戦い方だ。ドン・キホーテに対するサンチョ的なものが、おそらくはもっと考え抜かれてよいはずだ。


07/06: C++Builder 5
滑り込みセーフでアップグレードを注文していたインプライズのC++Builder 5が到着。でも今のところインストールするマシンがないので放置。ただ今回は、Delphi 4とかJBuilder 3とかまで付属している。うーん、これだけの開発環境が一気に手に入ってしまうとは、大判振る舞いもいいところ。Microsoftのスイートへの対抗策ということなのだろうが、なんだか正規料金でそれぞれ買うなんてもはや馬鹿らしくなってくる。実際、インプライズはコンパイラそのものは無料で放出しているしね。その一方で、プログラミングそのものの人気は年々下降傾向にあるという。個人ユーザのプログラミング熱もそうなら、企業内でのプログラマの立場もそうだという(「がんばれ!Gates君」のサイトを参照のこと)。コンピュータが普及し、誰もが使うようになるに従って、それを支えている技術基盤そのものが希釈化しているというおなじみの現象だ。「More is less」。確かに便利なツール類がこれだけ販売されているなら、ことさら個人が自分用ツールを作る意味などないということになってしまう。とはいえ、同サイトに示されているように、もっとアーティスティックなプログラミングの楽しみというものがあってもいい。個人にとってのプログラミングが生き残る可能性として、そういう可能性を探っていくのも一興だろう。
07/02: ウクレレ
うちの近所に一風変わった本屋がある。なんだかすごく店主のこだわりを反映している書店で、他にはなかなかない詩集とかコミックとかが置いてある。しかもこれが本以外のグッズも販売していたりする。チェ・ゲバラTシャツなんかもいち早く置いていた。で、最近この店、各種のハープとか小アコーディオン、ウクレレキットなんかも置いていた。で、大仕事も一段落し一杯ひっかけたついでに足を運び(夜遅くまで開いてるんだな、これが)、そのウクレレキットなるものを衝動買いしてしまった。うーん、酔っ払いは向かうところ敵なしだな。コードブックも併せて買った。うーん、これで何を演奏しようというのか?ちょっと変わった使い方をするってのが面白いかもね。古楽器みたいな感じで…(衝動買いの理由もその辺にあったりなんかして)。まあ可能性を探ってみよう。改造も含めて。
06/27: 「現代思想」
雑誌『現代思想』の7月号(青土社)は「メディオロジー」特集。翻訳で個人的にこの紹介に関わっているだけに、とても嬉しい(別サイトも参照のこと)。とはいえなにぶん若い学問(学問として認められればの話だが)。西垣・石田対談と「カイエ」からの翻訳以外の論稿は、メディオロジーにごく間接的な関わりしかもたないものばかり。というか、やはり現段階では、メディオロジーは諸分野の交差する場所にほのかに立ち現れる蜃気楼のようなものだということか。その蜃気楼に実態が備わっていくのか、あくまで交差する場所の「縁の下の力持ち」的なものにとどまり続けるのか、これから要注目だ。あるいはまた、現代思想の受容のように安易な形で広まる可能性もある。そしてそれはメディオロジーにとって至極不本意なことになるだろう。それだけは避けなければならない。でもそのためには、メディオロジーに先行しその母体をなす諸潮流をきちんと把握していかなければならない。というわけでなされるべきことは実は山積みなんだけど…。
06/24: 情感?
現在超多忙モード。そんな中、例年より遅れて開催された某所の仏映画祭に、例によってちょっとだけ裏方に協力させていただいた(つもり?)。だけれど年々仏映画のパワーは小さくなっていくような気がしないでもない。ハリウッドに対抗しようというスタンスは分かるのだが、「仏映画は情感で勝負する」という割に、同じような配役で同じような話を作っているだけのような…(あるいはそういう作品ばかりを選んでいるのかもしれないが)。技法的な新しさもなければプロット的な面白みもなく、同じ風景の繰り返し。こんなんではすぐに飽きられてしまうのではないか。まあ、マニアにとっては喜ばしいイベントなんだろうし、スターに会えるというのも大きいのかもしれないが、前方には暗雲が立ち込めている気がしてならない…。杞憂だろうか?
06/16: NTが飛ぶ
最近ちょっとメインマシンのNTの挙動が変だったのだが(IMEが一瞬反応しなくなるとか)、ここへきてついにお亡くなりに。新規のプリンタを購入し、ドライバをインストールして試し刷りをしようとしたら、なんだか反応しなくなり、ログオンし直したらいきなりの青画面。その後何度ログオンしようとしても青画面になってしまう。再起動してもダメ。Administratorで入ることもできず、処置なし。仕方なく、修復フロッピを使う羽目に。だけどMSの言う修復って、結局初期状態に戻すってことなんだもんなあ。それは修復とはいわんぞ。修復後も何やらおかしい。起動時にエラーが出まくり、さらにネットワークとサウンドの設定をして再起動をかけたら、異様にレスポンスが遅くなってしまった。どれくらい遅いかというと、例えば8メガくらいしかメモリ積んでいないマシンでLinuxを動かし、メモリのオーバーフローが起こった時の状態を想像していただければよい。とにかくウインドウのポップアップに数分待たされる始末。だめだこりゃ。このマシン、デュアルブートでFreeBSDも入っているので、しばらくNTで立ち上げるのはやめることにした。FreeBSD側からNTのパーティションをマウントしてバックアップを取ることにして、液晶のイカれたThinkPadにモニタを接続し、メインマシンに復帰させた。うーむ、なんてことだろう…。やはり新規マシンが要るなあ、こりゃ。
06/05: 可能なる?コミュニズム…
一部で話題になった柄谷行人編著『可能なるコミュニズム』(太田出版)を読む。批評にとどまらずに代案を探ること、それが今本当に必要だという切迫感はよく伝わってくる。生産過程ではなく流通過程に視点をシフトすることで消費者をベースにした運動を組織できないかというのが主旨だが、現行の消費者運動には生産の再組織化までのパースペクティブがないとして批判されている。ある意味で消費者運動を個別テーマから普遍テーマに移行させようという戦略で、そこには情報のオープン化や構造的マイノリティの打破、エコロジー問題など、様々な問題が連動してくるだろうということだ。理念としてはすこぶる刺激的だが、やはりその組織化の方策が探られていない点が多少気になる。
一つの可能性を開くものとしてLETS(Local Exchange Trading System)が挙げられている。これは現行の資本制度に並存するもう一つの地域通貨を導入しようというもののようだ。互酬と貨幣との中間をなすというこの制度は、相互の「負い目」をコミットメントとして社会に還元しようとする点で、確かに新しい倫理を産む可能性を感じさせてくれる。だが、やはり問題はそれが既存体制に「並存」する点にあると思うのだ。同じサービス、同じ財を提供する二者の間に、黒字の差が出てくるのは当然だ。しかしそれを競争関係に転ずることなく「倫理的に」再配分しうるだろうか。LETS内部だけであればそういう規制は可能かもしれないが、外部(現行体制の側だ)からそれを悪用しようという動きも当然出てくるだろう。たとえばコンピュータの世界でも、すでにして、オープンソースコミュニティでの成果を「横取り」して利益を挙げようという企業も出てきているようだ(あるメーラーのソースコード盗用問題)。「GNUしばり」のような、改変したものも再びフリーで配布せよという規制でも存在しない限り、現行体制にどっぷり遣った連中の餌食になるのは必至ではないか、という気がしなくもない。となれば、どうやってその「囲い地」を守ればよいのか、ということがやはり問題になる。つまりは組織化の問題だ。これは避けては通れない…。LETSの理念そのものは面白いが、実践の形態について詳細には触れられていないのが残念だが、一方でこれはちょっと探ってみる価値がありそうだ。
05/28: 秋葉行き
月末近くはたいがい仕事であわただしいのだが、昨日はそれを押して秋葉方面へ。プリンタがだいぶくたびれ、Macをつないでいるディスプレイがちょっと調子悪いので、買い替え準備だ。ついでに雑誌『Tronware』の最新号を久々に衝動買い。Vine LinuxのCD-ROMが付属している。話題(?)の国産OS「超漢字」の開発環境付き。へー、Vineでやるようになっているのか、と感心しつつ、実は「超漢字」はまだ持っていなかったりする(笑)。ぷらっとホームなんかにも立ち寄ったのだが、フリー版も出た例のBeOSのCDとかも見当たらなかった…(単に見過ごしただけか?)。Linuxが流行っている、という割に、OSそのものへの一般的関心はさほど盛り上がってはいない。むしろ沈静化している感じだ。そういえば『C Magazine』に速報が載っていたWonderSwan用の開発環境というのが気になったりしている。
05/19: 酔っ払いは吠える
昨年末から馴染みになっている地元の飲み屋で、よせばいいのに常連の酔っ払いの相手をしてしまった。40代で飲食店経営(某大手チェーンの末端らしい)だというそのおっさん、飲んでいても携帯電話が鳴る。「巨額の取り引き話があった時に、その情報を掴まなかったら大きな損失になってしまう」のだから携帯電話はなくちゃこまるのだそうだ。だけどそんなデカい取り引き話なんてあんたにあんのかい、という気がしなくもない。一方で「皿の洗浄なんか今や機械でやってるんだけど、休日とかに故障されると困る。だけど昔の人海戦術には戻れない」みたいなことも言っていた。なるほど、機械に対する一般的な感覚というのはそんなところなのかもしれない。後戻りはできないが、どこか「昔はよかった」という感覚も残っているということか。そいでもって、やはり通信機器は「神話を吹き込まれている」。つまりは言うほど使い込んではいないということだ。

さて、そこまではよかったのだが、このおっさん、酔いも回って声が異様にデカくなり、最後にはほとんど吠えていた。店の主人の再三のさりげない注意にもかかわらずだ。他の客はさりげなく無視していたが、面と向かって話されるこっちはたまったもんじゃない。てめー迷惑かけてんじゃねえよ。


05/15: 地方都市の均質化
この週末、用があってひさびさに田舎へ帰省した。不況だというわりに県庁所在地では高層マンションの建設ラッシュ状態が続いているらしい。駅前周辺から始まっていたるところにボコボコ建ち始めている。それがまた、妙に町の景観の中で「浮いて」いる。「田舎に建つ高層マンションはまるで墓標のようで気持ち悪い」なんてことを以前どこかで読んだが、そこまでは言わないにしても、なんだか東京の風景が切り出されて地方に持ち運ばれているだけのような印象を受ける。地方都市の均質化はいっそう進んでいるってことか。田舎の中学生、高校生なんかも、昔よりはるかに都会風の「スレ方」を体現していて、そういう均質的なものの方がよっぽど気持ち悪い。一枚岩のようになって弾力を欠いてしまうことはきわめて危険だ。多様化だとか個人の自発性の尊重だとか言われても、そんなことは神話でしかなく、一極化の波は本当におそろしいほどだ…。うーん、どこかにアルタナティブを探らないと、本当にヤバい気がしてならない。
05/11: モラル化の装置
恥ずかしながらその昔、論文もどきをしたためたことがある。感想文に毛の生えたものだが、いちおうそこでは、アンドレ・ヨレスのいう「簡素な形式」("Forme simple", Seuil, 1972)を敷衍して(?)、民話が共同体の中でモラル化の機能の一端を担っていたのではないかという話をまとめたのだった(文章はメチャクチャだったけど、この点だけは今でも仮説として再検証しなくてはと思っている)。「神話」がミクロな集団をマクロな集団につなぐものであるならば(したがってトップダウン的なものであるならば)、「民話」はミクロな集団の秩序を担っている可能性がある、というわけなのだが、なんでこれを思い出したかというと、最近ちょっとフランスの人類学雑誌『Gradhiva』のバックナンバーを眺めていて、その中のヴェレ=ヴァランタン「虚構と現実の間」(No.17、1995)という論考を目にしたからだ。簡単にいうとその主眼は、「赤ずきんちゃん」の昔話のモチーフが、18世紀に実際に起こった狼による子どもの連続惨殺事件をめぐり、教会側の説教的な言説にいかに取り入れられていくかという話。奇妙なのは、教会が用いる聖書的な参照によって、実際の事件がたちまちのうちに伝説化してしまうということだ。ヨレスも言っていたと思うのだが、神話は民話よりは伝説の方に近い。だからトップダウン型の組織形態において、事実の伝播が準神話的に処理されるのは当然といえば当然だ。で、民話といった「簡素な形式」は、むしろボトムアップ的に集団の維持に貢献するのではないかと思われる節がある。だいたい民話って、おそらくは俗謡がベースになっているものなんでないの、とも思う。

で、問題なのは、今こういうボトムアップ的な簡素な形式が、今やそれすら逆説的にマスメディアによって担われているという一種のねじれ現象のため、急速に姿を消しつつあるということだ。俗謡以外の何者でもないはずのポップスだって同様だ。メディアはトップダウン的な「神話」しか提供しない。かくして微細なモラル化を担うはずの装置は今やほとんど無にも等しくなっている。このところ連続している17歳の少年少女犯罪について、一部で「件数的、割合的にはいつの時代も少年の凶悪犯罪なんてのは同じだけ存在した」なんていう御仁もいるが、そういう人々は変化にひどく鈍感だし、建設的な対策なんか棚上げにしてしまっている。モラル化の装置を復権する可能性は、ネットなどの新しいメディアに潜んでいるんだろうか。なんだかそうは思えない。ボトムアップの顔をしたトップダウンというのがいちばん恐ろしい。今ネットはそういう方向にひた走っている感じがする。ボトムアップの装置というのは、やはり局地的、限定的にしか存在しえないのではないか、と。


05/06: テロとアクシデントと
「愛している」ワーム(ウィルスというよりワームなんじゃないの?システムそのものを乗っ取るわけじゃないし、ただひたすら食い荒していくんだしね)の話、とても笑えない事態になっている。フランスでもLe Mondeなどがやられたという。Exchange Server(えクソちぇんじ)なんか使っているからそういうことになるんだぜ。これを機にUNIX系に変えなはれ(ただしsendmailはやめてほしいかも)。で、このワーム、添付ファイルの拡張子がvbsになっている様子。ということは、Visual Basicのランタイムがなければ大丈夫?とはいえ、結構出回っているからなあ、VBのランタイム(これがないとインストールさえできないソフト、なんだか増えているような気が…)。
いずれにしても、今やヴィリリオが言うように、広義のアクシデントが、あるいは広義のテロリズムが偏在化した時代なのだ。先に話題になったDDoS攻撃についても、新しいクラッキングツールが続々と出てきているようだし、ホント大変な時代だ。メールに関して言えば、Outlookなんぞを使ってはいか〜ん(私の周囲ではいまだに使っている人が多い。困ったもんだ)。MSをセキュリティ面で信用してはいけないというのはもはや常識。電話回線でボチボチと接続する場合でもそれは変わらない。

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Last modified: Mon Oct 9 00:10:41 JST 2000