古楽蒐集日記 - 過去ログ

2000年5月〜2000年9月

09/28 ヴィヴァルディというと、圧倒的にヴァイオリン協奏曲の数が多いけど、ちっとはリュートものもあったはず。そう思っていたところへ、HMVで眼に飛び込んできたのが、ヴィヴァルディ『同時代のイタリアンリュートのための全曲集』(ヤコプ・リントベルクほか、BIS-CD-290)。うーん、だけどやっぱりヴィヴァルディはヴァイオリンやチェロの人なんだね。リュートは取ってつけたような感じがしないでもないなあ。「リュート協奏曲ニ長調」って、その昔映画『リトル・ロマンス』で使われていた曲。うーん、なつかしいっすね。そういえば「朝のバロック」で最近流していた「マンドリン協奏曲ハ長調」は『クレイマー・クレイマー』だしね(あと、どれだったか今確認できないがトリュフォーの映画だ)。

この間記したスザート。その曲集の録音って他にないかしらん、と思っていたら、HMVで『二つのルネサンス舞曲集 / モンテヴェルディの同時代人』(デーヴッド・マンロウ、SBT 1080)が促販扱いになっていた。71年と77年の録音を一枚にまとめたものだということで、早速購入。むう、なんとも多彩な音の世界だ。ハスケル『古楽の復活』によると、マンロウはレオンハルトと並び称される古楽演奏家で、特にプログラム構成者としての腕前に秀でていたのだという。33歳で自殺。まさに伝説的な存在か。

このところサヴァールものが続いていた気がするが、さらにもう一枚。アンソニー・ホルボーン『ミューズの涙』(エスペリオンXXI、AV9813)。ホルボーンはエリザベス王朝期(16世紀末)の作曲家・リュート奏者。これもまた落ち着いた雰囲気の舞曲ばかりですばらしい。ライナーノーツによると、録音のもとになっているのは1590年に出版された英国初の舞曲集だという。当時の楽譜出版は楽器のパート別に刊行されるのが普通で、オーケストレーションについては触れられていないので、どの楽器がどのパートを演奏するのかが今となっては確定していないのだそうだ。また、ホルボーンの舞曲は「足よりもむしろ耳のため」のものではなかったか、と言われているのだそうだ。なるほど、確かになんとも耳に優しい舞曲だ。

09/19 この間の「朝のバロック」で、以前記したリュリの『コメディ・バレエ』の抜粋を流していた。そんなわけでちょっと聴き直してみる。王様(ルイ14世)も踊ったというこの曲、その衣装の図が小穴晶子の小論「ルイ14世と宮廷バレエ」(『音楽の宇宙』所収)で紹介されていて興味深い。宮廷バレエは見るものではなく参加するもので、体験の共有が大事だったのだという(カーニバルが起源)。踊ることは王権の確認の行為(奪冠と載冠の象徴行為)だったのだが、王権の絶対性が誇示されるようになっていくにともない宮廷バレエは上演されなくなる…。うーん、なるほどね。『天皇制の文化人類学』(岩波現代文庫、2000)などで山口昌男のいう「王権のアンビヴァレンツ」がここにも見られるというわけだ。んでもって、曲そのものも改めて聴くとなかなか面白い。どんな動きがこれに加わっていたのか興味はつきないが、フランスのTV局F2のニュースが、どこぞのバロック音楽祭を取り上げた時の話(NHK BSでは未放送分)では、振付けそのものも今や失われていて、今残っているのはあくまで後世に再構成したものでしかないとのことだった。うーん…

三浦雅士『考える身体』(NTT出版、1999)によると、バレエが育まれた背景には遊牧民的生活があるのだという。浮き足立つ、跳ね上がるといった動作は、まさに遊牧民のもの。バレエの起源は中央ユーラシアの遊牧民の舞踊にあるというわけだ。対する東アジアの場合、基本が水田稲作であるため、例えば能に見られるような摺足がベースとなっているという話。なかなか合点のいく話だが、これを読んで、ちょっと日本の例えば平安時代あたりの音楽というのも気になってきた。ちょっと時間のある時に探ってみようかしらん。

09/12 「リュートをちゃんと基礎から習いたいなあ」と最近思い始めていた。で、某教室に問い合わせたところ、「リュートは今人気で満員なんです。だいぶ先になりますよ」との返事。うーん、つのだたかし効果か?聞いた話では、手持ちのギター(うちにあるやつはネックが死んでるが)でも「3弦を半音下げるチューニングにすれば、多少それっぽく弾ける」とのこと。こりゃいいこと聞いた。ま、そのうち教則本でも買って練習してみようと思っている。

今日の一枚はなんつーても『ラ・フォリア:1490 - 1701』(ジョルディ・サヴァール、AV9805)。これはいいぞよ〜。フォリアというのは中世末期にイベリアで発展した民衆起源(ポルトガル)の舞曲だそうな。後に宮廷のポリフォニーに同化されていくのだという。フラメンコの原型を思わせるような部分もあったりして面白い。気分を変えるには最高だな。17世紀になると著名な作曲家も好んで取り上げるようになったというフォリア。実際コレッリやマレの曲も収録されている。これらがまたなんとも哀愁に満ちていていいんだわさ(舞曲で哀愁というのも変な話だが)。

09/02 こう暑くてはやってられん、早く秋になってくれ〜という願いを込めて(?)、『フランドルの祝宴(A flemish Feast)』(ピファッロ、457 609-2)を聴く。15世紀から16世紀のルネサンス期、フランドル地方で聴かれたであろう作曲家たちのアンソロジーだ。トゥルバドゥール音楽の味わいが強烈に残っていて、なんともいい感じだ。特に個人的にはスザート(16世紀)が一大発見だな。軽快なガイヤルド(3拍子のダンス曲)も素晴らしいし、バス・ダンス「私の願い」なんかも味わい深い。いいなあ、これ。民衆の踊りが目に浮かぶようだ。スザートはアントワープの楽譜出版業者だということだが、編曲やら自作やらも手がけたとのこと。


08/23 ちょっと前に気軽な入門書かと思って読み始めたジャン・ド・ヴァロワ『グレゴリオ聖歌』(水嶋良雄訳、白水社、文庫クセジュ)。うーん、これは読みこなせないぞ。今の段階では歯が立たん。やはり基本からしっかり押える必要を痛感する。そういうこともあって、とりあえず典礼の基礎を学ぼうとJ.ハーパー『中世キリスト教の典礼と音楽』(佐々木勉、那須輝彦訳、教文館、2000)を読んでみる。これは実に分かりやすい教科書だ。巻末の用語集や訳語対照表も嬉しい。

それに関連して、というわけでもないが、今日はちょっと前に購入してあった『ウエルガス写本』(ディスカントス、OPS 30-68)を聴いてみる。言わずとしれた14世紀の北スペインはシトー会女子修道院の聖歌集。噂にたがわず実に澄んだ響き。ちょっと澄ませすぎという気がしなくもない…か?

08/20 これまたドツボにはまりそうな書籍を読む。ジョスリン・ゴドウィン『星界の音楽』(斎藤栄一訳、工作舎、1990)。基本的には、音楽がもつ力を人類学的な側面で捉えようという博物学的な一冊なのだが、ところどころで「とんでも本」へと滑べり落ちていく(?)ところがなんとも言えん(笑)。いきなりエドガー・ケーシーやら動物精気の話から始まって、音楽療法、シュタイナーの神秘学へと話が進む。だけれど第二部になると西洋音楽のコンパクトな通史が記されていたりもする。かと思いきや、第三部になると今度は惑星音階や黄道12宮の話。音を星に結び付けようという様々な神秘家の試みが紹介されていく。「愚かしきかな、人間?」いやいやその営みはなんとも実に多彩で奥深いのだ、と著者は言いたいのだろう。成否はともかく、「宇宙と人間との媒介項としての音楽という、音楽本来のあるべき姿の復権をかけた壮大な試み」、と訳者はあとがきに記している。
08/16 最近一番のショックだったこと:17世紀の昔から村総出で行われるというオーバーアマガウのキリスト受難劇(10年に一度)が今年だったということ。10月までだけど、観劇ツアーはキャンセル待ち状態のようだ。うーん、もっと早くに知っていればなあ、ダブリン行きに優先したのに…。ちなみにこの村の(www.oberammergau.deというサイトがある(独、英語)。あーあ(ため息)。

気分を立て直すべく、『ゴシック時代の音楽』(アーリー・ミュージック・コンソート・オブ・ロンドン、453 185-2)を聴く。2枚組で、1枚目はレオニヌスやペロティヌスの実作や、アルス・アンティカのアダン・ド・ラ・アルの曲などが収録されている。2枚目は作者不明に混じってアルス・ノヴァのフィリップ・ド・ヴィトリやマショーらの曲も。ノートルダム時代からの音楽的変遷がかいま見れるとても貴重な盤だ。特に1枚目のレオニヌスの2声の曲は、まさに禅宗の「御栄歌(ごえいか)」のよう。もっとも御栄歌の方は鈴だけを用いた単旋律歌なのだが。

お盆だからというのでもないが、もうだいぶ前に亡くなった祖母のことを思い出した。小学校に上がる前のこと、祖母は当時御栄歌を習っていて、よく連れられて行ってはその稽古を聞いていた。あれが私にとっての「原音」というか原風景なのかもしれない。単旋律聖歌を聴くと、とても安らいだ気分になるのはそのせいだろうか。また、うちの地方(東北だ)の曹洞宗では、盆の明ける16日には、その御栄歌を習っている人たちが寺に集い、そこで唱ったりする。盆や彼岸の日はひとつの晴れ舞台なのだ。御栄歌が複数の歌い手によって唱われる時のあの音響には、筆舌に尽くしがたいものがある。あるいは教会での単旋律聖歌も同様だろう(個人的には、カトリック系の幼稚園でのあいまいな礼拝の記憶がそこに重なるのだが)。そこからポリフォニーまでの距離は、あるいはほんの少しでしかないのかもしれない。いずれにしても、これはまさに死者に捧げられる歌だ(『めぐり逢う朝』でのサント・コロンブのセリフが思い出される)。デリダではないが「すべての仕事は喪の仕事である」(まさにそうなのだと思うが)なら、すべての音楽は「弔鐘」なのかもしれない。

うーん、気分を立て直すつもりが、さらに降下していきそうな感じ。なんだかこういう音楽観は、哲学的に練り上げるにせよそうしないにせよ、ドツボにはまりそう…。

08/10 先週からちょいとダブリンまで旅行。で、現地ではパブのやかましいロックに閉口したので(U2とかは結構好きだったりするのだが)、とりあえずチーフ・オニールズ伝統音楽センターに足を運んだ(6日)。ここは小さい規模ながらも結構遊べる博物館だ。パリの音楽博物館ほどではないが、タッチパネル式のディスプレイがブースに設置されていて、通史の概略を一通り目にできる。アイリッシュのダンス音楽には、イングランド経由で入ってきたトゥルバドゥール(たぶん正確にはトゥルヴェールだろう)の影響も見られるという。ただそうした伝統的な部分はほとんど失われていて、現在のいわゆるアイリッシュミュージックとされるものは、後世に最構築された「作られた伝統」なのだともいう。それは仕方のないことなのだろうが、残念といえば残念な話だ。通史の後、今度は別の各ブースでジグやリールといった舞曲の各ジャンルの解説がなされ、さらに伝統楽器の解説と続く。やはり興味深かったのはユーリアンパイプ(バグパイプの一種で、口で吹かずポンプを脇に挟んで送風する)だ。だけど今やバンジョー(アフリカ起源なのだそうな)なんかも普通に使われるという話で、やはり無国籍化していることが窺える。

この博物館のハイライトは、なんといっても180度の6面マルチスクリーン(2階)での上映だ。上映されるフィルムは、アイルランド各地の地域に根ざしたミュージシャン(多くはプロではない)たちの様々な演奏や歌を収録したもの。音楽が生活と密着していることをまざまざと見せつけてくれる。うーん、いいなあこの感じ。気候的に、どんよりとした灰色の空が何日も続くだけあって、音楽だけはひときわ明るい。まるで日々の憂さを晴らすかのように。

というわけで、あっと言う間に帰国してしまった(苦笑)。とりあえず購入してきたCDから。上記のセンターの売店は、自主製作版なども含めて様々なCDが置かれていた。まずは『アイリッシュ伝統音楽とバロック音楽』(Dordan、CEFCD 150)。ハープとチェロとホーンパイプだけで、伝統音楽ばかりか、なんとパーセルやヘンデル、さらにはモーツァルトの舞曲まで演奏してしまうという一枚。パーセルやヘンデルもこうして聞くとぜんぜん雰囲気が違う。実に面白いぞ。次は『グレンスタール修道院のオルガンミュージック』(アンドリュー・サイプリアン・ラヴ、SDGCD 604)。これはまあ、同修道院のオルガンによる様々な作曲家の曲の演奏集。バッハとかね。トゥルヌミール、ティトゥルーズ、デュ=マージュあたりの珍しい(?)曲が含まれている。さらにもう1枚は『アイルランドの伝統音楽』(Na Fili、PTI CD 1010)。これはいろいろな楽器の音が聞けて楽しい。でもって、これに収録されているジグの旋律は、2月に記したLa Nefの『ペルスヴァル - 聖杯伝説』(vol. 1)でも使われていた(だいぶ雰囲気は違うけどね。余談ながら、La Nefにはこの『聖杯伝説』のvol.2を早く出して欲しいぞ。だってクレチアン・ド・トロワの原典で言うとvol.1って3分の1くらいなんだもの。まだロワ・ペシュールにも出会っていないのだぞよ)。この他にも若干購入したが、まだ聴いていないので割愛。



07/29 いや〜、今週はご多分にもれず半ばバッハ漬けの1週間。とくにFM。こんなにラジオ聞いたのは実に久しぶりだ。24日は夜7時台の番組でクリスマス・オラトリオ他、25日は「朝のバロック」で無伴奏チェロ、その次の2日間はベルリン古楽アカデミーによるマタイ受難曲。26日はちょっと聞けなかったが、27日の後半部分は堪能できた。でもって、バッハ命日の28日は、例の10時間番組。ヨーロッパでは「24時間バッハ」と銘打ってオール・バッハ・プログラムが組まれていたというから、ちょっとケチくさい気がしないでもない。で、番組はライプチヒからの中継でベーメによるオルガン演奏から始まる。うーん、改修されたものとはいえ聖トーマス教会って音響的に素晴らしそうでないかい。どういう位置にマイクが取り付けてあったのか不明だけどね。音楽学者の磯山雅氏(超有名サイト「I教授の家」の人だ)の解説は実によかったが、途中から加わった某アナウンサーの上ずった、情報量に乏しいくっちゃべりには閉口した。番組はとにかくそのままサントリーホールから中継でバッハ・コレギウム・ジャパンによるヨハネ受難曲へと突入。重厚で端正な演奏って感じ。ヘレベッヘともまた一味違うんだね。個人的には前日の仕事がらみの徹夜がたたって、演奏終了後に爆睡してしまった(笑)。CSでは52時間バッハ・マラソンというのをやっているらしいが、うちはCSは観れないからなあ。いずれにしても、なんだかライプチヒも一度訪れてみたくなったぞ。
07/20 引き続きモンテヴェルディもの。今度は『タンクレディとクロリンダの戦い』(アンサンブル・エリマ、K617095/2)を聴く。これもまたマドリガーレ第8集に入っているというこの曲、『オルフェーオ』と『アリアンナ』の間に作られたものとか。語りとともにあらゆる感情を表現する音楽をめざしたものという話。ベースになっているのはトルクワート・タッソ(16世紀)の詩。この詩人と作曲家との絡みについて、高野紀子「モンテヴェルディとタッソ」という論文が『音楽の宇宙』(音楽之友社、1998)に収録されていて興味深い。物語はイスラムの女戦士クロリンダが、愛するキリスト教の騎士タンクレディと戦い、こやつがまた相手をクロリンダと知らずに殺しちゃうというもの。おいおい気がつかんかな〜、なんて野暮や話はおいておこう。とにかくそのことに気がついて、死を看取る場面の最高に盛り上がる(であろう)部分が、この演奏では意外にあっけないような…?このCD(2枚組)、1枚目にはこの他、タッソの詩に基づく曲集となっている。2枚目はラテンアメリカのバロック集や、『オルフェーオ』から2曲など、アンサンブル・エリマを率いるガブリエル・ガリードの演奏寄せ集め。俗っぽく言ってしまうと、なんだか妙にお得感のあるCDだな。
07/16 中村雄二郎『精神のフーガ』(小学館、2000)を読む。ピュタゴラスからドゥルーズ=ガタリまでの思想における、音楽との絡みを論じた一冊。かつての「共通感覚論」の著者は、ここでは「哲学のリズム論」を唱えている。古楽との関連では、アウグスティヌス、アッシジのフランチェスコ、ダンテ、ダ・ヴィンチ、デカルト、ルソー、ディドロまでが関係する。本書を導きの糸にして、それぞれの音楽論をもうちょっと追ってみるのも一興だろう。つーわけでいろいろネットで注文してしまったぞい。

ちょっと前に購入していたモンテヴェルディ『戦いと愛のマドリガーレ(第8集)』(ジョルディ・サヴァール、ES 9944)。マドリガーレ集として有名なのは第6集だと聞いていたのだが、ちょっとこちらに寄り道。戦いのモチーフに速い音符を使うというそのスタイルの一端がよくわかる。だけれどここでの戦い、どちらかというと、実際の戦よりも、騎士の間で中世後期にはやっていたという「ゲーム」としての騎馬槍試合を連想させるものがあるのでないかい?余談ながら、騎馬槍試合などについては池上俊一『賭博・暴力・社交 - 遊びからみる中世ヨーロッパ』(講談社選書メチエ、1994)に詳しい。

07/13 この間購入した盤を集中的に聴く。まずは13世紀の『ダニエル劇』(ザ・ハープ・コンソート、05472 77395 2)。典礼劇の最高峰(集大成)というだけあって、実にすばらしい。おお、収録されているうちの4曲目は『カルミナ・ブラーナ』の「バッカスよ、ようこそ」(CB 200)そのものではないか。他にもリファレンスがあるのかもしれない。こういうのをめぐるのは無償に楽しい。

2枚目はチコニア『輝ける星 - モテット集』(マーラ・プーニカ、3984-21661-2)。これがまた懲りに凝った感じの演奏。チコニアは14世紀の終りごろの人だが、イタリアに住んだフランドル人というだけあって、すごく複合的な音楽(と思える)。万華鏡のようで目がくらむ思いがする。ホイジンガ『中世の秋』(堀越孝一訳、中公文庫)などを読むと、14、15世紀のころは信仰も生活も、豊かになるにつれて退廃的になっていく様が描かれていて、ちょっとそういう固定イメージを抱いてしまいがちだが、その一方にはこうした絢爛たる音の世界があったというわけか。うーむ。

さらにもう1枚、クレマン・ジャヌカン『鳥の歌』(アンサンブル・クレマン・ジャヌカン、HMC 901099)。16世紀の音楽美学の重要側面に自然の音の「模倣」があった、ということがライナーノーツに書かれている。なるほどね。確かにこの鳥の声の再現はとても面白い。さらに「16世紀の詩とはいまだに歌であった」なんて書かれてもいるが、「中世の詩とはまずもってパフォーマンスとして理解すべきなのだ」というポール・ザントールの言葉(『中世文明の詩と声(La poesie et la voix dans la civilisation medievale』(PUF, 1984))がよく理解できるというもの。とはいえジャヌカンは模倣作品にとどまらず奥深いぜよ。うーん、この情感。

07/09 忙しい時間はやっと一段落。うっ積していたものが噴出した感じでいろいろ買い込む。まずは掘り出しものの2枚。先の『古代ギリシアの音楽』に続く怪しげな(?)一枚。『旧約聖書の音楽』(スザンヌ・ハイク・ヴァントゥーラ、HMA 190989)だ。シナゴーグに伝わっている解釈ではなく、独自の記号(聖書に記された?)解釈による再構成だというが、どうも単旋律聖歌やアラブ系の旋律の影響も入っている感じ。何をどういうメソッドで再構成したのか、とても気になる。でも真偽はともかく(検証のしようがない以上、そんなことはこの際問題ではない)、響きの面白さというか現代性というか、そういう点では「買い」だ。なんだか知らんが落ち着いた気分になれるのが不思議。

もう一つ気に入ったのが『アリエノール・ド・ブルターニュの昇階唱』(アンサンブル・オルガヌム、HMC 901403)。13世紀から14世紀のミサ曲集だ。エドワード1世を兄弟にもつアリエノール(1275〜1342)が、フォントゥブロー(アンジェの近く)の修道院をまかされた頃の写本とのこと。ライナーノートには、とりわけポリフォニーが独特で、口伝えで伝わったものを想わせる、と記されている。そんでもって、アンサンブル・オルガヌム(マルセル・ぺレス率いるグループだ)のこの録音の二声のポリフォニーはもの凄い。鳥肌が立ってくるぞ。ちなみに、収録されている「キリエ」は先の『リチャード獅子心王』の「因われ人は決して」と同じ旋律。

07/05 まだちょっと仕事は残っているのだが、今日はそれを押して公演を観に。ミュージシャンズ・オブ・ザ・グローブによる「シェイクスピアの音楽」。なんとまあ、道化付き。内容はグローブ座で上演されるシェイクスピア劇の挿入曲の集成。曲の合間には道化がいろいろ技を見せる(この道化、開演前からステージと客席の間で即興のマイムみたいなことをやっていた)。演奏家たちとの掛け合いも。16、17世紀ごろの宮廷での祝宴ってのもこんな感じだったのかもね。最後は『リア王』での道化のセリフ(かな?[後記]:これって『お気に召すまま』のセリフであることが判明。うーん、恥ずかしいなあ)で締めてくれるというサービスぶり。いやー、仕事を押して出かけた甲斐はあったというもの。


06/26 このところ多忙のため、仕事以外の時間がほとんど取れない(これを書いているのが唯一の例外か)。うーん、読みかけのアーノンクール『古楽とは何か』(樋口隆一、許光俊訳、音楽之友社、1997)もいまだほったらかし。それにしてもこの本のスタンスには実に説得力がある。ピリオド楽器を単に使うだけでは、あるいは現代の感覚で古楽の楽譜をなぞるだけでは、決して満足のいく演奏にはならないと繰り返し述べているアーノンクール。バロック時代の音楽は失われた言語のようなものだという(実際にそれは言語に密接に繋がっていた)。だから聴く方も当然、勉強しなくちゃだめだということになる(当り前だが)。現代的な感覚で安易に「音が外れている」とか「響きが変だ」なんて言ってはいけないと…。うーん身につまされる話だ。

そうそう、余談だがモンテヴェルディのファンだという人からメールを頂いた。年季の入った古楽ファンとお見受けした。本格的に(?)聴き始めて間もないこちらとしてはいたく恐縮してしまう。モンテヴェルディものは、実は買ってあってまだ聴いていないCDもあったりする。聴いてから記したいのだが、とにかく少し暇にならないとなあ。

といいつつ、仕事の合間にはフィリップスから出ている廉価版の『ザ・ベスト・オブ・ザ・ルネサンス』(タリス・スコラーズ、462 862-2)なんぞをちょこちょこと聴いていたりする。聴き入ってしまうと仕事にならないので、わざとブツ切り状態で止める。うーむ、後ろ髪引かれる思いとはこういうことを言うのだろうなあ。至極の声の芸術品だ。

06/15 たまには「音そのもの」を堪能しようというわけで、久々にオルガンものを購入。一枚は『オルガンの銘器を訪ねて Vol.2 - 阿佐谷教会』(武久源造、ALCD-1026)。曲目はブクステフーデ、ヴィヴァルディ(「四季」からのアレンジ!)、バッハなどなど。うーん、いいねえやっぱオルガンは。でもこういうのはやはり現場で聴きたい気がする。というのもなんだか少し臨場感がいまいちで、ちょっくらフラストレーションが溜るからだ。もう一枚は『ルネサンス期のフランスのオルガン』(アンドレ・イゾワール、CAL 6901)。こちらはいろいろ取り混ぜての25曲。バリエーションが利いていて面白い(ジャヌカンなんかも1曲だけ入っている)し、迫力でこちらの勝ちかな(?)。なかでも楽譜出版業者アテニャン(16世紀初頭にオルガン曲集を出版しまくったという)の曲集からの数曲がとてもよい。このメリハリ、なんともいえんなあ。なんだか音そのものを味わうつもりが、曲の方に釣込まれてしまった。
06/09 この間届いていた『聖母マリアのカンティガ集』(エスペリオンXX、ES 9940)。カスティリアの賢王ことアルフォンソ10世が13世紀に蒐集した単旋律歌曲(総数は実に420曲!)だそうだが、旋律は実にシンプル。民衆のマリア信仰に一役買っていたものらしい。インストゥルメンタルだけ収録した曲がいくつかあって、妙に味わいがある。なんだかどこかで聴いたことのあるような旋律も。いずれにしても、イベリアの風をちょっとだけ感じた気分になった。

クロード・リオ『歌と楽器 - 中世のトゥルヴールとジョングルール("Chants et instruments : Trouveurs et jongleurs au Moyen Age"』(Rempart, 1998)によると、この『カンティガ』にはトゥルヴェールのダンス用歌曲、「ヴィルレ」が収められているのだそうだ。末期のトゥルバドゥール、ギロー・リキエなどがこのカンティガ集の編簒に加わっているともいう。トゥルバドゥール歌曲は末期になると聖歌を離れ俗謡の旋律を取り入れているというが、いずれにしても、この録音のなんともいえない哀愁はただものではないかも。

06/04 1日はコレギウム・ヴォカーレによるバッハ「ロ短ミサ」。指揮者というよりは牧師って感じのヘレベッヘ、前のブリュッヘンよりはるかに繊細な印象を受けた。なんかちょっと音が外れたみたいなところがあった気もしたが(本当か?)、大勢に影響なし。でもこの演奏、もっと良くなりうる気がしないでもない。究極の「ロ短ミサ」はどこに? でも次に来る時にはモンテヴェルディをやって欲しいなあ。

連続公演のうち「マタイ受難曲」はパス。曲自体は「ヨハネ」よりヴィヴィッドに迫ってくる気がするが、とにかく長いので公演で聴くのはちょっと疲れる…。誰かダイジェスト演奏でやってくないかなあ。うちにあるアーノンクールのCDなんかも、通して聴くなんて滅多にない。気にいっている部分だけピックアップしてという感じ。で、今日はFMでゲヴァントハウス管弦楽団の「マタイ」というのを流していた。初期稿の演奏だというが、なんだか一味違っていて非常に面白かったのだが、やっはり聴き通せず、途中で自主休憩してしまった…うーむ。



05/30 ダメもとで注文していた『現代思想 臨時増刊 - もう一つの音楽史』(青土社、1990)が届いた。10年前のものだから在庫ないだろうと思っていただけに、とーても嬉しいぞ。今でも活躍中の若手を中心とした研究者たちの論考が満載だ。ピリオド楽器演奏の是非についても様々な論が展開されていて面白い。巻末のCDリスト、今どれくらい手に入るかわからないが、まあ探ってみよう。
05/28 忙しい時ほど遊びたくなるのは人情。ということもあって、週の半ばにコンチェルト・イタリアーノの演奏会へ。前に「焼きスルメ」と表したペルゴレージ「スターバト・マーテル」だが、これが生音で聞けて嬉しい(生スルメというべきか?)。さすがに生音だとちょっと鳥肌ものだった。しかもアンコールも大サービスの3曲で、ヘンデル、バッハで締めてくれた。素晴らしい。さらに週末はコレギウム・ヴォカーレによるバッハ「ヨハネ受難曲」を堪能。2月にブリュッセルで聞き逃していて、是非ともと思っていたのだが、うーん、至福の2時間だったなあ。さて仕事せねば…。
05/22 『アイネス』(アンサンブル・カンティレーナ・アンティーカ、SY 99165)が届く。『Gramophone Japan』の4月号に評が掲載されていて注目していた一枚だ。オック語の「聖アグネス伝」にトゥルバドゥール歌曲の旋律を付けて歌ったものだという。なんだかとても染みわたるような演奏だ。聖アグネス伝を簡単におさらいしておくと、敬虔なるアグネスに求愛を断られたローマ総督のバカ息子は、アグネスを売春宿に放り込んだりとかひどいことをする。だがアグネスは天使に助けられ、一方のバカ息子の方は死んでしまう。アグネスは総督の悲しみを受けてバカ息子を生き返らせるよう祈る。祈りは聞き入れられるのだが、これでアグネスはいよいよ魔女だということになり火あぶりに。またも奇跡が起こりアグネスは無事なのだが、結局は斬首刑にかけられてしまい、その魂のみが天上に登る…。うーむ、なんともひどい話だが…。いずれにしても、これをトゥルバドゥール歌曲に乗せるというのは名案かもしれない。オック語の響きもよくて、なかなか切なくていいなあ。
05/15 雑誌で紹介されていたこともあって、逆輸入盤バッハ『教会カンタータ』(バッハ・コレギウム・ジャパン)を買ってみる。有名なBWV 147「心と口と行いと命もて」の入ったやつ。こういう曲になるともはや誰が演奏するかなんぞどーでもよくなる気がする。曲そのものがいいからなあ。

フランスの人類学雑誌『Gradhiva』No.17 (1995)には、ドゥニ・ラボルド「バッハの中のグールド」という論考が掲載されている。これがまた面白い(ラボルドには同じバッハ/グールドを論じた著作もあるそうだが、品切れで入手できなかった)。19世紀から始まったバッハの再発見は「純粋な音楽」という観念を生み、グールドの「神話」はその延長線上に生まれているのだという位置づけだ。レオンハートの原典主義をあっさり無視するグールドだが、その「ゴルトベルク変奏曲」(81年録音盤)はフランス国内でCDだけでも15万枚が売れた(人気があるとされたホロヴィッツでさえ1万枚レベルなんだぜという話)。コンサートをやめ公の場から姿を消すことで、ますます神格化されていくグールド。その神話作用を追うというわけだが、こういう緻密な論評、日本ではさっぱり目にしないような気が…?

05/07 この間衝動買いした『リチャード獅子心王』(アラ・フランチェスカ、OPS 30-170)を聞く。トゥルバドゥール音楽の集成。なかなか渋いぞ。リチャード一世といえば、宮廷文化、トゥルバドゥール文化の立役者ともいえるアリエノール・ダキテーヌの子。先にも記しておいたが、新倉俊一の著書では、トゥルバドゥールとジョングルールは境界こそ曖昧なものの、両者は歴然と区別されるのだ、といったことが書かれていた。これはH. I. マルー(別名アンリ・ダヴァンソン)『トゥルバドゥール(Les Troubadours)』(Seuil, 1971)(同氏による邦訳あり)の議論そのままだが、一方で上尾信也『歴史としての音 - ヨーロッパ中近世の音のコスモロジー』(柏書房、1993)には、最近の研究ということで、トゥルバドゥールやジョングルールは「芸態の違い」を示していたにすぎないという説が紹介されている。うーむ、なかなか面白くなってきたぞ。真相はどっちだ?
05/01 この間FMでカール・オルフの『カルミナ・ブラーナ』を演っていた。うーん、しかしこれはなんか違うぞ。というわけで、今度はクレマンシック盤『カルミナ・ブラーナ』(HMC 90335)を探しに。何軒かCDショップを回るつもりで勇んで出かけたら、1軒目のHMVでいきなり発見して拍子抜け。そのためちょっと衝動買いもしてしまった。このクレマンシック盤、確かに面白いのだが、ちょっと「民衆詩」というロマン主義っぽい観念の装飾が濃すぎ(オルフのあまりに自由な曲付けよりはいいだろうけど)。先のニュー・ロンドン・コンソート盤と同じ曲もいくつか入っているが、解釈がまるで違うのが面白い。CB31の「堕落した生活の(Vite perdite)」なんかカラオケ状態だし。思わず歌ってしまいそうになったぞ。



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Last modified: Mon Oct 23 19:55:30 JST 2000