2005年04月08日

No.54

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silva speculationis       思索の森
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<ヨーロッパ中世探訪のための小窓>
no.54 2005/04/02


------クロスオーバー-------------------------
哲学の解放者?

前に「新刊情報」でも取り上げた川添信介『水とワイン−−西欧13世紀におけ
る哲学の諸概念』(京都大学学術出版会)は、13世紀半ば過ぎに教会がアリス
トテレス思想を教えることを禁じた事実を手がかりに、その際に糾弾された「急
進的アリストテレス主義」(アヴェロエス派)や、その一派への対応を示したボ
ナヴェントゥラとトマス・アクィナスの立場を検討して、当時「哲学」というも
のがどのように捉えられていたかを検証するという内容の好著でした。著者が指
摘しているように、哲学が神学とどう区別され、神学に対してどう位置づけられ
ていたのか、というのは歴史的にも重要な問題ですし、思想というものが常に時
代の制約の中でしか展開されないものである以上、それは反照的に、現代のそう
した知的営みをも問い直す契機にもなります。

同書によると、トマス・アクィナスの場合、哲学は神学とは種別の異なる知であ
り、たとえ哲学の個々の議論が誤謬に陥る場合があろうと、哲学という営為の本
質は、ある程度神学をも補佐可能な知的営為である、と受け止められているとい
います。哲学は自律しており、神学の方に入っていくこともできるのだ、という
立場ですね。こういう姿勢はひょっとすると、トマスの師であったアルベルトゥ
ス・マグヌスから受け継いだものかもしれません。そうした哲学と神学の区別と
統合という視点は、実はこの、今ではあまり言及されない知の巨人、アルベル
トゥス・マグヌスに顕著らしいのです。

フランスの中世思想史家エティエンヌ・ジルソンによると、アルベルトゥス・マ
グヌスの第一の功績は、ギリシア世界・アラブ世界の膨大な知的遺産を中世に伝
えたことだったといいます。まったく異質の学知の流入に対して、キリスト教世
界はその解釈と同化を余儀なくされていくのですが、アルベルトゥスはまずそれ
らを「知ること」に努めたのでした。かくしてアルベルトゥスの知的好奇心はま
さに全方位的に展開していき、「全科博士」(doctor universalis)と呼ばれる
までにいたります。そして、神学と哲学の区別を最初に確立したのも、アルベル
トゥスだと言われているのです。

ところがあまりに広範な対象を扱っているためか、アルベルトゥスは後世におい
て、一種錬金術の大家のように評価されてしまうのですね。上のジルソンは、
「ルターやカルヴァン、デカルトを、思想を解放した人々として挙げるのに、ア
ルベルトゥスを中世の蒙昧主義の筆頭とするのは奇妙なことだ」と述べていま
す。実際、今なおアルベルトゥスの全体像は確立されているとは言いがたいよう
で(なにしろ著作は膨大です)、様々な問題が手つかずのまま残っているようで
す。錬金術から離れて、アリストテレス、アヴィセンナ、アヴェロエスなどの紹
介者としての側面も、もっと取り上げられてよい気がしますし、何よりも神学と
哲学の分離という文脈での位置づけには、是非ともより多くの光が当てられてほ
しいものです。まさに再び注目に値する思想家、という気がします。


------中世の古典語探訪「ラテン語編」------
第5回:第2変化名詞

先日、メル・ギブソン監督作品の『パッション』をDVDで観ました。拷問シーン
などのリアリズムは目を覆いたくなるほどですが、磔刑の方法などに新しい研究
成果が盛り込まれているようですし、全体としてはなかなか感動的な作品に仕上
がっていると思います。作中の会話が全編アラム語とラテン語、というのが前評
判でしたね。実際これ、ラテン語のヒアリング練習にうってつけかもしれません
(笑)。ローマ兵たちが喋るののしり言葉なども含め、動きを伴って聞けるのは
貴重で、なかなか「聞き応え」があります。紀元前後の俗ラテン(話し言葉)も
今となっては復元するしかないわけですが、この作品では今でいう教会ラテン
語、いわゆるイタリア式発音に準拠しています(ciは「チ」、giは「ジ」などな
ど)。

さて、今回は名詞の第2変化を復習しておきましょう。例によって変化形は主・
対・属・与・奪の順に示します。第2変化は語尾によって3種類に分かれます
が、どれもそんなに面倒ではありません。

語尾がusの場合(男性名詞):
単数:dominus、dominum、domini、domino、domino
複数:domini、dominos、dominorum、dominis、dominis

語尾がumの場合(中性名詞):
単数:castrum、castrum、castri、castro、castro
複数:castra、castra、castrorum、castris、castris

語尾がerの場合(男性名詞):
単数:puer、puerum、pueri、puero、puero
複数:pueri、pueros、puerorum、pueris、pueris

注意事項が2つあります。(1)呼格は大抵主格と同じ形だったりするのです
が、dominusなどの場合にはdomineとなります。(2)erで終わる名詞に、er
のeが脱落(というか吸収というか)されるものがあります。例:ager(単数:
ager、agrum、agri、agro、agro、複数:agri、agros、agrorum、agris、
agris)。

第1、第2変化名詞を覚えると、形容詞の変化にも応用が利きます。ラテン語で
は形容詞も名詞に引きずられて(便宜的な言い方ですが)格変化してしまいま
す。面倒と思われがちですが、どの形容詞がどの名詞を修飾しているかとてもわ
かりやすくなる利点もあるのですね。例えばbonus。男性名詞に付くときには
bonus dominusになりますし、中性名詞につけばbonum castrum、女性名詞に
つけばbona carta。形容詞はこのように男性形・女性形・中性形でそれぞれ形
が違い、それぞれus型、a型、um型で格変化します。

pulcherの場合はどうなるでしょう? これはer型の変化です。女性形、中性形で
はerのeがすでにして脱落して、pulchra、pulchrumとなります。名詞にくっつ
くと、pulcher dominus、pulchrum castrum、pulchra carta。こうした組合
せがそれぞれ格変化していきます。名詞はus型なのに形容詞はer型で変化してい
く、なんて考えると、形が入り乱れそうで面倒にも思えますが、実はそれほどで
もありません。よく見ると変化の末尾そのものには(us、um、i、o、o)大きな
違いはありません。普通の文法書などではこの第1、第2変化を詳しく取り上げ
ていますが、それには理由があるように思えます。この第1、第2変化に慣れて
しまうと、他の変化形もそれほど恐くなくなるからですね。「慣れれば大丈夫」
という姿勢はやはり大事ですよね。ちなみに、名詞の修飾は前からでも後ろから
でもOKでした。dominus pulcherでもよいわけです。

(このコーナーはGouillet & Parisse, "Apprendre le latin medieval", Picard,
1996-99をベースにしています)


------文献講読シリーズ-----------------------
プロクロス『神学提要』その1

前回予告しましたように、今回からプロクロスの『神学提要』を読み囓っていき
ましょう。プロクロスは5世紀にアテナイで活躍した哲学者ですが、その神秘主
義思想は、西欧においても、中世からルネサンスにかけて大きな影響を及ぼした
とされています。これから見ていく(といってもさわりだけですけれど)『神学
提要』(stoicheo-sis theologike-)は、『プラトンの神学』に並ぶ主要著書で
す。全体で211の提題で構成されていて、大きく分けると112までが前半、残り
が後半となります。前半は新プラトン主義の諸概念が対照法的に扱われ(一と
多、原因と結果、運動と静止などなど)、後半では神、知性、プシケーなどにつ
いての議論が展開します。今回は約半年かけて、冒頭部分を読んでいくことにし
たいと思います。文字コードのせいで原文はメルマガでは示せませんので、毎回
Webページの方に別個に用意し、メルマガには訳出だけを載せることにします。
今回の箇所の原文はこちらを参照してください。
http://mediateurs.main.jp/blog/archives/000442.html

5世紀ごろに限らず、古代末期から中世のギリシア語テキストを読む場合には、
古典語の辞書だけでは不十分だったりしますが、それを補う優れた辞書として、
E.A. Sophoclesの"Greek Lexicon of the Roman and Byzantine Periods"(復
刻版:Georg Olms Verlag, 2003)があります。これは実に網羅的で便利な辞
書ですので、紹介しておきます。

では早速、提要の1と2を見てみましょう。

# # #

(1) 「多」はすべて、おのれの仕方で「一」に関与する
 仮にまったく関与しないとすると、全体は一にならず、「多」が依って立つ複
数のそれぞれも存在せず、「多」がそれぞれ存在するだけとなって無限にいた
り、その無限のそれぞれもまた無限の「多」となってしまう。それはいかなる一
にもまったく関与しない。その全体においても、そうした一を構成するそれぞれ
においても。いかなる場合でも、あらゆるものが無限となる。複数のそれぞれを
任意に取ってみると、一であるか、または一でないかである。一でないならば、
多であるか無であるかしかない。だが、それぞれが無であるならば、それから成
る全体も無になってしまう。多であるならば、無限を想定するがゆえに、それぞ
れは無限の部分を構成することになってしまう。これはありえない。というの
も、無限を想定したからといって、任意の存在が無限となることはなく(無限よ
り大きいものは存在しないのに対し、全体をなすものは部分より大きくなるから
だ)、どの部分からも何も構成されないことになってしまうからだ。以上のこと
から、すべての多は一に関与するのである。

(2)「一」に関与するすべては、一であっても「一」でない。
 一性そのものでないならば(その場合、「一」に関与するのは、「一」とは違
うなんらかの存在である)、関与に応じて一を受けるのであり、一となる過程に
あることになる。もし「一」以外に何もないならば、それは単独で一をなし、
「一」に関与するのではなく、みずからが一性そのものであることになる。それ
以外の何かがあり、それが「一」でないならば、それは「一」に関与しつつもみ
ずからは「一」でないものとして一をなし、ゆえに「一」そのものでなく一つの
存在となる。それは「一」に関与するが、みずから「一」ではない。よってそれ
は「一」ではない。それは存在にともなう一であり、「一」に関与するが、それ
ゆえ、それによって成立した一ではない。一ではあるが「一」ではない。「一」
とは別のなんらかの存在である。それは充足するが、「一」ではない。それを受
け入れるのが「一」なのだ。「一」に関与しつつ一であるすべてのものは、
「一」ではない。

# # #

いきなり話が抽象的ですが、さしあたり括弧で括った「一」は超越的・包括的な
一、あるいは一者としての神、もしくはある種の類概念的なものを指すと考え、
括弧で括っていない一は個数(個別の存在)としての一だ、と考えるとわかりや
すくなります。原文では、これら2種類の一を表記として区別していません(ど
ちらもhenです)ので、これはあくまで解釈ということになります。ちなみに今
回はドイツ語訳の"Elemente der Theoloie"( trad. Ingeborg Zurbrugg,
Gardez! verlag, 2004)を参考に、そのような解釈にしてみました。ちなみに
このドイツ語訳では、括弧付きで示した部分にreine Einheit(純粋な一性)など
の言い方があてがわれています。

今回の部分でもわかるように、プロクロスの『神学提要』でいう神学は、形而上
学の意味であって、通常の教義の集成とは異なります。あくまで形而上学ですの
で、当然ながら論理を駆使した抽象論が展開します。今回の箇所でもわかるよう
に、各提題は、やや込み入った議論ではあっても、とにかく論理的帰結として示
されます。関与と訳したmetecheinは、「与る」「分有する」といった意味で
す。包摂される、としてもよいかもしれません。多数としてあるものは、どれも
超越的「一」の中に包摂される(例えば各個人が「人類」に包摂されるように)
というのが提題1です。個別のものはたとえ単独に存在しても、それが即、超越
的「一」とイコールにはならない(個人一人をもって「人類だ」とは言えないよ
うに)、というのが提題2です。こうしてみると、以上が集合論的な話だという
ことがわかります。

今後しばらくこうした抽象論が続いていきますが、プロクロスが後世に及ぼした
影響などの具体的な話も参照しながら、広い観点から新プラトン主義の系譜を眺
めていきたいと思っています。どうぞお楽しみに。

投稿者 Masaki : 2005年04月08日 13:53