古楽蒐集日誌 - 過去ログ

2001年3月〜8月

08/31 うーん、今日はミッシェル・カルダンによるリュート演奏会を聴き逃してしまった。残念。それにしても譜と教則本以外、リュートの邦文文献というのはさっぱりない。で、貴重な一冊が登場した。E.G.バロン『リュート - 神々の楽器』(菊地賞訳、水戸茂雄監修、東京コレギウム)。バロンは18世紀のリュート演奏家。当時はオペラなどの隆盛とともに、演奏規模が拡大し、リュートなどの楽器が追いやられていく時期。しかも批評も台頭し、文筆家マッテゾンによってリュートそのものがこき下ろされたのだという。バロンはそれに反論するのだが、楽器の起源にまで遡る正当化の議論が妙に痛々しい感じがする。ミシェル・フーコーの76年講義で、勢力の減じた貴族が歴史的な起源をめぐる議論を弄し、自分たちの集団を弁護するディスクールを作り上げて入った様を分析しているのだが、どこかそれに通じるものがあるように思える。リュートをめぐる歴史の残照について、これは貴重な資料だ。
08/23 うーむ、いかん。夏バテぎみになってきた。こういう時にはヴィヴァルディなんかが効く。速い連譜がリズムを盛り上げてくれるし、一転してテンポの穏やかな曲になると弛緩したりして、なにかこう、心的な体操のような気がするのだ。というわけで最近かけっぱなしなのが廉価版で出ているビオンディの『調和の霊感』(エウロパ・ガランテ、7243 5 45315 2)。ゆたり、まったりと味わって残暑を乗り切るとしよう(笑)。
08/14 NHKで先週から始まった趣味講座「アンサンブルで楽しむリコーダ」。この放送テキストにはバロック・ダンスのステップなども紹介されていて、放送が楽しみ。今日の放送分では課題曲が「シチリアーナ」。おー。で永田平八氏による中世リュートの伴奏もちょっとだけ聴けた(まあ、リュートは主役じゃないのでよしとするか)。それにしてもこの番組、若い生徒を差し置いてあのアナウンサー朝◯が前面に出ている作りがちょっといただけない気もする。20年来リコーダやってますってんなら、さりげなくサポートに回るくらいにしてもよさそうなもんだが…(笑)。

話変って今日の一枚。『ルネ王の宮廷』(アンサンブル・ペルスヴァル、ARN 68104)。ルネ王というのはアンジュー公、プロヴァンス伯で、後にナポリ王になる人物(1409〜1480)。善王という異名が与えられたこの王の宮廷は、文人たちで溢れていたのだという。ジョスカン・デ・プレなどが仕えていたとのこと。で、このCDはデ・プレなどの同時代の作曲家のアンソロジー。弾むような世俗的な明るさに満ち溢れた一枚だ。バンショワの曲から始まり、作者不詳の世俗曲を挟んだりしながらデュファイ、ブロッロ、ピアチェンツァ(これの「Jelosia」とかよいぞよ)、デ・プレ、オケゲムなどと続き、とても気分を盛り上げてくれる。踊りたくなるぞ。

08/07 去年の今ごろはダブリン行きだったのだが、今年は都合により国外脱出はなし。やれやれだ。でもまあ、気分だけはアイリッシュという感じで、『ケルティック・ワンダラーズ - 巡礼の道』(アルトラマル、DOR-93213)を聴く。中世初期のアイルランド系隠修士たち(大陸での修道院建設に多大な影響を及ぼした)の世界を、各地に残る歌を独自アレンジで聴かせることで浮かび上がらせようという野心的な試みと見た(笑)。全編ラテン語歌詞で、世俗の民族音楽とは一味も二味も違う雰囲気。でもちょっとアレンジには難ありかも(ちょっと平板だな)。でもこの演奏集団、他にも面白そうな盤をいくつか出しているので、今後入手してみたい。
08/05 昨日の深夜、NHKで「モーツァルト謎の楽譜K.621b」というのを再放送していた。これって、昨年の夏の終り頃に放送され、一部ファンの間で話題になった(らしい)番組。k.621bという楽譜に現存しないG管のバセットホルンの音符が記されていることから、ジル・トーメなる演奏家が当時の楽器を求め、最終的には自分で製作してしまうまでを綴ったドキュメンタリーなのだが、それに当時のモーツァルトの交遊関係などが散りばめられて興味深い出来になっている。だけんど一つ「おいおい」という感じなのが、G管が出来たので、同じ楽譜の後半までバセットホルンでもってコンサートを演ってしまった(楽譜上はクラリネットだという)という話(聞き間違いでなければだが)。うーん、当時の音を再現したかった、という冒頭の発言からすると、これはまさに自己矛盾でないの。全体的なスタンスを疑ってしまうよなあ、まったく。ちなみにその演奏会のCDもあるらしいので、そのうち入手してみようか。それにしても先に記したビーバーのミサ曲が発見地主義みたいな命名になっていたりとか、純正の音楽学方面なんてのもどこか微妙にねじれた世界なのかもなあ(?)。余談ながら、上記のバセット問題などを含むMozart Study Onlineというサイトが面白い。


07/31 注文していた書籍が届く。三ヶ尻正『ミサ曲、ラテン語・教会音楽ハンドブック』(ショパン、2001)。こういうの待ってました、っていう感じの一冊。ラテン語の発音を古典式、イタリア式、ドイツ式で細かく解説しているという貴重な資料だ。巻末の参考文献も有益。まさに基本図書という感じで、こういうのを眺める時には、こちらも基本に戻って教会音楽を、という気になるよなあ。とりあえず今日はドイツ系のミサもの。一枚目はビーバー『ブリュッセルのミサ』(コンセール・ド・ナシオン、AV9808)。発見されたのがブリュッセルの王立図書館なのでこういうタイトルなのだそうだが、これはビーバーが1700年ごろにザルツブルクの大司教の祝典用に書いたものだという。いやー、冒頭から派手に決めまくってくれると思いきや、ところどころ独唱などの静謐な味わいが加味されていて、とても感動的に流れができていく。職人技を感じさせるなあ(笑)。

もう一枚はブクスデフーデ『汝らの行いのすべてを』(モテッテンコア・シュトゥトガルトほか、 Carus 83.134)。オルガン曲ばかりが目立ってしまうブクスデフーデだけど、当然ながらカンタータもある。収録されているのは表題作以下比較的有名なものばかりらしい(4つ)が、うーむ、確かにどこか悲痛さないしは陰影漂うこれら短調の旋律は、親しみやすいというか、妙に身体に染み込んでくる感じがする。

07/28 今日はバッハの命日。去年は没後250年ということで、FMなどでも大きく取り上げたが、今年はいたって静か。うーん、なんだかなあ。風邪が振り返して今体調が絶不調だが、とりあえず今日は先に中古CD屋で格安で購入してあった5枚組の『バッハ・エディション、カンタータvol.XI』(ネーデルランド・バッハ・コレギウムほか、 99379 /1-5)を連続して聴いて見る。なにかこう今一つ細やかさに欠けるというか、語りかけてくるものが感じられない演奏だという気がするのだが、それはやはり体調が悪いせいかしらん?体調と音の微妙な連関というのは大きな問題かもね。
07/15 毎年、面白いテーマを取り上げている<東京の夏>音楽祭。今年は声がテーマで、民族音楽系のパフォーマンスが数多く取り上げられていた。一番注目したのは西アフリカの語り部=楽士グリオによるスンジャータ大王伝説の語り。というわけで、暑いさなかこれを聴きに出かける。その伝説の語りの前に、グリオのパフォーマンスが別にあったのだが、ここではコーラという21弦のハープ=リュートが演奏され、その実に豊かな響きが心地よかった(PA入っていたけど、うまい具合に調整されていたと思う)。で、いよいよこのスンジャータ大王伝説(これはほんのサワリで、後はアレンジされた伝統的な民族音楽だということだけど)。パフォーマンスの前に人類学者の川田順造氏による解説があり、しきりに「一回性のパフォーマンス」を強調していたが、実際に歌が始まると、あまりのど迫力に度胆を抜かれる思いがした。これは歌と楽器が混然一体となった身体パフォーマンスだ。だから言葉は分からないけど、異様にノレる。アフリカ版のマリンバ、リュート、太鼓のインプロビゼーションも秀逸。うーん、こりゃすげえ。最近文庫で再刊された川田順造『口頭伝承論』(上下、平凡社ライブラリー)には、この伝説を扱った論考も収録されていて、「文化の三角測量」を唱えてきた同氏だけあって、日本の『古事記』、あるいはギリシアの叙事詩、中世の武勲詩『ローランの歌』などをも引き合いに出しつつ論じられていたりする。けれど、この日のパフォーマンスを見る限り、そうした論考に登場する「語り」という呼び方がまったく的を射ていない気さえするほど。感激!
07/06 この間、ちょっと仕事がらみの機会に恵まれて、もうすぐ公開予定の『王は踊る』を画質のよくないビデオで観させてもらった(不法コピーではない。念のため)。舞踏譜のステップを完全に再現したという触れ込みのダンスシーン、これは確かにど迫力。だけど、あんなにしかめっ面で踊ったのかしらん、という素朴な疑問もある。それから光の演出は今風だ。当時の宮廷での上演でどれだけのエフェクトが使われていたのかも興味深い問題。バロック期の演劇についてちょっと調べてみようか、という気になった。

話は変って、今日はブリューメル『ミサ、セクエンツィア「怒りの日」』(ウエルガス・アンサンブル、SMK 89613)を聴く。「メロディアスな歌い手」とラブレーが評した同時代人のアントワーヌ・ブリューメル(オケゲムの弟子だ)。確かに、収録されたミサ「見よ、地の動きを」(12声)は細かなフレーズの反復の積み重ねがとても特徴的。旋律的にも実に美しくて、セクエンツィアの方など、とても豊かな表現になっていて、思わず聴き惚れてしまう。いいぞ〜これ。



06/29 今日はタリス・スコラーズの公演に出かける。ううむ、さすがに期待していただけのことはあったなあ。「スペインの音楽」と題していた今日のプログラム、前半のモラーレス「ミサ・シ・ボーナ・スシェピムス(ススケピムス)」は荘厳な作りとはいえやや単調。やはり後半の方が盛り上がった。ビクトリア「サルウェ・レギナ」、ロボ、ゲレーロと実に華麗な響きが続く。この声の迫力。わずか10名の声でここまで響かすことができるんだなあ、という感じ。さすがはタリス・スコラーズ。人間の声って素晴らしいということを素朴に味わう。いやー素晴らしい。
06/25 やっと忙しさは一段落。この間、暇を見つけては読んでいたのがアミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』(牟田口義郎、新川雅子訳、ちくま学芸文庫)。これは実に面白い一冊。フランク人は野蛮で礼儀知らずの大バカものに描かれている。リチャード獅子心王(どこぞの首相を思い出してしまうけど)なんかもボロクソに言われているぞ(笑)。だけんどアラブ世界も内部抗争のせいでグチャグチャ。うーん、なんとも苦い読後感が残る。で、これを読みつつ、『十字軍 - 十字軍時代の声楽、器楽曲』(ラ・コンパニー・メディエヴァルほか、SOCD 155)を聴いていたのだが、この盤、音楽劇として構成したものを再度構成し直して録音したものらしい。聖母マリアのカンティガやアラブの詩歌、グレゴリオ聖歌などからの抜粋が、ある騎士の回想の物語として綴られていく。全編郷愁感溢れるだけに、とても複雑な気分になる…。
06/16 今ちょっと忙しいのだけど、今日はそれを押してチェコ国立ブルノ歌劇場による『魔笛』の公演に。モーツァルトは基本的に古楽の対象には入れていないけど(ピリオド楽器かどうかに関わらず)、今日は例外。最近、原研二『シカネーダー』(平凡社ライブラリー)を読んで、モーツァルトというよりシカネーダーへオマージュを捧げたい気になっていたからだ。宮廷の限られた層のスペクタクルを広い大衆へと開いたという意味で、シカネーダーはまさに転換期の人だ。で、この舞台、伝統の重みを感じさせる舞台だった(冒頭とかちょっとチャチくて笑ってしまったけど)。シカネーダーは舞台に本物の馬や軍人を乗せ、火や水を使って壮大なスペクタクルに仕立てたということだが、この舞台を観ながらもついそういう舞台を想像してしまう(笑)。余談だけど、バッハ研究者の磯山雅は『モーツァルト二つの顔』(講談社選書メチエ)の作品論の中で、オペラ作品の中心には成長する女性が置かれる(『魔笛』ならパミーナ)としているが、確かに夜の女王って、有名なアリアもあるくせに最後にはあっけなく退場しちゃうのがとても謎だ(笑)。

そういえば最近、モーツァルトの死因をポークカツレツだとする新説が報道されたけど、カツレツってシュニッツェル(Wiener Schnitzel)のこと?でもそれって子牛の肉使うという話じゃなかったっけかなあ。それは後世の話なのかしら?

06/08 この間、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーによる『テンペスト』を観に行った。いわずと知れた壮大な許しの物語。なかなかに素晴らしい舞台だったけど、それだけにかえって同時代的な上演というものがどのようなものだったかが気になった。もちろんそれは失われているわけだけど、せめて近い時代の音楽だけでもと思い、NAXOSから出ているパーセル『テンペスト』(アレーディア・バロック・アンサンブル、8.554262)を聴いてみる。これはまたなんとも凛々しい雰囲気。「戦いは終る〜」と歌うアンピトリーテ神のエアが全体の流れの中でひときわ引き立つ。いいなあ、これ。ライナーノーツによると、この一連の曲は17世紀後半の典型的な劇音楽で、『テンペスト』は1667年に復元され、以来数度にわたり改定されている(幕間などにオリジナルな要素が加えられた)という。録音のベースになっているのは18世紀の写譜とか。
06/03 今日はFMで「イタリアルネサンス諸国音楽巡り」というのをやっていた。いいなあ、この企画。14世紀のオルガニスト、ランディーニあたりから始めて、モンテヴェルディに到るまで300年ものイタリアものをつまみ食い。なんとも贅沢やな〜。でもこうなると、それぞれの曲をじっくりと聴きたい気もする…(笑)。で、これとも関係ないとはいえない今日の一枚。『ヘスペリアのリラ:中世のヴィエール』(E 8547)。これまたジョルディ・サヴァールによる演奏。ヘスペリアは古代ギリシア・ローマ人がイタリア・スペインあたりを呼ぶ時の名称だ。ヴィエール(viele)はフィドルというか擦弦楽器の総称。で、この盤はというと、イタリア・トレッチェントものやアルフォンソ10世のカンティガ集、さらに民間の伝承曲などからのアンソロジー。耳にやさしく腹にずっしりくるという風のフィドルの音色、パーカッション類ととても相性がいいことが、ことさらよく分かる気がする(笑)。


05/25 うーん、今週はFMで「ヨーロッパの古楽祭特集」というのを連日やっていたようだが、結局初日の月曜(21日)しか聞けんかった。残念。3月に来日公演があったハープ・コンソートによるレーゲンスブルク音楽祭での公演。うむ、やはりこのアンサンブルは素晴らしいねえ。それにしてもこういうCD以外の音源のものは、再放送してほしい。1回こっきりとはちょっとケチくさいぞ。

カヴァリエリ『魂と肉体の劇』(C 517 992 I)CDを最近入手。古楽祭じゃないけれど、これって73年のザルツブルグ音楽祭での録音とか。ライナーノーツによると、中世ものからバロックまでの舞台作品の再発見というのは、同音楽祭のもともとの理念だったのだそうな。だけどこの盤、音楽的にもかなりアレンジされているらしく、舞台の雰囲気(白黒写真がライナーノーツに掲載されてる)もかなり近代的で、すっかりごく普通のオペラになってしまっている感じ。だけど曲そのものは1600年の作品で、オラトリオの先駆けとされ、本来はあくまで宗教的音楽劇。むしろそう思って聴く方が盛り上がる気がする(笑)。

05/18 ひさびさにジャヌカンものをと思い『マリニャーノの戦い』(アンサンブル・ジャック・モデルヌ、CAL 6293)を聴く。この盤、実は同時代の曲のアンソロジーだった(本当の題は「ラブレーの時代の音楽」)。ちょっと詐欺っぽい気がしないでもないが、時おりラブレーの朗読も入っていて、それなりに雰囲気を盛り上げているので許そう(笑)。全体にしっとりとした落ち着いた感じの曲を集めているのもなかなかよいでないの。表題作は16世紀初頭のイタリアとの戦争に従軍した時のジャヌカンの作品だが、それよりむしろ、個人的にはセルミジやアテニャン、スザートなどの数曲にえらく感激してしまったり(笑)。
05/15 最近読んだ竹下節子『からくり人形の夢』(岩波書店、2001)。小著だけど、バロックとオートマトンへの愛情に満ちた一冊という感じで素晴らしい。著者は宗教学方面のバリバリの研究者とばかり思っていたら、パリでアーティスト支援の協会を作り、みずから室内楽のアンサンブルにも加わっているのだという。で、同書の第二章「歴史の中の自動楽器」が秀逸だ。「バロック音楽は『癒し』の音楽というより、微妙にねじれ揺さぶられる肉体の快感をいかに貪欲に味わうかという手段なのだ。音楽を頭脳によって肉体に奉仕させるということが徹底していたからこそ、モテットやミサ曲などの宗教曲でさえ、そんな官能に満ちあふれている」(p.129)。この言に一票!(笑)。なるほどねえ。合理主義の練り上げは、どこかで肉感的な内的衝動に反転する。そこにこそ古楽の醍醐味があるのかもしれない…。

…てなことを思いながら、リュリのコメディ・バレエものからの抜粋盤『太陽王のオーケストラ』(ル・コンセール・デ・ナシオン、AV9807)を聴いてみる。おお、やはりリュリはノレるよな〜。指揮はジョルディ・サヴァール。「町人貴族」「王室のディヴェルティスマン」「アルチェステ」からの抜粋など。自席で身動きできないコンサート形式よりも、こういうのはちょっとしたダンスホールみたいなところで聴きたい気がするね。

05/11 今日は時間があったので、新宿伊勢丹美術館の「黄金期フランドル絵画展」を見た(ブリューゲル一家が民衆を描いた絵がやっぱりなんともいいなあ。踊りの場面なんか、音が聞こえてきそうなほど)。で、ついでにフランドルものでも購入しようかとCD屋(HMV)へ。

で、なんと、La Nefの『ペルスヴァル - 聖杯伝説(聖杯の探求)第2巻』(DOR-90294)が新譜プロモーションになっているでないの! (というわけでフランドルものは次回に持ち越し(笑))。うーん、待ちに待った第2巻。第1巻はめためたにメロウですんげー気に入っていた(笑)。当然、今回は聖杯行列とか雪の上に滴る3滴の血とか、そのあたりの場面にどういう音楽が付けられているか気になるところ。で、やられた〜、そう来たかという感じ。前者はオリエント風の旋律で見事に雰囲気を出している。後者はもの静かなトゥルヴェール風。全体に1巻目の音楽を踏襲しつつ、より抑えた理知的な構成になっている気がする。そりゃそうだ。2巻目ってペルスヴァルの改悔の話になっていくわけだからね。うーん、でもやっぱりいいなあ、これ。ぜひライブで聴きたい。La Nefには来日予定はないのかしらん?

05/05 「げげ、こりゃある意味で凄い」と思ったのが、タヴナー『茨の冠のミサ』(オックスフォード・クライストチャーチ礼拝堂聖歌隊、CD GAU 115)。2声から4声までのミサ曲だが、何が凄いかって、ソプラノの声部の伸び具合。縦横に旋律を動かしていく様がなんとも言えん。他の声部を完全に圧倒してしまっていて、妙に耳に残る。タヴナーは16世紀始めにチューダー朝下の英国で活躍し、オックスフォード・クライストチャーチ礼拝堂の初代音楽監督を務めたという。この『茨の冠のミサ』は、タヴナー最長のミサ曲で、英国のドミニコ会、シトー会だけが重視する祝日だという。ソールズベリーの一部の時祷書では5月4日だそうだが、確証はないとのこと(ライナーノーツより)。で、チューダー朝のミサではキリエがないのが普通なのだとか。


04/29 アマチュアの愛好家たちによる「リュートの会」という団体があるというのを以前聞いていただが、そのグリーン・コンサートなる催しに出かけてみた。好きな曲を持ってきたのだろう、選曲がとてもよい。アテニャンとかダウランドとかもあったが、個人的にもぜひ弾けるようになりたいものばかり。でも一つだけ言わせてもらうなら、皆さんなにもそんなにしかめっ面で弾かなくても…(笑)。真剣に取り組んでいることはわかるのだけど、ステージ演奏って、特にアマチュアの場合には演奏の楽しさを伝えることだって大事なんではないかと。

今日はさらに、ちょっと前に購入した浜中康子『栄華のバロック・ダンス』(音楽之友社、2001)を読む。宮廷バレエなどの発展史のようなものを期待していたが(オンライン購入だったので事前に内容確認ができなかった)、むしろ共時的研究だ。譜のシステム、基本のステップ構成、舞踏の下位区分と、実に網羅的な内容で、これはこれで面白い。バロックダンスはフランス本国でも近年愛好家が増えているというし、これからいろいろな研究が出てくることもちょっと期待できるかも。

04/27 多忙の2週間からどうにか解放。で、今日は先日購入してあった話題のバッハ『マタイ受難曲』(アーノンクール、8573-81036-2)を聴く。なんといっても小冊子のようなパッケージがいい(笑)。録音そのものも70年のものより全体に伸びやかになっている感じ。でも個人的には前のも好きだったりするのだが…。話題だったのは、ハイブリッドCDになっていて、QuickTimeで演奏とともに楽譜が見れるという点だったけど、げ、うちの現マシンのスペックでは全然ダメ。というわけでこれはおあずけ…トホホ。
04/16 13日のコンサートがいまいちだったこともあって、今日はテレマン『受難オラトリオ』(フライブルク声楽アンサンブルほか、99521)を聴く。解説書が付いていないせいで、2枚組なのにすっごく安く売っていて、思わず飛びついてしまった。で、BCJのパンフが役に立った。掲載されている大角欣矢「受難曲の歴史とその背景」がそれ。受難オラトリオとオラトリオ風受難曲は演奏される背景も違えば歌詞も違うとのこと。なるほどね。で、この解説文に従えば、この盤の収録曲はおそらくブロッケス台本に1716年にテレマンが曲を付けたものか(?)。合唱部分など、随所にバッハと同じ旋律が使われていたりするけど、特にアリア部分には特徴がよく出ている(と思う)。聰明な感じの音の運びがいい感じ。
04/13 今日は教会暦では受難節。で、毎年この時期に開かれているというBCJの受難節コンサートに出かけてみた。今年は「17世紀ドイツ・プロテスタントの受難曲」というので期待して行ったのだが、あれれ?最初に暗転からいきなり拍手ももらわずにオルガンが弾かれ出した。「ミサを模しているのかしらん」と思って見ていたら、再び暗転して声楽隊の入場。なんだか変な演出だ。で、デマンティウスの曲が始まったはいいものの、なんだか単語の語末の子音がパラパラと乱れ飛び、合唱の統制が取れていない感じで楽しめない。個人的にもちょっと疲れが出たみたいでウトウトしてしまう。後半のシュッツ「マタイ受難曲」も、なんだか微妙に音が外れているみたいで、合唱(は見事だったけど)とソロの落差が大きい。単語を速く発音するために部分的にもたついている感じも。なんか違〜う、と思ってしまった。

歌詞の対訳目当てに買ったパンフレットの、鈴木雅明による巻頭言もちょっと変。ギリシア人音楽学者の本から採った話らしいが「ラテン語はアクセントの音節が格変化や品詞の変化によって変わるが、ドイツ語は常に語幹にアクセントがある。語幹は意味の中心を担うのだからアクセントと単語の意味が直結して揺るがないのがドイツ語固有の性質である」「ドイツ語においては音楽と言葉とが内実を完全に一致させることができた」云々(注:パンフそのままの引用ではない)。それって限りなく思い込みに近いのでは(笑)?言語学的常識からしてもアクセントの固定と意味の固定とは別個の現象。両者に平行関係を見るのは「民間語源」に匹敵するスタンス。それにドイツ語のような強弱アクセントよりも、ラテン語のような高低アクセント(中世以降、地域的に強弱アクセント化する)の方が旋律に与える影響は大きいはず。だから、「ドイツ語においては云々」というのはちょっとなあ…。

04/08 マックス・ウェーバー『音楽社会学』(安藤英治ほか訳、創文社、1967)を読む。これは文句なしの名著。ウェーバーというとまずもってその宗教社会学が思い起こされるけど(いいかげん忘れてしまっているので、そちらも要再読なんだけど)、未完の草稿の形で音楽史論が残っていたのだという。これはまさしく歴史人類学だ。音階構造、調律問題、楽器の歴史などを通じて、なぜ西欧でのみ和声的合理化がかくも発展したかを探っていくというなんとも壮大な一冊。感銘を受けてしまった(笑)。訳書には巻末に用語集や基本事項の解説までついていて、到れりつくせりだ。一応これは音楽的事象内部での議論だけれど、これを社会的なものにまで拡大していったらさらに面白いだろうなあ、とも思う。例えば多声音楽の成立の契機。ウェーバーはこれを記譜や楽器の発展に関連づけているが、阿部謹也はこれを批判して(『中世賎民の宇宙』など)、古代からのミクロ-マクロの宇宙二元論がキリスト教の一元化に取り込まれていく過程に関連づけていたりしたっけ(ま、これが議論として成功しているかどうかちょっと素朴に疑問もあるんだけど(笑))。でも方向性としては興味深いかも。そういう研究を探してみようか。

こういうのを読んだ後は、やはり基本に戻って聖歌を聞こう、というわけで、ちょっと前に中古CD屋でなにげなく購入した『グレゴリオ聖歌』(聖モーリス&聖モール修道院聖歌隊、PHCP-9545)。わおー、これは期待以上だ。久々に歌に打ちのめされる感じがした。なんつーてもポイントはオルガンの通奏低音で、これがまた胃にずっしりくる…(笑)。グレゴリオ聖歌ものは手もとにいくつかあるけれど、これは特に秀でた感じの一枚。



03/30 中古CD屋を探索すると時おり掘り出しものが見つかる。今日の一枚目は『スラボーニャ地方の典礼歌集』(統一ベネディクト会修道院合唱団、HMA 190567)。スラボーニャはユーゴスラビア北部。この盤は聖十字架称賛の祝日(9月14日)や四旬節・復活祭の聖歌(ちょうど今ごろの季節だ)、その他典礼で歌われる曲の集成だ。緩急のテンポが交互に繰り返されながら、全体に穏やかな流れが作られていく。うーむ、実によいぞ。聖歌を聴く醍醐味って、やっぱりそういう抑制の利いた、それでいて大きな流れにあるんじゃないかと。まったくの蛇足だけれど、旋律の一部が南アフリカの反アパルトヘイト運動の歌(映画『ワールド・アパート』で使われていたっけ)に似ていたりして(笑)。二枚目はなんと、今や幻と化しているニュー・ロンドン・コンソートの全曲録音盤『カルミナ・ブラーナ』の一部(vols III & IV、425 117-2)。封すら切られていないところを見ると、オルフの曲と勘違いして買った人がそのまま手放したのだろうか?いずれにしても、抜粋盤しか持っていなかっただけになんとも嬉しい。余計なものを極力排するような演奏は、それはそれで実に透明感に溢れていてメロウな感じにすらなってくる。素晴らしい(全部揃えたいよ〜)。
03/21 今日も公演を聴きに。ザ・ハープ・コンソートの『ルス・イ・ノルテ』(リバヤス)。表題は、17世紀のスペインの下級官吏ルカス・ルイス・デ・リバヤス(職業音楽家ではない)が1677年に編簒した舞曲選集で、「灯火と北極星」の意。スペインやイタリアからアフリカ、南米にまでいたる広範囲の曲を集めたものだという。で、演奏するこのアンサンブルは99年にも来日したそうで、今回とほとんど同一プログラム構成だったらしい。楽器と歌と踊りと…ハープの渋い独奏からダンスもの、バグパイプの登場まで、ほんと観客を飽きさせない。これなら朝までだって聴いていたいぞ。「エスパニョレータ」とか「フォーリア」とか、即興がまたなんとも言えない。勉強になるなあ。アンコールの最後はジョン・ポール・ジョーンズ(もとレッド・ツェッペリンのベーシスト)による一曲(確かに聴いたことのある曲だがタイトルが出てこん)で締めるサービスぶり。うーん、感激。また来てね…と思っていたら、次回は2003年秋の予定とか(笑)。
03/17 今日は久々にバッハ。スコット・ロスのチェンバロによる『パルティータ』(3984-28167-2)を聴く。うーむ、不思議な演奏だ。たぶん正確無比ということなんだろうけど、音が端正すぎてなんだか非人称的にも聞こえて来る(笑)。「あ〜、なんだかオルガンが聴きたーい」というわけで、晩にはバッハ・コレギウム・ジャパンの定期演奏会(「ライプツィヒ時代1724年のカンタータ I」)へ。1月2月と忙しかったため、なんと今年初のコンサート行きだ。で、嬉しいことにいきなりのオルガン・コラール(BWV741)。カンタータは前半最後のBWV181がとりわけ秀逸。後半ちょっとカウンターテナーなどの声量が落ちた感じもしたけど、とにかく晴れ晴れとした気分にはなる。やっぱBCJだな〜。
03/12 今日はちょっと毛色の変わったCDを聴く。『動物寓話集』(ピーター・シケレ、OVC 4066)。去年の『聖杯伝説』もそうだったけど、これもラテン語の「動物寓話集」の英訳に、かなり自由に旋律を付けたもの。とはいえ音楽は中世のスタイルに着想を得ているのだという。なかなか面白い試みで、こういうのはもっと多くプロデュースされてほしいと思うけど、この盤に限って言えば、全体的に旋律などが単調でちょっとイマイチというところか。そういえば、ちょっと前に読んだメアリー・カラザース『記憶術と書物』(別宮貞徳ほか訳、工作舎)によると、中世ではテクストを記憶することが勉学で、そのためにサン=ヴィクトルのフーゴーなどという人はグリッドシステム(場所による連想記憶法だ)を提唱しているのだが、「動物寓話集」もそうしたグリッドに用いられた可能性があるのだという。そう考えなければ、聖書の注釈書などに混じって、そうした書物が修道院の図書室に置かれている説明がつかない、という話だった。なるほどねえ。ネウマ譜なども、音の記録というよりも記憶の想起のためのキューだと考えるべきだという。中世の文化は「口承」文化(文字文化ではないという意味での)だという考え方を根底から覆す一冊…。むぅ…思わず唸ってしまう。
03/08 水野信男『ユダヤ音楽の旅』(ミルトス、2000)を読む。で、この付録のCDを聴いてみた。これはまさに貴重な録音だ。ユダヤ民族はアラブ系と東欧系に大別されるが、特に前者の祝い事の歌が面白い。ドラム缶などを叩きながら歌う旋律はとってもノリがよいぞ(笑)。タンブーラの弾き語りも面白いしね。後者の敬虔派の歌には、前者との同根をしみじみと感じさせるものがある。一転して改革派になると、著者も言うように、「どこかプロテスタント教会を思いおこさせる」。そういえば、中学のころに歌詞も教えられずに踊らされたフォークダンス「マイム・マイム」は、現代イスラエル歌謡なのだそうだ。歌詞はイザヤ書12章3節から採られていて、「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」というもの。なんでこれを中学校で踊ったのか…うーむ、謎だ(笑)。
03/03 昨日はお知り合いの方からリュートの演奏会のお知らせを頂いたのだが、残念ながら行きそびれてしまった。「スペインの黄金世紀の音楽」という題だったようだが、確かにスペインものも気になるところ。というわけで今日は丸善で最終日の「写本展示会」を覗き(即売会だったのね…なんだかバラされて額縁に収まった写本のページが痛々しい…美術品扱いとは痛ましい限りだなあ)、その後移動ついでにCDを購入。『黄金世紀の歌曲と器楽曲』(クレマン・ジャヌカン・アンサンブル、HMC 901627)。うーむ、なんとも哀愁に満ちた響きの声楽に、軽やかな器楽曲。教科書的には、イスラム教徒を排した後にカルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)から始まるスペインの黄金世紀は、民衆を引きつけた宗教感情とエリート層のユマニスムとの拮抗によって豊かな文化的土壌が育まれたとされるが、ほんのわずかながら、この録音からもその一端に思いを馳せることができようというもの。うーん、満足(笑)。



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