2004年08月02日

No.38

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
silva speculationis       思索の森
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.38 2004/07/31

------お知らせ--------------------------------
本メルマガは隔週での発行ですが、8月と9月は夏休みということで多少不規則
な発行になります。発行日は以下を予定しています。
   No.39−−8月21日
   No.41−−9月11日
No.42からは通常通りとなります。どうぞよろしく。


------クロスオーバー-------------------------
青の色

掛け合わせで作るのはきわめて困難とされている青のバラを、先頃サントリーが
遺伝子組み替えで作ったそうですね。写真で見る限り、まだ紫という感じです
が、これからさらに改良するのだとか。ちょっと反則、という気がしないでもな
いですが、それにしても色彩もまた技術の賜物であることを改めて考えてしまい
ます。

特に青色は不思議な存在です。フランスの歴史家ミシェル・パストゥローの著書
に「ブルー:ある色の歴史」という本があります("Bleu - histoire d'une
couleur", Editions du Seuil, 2002)が、それによると、古代から中世初期に至
るまで、青色はまったく重要視されない色だったといいます。青色が本格的に
「プロモート」されるのは12世紀で、教会のステンドグラスの背景色に使われ
るようになるのですね。サン=ドニ聖堂の再建で知られるシュジェなどは、教会
内部を色で満たすことに腐心していたそうで、盛んに青色に言及しています。さ
らに青色は七宝焼きや聖具などにも浸透していき、絵画でも使われるようになり
ます。当時盛んだったマリア信仰とも結びつき、13世紀にはマリアの衣服が従
来の黒に代わって青で描かれるようになります。さらにマリアがフランスの守護
者とされたことで、青(紺)は王家を表す色にもなっていきます。

こうした社会的背景を下支えするものとして、技術的な進歩もありました。青色
の染料はタイセイという植物から取りますが、増大する需要に応えるため、
1230年頃からは組織的に栽培されるようになったといいます。加工も手間暇が
かかります。葉を摘んでつぶしパテ状にし、2〜3週間発酵させ、搾りかすを作
り、数週間かけて乾燥させます。これがいわゆる「パステル」と呼ばれるもの
で、当時は専門の商人もいたのですね。タイセイ自体はどこにでもある植物でし
たが、こうした手間暇のせいでパステルは高価だったといいます。1240年ごろ
からタイセイの栽培地域は限定されていったようで、14世紀半ばには南仏がそ
の一大中心地になりました。トゥールーズはそれで栄え、「タイセイの地方
(pays de cocagne)」と呼ばれるようになります。ちなみにpays de cocagne
はフランス語の「桃源郷」の意味にもなります。より時代が下って、アンティル
諸島や新大陸からインディゴが伝えられると、タイセイを用いた染色は下火に
なっていきます。とはいえ、トゥールーズでは今なお伝統工芸としてタイセイの
染色が受け継がれているようで、それに関するレポートを、少し前のフランス2
(フランスの第2チャンネルです)のニュースで放映していました。

海などの連想からか、青色はこの暑い時期、涼しさを運んでくる色でもありま
す。でもそれは近代以降の海水浴などのレジャーがあって初めて成立するものの
ような気もします。こうして見ると、色の認識にまつわる様々な意味合いはどこ
まで歴史的なものなのかが気になりますね。例えば、時に青色には何か神秘的な
意味合いが込められたりもしますが、それにも歴史的な起源があるのでしょう
か。以前何かの本で読んだのですが、嘘か本当か、胎児が最初に認知する色は青
色なのだともいいます。うーん、そうなってくると、これはもう、まさに哲学
的・認識論的な問題になってきます。色一つ取ってみても、いろいろな問いを引
き出すことができそうですね。


------文献講読シリーズ-----------------------
ダンテ「帝政論」その3

今回は3章の3節から7節までを見てみましょう。 前回の箇所では、それぞれの
形態には固有の目的があるのだという話がなされていました。その続きです。

               # # # # # #
3. Propter quod sciendum primo quod Deus et natura nil otiosum facit, sed
quicquid prodit in esse est ad aliquam operationem. Non enim essentia ulla
creata ultimus finis est in intentione creantis, in quantum creans, sed
propria essentie operatio: unde est quod non operatio propria propter
essentiam, sed hec propter illam habet ut sit. 4. Est ergo aliqua propria
operatio humane universitatis, ad quam ipsa universitas hominum in tanta
moltitudine ordinatur; ad quam quidem operationem nec homo unus, nec
domus una, nec una vicinia, nec una civitas, nec regnum particulare
pertingere potest. Que autem sit illa, manifestum fiet si ultimum de
potentia totius humanitatis appareat.

3. そのために、まずは次のことを知らなくてはならない。神と自然は無為なる
ものを作ってなどおらず、それが存在へと至らしめるのは、いずれもなんらかの
操作のためなのである。創造されたものの本質は、創造者が創造する限りにおい
ての、その意図の最終目的なのではなく、その本質に固有の操作が最終目的であ
るからだ。ゆえに固有の操作が本質のためにあるのではなく、本質が固有の操作
のためにあるのである。4. したがって人間一般にもなんらかの固有の操作があ
り、それに向けて人間の世界は、かくも多様な形で秩序づけられているのだ。そ
の操作をなすには、一人の人間だけで十分ではないし、一つの家族、一人の村、
一つの町、一つの王国だけで十分ではない。だが人類全体の究極の潜在力が表出
するならば、まさにその操作が明らかになるだろう。

5. Dico ergo quod nulla vis a pluribus spetie diversis partecipata ultimum est
de potentia alicuius illorum; quia, cum illud quod est ultimum tale sit
constitutivum spetiei, sequeretur quod una essentia pluribus spetiebus
esset specificata: quod est inpossibile. 6. Non est ergo vis ultima in homine
ipsum esse simpliciter sumptum, quia etiam sic sumptum ab elementis
participatur; nec esse complexionatum, quia hoc reperitur in mineralibus;
nec esse animatum, quia sic etiam in plantis; nec esse apprehensivum, quia
sic etiam participatur a brutis; sed esse apprehensivum per intellectum
possibilem: quod quidem esse nulli ab homine alii competit vel supra vel
infra.

5. ゆえにこう言おう。複数の異なる種によって分割される力は、そのうちのい
ずれかが持つ潜在力の究極のものではない。なぜかというと、そのような究極の
力は種を成立させるものである以上、一つの本質が複数の種に類別されることに
なってしまうからだ。それはあり得ない。6. したがって、人間が持つ究極の力
は、単純な存在自体にあるのではない。もしそうなら、様々な要素が関係するか
らだ。複合的な組成にあるのでもない。それなら鉱物でもよいからだ。生命にあ
るのでもない。それなら植物でもよいからだ。捕捉性にあるのでもない。それな
ら野獣も関係するからだ。そうではなく、知性による捕捉(理解)が可能である
ことにこそ、究極の力はあるのである。それは(人間より)上位か下位かのいず
れを問わず、人間以外にはできないことだ。

7. Nam, etsi alie sunt essentie intellectum participantes, non tamen
intellectus earum est possibilis ut hominis, quia essentie tales speties
quedam sunt intellectuales et non aliud, et earum esse nichil est aliud quam
intelligere quod est quod sunt; quod est sine interpolatione, aliter
sempiterne non essent. Patet igitur quod ultimum de potentia ipsius
humanitatis est potentia sive virtus intellectiva. 8. Et quia potentia ista per
unum hominem seu per aliquam particularium comunitatum superius
distinctarum tota simul in actum reduci non potest, necesse est
multitudinem esse in humano genere, per quam quidem tota potentia hec
actuetur; sicut necesse est multitudinem rerum generabilium ut potentia
tota materie prime semper sub actu sit: aliter esset dare potentiam
separatam, quod est inpossibile.

7. 他にも知性を本質とする種はあるにせよ、それらの知性は人間の場合のよう
な可能性をもってはいない。そのような種の本質はひたすら知性的である以外に
なく、自分たちが何者かを理解すること以外には存在しえないからだ。それは変
化することがない。さもなくば永遠ではなくなってしまうだろう。ゆえに人間の
究極の潜在力そのものが、知的な潜在性または力であることは明白である。8.
そうした潜在力は、一人の人間、あるいはより上位の特定の共同体によって完全
かつ同時に現実化することはできない以上、人類には多様性がなくてはならな
い。多様性を通じてこそ、潜在力は全面的に現実化するのだ。また、産出の可能
性をもった事物の多様性も必要になる。第一の質料の潜在性が全面的に現実態の
もとに常に置かれるように、である。さもなくば、潜在力の分割を認めることに
なってしまうが、それはあり得ない。
               # # # # # #

7節に出てくる知性を本質とする他の種とは、天使のことを言っているのでしょ
う。それにしても、知性的でありつつ、外界に向けて開かれているのが人間固有
の究極の力だ、というのが興味深いですね。なにせ「外界に向けて開かれてい
る」という点では、上位に置かれる天使をも凌いでいるのですからね。しかもそ
の潜在力を開花させるには多様性が必要だとも指摘しています。このあたり、な
んだかとてもアクチャルな問題を孕んでいて、私たちにとっても省察に値する文
言であると言えそうな感じがします。ダンテがある意味できわめて先見的とされ
る所以かもしれません。

ちょっと先走りになりますが、これとの関連で、仏訳本(Belin社刊、1993)の
クロード・ルフォールによる解説にも少しばかり触れておきましょう。それによ
ると、ダンテの革新性は、「人間の修復しがたい欠陥」というキリスト教的テー
ゼを覆し、「地上世界の価値を復権させようとし」、さらには地上の生に、「死
すべき存在という条件を超越し塗り替える」企図を見いだしたところにあるのだ
といいます。政治体制についても、単一の君主による統治を擁護しつつも、それ
に共同体側からの制限をかけようとするところが斬新なのですね。そのための下
敷きになる概念「可能なる知性」を、ダンテはアリストテレスから持ってきま
す。とはいえ、そうした「可能なる知性」の実現には人類全体の協働が必要だと
している点で、限定されたポリスをめぐるものにすぎなかったアリストテレスの
議論を、いっそう広い領域、歴史的に実現されている「市民社会」へと開いてい
るともいいます。今回の箇所はまさにそれを論じた部分です。

次回は引き続き3章の9節、10節を見、次いで4章に入ってきたいと思います。

投稿者 Masaki : 2004年08月02日 07:27